田中眞紀子
テンプレート:政治家 田中 眞紀子(たなか まきこ、1944年(昭和19年)1月14日 - )は、日本の政治家。通常は田中真紀子と表記されることが多い。
父は第64・65代内閣総理大臣の田中角栄。夫は民主党参議院議員の田中直紀。
衆議院議員(6期)、科学技術庁長官(第52代)、外務大臣(第131代)、衆議院文部科学委員長、衆議院外務委員長、文部科学大臣(第17代)等を歴任した。
目次
来歴・人物
東京都文京区に父・田中角栄、母・はなの長女として生まれる。本籍地は新潟県柏崎市。千代田区立富士見小学校、日本女子大学附属中学校・高等学校を卒業し、早稲田大学商学部へ進学。早大在学中は演劇サークルに所属し、同期には久米宏や長塚京三がいた。大学卒業後は劇団雲に所属し、女優として舞台に出演するが、結婚を機に引退。母が病弱であったことや、高校時代のアメリカ留学経験もあり、父・角栄が首相在任中は事実上のファーストレディの役目を担った。ただし子供の頃や政界入りする前は角栄と対立する事も多く、進学先や田中直紀(旧姓:鈴木)との結婚などは角栄の反対を押し切り決めたという。
1993年の衆院選で初当選、翌1994年に1年生議員ながら村山内閣の科学技術庁長官として初入閣して話題を呼んだ[1]。その後も国民的な人気を保ったが、与党内野党的な自由な立場からの奔放な発言が人気の源泉であり、政治家として目立った実績を残したわけではなかった。教育実習にボランティア活動を義務化させる提案をし実現させ物議を醸した事もある。しかし2001年の小泉内閣誕生に際しては総裁選での応援を買って出るなど大きく寄与、自ら外相に就任して異例の高支持率を獲得。実務においては様々なトラブルを引き起こし外交が機能不全に陥るほどだったが、人気は衰えなかった。
ターニングポイントとなったのが2002年の事務方との対立に起因する外相更迭であり、当時は世論の圧倒的多数が更迭に反対して田中を支持、小泉内閣の支持率が一時的に急落するほどであった。しかし直後に自らの秘書給与問題が浮上し、議員辞職に追い込まれる[2]。2003年衆院選で復帰し、院内会派「民主党・無所属クラブ」に加入。今度は以前に所属していた自民党に対して厳しい批判を繰り返すようになった。
衆院選を目前に控えた2009年8月15日、新潟県長岡市内で記者会見し、夫の田中直紀参議院議員とともに民主党入りを表明。民主党入りの理由について「確実に二大政党(の時代)になる。有権者に約束してきたことを実現するためには、組織に所属しなければならない」と述べ、選挙後の入党という選択肢については「それでは有権者に対して失礼」と否定した。鳩山由紀夫民主党代表は「夫婦そろっての民主党入党を心から歓迎する」と述べた。[3][4]
同年9月の鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、衆議院文部科学委員長に就任。
2011年6月の菅内閣不信任決議案(菅おろし)で党議拘束に違反して棄権したため、民主党執行部から3ヶ月の党員資格停止処分が下された。なお、国会の役職については解任しない旨が民主党執行部から通達されたため、衆院文部科学委員長の職には留まった。党員資格が停止されたため、2011年民主党代表選挙では投票権が与えられなかった(野田佳彦財務大臣が当選)。同年9月の野田内閣の成立に伴い、衆議院外務委員長に就任。
2012年6月26日の消費税増税法案には、小沢一郎や鳩山由紀夫らが反対票を投じ、小沢は自身のグループに所属する議員の大半を率いて離党、国民の生活が第一を結党したのに対し、田中は賛成票を投じ、造反の動きに同調しなかった。以前から田中は「反・野田」のスタンスに軸足を置いていたが、2012年9月民主党代表選挙では一転して野田首相の再選を支持し、野田陣営に参加している。同年10月、野田第3次改造内閣で文部科学大臣に任命され、2001年に発足した第1次小泉内閣以来、約11年ぶりに3度目の入閣を果たした。
同年11月、2013年春に新規開校を予定していた大学3校の不認可を示唆。3大学は、文部科学省の諮問機関である大学設置・学校法人審議会の認可を受けており、文部科学大臣が審議会の判断を覆すのは極めて異例で、田中は不認可の理由について「大学が多すぎ、質が低下している」と説明したことから、[5]関係各所を巻き込んだ騒動に発展。この3校以外に同時期に認可の申請が出された既設大学の16学部、13の大学院を認可したことに続き、結局、文部科学省は11月8日、新規3校についても正式に認可した。
