ザ・トップテン
テンプレート:独自研究 テンプレート:基礎情報 テレビ番組 『ザ・トップテン』(THE TOP10)は、1981年4月6日から1986年3月31日まで日本テレビ系列局で毎週月曜日 20:00 - 20:54 (JST) に生放送されていた音楽番組。愛称は『トップテン』であり、この愛称は引き続き後身の『歌のトップテン』にも受け継いでいった。
5年間における放送回数は256回。
毎週生放送で、独自の邦楽ランキング上位10曲をカウントダウン形式で発表し、ランキングされた曲を歌手が披露していた音楽番組。前番組の『NTV紅白歌のベストテン』の公開放送スタイルに、TBS系で放送されていた『ザ・ベストテン』をミックスしたような番組構成であり、その『ザ・ベストテン』と双璧をなす人気番組ともなった。
目次
主な出演者
司会者
スタジオサブ
毎週第4位までの歌唱・紹介が終わった後、合間のランク圏外の11 - 20位を紹介する「もうすぐトップテン」の担当として、東京・麹町の日本テレビHスタジオ(番組の中継受けサブ[OAサブ]でもあった)に「エレクトリックおじさん」として、当時局アナだった徳光がスタンバイしていた。当時の徳光は『ズームイン!!朝!』の司会との掛け持ちであったが、『ズームイン!!』司会のために日本テレビの近くに住居を借りていたため出演が可能であった。1982年9月より「エレクトリックお兄さん」こと小倉アナにバトンタッチされ(しかし半年も経たないうちに小倉が結婚したため「〜お兄さん」は短命に終わり、以後は「エレクトリックご主人」となった。なお、小倉担当途中にOAサブがKスタジオに移行)。また代役として小林完吾アナが出演した時は「エレクトリック上司」だった。
リポーター
この他、放送当時の系列局のアナウンサーらがリポーターとして出演していた。
代役司会
堺が出演できないとき、高島忠夫や徳光などがピンチヒッターで司会を務めていた。[1]
ランキングの決定方法
ランキングの基準は「レコード部門」・「有線部門」・「ネット局部門」・「リクエスト部門」の4部門を合わせたポイント制で決定。
各部門の配点比率は非公表。
毎週のランキングは20位までしか発表されていないが、100位まで出されている(『ザ・ベストテン』は70位まで)。
主な会場
主に渋谷公会堂から公開生放送を行っていた。ただし、他の興行やメンテナンスのため使用できないとき、日本青年館・東京郵便貯金ホール(現メルパルク東京)・日本テレビGスタジオのいずれかに場を移して生放送された。
歌手が関西方面に集中し、大阪・池田市民文化会館大ホール(アゼリアホール)から生放送したことがあった。
当日会場に来られない歌手が、各地から中継で登場することもあった。中継が度々あるのはザ・ベストテンと同様。
毎回番組の冒頭で会場にきた、修学旅行の中学生や、高校生たちの姿がよく紹介されていた(この紹介コーナーは前番組の『NTV紅白歌のベストテン』より継承された)。
イベント要素
- オープニング、エンディングの各タイトルバックにそれぞれ、ザ・バーズ(日本テレビ音楽学院(現・日テレ学院タレントコース)のレッスン生。渡辺プロダクションのスクールメイツに相当する)がオープニングで「全国高等学校サッカー選手権大会」のテーマ曲「ふり向くな君は美しい」に合わせて踊り、その最後に「10」・エンディングは「END」の人文字を作り盛り上げるシーンがあった。
- トップテンに初出場した歌手は必ず記念写真を撮影する。撮影した写真は会場のセットに掲示された。撮影の際の掛詞は「(堺)親子で」「(榊原)ブーッ!」であった。
- 曲のイントロ部分で視聴者からのはがき紹介や、ゲストの小話をするザ・ベストテンと異なり、ザ・トップテンではイントロにナレーションをかぶせない配慮がなされていた。
- メインの提供スポンサーは花王石鹸(現・花王)であった。ザ・トップテンの場合は、毎回番組の中程(「もうすぐトップテン」発表直後あたり)に花王ヘアケアシリーズ(エッセンシャルシャンプー、トリートメントなど)の視聴者プレゼントがあった。プレゼントは他に、江崎グリコの商品(アーモンドチョコレート、ポッキーなど)、コカ・コーラ[2]のノベルティグッズ、ネッスル(現・ネスレ日本)[3]のギフトセット、日清食品のカップヌードル1ケースなどもあった[4]。これらはハガキで曲をリクエストし、かつ抽選で選ばれた30名に含まれていることが条件であり、これが『歌のトップテン』にも引き継がれたが、そちらではエンディングのスタッフロール終了直後と最後のCMの間に移動した。
