自由党 (日本 1998-2003)

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テンプレート:政党 自由党(じゆうとう、テンプレート:Lang-en)は、かつて存在した日本政党。略称は自由LP。日本憲政史上の他の「自由党」と区別するため、党首の小沢一郎の名から小沢自由党と呼ばれることもある。

1998年1月5日に届出、1998年1月6日に結党大会を開いた。但し、法的には新進党分党によるものであるため、1998年1月1日発足。2003年9月26日、解党し、民主党に吸収合併された。

概要

政策的には、小沢の著書「日本改造計画」、新進党の政策「日本再構築宣言」を基に、小さな政府規制緩和市場主義といった経済的新自由主義と、教育基本法見直しなどの政治的保守主義をとり、改革を呼びかけた。スローガンは「日本一新」。

党名候補として「保守党」も候補に上がったが、河村たかしが提案した「自由党」[1]に決定した。

国際的には、自由主義インターナショナルにオブザーバー参加した。

党史

1997年12月31日新進党は分党し、1998年1月6日に自由党は結成された(手続上は1月1日)。当初は100名以上の議員が集まると思われた[2]が、予想を下回り、衆参両院合わせて54人(衆院42人、参院12人)の議員が参加するに留まった。

同年7月12日第18回参議院議員通常選挙では6議席を獲得した(比例区5名、一人区和歌山県選挙区鶴保庸介が他の野党の協力を得て初当選、東京都選挙区では公認候補不在で当初新進党現職として改選を迎える予定だった公明代表浜四津敏子を推薦)。

参院選後の臨時国会では与党が過半数割れしていた参議院での首班指名で民主党代表菅直人に投票して野党共闘の構えを見せたが、菅が金融再生法の制定の際に「政局にしない」と発言。これを聞いた小沢は野党共闘を諦めて自由民主党との提携に舵を切った。、野中広務官房長官が「小沢さんにひれ伏してでも協力をお願いしたい」と述べるなど、参議院で過半数を確保してねじれを解消したい自民党側からも連立を求める声があり協議が進んだ。同年11月19日に自民党との自自連立合意が成立した。

1999年1月14日小渕内閣第1次改造内閣に参画した自由党は政府委員の廃止、党首討論副大臣制度の導入、衆議院議員定数削減などの政策を推し進めて実現させた。しかし、同年10月に公明党が連立政権に参加するようになると次第に自由党の主張は取り入れられなくなった。また、小沢が自民党に選挙協力を求めたことが自民党側からの反発を招いた。結局、小沢は連立離脱を決断して2000年4月1日に連立政権から離脱した。その際に連立継続を望む党内の海部俊樹野田毅らは離党し保守党を結成、自由党は分裂した。

同年6月2日第42回衆議院議員総選挙では22議席を獲得。この選挙では小沢のキャラクターを前面に出し小沢が見えない手に殴られながらも前進するというCMが話題を呼んだ。

2001年には自由党の組織として小沢一郎政治塾を設立した。同年7月29日第19回参議院議員通常選挙では6議席を獲得した(比例区4名、二人区の新潟県選挙区森裕子・一人区の岩手県選挙区平野達男が初当選)。

2002年民主党側から民主党と自由党の合併が提案された。民主党代表の鳩山由紀夫の失脚など紆余曲折があったが、自民党に対抗する勢力を結集するためとして鳩山の後任代表である菅直人と折衝を重ね、2003年7月23日、民主党と合併することで合意した。自由党は9月26日に解党し、民主党に吸収合併された。合併に際しては合併前の民主党の執行部、規約、政策を踏襲する方式がとられた。

役職

歴代の常任幹事会・執行部役員表

代表常任幹事兼党首 幹事長 政策調査会長 国会対策委員長 参議院議員会長 最高顧問
小沢一郎 野田毅 井上喜一 二階俊博 平井卓志  
 〃  〃  〃  〃 扇千景  
 〃  〃 藤井裕久 中西啓介  〃 海部俊樹
 〃 藤井裕久  〃 藤井裕久 田村秀昭  
 〃  〃  〃 山岡賢次  〃  
 〃  〃  〃  〃 西岡武夫  

歴代自由党党首一覧

党首 在任期間
1 60px 小沢一郎 1998年(平成10年)10月 - 2003年(平成15年)9月

政権ポスト

党勢の推移

衆議院

選挙 当選/候補者 定数 得票数(得票率) 備考
選挙区 比例代表
(結党時) 42/- 500
第42回総選挙 ○22/75 480 2,053,736(3.37%) 6,589,490(11.01%) 第42回総選挙前は18(保守党分裂のため)