12月16日に執行された第46回衆議院議員総選挙では、父の時代からの強固な地盤だった新潟5区では一位とは三万票近い差をつけられ次点で落選し、比例復活もならず議席を失った。父・角栄の死去から丁度19年になる命日での出来事であった[6]。「この地域に責任がある」と発言し、政界引退は否定した。
評価
田中の発言は他の政治家に比べて単なる「悪口」や人格への「中傷」が際立って多く、批判が多い。
新潟県中越地方の企業越後交通グループのオーナーでもある。眞紀子の選挙においては、バス会社である越後交通の各営業所は、選挙の情報収集や票固めと言った役割を果たすことになる。これらは父の角栄が築いたものであり眞紀子はそれを継承した。なお、同社では角栄を「大先生」と呼んでおり[7]、営業所に写真も掲げられているという。テンプレート:Main
眞紀子の人の好き嫌いは父の角栄の存在の影響が非常に大きく、父を裏切った竹下登の旧経世会に連なる人間を憎んでいるとされる[8]。無所属時代に統一会派を組み、現在は在籍している民主党の議員に対してすら、攻撃することがある。父との関係が比較的悪くなかった小沢一郎には好意的で、小沢が民主党代表だった時は「小沢氏を首相にする」と支援姿勢を鮮明にしていた。2010年9月の民主党代表選挙でも小沢への支持を公言し、積極的に支援している。しかし2012年7月、小沢が民主党を離党して新党「国民の生活が第一」を結成した際には、党首への就任含みで参加するよう誘われたものの、眞紀子は民主党にとどまった。
また、父・角栄が大蔵大臣時代からの秘書だった早坂茂三や「田中角栄の金庫番」と言われた佐藤昭子とも折り合いが悪く、角栄が脳こうそくで入院した際「(縁のある)東京逓信病院に入院させましょう」と発言した早坂に対して眞紀子は「病院の看護婦や医師は創価学会員や共産党員が多いから、病状が公明党や日本共産党へ(父の病状が)漏れる可能性もある」と違う病院へ入院させるよう要請し、受け入れられず東京逓信病院への入院を許した眞紀子は数日後早坂と佐藤を田中事務所から解雇した[9]。
自民党時代に外務大臣在任中、小泉内閣及び田中外相の方針に抵抗する外務省の官僚を更迭するため省内の人事異動に介入しようとしたものの、大臣には人事権がなく、省内の反発を受け頓挫した。
作家の曽野綾子は田中を「マスコミにもてはやされる才能を持ち、夫に対しても献身的なようだが、政治家には向いていない」と評した[10]。
政治家としてのエピソード
「凡人」「軍人」「変人」
1998年7月の自由民主党総裁選挙に立候補した小渕恵三を「凡人」、梶山静六を「軍人」、小泉純一郎を「変人」と彼女が評した。梶山は旧陸軍航空士官学校出身。小泉は自民党の支持基盤の1つを解体すると目されていた「郵政民営化」を自身の政策の根幹に据えていたため、「自民党の異端児」と評されていた。そして小渕は官房長官当時に「平成」の改元を発表した「平成おじさん」の印象程度しかなく、国民からの認知度が低かったため。これは同年の流行語ともなった。テンプレート:See also
「パックン首相」
これまで処理できなかった法案(ガイドライン法案、国旗国歌法案、改正住民基本台帳法案、年金制度改正法案など)を小渕首相が次々呑み込んで成立させてしまった様子を指して「パックン首相」と呼んだ。また、金融再生関連法案の立法過程に関して、野党・民主党の案をほぼ丸呑みしたこと、公明党の主張した地域振興券法案の実施なども含まれている。
お陀仏発言
テンプレート:See also 2000年5月14日に死去した小渕恵三について、2001年4月14日、自民党総裁選に立候補した小泉純一郎の応援演説の際に「小渕の恵ちゃんなんか、『僕は一年間で借金百兆円作った、ガハハ』なんてカブ上げて喜んで頭がパチッと切れて、オブチさんがオダブツさんになっちゃったんですからね。これも自業自得なんですよ」と発言した。この発言は後にマスコミや世間から「お陀仏発言」と呼ばれた。翌日の4月15日に渋谷で街頭演説をしたときも、「小渕の恵三さんという人は、『私は一年間で百兆円の借金を作った、日本一の借金王だ』とカブを持ち上げたら、コロッと死んだじゃないですか。