- ランキング発表時に画面にコンピュータ表示されるサルの顔の表情によって順位変動が示される(上昇=笑顔(舌を出す)。変わらず=普通。下降=困った顔(涙をこぼす)、ただし1位をキープした場合には笑顔)。末期のCGにはなくなる。
- 堺は榊原の事を「トントン」と終始呼び、「じゃあトントン次のランキングに…」という会話だった。
- 放送はプロ野球の試合が基本的にない月曜日であったため、通常は放送休止になることはめったになかったが、特に9月から10月にかけて(主に予備日として)月曜日に急遽試合が組まれた場合は巨人戦中継が優先された。生放送、また前もって出演者のスケジュールが調整されていたこともあり(さらには巨人軍の本拠地が雨天中止もありえる後楽園球場の時代であったため)放送休止とはいかず、多くは翌火曜日夕方に撮って出しでの録画放送された(スポンサーは一時期花王石鹸が付いたが、スポンサーなしの時期もあった)。なお、一部系列局では他系列番組の関係上録画放送のネット受けできない場合があったため、翌週の放送冒頭で簡単にランキングを紹介していた。
歴史
- 1981年3月30日、番組開始に先立ち、前夜祭が行われた。
- 1981年4月6日、放送開始。第1回の1位は寺尾聰「ルビーの指環」。
- 1981年9月28日、西田敏行が「もしもピアノが弾けたなら」で初出場したが、「写真映りが気に入らないから」と3週にわたって記念撮影をした。3回目の撮影には両手に1・2回目の写真を持っていた。
- 1982年3月29日、大山のぶ代が話題曲コーナーに出場し、テレビ朝日のアニメであるにもかかわらず『ドラえもん』のエンディングテーマ「まる顔のうた」を歌った[5]。
- 1982年5月17日、最高視聴率の28.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録。この週の1位は近藤真彦の「ふられてBANZAI」。
- 1982年10月4日、この時期になっても巨人と中日がセ・リーグペナントレースで猛デッドヒートを繰り広げている影響から、「巨人×横浜大洋」戦(後楽園球場)が19:30 - 20:54枠で編成され[6]、開始1年半にして初めて月曜に放送せず。当日は前述の通り渋谷公会堂で収録し、翌5日の16:00に録画放送した。
- 1983年4月4日、藤村美樹の「夢・恋・人。」が10位にランクイン。当時、藤村は結婚と同時に芸能活動休止を表明。奇しくもこの日が結婚式の日(5年前のキャンディーズ解散日でもある)で、披露宴会場からの生中継で同曲を熱唱。歌唱中感極まって泣き出す場面もあった。
- 1985年4月9日、番組の各種要素をリニューアル。番組テーマ曲が新しいアレンジのものに変更。ランキング発表のGGが過去3週の折れ線グラフに変更。またエレベーターもリニューアルされた。
- 1985年10月14日、番組の各種要素をリニューアル。この番組の名物の一つともなっていた歌手登場時の「エレベーター」がなくなり「自動ドア」形式のものに変更。またCGも変更され、以前よりも詳細的なものとなった。
- 1986年2月24日、中山美穂の「色・ホワイトブレンド」と杉浦幸「悲しいな」が10位に同点で2曲同時にランクイン。
- 1986年3月31日放送(第256回)を以て最終回。翌4月7日に新番組『歌のトップテン』へ継承。この週の1位は中森明菜の「DESIRE」。
ザ・ベストテンとザ・トップテンの相違点
この番組は『ザ・ベストテン』とタイトル、中身も良く似ていたのだが、それぞれ異なるところがある。
ザ・ベストテン | ザ・トップテン | |
---|---|---|
観客の公開 | 原則非公開[7] | 公開 |
歌手の登場 | ミラーゲート(回転扉) | エレベーター(末期は自動ドア) |
