革新自治体

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革新自治体(かくしんじちたい)とは、日本共産党社会民主党(旧日本社会党)など、革新勢力が首長となった地方自治体を指す。

概要

1955年保守合同で誕生した自由民主党が中央政界で政権を担当し続けていたが、1960年代後半~1970年代前半(昭和40年代)にかけて、反公害福祉政策・憲法擁護を訴え、革新首長が相次いで誕生した。公害対策などの地方政界の革新的政策はその後の中央政治でも一部反映された。

しかし、1978年京都府横浜市の首長選で革新系の候補が敗れ、1979年東京都美濃部亮吉大阪府黒田了一両知事が退任すると、次第に革新自治体の数は減っていった。

保革のイデオロギー対立は主に国政での外交防衛政策で現れ、基地問題が大きな争点となる沖縄県など一部を除けば、地方自治体の政策とは関係が薄かった。目玉政策であった公害対策が中央保守政権でも反映されて争点として弱くなると、革新自治体が長期化した東京都や京都府では公共事業のあり方や優先度、同和行政における部落解放同盟(社会党、公明党民社党社民連を支持)と全国部落解放運動連合会(日本共産党を支持)の対立、国家公務員との給与較差などが争点化することになった。

他にも高度経済成長の失速により自治体独自の財源確保が困難になり、重点施策としていた福祉の充実がはかれなくなったこと、1980年1月に社会党が公明党と結んだ政策協定(社公合意)で、共産党を政策協議の対象としないことを明確にしたことで革新首長誕生の原動力であった社共の選挙協力が成立しなくなったこと(1983年初当選の福岡県知事奥田八二のように地域によって例外もある)、これらの理由から多くの首長が自由民主党を敵に回すよりも、自由民主党と組む道を選んだ。議会で自民党が第一党、あるいは過半数である場合、原則として自民党の協力を得なければ議案、特に予算案の可決が困難であったためである。

滋賀県で革新知事として出発した武村正義が、その後自民党公認で衆院選で当選して代議士となったのもその一例である。与党自民党と野党第一党であった社会党の相乗り大連立は(多くの場合、公明党・民社党も加わった)しばしば「オール与党」「総与党」と批判された。

なお、日本共産党は自党の党員が首長を務めていたり、与党となっている自治体を「民主市政」「民主町政」「民主村政」と呼ぶことが多い[1](同党が与党の自治体については日本共産党が与党の自治体を参照のこと)。

T.O.K.Y.O作戦

1974年田中角栄内閣当時、革新自治体を嫌悪していた自治省が企画し、5年ほどかけて大規模な革新自治体を潰していく作戦。T.O.K.Y.Oとは、T=東京都(美濃部亮吉知事)、O=大阪府(黒田了一知事)、K=京都府(蜷川虎三知事)、Y=横浜市(飛鳥田一雄市長)、O=沖縄県屋良朝苗知事)の5革新自治体であり、最終目標はその頂点に位置する東京都知事のポストを保守陣営が奪還することにあった[2]。この時期、オイルショックスタグフレーションにより国も地方も財政が逼迫していたが、多くのマスコミは財政問題について革新自治体に比重を置いて批判的な記事が書いていった。とくにサンケイ新聞は記事の行間に「行革に反対する議員を落選させよう」などのスローガンを挿入するなど、革新自治体批判の記事の多さや激しさで際立ったが、批判の嚆矢は1975年1月22日の朝日新聞の社説「行き詰まった東京都の財政」で、都が放漫財政を行って人件費を乱費した上、福祉予算を膨張させたために都財政が逼迫したと批判したことにあるといわれる。結果的にこのアンチ革新自治体のキャンペーンは国民に浸透し、自治省が企んだ「T.O.K.Y.O作戦」は1979年東京都知事選挙において、元内閣官房副長官鈴木俊一が革新陣営が擁立した総評議長の太田薫らを破り、都知事の座を保守陣営が奪還したことにより結実した[3]

平成期の主な革新系首長

なお日本共産党が与党でない自治体は革新自治体に含まれないという分類もある

現職
前・元職


昭和期(主に1970年代から90年代)の主な革新系首長

なお日本共産党が与党でない自治体は革新自治体に含まれないという分類もある テンプレート:Amboxテンプレート:DMC

脚注

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関連項目

  • 日本共産党の全員勝利で全国に誇る矢野市政の前進を 東京・狛江市 志位委員長の訴え(要旨)2007年4月20日(金)「しんぶん赤旗」
  • 中央公論 1981年9月号 田原総一朗「T.O.K.Y.O作戦の尖兵 鈴木俊一知事」
  • 「T.O.K.Y.O作戦」の全体像については、元東京都理事・日比野登「財政戦争の検証~美濃部都政崩壊期の研究~」第一書林1987年)に詳しい。