あれをお陀仏さんと言うんですよ、オダブツさん」と発言した。2001年4月17日付の古賀誠自民党幹事長に送った手紙の中で「14日以降は一度もその発言はしておりません」と書いたが、事実とは異なっていた。4月18日、再び手紙を送り謹慎に入ることを宣言した。しかし、翌19日の会見で「謹慎してもダメなものはダメと判決が下っている。だから活動を再開します」と言って、活動を再開した。小泉内閣の外務大臣就任後の2001年5月14日に開かれた衆議院予算委員会においてこの「お陀仏発言」について質問され、「結果として言葉が走りましたことは認めます。そして、今日は小渕元総理の御命日であるということも承知いたしておりますので、御温容をしのびながら、以後、反省をいたします」と答えた。
外務大臣として
日本の内閣の方針と合わない言葉を公言
2001年4月26日に外相に就任。日本政府の閣議でミサイル防衛構想について反対の立場を決めたことはないのにも関わらず、眞紀子はアメリカ合衆国のアーミテージ副長官との会談でミサイル防衛構想への批判を公言した。
外国要人との会談を直前に中止
外相在任中、アメリカのパウエル長官との電話で、アーミテージ副長官が来られることは楽しみにしていると語った。しかし、2001年4月に、アーミテージ副長官が日本に来て小泉首相に会うための日程を決めようとした時、彼女は直前にこれをキャンセルしたテンプレート:Sfn。
金正男の身柄拘束後の対応
2001年5月1日、北朝鮮の金正日の長男、金正男が出入国管理法違反により成田空港内で入国管理局に身柄拘束された。眞紀子は「そんな人を(日本に)置いておいて(北朝鮮から)ミサイルが飛んで来たら大変なことになる。すぐ帰さないとだめ!とっとと追い出して!」と発言した。この発言を根拠として、法務省・入国管理局の管理下に置かれたまま(警察・検察への引き渡しもないまま)すぐに退去強制させられた金正男の処遇を、外務大臣の彼女の差し金だと主張している人も一部にいる。テンプレート:See also日朝平壌宣言調印や拉致被害者問題などで北朝鮮との関係に火種を抱えていた小泉首相・官邸の意思が介在していたかどうかは不明である。眞紀子の地元である新潟では拉致が多発していた事も無視出来ない。
アメリカ合衆国の機密情報を漏洩
アメリカ同時多発テロ事件の直後、眞紀子は機密情報であるアメリカ大統領の避難先を記者会見でしゃべってしまった[11]。当時国民の間で圧倒的な人気を誇る眞紀子の外相罷免を避けた小泉首相は、とりわけ対米外交において外相の頭越しに外交を行わせるようになる。
指輪騒動
2001年11月1日、田中眞紀子は指輪を紛失したことを上月豊久秘書官の責任にして、買いに行かせ、その結果イランのハラジ外相との会談に遅刻した。
小泉首相の靖国神社参拝を批判
2001年5月に唐家璇(中国外相)と会談したとき、唐に「小泉首相に靖国神社参拝をやめなさいとゲンメイ(言明または厳命)しました」と言われた。眞紀子は、小泉首相の靖国神社参拝に強く反対した。小泉首相の靖国神社参拝に関して、「今の中国を見てください。株やって儲けて、ロールス・ロイスやベンツに乗っている若い人がいる一方で、年収数千円という貧しい人がいる。そうやって国内の不満が爆発しそうなところに、小泉さんが靖国神社へ参拝するからデモが起こるんです。あの人は、日本の国益とか世界平和なんて考えていないのです」と批判した。また、「小泉さんが、煮干しの出がらしみたいな顔して『俺は靖国行く』っていうからおかしくなった。あの人はホントにタチが悪い」と批判した。
「触らないで下さいよ!」
2001年7月に、群馬県で参議院選挙に立候補した吉川真由美を応援するための演説をするはずであったが、田中が応援演説の予定の午後4時よりも1時間以上前に群馬県庁前に到着し、応援すべき候補者が来るのを待たずに勝手に演説を始めた。このため吉川は別の場所で演説していたが、これを中断して群馬県庁前へ急行、田中と一緒に演説を始めた。田中は「これから新潟に行って外務省の用事があるもんですから、あと4分だけで終わりにしますが、候補者、どの人か知りません。駅についてチラシをもらうまで男か女かも知りませんでした。名誉のため、市議や県議をやったから国会に行ってみようとか、政治家の娘だから国会に行ってみようというのは税金の無駄遣いなんです。」