ランキング表示 | フラップ(回転式ボード) | コンピューター表示 |
得点表示 | 4桁 | 5桁(11 - 20位は表示無し) |
初出場の儀式 | サインを記帳 | 記念撮影 |
歌詞表示 | 無し → 初登場曲 → 全曲に表示 | 無し |
作詞・作曲者表示 | 表示あり | 無し |
11 - 20位の紹介 | PV等の映像による紹介 (前面にチャートの折れ線グラフ) |
コンピューター表示 (名称:「もうすぐトップテン」) |
注目曲の紹介 | 今週のスポットライト | 話題曲コーナー |
ザ・ベストテンでは10位内に入った事がないが、ザ・トップテンでは10位内に入った曲
特にアイドル・演歌歌手の曲はザ・ベストテンよりも高順位で、ランクインもしやすい傾向にあった。
- 1981年(4月 - 12月)
- 1982年
- 1983年
- 1984年
- 1985年
- 1986年(1月 - 3月)
ザ・ベストテンでは1位になった事がないが、ザ・トップテンでは1位になった曲
- ヨコハマ・チーク(近藤真彦)
- キミに決定!(田原俊彦)
- 悲しみ2(TOO)ヤング(田原俊彦)
- 風立ちぬ(松田聖子)
- ジェームス・ディーンのように(Johnny)
- 野ばらのエチュード(松田聖子)
- シャワーな気分(田原俊彦)
- ボヘミアン(葛城ユキ)
- 矢切の渡し(細川たかし)
- 時をかける少女(原田知世)
- ロイヤル・ストレート・フラッシュ(近藤真彦)
- エル・オー・ヴイ・愛・N・G(田原俊彦)
- ラヴ・イズ・オーヴァー(欧陽菲菲)
- 艶姿ナミダ娘(小泉今日子)
- 一番野郎(近藤真彦)
- ワインレッドの心(安全地帯)
- 騎士道(田原俊彦)
- ピンクのモーツァルト(松田聖子)
- 顔に書いた恋愛小説(田原俊彦)
- The Stardust Memory(小泉今日子)
- 常夏娘(小泉今日子)
- BOYのテーマ(菊池桃子)
- SAND BEIGE -砂漠へ-(中森明菜)
- 雨の西麻布(とんねるず)
- 歌謡曲(とんねるず)
ランキング・出演データ
年間トップテン1位獲得曲
- 年間ランキングの集計方法は毎週出されている100位までのデータを曲別に集計し、1年間の総合得点によって決定される。
- 1981年から1985年の年間第1位になった曲は、全てザ・ベストテンと同じである。
年度 | 曲名 | 歌手名 |
1981年 | ルビーの指環 | 寺尾聰 |
1982年 | 北酒場 | 細川たかし |
1983年 | 矢切の渡し | 細川たかし |
1984年 | 長良川艶歌 | 五木ひろし |
1985年 | 悲しみにさよなら | 安全地帯 |
連続トップワン記録(V6以上の曲を掲載)
- V10-寺尾聰「ルビーの指環」
- V8-中森明菜「セカンド・ラブ」
- V7-近藤真彦「ギンギラギンにさりげなく」・中森明菜「1/2の神話」・チェッカーズ「星屑のステージ」
- V6-中村雅俊「心の色」・安全地帯「悲しみにさよなら」
トップテン入りしながらも一度も出場しなかった歌手
- 矢野顕子 「春咲小紅」(1981年)
- 松山千春 「長い夜」(1981年)
- 松任谷由実 「守ってあげたい」(1981年)
- 中島みゆき 「悪女」(1981年)
- 小林麻美 「雨音はショパンの調べ」(1984年)
- 一世風靡セピア 「前略、道の上より」(1984年)
- 井上陽水 「いっそセレナーデ」(1984年)(紅白歌のベストテンには出場)
- 大沢誉志幸 「そして僕は途方に暮れる」(1985年)
- 松任谷由実&小田和正&財津和夫 「今だから」(1985年)
- 渡辺美里 「My Revolution」(1986年)(歌のトップテンには「Long Night」と「恋したっていいじゃない」で出場)
なお、矢野顕子、松山千春、松任谷由実、井上陽水、渡辺美里の5組については、ザ・ベストテンにはいずれも上記ランキング曲での出演経験がある。
オリコンで20位以内に入らなかったがザ・トップテンでは10位以内に入った曲
2週以上ランクインしたが、1度しか披露されなかった曲