参議院

選挙 当選/候補者 非改選 定数 得票数(得票率) 備考
選挙区 比例代表
(結党時) 12/- - 252
第18回通常選挙 ○6/21 6 252 980,249(1.75%) 5,207,813(9.28%)
第19回通常選挙 ○6/31 2 247 3,011,787(5.54%) 4,227,148(7.72%) 第19回通常選挙前は3(保守党分裂のため)

(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)

自由党議員一覧

衆議院議員

結党時(42名)
〇小選挙区(27名)
達増拓也(岩手1区) 佐々木洋平[3](岩手3区) 小沢一郎(岩手4区) 岡島正之[3](千葉3区)
西川太一郎[3](東京14区) 藤井裕久(神奈川14区) 河村たかし[4](愛知1区) 青木宏之[3](愛知2区)
吉田幸弘[3](愛知3区) 三沢淳[3](愛知4区) 青山丘[3](愛知7区) 江崎鉄磨[3](愛知10区)
中井洽(三重1区) 谷口隆義[5](大阪5区) 西田猛[3](大阪9区) 石垣一夫[5](大阪10区)
西野陽[3](大阪13区) 中村鋭一[3](大阪14区) 西村真悟(大阪17区) 松浪健四郎[3](大阪19区)
井上喜一[3](兵庫4区) 小池百合子[3](兵庫6区) 塩田晋(兵庫10区) 中西啓介[3](和歌山1区)
二階俊博[3](和歌山3区) 西岡武夫(長崎1区) 野田毅[3](熊本2区)  
〇比例区(15名)
鰐淵俊之(比例北海道) 菅原喜重郎(比例東北) 二見伸明(比例北関東) 武山百合子(比例北関東)
東祥三(比例東京) 米津等史(比例南関東) 一川保夫(比例北陸信越) 鈴木淑夫(比例東海)
安倍基雄[3](比例東海) 久保哲司[5](比例近畿) 西博義[5](比例近畿) 佐藤茂樹[5](比例近畿)
加藤六月[3](比例中国) 西村章三(比例四国) 権藤恒夫(比例九州)  
移籍(4名)
笹山登生(比例東北) 海部俊樹[3](愛知9区) 井上一成[3](比例近畿) 岩浅嘉仁(徳島3区)
第42回衆議院議員総選挙時(22名‐小選挙区4名・比例区18名)
〇新人・小選挙区
黄川田徹(岩手3区)
〇新人(元職も含む)・比例区
工藤堅太郎(比例東北) 高橋嘉信(比例東北) 石原健太郎(元・比例東北) 山岡賢次(元・比例北関東)
土田龍司(元・比例南関東) 樋高剛(比例南関東) 都築譲(比例東海) 中塚一宏(比例近畿)
佐藤公治(比例中国) 藤島正之(比例九州) 山田正彦(元・比例九州)
〇引退・落選
権藤恒夫 西村章三 米津等史 岩浅嘉仁
笹山登生 二見伸明 鰐淵俊之

参議院議員

結党時(12名)
高橋令則(岩手) 都築譲(愛知) 平井卓志(香川) 阿曽田清(熊本) 扇千景[3](比例)
木暮山人(比例) 田村秀昭(比例) 永野茂門(比例) 平野貞夫(比例) 星野朋市[3](比例)
泉信也[3](比例) 戸田邦司(比例)
第18回参議院議員通常選挙時(6名‐選挙区1名・比例区5名)
〇新人・選挙区
鶴保庸介(和歌山)
〇新人・比例区
入沢肇[3](比例) 渡辺秀央(比例) 月原茂皓[3](比例)
〇引退
永野茂門 平井卓志
第19回参議院議員通常選挙時(6名‐選挙区2名・比例区4名)
〇新人・選挙区
平野達男(岩手) 森裕子(新潟)
〇新人・比例区
西岡武夫(比例) 広野允士(比例) 大江康弘(比例)
〇引退・落選
高橋令則 戸田邦司

脚注

  1. 小沢「自由党」の名付け親は、河村たかし氏 衆議院議員 中塚一宏の「いっこうで行こう!」 閲覧2011年8月17日
  2. 田村重信『民主党はなぜ、頼りないのか 不毛の二大政党制の根源を探る』成甲書房、2007年4月13日
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 3.14 3.15 3.16 3.17 3.18 3.19 3.20 3.21 3.22 3.23 3.24 3.25 保守党結成に参加。
  4. その後、民由合併前の民主党へ移籍。
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 公明党再結成時に、公明党へ移籍。

関連項目

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