と駅前で演説した(吉川は元群馬県議会議員であり、元衆議院議員熊川次男の娘。「政治家の娘」云々は群馬県を選挙区とする小渕優子のことかと思われるが、もちろん田中自身も政治家の娘である)。吉川が田中の批判的な発言をなだめるために、にこやかに「そんなぁ」と言いながら、田中の肩へ手を回したが、田中は「この候補者、なんておっしゃるんですか。知らないから触らないでください。知らない人に触られたくありません。では地元に用事がありますし、外務省に用事がありますのでこの辺で失礼します」と駅前の大衆に向かって演説した後、すぐに帰った。報道によれば外務省での公用などなく、地元の用事とは、新潟でのクラシックコンサートを見ることだったとされている。田中眞紀子の事務所には、事前に吉川についての資料が送られていた。結局吉川は落選した。田中は党紀委員会にかけられたが、小泉首相側はこれを擁護した。
「外務省は伏魔殿」
外務省を「伏魔殿」と呼んで、外務省・外務官僚の閉鎖的な様子を鋭く表現し、外務省機密費流用事件や自身の進めようとした外務省改革・人事で外務省と対立した[12]。
更迭と外相辞任
テンプレート:See also 外務大臣在任中、北方領土返還をめぐる方針や外務省改革などを巡り、当時の衆議院議院運営委員長で、外務省に強い影響力を持っていた鈴木宗男との抗争や官僚との軋轢が報じられていた。ごく短期間に事務方の秘書が4人交代し、中には体調を崩して入院する者も出ていたテンプレート:Sfn。
決定となったのは2002年1月、アフガニスタン復興会議へのNGOピースウィンズ・ジャパン出席取り消し事件について、田中は「事務方は『鈴木議員からの圧力があった』と自分にいった」と発言したことであるテンプレート:Sfn。この点は28日の予算委員会で追求され、田中は具体的な幹部職員名を上げ「言った、間違いない」、事務方は「そのようなことは言っていない」と答弁し、答弁の食い違いに委員会は大紛糾した。その日の夕方に野上義二外務事務次官の参考人招致が実施され(事務次官の参考人招致は前代未聞)、次官は「私の口からは鈴木議員云々とは一切言っていない」と証言しテンプレート:Sfn、対立は一層深刻化した。
29日、小泉首相は田中大臣と野上次官を官邸に呼び二人を更迭、鈴木議員に衆院議院運営委員長の辞任を求めて辞任したテンプレート:Sfn。田中は「一生懸命やってきたつもりだったんですが」とカメラの前で涙を流した。圧倒的な人気を誇る彼女を更迭したことで、小泉内閣の支持率は30%程度急落したテンプレート:Sfn。
秘書給与流用疑惑と議員辞職
秘書給与横領で元秘書より詐欺罪で告発され、自民党の党員資格を停止され、議員辞職となる。東京地検特捜部の捜査の結果、告発対象の秘書については「バス会社越後交通からの出向であるが、秘書としての勤務実態はあった」「秘書給与は同社に入れる一方、会社給与等の形で秘書給与額をやや上回る額が秘書に給与され、流用が確認できない」「出向扱いにしていたのは、社員としての身分保障の継続を求めた秘書側の希望」などが判明し、詐欺罪の公訴時効にかからない1996年以降の公設秘書10人も捜査された結果、犯罪性はないとされて2003年9月30日に嫌疑なしの不起訴処分となった[13]。
その後、第43回衆議院議員総選挙で当選し、民主党会派(民主党・無所属クラブ)に入会した。以降、選挙の際に民主党公認の立候補者の選挙支援に重用される。ただし、当時は民主党員ではなく、あくまで無所属であった。従来どおり自由民主党公認候補である夫の支援も行っていたが、その後、夫を離党させた。
父角栄からの相続税の脱税が指摘され、目白邸の一部を分納したことがある。角栄の死去に伴い眞紀子は角栄遺産について1994年7月、小石川税務署に相続税の申告を行なった。その際に申告した遺産総額(課税対象額)は約120億円。しかし、1995年12月、その申告には78億円以上の申告漏れがあると東京国税局に指摘された。非上場の同族企業つまりペーパーカンパニーに持たせていた資産にメスが入れられたのである。申告すべき実際の遺産額は約200億円だった。この結果、納税すべき相続税額も約55億円増えた。このため、眞紀子や夫の直紀が相続した目白御殿と呼ばれていた角栄自宅の一部や軽井沢別荘の一部が、納税に充てるために物納された。
民主党への入党
「安倍晋三さんは種無し西瓜」発言?