- ムーンライト・キッス(1981年)河合奈保子- ランクイン当時は後述の転落事故による腰椎骨折の重傷を負い、1度しか出演出来ず。
- GOOD-BYE青春(1983年)長渕剛
- Woman "Wの悲劇"より(1984年)薬師丸ひろ子
- 翼の折れたエンジェル(1985年)中村あゆみ
- あなたを・もっと・知りたくて(1985年)薬師丸ひろ子
- ステキな恋の忘れ方(1985年)薬師丸ひろ子
2週以上ランクインしたが、1度も披露されなかった曲
話題曲コーナーでの披露は除く。
- 恋人も濡れる街角(1982年~1983年)中村雅俊- 話題曲コーナーで1度披露したが、同曲はトップテンと同一時間放映のフジテレビ系テレビドラマ『おまかせください』の挿入歌であったため、ランクイン期間中は出演せず。
ハプニング・事件事故
- 1981年10月5日、この日番組に出演する予定だった河合奈保子がNHKホールで転落事故(『レッツゴーヤング』の収録中)に遭ったという第一報が伝えられた[8]。
- 1983年3月28日、沖縄から生中継される予定だった松田聖子が、番組開始直前のコンサート会場で「渚のバルコニー」を歌唱中に乱入してきたファンから突如暴行を受け、中継ができなくなるという事件が起きた。この沖縄コンサートの事件の模様は日本テレビが放送用に収録している最中に起き、テレビニュースなどで何回も放送された。奇しくもこの日はトップテン自体が「八元生中継」という非常に生中継が多い日というのを目玉にしていた中で起きたもので、番組冒頭では(上記の河合のケースとは異なり)司会者の2人にまだ事件のことが伝わっておらず、淡々と中継説明をするに終始していた。
- 1983年6月27日、河合奈保子の「エスカレーション」が8位にランクイン。コンサートで訪れていた名古屋市のホテルにあるプールから中継出演した。この時は名古屋でダンスの世界大会が行われていたが、その大会へ出場するために同ホテルへ宿泊・プールで泳いでいた西ドイツ(当時)の男性が中継に気付くや否や、曲に乗って突然踊りだした。この男性は、翌週には日本テレビ側から打診され、河合と共演した。この出来事は、2012年2月27日放送の『人生が変わる1分間の深イイ話』で取り上げられた。
- 1984年5月28日、堀ちえみの「稲妻パラダイス」が10位にランクイン。右足を上げる振り付けがあり、その際に右足のヒールが脱げてしまった。スタッフがヒールを取りに行っている間、堀は右足のみパンストだけを穿いた状態で歌った。
- 1984年8月6日、石川優子とチャゲの「ふたりの愛ランド」がランクイン。この日は日本テレビ本社Gスタジオからの生放送だったが、セットに本物のペンギンがいて、おどけて踊りながら歌っていたチャゲは、ドライアイスで足を滑らせ転倒、ペンギンに噛まれた(間奏で石川が「チャゲ大丈夫?!」と叫んでいる)。
- 1984年10月22日、中森明菜の「十戒」が5位にランクイン。エレベーターで会場に中森が登場と同時に、会場の観客から「帰れ」コールを喰らわされたことがあった。同年末の『トップテンスペシャル』で堺はこのことについて触れ、「あれはよくなかった。歌う方が出てくるときは気持ちよく迎えてあげるべきである」とのコメントを述べた。
- 1985年3月11日、近藤真彦の「ヨイショッ!」が2位にランクイン。近藤は会場に登場する際におどけてエレベーターの降りる位置を間違え、中間の柱の部分に立ち、司会者の堺と榊原は呆然としていた。
- 1985年8月12日、番組冒頭に報道センターから臨時ニュースがあり、小林完吾キャスター(当時日本テレビアナウンサー)[9]が速報で、日本航空123便が行方不明になったこと[10](日本航空123便墜落事故)を報道した。その後も時折番組を中断して報道センターから最新情報[11]を伝えた。「500人以上を乗せた飛行機の墜落」というあまりに重大な惨事が判明してからは、渋谷公会堂もさすがに重い空気となってしまい、小泉今日子や安全地帯、薬師丸ひろ子など出場者の一部もこの件について述べ、終始硬い表情で終わった[12]。翌週の放送では、堺と榊原が冒頭で追悼コメントを述べている。
スタッフ
- 監修:阿久悠
- 構成:玉井冽(現・玉井貴代志)、太田イサム、尾関恩、植竹公和、富田和実、矢頭浩
