田無市

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田無市(たなしし)は、かつて東京都に存在したである。通勤率は、東京都特別区部へ44.7%、武蔵野市へ3.9%、保谷市へ3.3%(いずれも平成12年国勢調査)。2001年平成13年)1月21日に保谷市と合併し西東京市となった。

全国でも埼玉県蕨市、埼玉県鳩ヶ谷市(現川口市)、東京都狛江市についで4番目に小さい市であった。

地名の由来

田無の地名は、1559年永禄2年)の後北条家の文書にあるのが最も古く、江戸時代以前より集落が形成されていたことが分かる。そのため地名の由来は定かではなく、いくつかの説がある。

  1. 田んぼが無いため田無となった説
  2. 棚瀬が変化し「たなし」となり、田無の字があてられた説
  3. 田成が田無に変化した説
  4. 種なしが田無となった説。田無では税の取立てが厳しく、種(本来ならモミか)までとられてしまうため、周囲の村から種なしの村と呼ばれたと言う説。

1の説では、畑作が中心だった現在の多摩地域ではどこでも田は無い(陸稲が中心)こと。2と3の説では、途中で意味は正反対に変わってしまっていること。4の説も田無の集落が近隣より比較して早くに成立していることなどから、決め手となる説がないのが現状である。

歴史

青梅街道所沢街道が交差する交通の要所で、かつ青梅街道の宿場町として江戸時代より栄える。

宿場町として陸運により発展していたため鉄道の誘致に積極的ではなく、甲武鉄道(現在のJR中央本線)の開業によりその地位を失う。その後は西武鉄道新宿線の開通などで東京の市街地となり、昭和10年代から、大日本時計(シチズン時計)、中島航空金属、豊和工業(石川島播磨重工業)などの工場が設立された。太平洋戦争後は一部工場は閉鎖されたが、東京のベッドタウンとしての発展を続けた。

江戸時代より商業的に発展していたことから、周辺の地区が複数の村を統合して明治以降、村を形成したのに対して、田無は江戸から同じ市域で明治以降の田無村となった。全国の市で、複数の大字(に相当する区域)を持たない唯一の市であった。そのため明治20年代より幾度となく近隣市町村との合併の検討がされたが、2001年(平成13年)に隣接する保谷市との合併を果たした。

姉妹都市・提携都市

関連項目

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