ネット上では、2012年10月6日に生放送されたテレビ大阪「たかじんNOマネー」において須田慎一郎が「眞紀子さんは安倍さんに子供がいないことについて、『種なし西瓜西瓜』って言ったんですよ。そんなことを言う人が文部科学大臣でいいのか」と発言したとされているが、伝聞情報であり、田中真紀子自身がいつどこでどのような状況で発言したのかさえ説明されていない。このように、田中真紀子の発言とされているものには、事実かどうかが不明なものも多い。
角友会の解散
父の古くからの支持者との軋轢の一つに、2004年から2005年にかけて起こったJR浦佐駅前に立つ銅像を巡って発生した管理団体との対立が挙げられる。この銅像に屋根をつけるべき(地元は豪雪地帯のため、「雪が積もってお父ちゃんが可哀想」と発言したとも)と2004年11月に管理団体「角友会」(会長・須佐昭三、越山会元幹事長)に申し入れるも難色を示されたため、2005年2月に「田中角栄記念館」を通じて六日町簡易裁判所に調停を申し立てた。話し合いの末、像の管理は田中家がすることとなり「角友会」は解散。銅像そのものは、支持者が角栄の地元発展への尽力に感謝し、約2億円をかけて1985年に建立したもの。また、2005年には銅像に屋根が掛けられた。
第45回総選挙では、民主党候補の支援の他、選挙区によっては平沼グループの支援も行っている。
北朝鮮による拉致被害者
2003年10月31日、佐渡において行った藤島正之候補の応援演説で、「拉致家族の子供は北朝鮮で生まれたから本来なら北朝鮮に返すべきじゃないですか? その辺のところを蓮池何とか(=透、被害者の薫さんの兄)さんはよく考えてください」と発言し、 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会・北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会を批判した。また、「(被害者に)耳触りのいいことを言うべきではない」、「(帰国した5人の拉致被害者の)家族の国籍は国際法上は北朝鮮籍。外務省も知っているはず。(日本帰国は)難しいとはっきり言うべき」と発言した。北朝鮮による拉致被害者家族連絡会と北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会は田中真紀子事務所に抗議したが、一切回答していない。
記事出版差し止め
テンプレート:Main 2004年3月、長女の記事に関し、長女がプライバシー侵害を理由に記事の差し止めの仮処分を申請し認められた。仮処分は後に東京高裁で取り消された。
文部科学大臣として
2012年(平成24年)11月1日に大学設置・学校法人審議会が新設大学の認可を文部科学省に答申したが、翌2日に田中眞紀子文部科学大臣が3つの大学を不認可とすることを公表した[14]。これに対する世論・マスコミの反発は大きく[15]、6日後の同月8日に撤回した。田中自身は、就任間もない大臣(前月10月1日就任)が大学の認可・不認可という重要事項を自分の一存で決められるものではなく、事務方の意向に沿っただけのものであるとした[16]。この件については、大学の過剰傾向等を嫌った文部科学官僚が田中文科相をヒール役として使っただけであるとする説が根強くあり、真相は明らかとなっていない。
エピソード
- みのもんたの“さしのみ”の初回ゲストであった。
- 久米宏とは早稲田大学の同級生であったことから仲が良く、久米が司会をしていた選挙ステーション等の番組にたびたび出演、持論を展開した。
ラジオ出演
- 2005年4月より、文化放送の昼のワイド番組「寺島尚正のラジオパンチ!」で水曜日のコメンテーターとしてラジオパーソナリティとして出演し話題になった。公務との関係で一時番組のコメンテーターを降板したが、翌年、再び、文化放送の清水克彦プロデューサーや寺島アナウンサーに要請されたのを受けて復帰した。
- 2007年1月6日16時より、FMPORT「げんこつRADIO SHOW!」にて、出演。その数週間前から、眞紀子の肉声で「は~い」が何度か放送される。
発言
- 「(村山富市)総理は私たち閣僚にとってかけがえのない人。私たちの首(閣僚)を切ればいくらでも切れる。できれば、官僚にこき使われてヘトヘトにならないようにしてほしい。総理公邸が合わなければ議員宿舎の中でパンツ1つで過ごしたほうがいいですよ」:科学技術庁長官時代に閣僚懇談会で発言。男性閣僚はギクッとなったが、村山首相は苦笑いしただけだった[17]