- 音楽:永作幸男
- 振付:土居甫、日本テレビ音楽学院、ザ・バーズ
- 演奏:ガッシュアウト、新音楽協会
- コーラス:コスモス、マイム
- ディレクター:西田弘一、土屋泰則、福地由憲、棚次隆
- プロデューサー:遠藤克彦、原薫太郎、向笠正夫、田中義一、増田一穂
- 演出・プロデューサー:吉岡正敏
- 製作著作:日本テレビ
放映ネット局
系列は放送終了時のもの。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
---|---|---|---|
関東広域圏 | 日本テレビ | 日本テレビ系列 | 制作局 |
北海道 | 札幌テレビ | ||
青森県 | 青森放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
|
岩手県 | テレビ岩手 | 日本テレビ系列 | |
宮城県 | ミヤギテレビ | ||
秋田県 | 秋田放送 | ||
山形県 | 山形放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
|
福島県 | 福島中央テレビ | 日本テレビ系列 | 1981年9月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局 |
山梨県 | 山梨放送 | ||
新潟県 | テレビ新潟 | ||
長野県 | テレビ信州 | テレビ朝日系列 日本テレビ系列 |
|
静岡県 | 静岡第一テレビ | 日本テレビ系列 | |
富山県 | 北日本放送 | 放送当時日本テレビ系列局が無かった石川県の中継も担当 | |
福井県 | 福井放送 | ||
中京広域圏 | 中京テレビ | ||
近畿広域圏 | 読売テレビ | ||
鳥取県・島根県 | 日本海テレビ | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
|
広島県 | 広島テレビ | 日本テレビ系列 | |
山口県 | 山口放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
|
徳島県 | 四国放送 | 日本テレビ系列 | |
香川県 →香川県・岡山県 |
西日本放送 | 1983年3月までの放送エリアは香川県のみ | |
愛媛県 | 南海放送 | ||
高知県 | 高知放送 | ||
福岡県 | 福岡放送 | ||
長崎県 | テレビ長崎 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 |
1981年10月5日からネット開始[13] |
熊本県 | くまもと県民テレビ | 日本テレビ系列 | 1982年4月開局から |
大分県 | テレビ大分 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
|
宮崎県 | テレビ宮崎 | ||
鹿児島県 | 鹿児島テレビ | フジテレビ系列 日本テレビ系列 |
1982年10月からネット開始[14] |
沖縄県 | 沖縄テレビ | フジテレビ系列 | 1983年10月よりネット開始[15] |
CSでの再放送
2010年よりCS放送で再放送されている(日テレプラス、第一興商スターカラオケ、ファミリー劇場)。なお、VTRの保存状態や楽曲の著作権等をクリアした回を中心に順不同で放送しているほか、肖像権の問題によりジャニーズ事務所所属歌手(当時)とサザンオールスターズ出演の回は未放送(TOP10にランクインしている場合は欠席の回を放送する場合もある)もしくは、該当部分を割愛しての放送となった。
放送当時と同じ標準画質で放送されているほか、地上波放送当時と異なり、文字テロップ(曲の冒頭に表示された順位・曲名・歌手名などの字幕、ネット局表示、スタッフロールなど)が表示されない場合がある[16]。
- なお、1982年に放送された分と1時間半or2時間スペシャルで放送された回については、今のところ(2014年7月時点)CSでの再放送が実施されていない。
日テレプラス・第一興商スターカラオケ
