総合選抜
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総合選抜(そうごうせんばつ)とは、主に公立学校で用いられる入学試験方式の一つで、学校間格差の解消を目的として、居住地や学力などによって合格者を学区内の各校に平均的に振り分ける制度。総選(そうせん)とも略される。
目次
概説
戦後に京都府知事だった蜷川虎三によって導入された制度。現在は実施されていないが、最盛期には10都府県を上回る地域で採用されていた。
- 総合選抜自体を「学校群制度」や「合同選抜」という名称を使用している地域もあり、制度の詳細は自治体や学区によって微妙に異なる場合が多い。
- 一般的に総合選抜は「学校群制度」と同様に、小学区制度下かそれに近い形式で行われているのが通例であるが、学校群制度よりもさらに徹底した形で学校間の選択肢を減らし、代わりに全入を促進する入試形態をとるものである。
- 「合同選抜」は受験生が希望校を指定しその希望を一定程度考慮しつつ合格者を各校に振り分ける制度であり、総合選抜は、受験生による希望校の指定なしで合格者を各校に振り分ける制度である。
- 学校単位で選抜を行う一般的な方式は総合選抜との対比で、「単独選抜」と呼ばれる。
- 総合選抜は受験競争の緩和や高校間の格差・序列化の是正などを目的に制度化された。多くの場合、総合選抜は公立で普通科の高校のみを対象に実施され、特に受験人口の多かった第2次ベビーブーム世代の高校受験期においては、対象となった高校間での受験競争や序列化の緩和に大きく貢献した。しかし当初から高校を自由に選べないといった反対の声が多く挙がっていた。また、公立高校を避けて私立高校や国立高校などに流れる受験生が増加したため、一部の私立高校が難関化する一方で多くの地域で公立高校の難易度が低下し進学実績が低下していった。
選抜方式
- 総合選抜は学区内の高校間の学力格差を無くす(縮める)ことを目的としており、一般的に学力均等方式または居住地優先方式のいずれかの方式で実施される。
- 通常、総合選抜が実施される地域では小規模な学区割りが行われている。
- 学力均等方式
- 学区内の複数の高校を1つの高校とみなし一括して願書申請させ、入試と調査書の総合成績により全体の合格者を決める。次に、総合成績順位に基づいて受験生を男女別に複数の成績群に階層化し、各高校の合格者の成績分布が均等になるように各階層ごとに合格者をそれぞれの高校に振り分けて調整する。
- 居住地優先方式
- 学区内の複数の高校を1つの高校とみなし一括して願書申請させ、入試と調査書の総合成績により全体の合格者を決める。次に、各高校の周辺地域を固定区とし、隣接地域を調整区として、固定区で合格点に達した者はそれぞれの地域の高校に、調整区で合格点に達した者は居住地を勘案して隣接のいずれかの高校に振り分けて調整する。
- 成績優先方式(オプション)
- 学区内の複数の高校を1つの高校とみなし一括して願書申請させ、入試と調査書の総合成績により全体の合格者を決める。次に、調査書および学力試験の成績の良い合格者から順番に希望校への入学を許可する。この方式は居住地優先方式のオプションとして一部の成績上位者にのみ適用される場合がある。
メリットとデメリット
- 総合選抜は制度上のメリットとデメリットがはっきりしている。とはいえ、その受け止め方は生徒個人の意識、学力、または進路などによって大きく異なり、各地で議論の対象にはなるものの、何らかの妥協点に至るケースはまれである。
メリット
- 一定水準以上の成績を確保するという大前提はあるものの、ほぼ確実に地元の公立高校に進学できるため高校入試に当たっての学習上の負担が少ない。そのため、比較的ゆとりのある中学生活を送ることができる。都市部においても公立高校を第一志望とする受験生の半数程度はすべり止め校を受験しておらず単独選抜学区と比較して高校入試に対する負担感は相当少ないと言える。
- 学区そのものが小規模であったり居住地優先で進学高校が決められたりしている場合には自宅から至近の高校に通う生徒が多い。そのため、必然的に徒歩や自転車での通学が大半となるので通学時間が短くなるとともに電車やバスの交通費の負担も小さくなる。また、学区内の高校間の学力差が少ないためいわゆる序列がほとんど存在しない。
デメリット
- 一般的には選択可能な公立高校が非常に少ない。定員・通学所要時間などの事情が重なると本来の志望校への進学を希望する事が事実上不可能な場合もある。学区内の高校間の学力差は少ないが1つの高校内における生徒間の学力差が非常に大きいため落ちこぼれや浮きこぼれの生徒が単独選抜の高校よりも多く発生する。また、総合選抜は高校入試の負担が少ない分だけ学力の低下を招き、生徒間の競争が低レベル化してゆく傾向がある。
- 総合選抜は特定の高校を受験するのではなく、学区単位で一括してまず合格者を決め、その後に受験者の希望、成績、および居住地・交通事情等を考慮して各高校に配分するため、どこの高校に入学を許可されるかは発表されるまで分からない。総合選抜が行われている地域の場合、テレビニュースなどで見られる合格発表の一覧表を前に泣いている生徒の多くは、合格こそしたものの自身が希望しない高校への配分対象とされた生徒である[1]。
- さらに、都市部や都市近郊では学力の高い生徒や進学意識の高い生徒が総合選抜を忌避して国立・私立の進学校、高等専門学校(高専)などに進学するケースが多い。同様にスポーツ・芸術などに秀でた生徒であっても総合選抜では優秀な指導者がいる高校・良質な練習環境を持つ高校に進学出来るとは限らない。その結果、優秀な指導者や練習環境を求めて私立校に進学するケースが多くなる。逆に公立高校に進学したとしても地域に分散されてしまう上、優秀な生徒が優秀な指導者に出会えるとは限らない。このため、結局は競技活動・芸術活動などにおいても伸び悩みの傾向となり、伝統校と呼ばれていた学校であっても総合選抜校となった公立高校からのスポーツ・芸術の各種目の全国大会やコンクールへの出場実績は凋落傾向となる。