- 「愛人は誰にだっているんじゃないんですか」:田中が名付けた「軍人、変人、凡人」の直後菅直人(当時民主党代表)の愛人問題が取りだされ、マスコミから愛人について尋ねられた時の発言
- 「人間には、敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」:このような人生観は田中眞紀子に限った話ではなく、思想家の吉本隆明は著書の中で、「その通りだ」と書いている。
- 「何も知らないお姫様が神輿に担がれて選挙している」:急逝した小渕首相の後を継ぎ立候補した小渕優子議員に対して。当時はマスコミも小渕の立候補をお姫様選挙と揶揄した
- 「スカートを踏んづけられていたので、後ろを振り返ってみると、言っている本人(小泉)だった」:外務省改革を妨害したと言って小泉首相を批判。
- 「(NGO団体の案内状は届いたというのは)官房長官(福田康夫)のお得意の、勘違いをなさっておられるのではないでしょうか」
- 「私が当時外相を務めていたら、他の国に行ってもらう手段を考えただろう」:外相就任前、李登輝のビザ発給問題について。
- 「私は変人の生みの親でございますから、生むだけじゃなくて育てていかないと。」と外相就任に関して記者に話した。小泉首相と共に、改革への決意を語っていた。
- 「小泉首相はいつまでもリチャード・ギアとダンスでも踊ってりゃいいのよ。」
- 「本当にあの人(小泉首相)はアメリカ大好き」
- 「小泉さんも自民党をぶっ潰すとか何とかおっしゃってましたけど、この小沢先生は本当にぶっ壊してきた実績がおありの方ですから」:小沢一郎を指して。
- 「『もなか』だか『おなか』だか」:野中広務を指して。
- 「静かじゃない人」:亀井静香を指して。
- 「うらなりのさくらんぼ」:加藤紘一を指して[18]。
- 「ジジ公(自自公)だかババ公だか」:小渕首相時代の自民・自由・公明の連立内閣を指して。
- 「蜃気楼」:森喜朗元首相(当時・自民党幹事長)の名前を音読みして彼女は「蜃気楼」と言った。どこか茫洋としていて、切れ味が鈍く乏しい様。ただしこれは眞紀子のオリジナルというわけでもなく、浜田幸一も著書で同様の批判を行っていた。
- 「カレー食って下痢して顔が細くなったような人」:細田博之を指して[19]。
- 「全財産を身につけて歩いているような人」:扇千景元保守党党首に対して
- 「ダイエットになっちゃうわね」:新潟県中越地震の被災地視察時に「食事がおにぎり1個しかない」と語った被災者に対して。
※「ダイエットになっていいじゃない」とは言っていない。
- 「小泉さん(純一郎元首相)がはいと言えば『はい』と言う人間たち」:小泉チルドレンを批判した発言。
- 「ヅラ被ったおっさん」:与謝野馨を指して。
- 「大風呂敷おばさん」:風呂敷の有効利用を促した環境大臣小池百合子を指して。
- 「ポマードを(べったり)頭につけたおっちゃん」:首相辞任後の橋本龍太郎を指して。
- 「最初はおいしかったが、だんだんしゃっこく(冷たく)なって、肉はミートホープの肉か知らないけど、見るだけでもいやになった。そういう時に新しく天丼が出てきたら、食べてみることだ」:自民党をカレーライスに例えて。天丼は民主党。
- 「69歳のコピー人間」「もうじき70、老人ホーム行きになる人間」:福田康夫を指している。
- 小泉政権を「大きな花火が上がって家が振動するくらいだったけど、外に出たら消えている」とし、次期首相となった安倍晋三官房長官(当時)についても「(安倍の総理総裁就任は)課長がいきなり代表取締役社長になるようなもの」「ぱちぱちとちっちゃな線香花火をもって『これも花火には違いない』みたいに言っているなあと。すぐに落ちてしまう」と徹底的に批判を加えている。
- 「50万トンじゃダメなのよ。100万トンでもあげればいい。外交にはタイミングが大事」:2000年10月に家族会が北朝鮮へのコメ支援に反対して自民党本部前に座り込んだ際の発言[20]。
- 2006年10月6日の衆院予算委員会代表質問で安倍首相の政治姿勢を厳しい言葉で非難した。「お父さんの靴を履いて飛び出していったら右に右に歩いていった(=安倍が政治家一家の出であることを揶揄。また、政治スタンスが「極右」であると批判)。」「聞いたところによると中西輝政先生におもねっているのではないでしょうか?(=ブレーン・アドバイザーすべてが保守論客である事を肴に歴史認識が欠如しているのではないか、と質した。)」「2002年に(内閣官房副長官として)訪朝したのですから拉致問題に関して連帯責任を負うべきですよ。」「どうも貧相な朝食を食べているそうですから安倍さんの政治は筋肉質とはいえません。」「反対に我が家にはしっかりとした朝食がありますからどうか食べにこられたら如何でしょうか?(=前者の発言を受けた皮肉)」。