- CSでの最初の放送は日本テレビ子会社のCS日本運営の日テレプラスで、2010年1月25日から放送された(初回放送分で5月10日まで)。過去のランキング形式の音楽番組がCSで再放送を行うのは当番組が初となった。日テレプラスでの第1回は1981年10月5日放送分(第28回)を放送。なお、約256回にわたる放送回数のうち、日テレプラスで放送されたのはわずか16回であった。
- 2011年1月8日からは第一興商スターカラオケで放送された。こちらは月1回の更新で、日テレプラスとは放送リストが異なるものの、うち16回が放送された[17]。なお、同チャンネルが2012年3月で閉局のため、放送は2012年2月をもって終了した。
- 放送回数は本放送当時と異なり、番組表等で「#1」「#2」といった具合で表示されており、曲目も各局ホームページに放送順で掲載されていた。
ファミリー劇場
2012年からはファミリー劇場で不定期放送されており、同チャンネルにおける音楽番組の再放送も当番組が初である(ただし『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)など、歌のコーナーがあるバラエティ番組を放送することはあるが、音楽主体の番組の放送は当番組が初となった)。なお、放送回数表示は地上波放送当時に準ずる。
- 2012年3月4日と3月11日に初放送(15:00 - 18:00、両日とも各3回)され、この時は1984年から1985年にかけて放送された回をピックアップして放送された。3月20日にも6回分すべて一挙放送された(17:00 - 22:00)。
- 2013年5月2日に特集企画「バック・トウ・ザ・昭和」の一環として『歌のトップテン』とセットで放送[20]。『ザ・トップテン』からは、CSで放送する回のうち最も古い第24回(1981年9月7日)を皮切りに、第28回(1981年10月5日)、第135回(1983年10月31日)、第146回(1984年1月23日)、第157回(1984年4月9日)、第205回(1985年3月25日)、第208回(1985年4月15日)、第232回(1985年10月14日)の全8回分が放送された(11:00 - 19:00)[18]
- 2013年8月3日には前半4回分(第24回・28回・135回・146回)を一挙放送(14:00 - 18:00)。
- 2013年5月10日より週1回、金曜日20:00 - 21:00の枠にて放送(『歌のトップテン』との入れ替えによる編成)。週1回放送の最初の回は上述の一挙放送に含まれなかった第207回(1985年4月8日放送)が放送された。なお、6月7日より第24回から順に放送されているが、7月12日および7月19日は当初の放送予定回(第205回・207回)から変更し第24回・28回を再放送した[21]。なお2014年3月現在は日曜日20:00 - 21:00の枠にて放送されている。
その他
- 1994年から1995年まで深夜帯枠(関東ローカル)で放送されていた『M-STAGE』木曜日に「M-STAGE4・あの日のトップテン」と題して、過去のランキングを紹介していた。
- ラジオ日本で2010年のナイターオフシーズンに放送されていた『ザ・流行歌!パートII』では、1980年代のヒット曲をザ・トップテンの過去のランキングから時系列で振り返るコーナーがあった。
- 上述のファミリー劇場での放送の際、同チャンネルのオリジナル番組『山田五郎のだべり喫茶』2012年3月放送にてザ・トップテンを紹介、山田が芦屋雁之助が「娘よ」で登場し、また他の歌手がほとんど出演しない中、中森明菜と菊池桃子が辛うじて登場した回(第194回)について触れ「1月7日の奇跡」と称した。
- 吉幾三が、TBS・Gスタジオから中継で登場した時に吉が、『私、ちょっと訳がわからないですけど。』と発言し、堺が、
『その錯覚は分かります。というのは、トップテンと同じような番組をやってるスタジオなんでしょ。曜日は違うけど。』と発言していた。
脚注
関連項目
- 渋谷公会堂
- NTV紅白歌のベストテン
- 歌のトップテン
- 歌のワイド90分!