- 「(父の)田中角栄さんまでの自民党は良かった。その時の幻影をまだ見るのか。まだ(選挙で)自民党と書くのか」
- 「(年金問題について)グレーゾーンは支払うべき。これは国家が国民を信用し愛せるかの問題。小泉さん、安倍さんには愛がない。だから大臣(松岡利勝前農水相)が首をつったんじゃないですか。内閣の防波堤にされたんじゃないですか」(2007年6月16日の応援演説)
- 安倍晋三首相の学歴を引き合いに出して低学歴と揶揄する発言(2007年7月19日の新潟県での講演会)。ただし田中も学位は安倍と同じ「学士」である。
- 麻生太郎外相の2007年7月19日の講演でのいわゆる「アルツハイマー発言」に対して「口の曲がったわけのわからないおっちょこちょいの外相が『中国のお米と日本のお米の(価格の)計算が分からない人なんてアルツハイマーだ』だって、自分がアルツハイマーだからそんなこと言っているんでしょう」と発言(7月28日の米子市での演説会)。
- 「今の瞬間が福田さんにとってはピーク。あとは転げ落ちていく」:2007年9月26日に組閣した福田康夫内閣を指して。
- 「年取った安倍晋三(前首相)が演説しているようなもの。税金の無駄、首相を辞めて解散だ」:2007年10月1日の福田康夫首相の所信表明演説を酷評。
- 「ダライ・ラマはチベットの自治を求めているわけでしょ。でもチベットは中国の一部なわけですから、自治が欲しいと言うことは独立をめざすと言うことでしょ。なのにダライラマは独立を目指していませんって言うんですけどそれは矛盾してますよ。」と発言。ダライラマを批判しチベットの独立を認めない中国政府を支持した(2008年4月20日CCTVにて)。
- 麻生太郎を「ひょっとこ総理」と命名した。
- 「(夫・田中直紀とは)愛し合っておりますので大丈夫です」:自民党離党時、同党参議院議員である夫との今後の関係を聞かれて。その後夫婦同時に民主党入り。
- 「予算委員会の答弁を聞いていても何を言っているのか分からない。菅直人首相もあまり力量のない方だということが証明された」「中国に毅然と物が言えないようでは困る。何も遠慮することはない」:尖閣諸島沖での漁船衝突事件への対応について菅直人首相らを酷評。
- 「やはり暴走老人で大変だなと。大変だろうなとみております」:2012年10月、東京都知事を辞任して、国政への復帰と新党結成を表明した石原慎太郎氏に対して。
- 「自爆テロ解散」:2012年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙で、小選挙区の新潟5区で長島忠美に敗れ比例復活もできず連続当選が6回で止まり落選。落選翌日、記者会見で野田佳彦首相を痛烈に批判した時に対しての発言。
脚注
参考文献
関連文献
- 『田中真紀子の恩讐』上杉隆著、小学館
- 『田中真紀子の正体』上杉隆著、草思社
- 『田中真紀子研究』立花隆著、文藝春秋
- 『裸の女王様―田中真紀子秘書日記 』穂苅英嗣著、文藝春秋
- 『わたしは特別なのよ!―田中真紀子の実像』須藤義雄著、STUDIO CELLO
- 『田中真紀子は復讐する』佐野眞一著、文藝春秋2003年12月号、2003年
- 『週刊文春「検閲」事件 「角栄・真紀子」の血と判事の暴走』桜井よしこ・小林節著、文藝春秋2004年5月号、2004年
- 『疑惑の相続人 田中真紀子』野田峯雄・小山唯史著、光文社
- "カリフォルニア州ロサンゼルス統一学区における英語教育の試みと日本における小学校英語教育への示唆." (Archive) 『神田外語大学紀要』. 神田外語大学. 2009年. 第21号. -- 前と同じもの 英文 田中 真紀子
一族
家庭・親族
系譜
- 田中家
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関連項目
- 日本の女性国会議員一覧
- 越山会
- 新潟放送
- 介護等の体験、小学校及び中学校の教諭の普通免許状授与に係る教育職員免許法の特例等に関する法律
- 皇民党事件
- ザ・コンテンダー - 日本公開当時、外務大臣として悪戦苦闘していた彼女の姿を本作のヒロインと重ね合わせてイメージする者も多かった。
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
平野博文
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部科学大臣
第17代:2012年
|style="width:30%"|次代:
下村博文
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
河野洋平
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第130代:2001年 - 2002年
|style="width:30%"|次代:
小泉純一郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
近江巳記夫
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 科学技術庁長官
第52代:1994年 - 1995年
|style="width:30%"|次代:
浦野烋興
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
近江巳記夫
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 総理府原子力委員会委員長
第52代:1994年 - 1995年
|style="width:30%"|次代:
浦野烋興
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
小平忠正
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院外務委員長
2011年 - 2012年
|style="width:30%"|次代:
中山義活
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
岩屋毅
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院文部科学委員長
2009年 - 2011年
|style="width:30%"|次代:
石毛鍈子
- 転送 Template:End
テンプレート:外務大臣 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:総理府原子力委員会委員長 テンプレート:衆議院文部科学委員長
テンプレート:衆議院外務委員長- ↑ 1年生議員の入閣は1957年発足の第1次岸内閣改造内閣で法務大臣となった唐沢俊樹以来、37年ぶりだった
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 田中文科相考え直して…編入希望絶たれた短大生 YOMIURI ONLINE(2012年11月3日14時38分 読売新聞)
- ↑ 落選の田中真紀子氏「私の努力不足」 対立陣営「時代の終わり」 MSN産経ニュース 2012年12月17日
- ↑ 越後交通株式会社 田中角栄 大先生の功績
- ↑ 竹下の側近だった野中広務は著書の中で「父(角栄)を裏切った竹下さんと経世会は許せない」という思いがあったのではないかと書いている
- ↑ 大下英治著「闘争!角栄学校」より
- ↑ 『人間にとって成熟とは何か』 (2013) p152-p153
- ↑ 高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』
- ↑ 花岡信昭の著書によると、外務官僚に「誰が外務大臣になってほしいか」というアンケートで河野洋平の前任者だった高村正彦の再復帰を望む声が多かった。そのため、外務官僚は花岡に「あの人(眞紀子)がくれば外交がめちゃめちゃになる」と言ったされる
- ↑ 秘書給与流用疑惑 田中真紀子元外相、不起訴/東京地検 読売新聞2003年10月1日
- ↑ 田中文科相考え直して…編入希望絶たれた短大生 - 2012年11月3日14時38分 讀賣新聞(YOMIURI ONLINE)
- ↑ NHKは不認可が撤回された8日の時論公論でも、なお田中を批判するほどだった。「"大学設置不認可"は何だったのか?」 - NHKオンライン
- ↑ 参考資料; 歴代文部科学事務次官、歴代文部科学審議官。
- ↑ 岩見隆夫の著書より一部改編・抜粋
- ↑ なお、加藤はさくらんぼで有名な山形県の出身である
- ↑ 細田の父・細田吉蔵は父・角栄と同じ佐藤派に属しており、かつては同じ派閥だった
- ↑ 蓮池透「奪還」