- 速報!歌の大辞テン
- 1番ソングSHOW - 現在日本テレビ系1900枠(水曜日)で放送されている音楽バラエティ番組。ザ・トップテンの映像を一部使用することがある。
- ザ・ベストテン
外部リンク
- 今月のバラエティ「ザ・トップテン」 - ファミリー劇場
- ↑ なお、1984年10月8日放送分では堺がロサンゼルスから衛星生中継で登場。当日は日本テレビGスタジオから放送され、小倉が司会と「エレクトリックご主人」の一人二役をこなした。
- ↑ 夏期(4月 - 9月)のみの提供スポンサー
- ↑ 冬期(10月 - 3月)のみの提供スポンサー
- ↑ 春秋の改編期や年末年始時期に拡大スペシャルを放送する時は、19:00 - 19:30はその枠のスポンサー、19:30 - 20:00は当時この枠を一社提供していたロート製薬が担当するが、これらのスポンサーからはプレゼントは出なかった。なお19:30からの拡大スペシャルでは、ロート製薬のオープニングキャッチは行わなかった。
- ↑ 日本テレビ系列局でも、テレビ朝日系列とのクロスネット局や、同系列局不在地域の非マストバイ局では、『ドラえもん』を遅れネットしていた局もあった。
- ↑ 19:00から放送しなかったのは、この日よりテレビアニメ『忍者マン一平』が開始するため。なお19:30放送予定の『勝抜きドンドン歌合戦』は、翌11日に放送延期した。
- ↑ ただし、年に1回の地方公開生放送があった。
- ↑ なお同日はテレビ長崎でのネットを開始した日でもあり、そのテレビ長崎にとっては後味の悪い“初回放送”となってしまった
- ↑ 前番組『紅白歌のベストテン』以来の出演で、最初に振ったときに「堺さん」と発し、速報を伝えた。本編最後の速報の後に小倉が「小林さん、ありがとうございました」の後、視聴者プレゼントのお知らせをした。
- ↑ 20時の段階では墜落は未確定だったものの、アメリカ空軍横田基地から運輸省に入った連絡や長野県警に入った住民からの目撃情報などを伝えた。
- ↑ 2回目(20時20分頃)の速報で長野県警が「長野県北相木村で墜落した事を確認した」と伝えた。3回目の速報(20時40分頃)は2回目と同じ内容を伝えたが、4回目の速報(20時50分頃)では「北相木村と川上村の間のぶどう峠付近に墜落」と伝えた。
- ↑ (遅れネットで放送していた)沖縄テレビでの対応については不明
- ↑ それまではフジテレビの連続ドラマを放送していた。
- ↑ 鹿児島放送の開局でテレビ朝日系列の番組(『ワールドプロレスリング』を遅れネット)が同局へ移動したことによって放送を開始。
- ↑ 週末(土曜16:30-17:24)に遅れネット。
- ↑ ただし、1981年の放送回は文字テロップが表示された当時のまま放送されている。
- ↑ 後番組『歌のトップテン』も本番組に続き日テレプラスで放送されたが、こちらは日テレプラス放送終了後、2011年7月から12月まで歌謡ポップスチャンネルで放送された。
- ↑ 18.0 18.1 ザ・トップテン || ファミリー劇場
- ↑ ちなみに2012年6月には歌謡ポップスチャンネルでも『歌のトップテン』10回分の一挙放送が行われた。
- ↑ 特集:バック・トゥ・ザ・昭和 > トップアイドル編 ファミリー劇場、2013年4月
- ↑ 小倉淳が第23回参議院議員通常選挙(2013年7月21日投開票)に日本維新の会公認で東京選挙区から出馬し(結果は落選)、その配慮から徳光和夫が務めた回に差し替えた。