- また、自宅から近い場所に学校があるにもかかわらず遠方の学校に合格することがあり、特に面積的に広大な学区において実施されている場合には通学の負担が大きくなる。
各地の状況(現在は全て廃止)
山梨県
- 導入の経緯
- 廃止の経緯
京都府
兵庫県
- 尼崎、西宮、宝塚学区(居住地優先方式+成績優先方式)
- 各高等学校の募集定員のうち
- 10% - 成績を優先
- 90% - 住居を優先
- (交通事情・特殊事情等を勘案)
- 尼崎、西宮、宝塚学区(居住地優先方式+成績優先方式)
- 総合選抜導入の理念と経緯(西宮学区)
- 1952年(昭和27年)- 区内に公立高等学校が1校しかない小学区制から、複数の学校を選択できる中学区制に変更。
- この当時、子供数の急増にもかかわらず、私立高等学校への流出で公立高等学校は入学率低下に直面し、公立高等学校のあり方が大きく問われていた。また中学校では生徒指導上の問題が多発し、教師はその対策に奔走しながら、補習授業や習熟度別授業で、厳しい進路実現に対応しなければならなかった。高校間格差の拡大、それに伴う受験競争の激化、児童・生徒の苦悩等の解決をどのように図るかが日々論ぜられた。高等学校の新設、学級増などへの働きかけと併行して、中学校教育の正常な運営、小学校の私学偏重体質の改善等のためには高校間格差をなくし、地元の高等学校を育て、小・中・高一貫の教育をめざす「総合選抜」の実施に踏み切るべきだとの機運が高まっていった。
- 1953年(昭和28年) - 西宮学区で総合選抜が開始。
- その後、志望優先率の変更等もあったが、県立・市立を問わず、地域の学校育成の見地から、保護者の理解と協力の中で、総合選抜が維持されてきたとされている[3]。しかし実際には実質的に飛び地となる北部には高校が存在せず、北部の生徒は一度宝塚市を通って中部の高校へ、中部の生徒は南部の高校に通わざるを得なくなるなど弊害も大きかった。このため、住居を優先とはいいつつも、近所の高校に通うことは至難のわざとなり、家の目の前の高校に通うために選抜試験で上位の成績を取る必要があるなど本末転倒の状況に陥っており、私学への生徒の流出は著しかった。
- 伊丹学区(居住地優先方式+成績優先方式)
- 各高等学校の募集定員のうち
- 35% - 志望を優先
- 65% - 住居を優先
- (交通事情・特殊事情等を勘案)
- 伊丹学区(居住地優先方式+成績優先方式)
- 沿革
- 1951年(昭和26年)まで - 1校1学区(小学区制)の単独選抜が実施。
- 1952年(昭和27年)- 中学区制(伊丹学区)となる。
- 1953年(昭和28年)-「住居を重視し、志望を考慮する」(志望優先率3分の1)という2校による総合選抜が実施。
- 1960年(昭和35年)- 単独選抜に変更。
- 中学校の成績上位者の多くが一方の高校を受検したため、いわゆる「回し合格」となった生徒の指導が困難との声が上がり、県教育委員会に単独選抜への要請がなされたため。
- 1971年(昭和46年)- 再び総合選抜を開始。(志望優先率70%)
- 再開の背景
- ねらい - 調査書を主資料に合否を判定することと、総合選抜では「中学校できちんと勉強していれば公立高校に行くことができる」ということにより、過度な受験競争の緩和とともに既存校と新設校との格差を是正。
- 明石学区(学力均等方式)
- 配分方法
- 学区内にある6つの高等学校(普通科)の受検者について、成績の上位の者から順に総募集定員を満たす者を選別する。
- 上記の合格者は19の群(グループ)に分類される。これらの群はそれぞれほぼ成績の等しい者をもって構成される。
- 一つの成績群の中で志望者の数がそれぞれの高等学校に配分される定員に等しいか、あるいは定員に満たない場合にはそのまま志望する高等学校の合格者となる。
- 一つの成績群の中で志望者の数がそれぞれの高等学校に配分される定員を超える場合には各中学校からの当該高等学校のその成績群内における志望者数・交通事情等を勘案して合格校が決定される。
- 上記4で志望が認められなかった者については交通事情等を勘案して合格校が決定される。
- 上記のような方法で19の各群が6つの高校に均等に配分される。
- 明石学区(学力均等方式)
- 沿革
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- 当初は現在の明石学区から明石・加印学区内のどの高校にも進学できることになっていたが、制度開始後すぐに明石市内の生徒はすべて明石市内の公立高校へ進学するように進路指導が強化されたため、実質的に明石市が単独の学区として扱われた。
- 当時は地元集中運動のような非公式な活動が自治体の教育委員会や教職員組合などの主導の下で全国的に行われており、競争を緩和するための全体的な取り組みが公式・非公式を問わず正当化されていた。
- 総合選抜導入前は進学校だった高校も総合選抜導入によって大学進学実績が大幅に下がり、浪人しても地元の大学すら行けない等の問題となっていた。総合選抜廃止後は地域の協力もあって徐々に大学進学実績が回復しつつある。
岡山県
広島県
- 他県に比べ古くから実施していたが、変則的であった。
- 1956年(昭和31年)- 旧広島市内の普通科高校5校(「市内五校」)で総合選抜を開始。
- 1962年(昭和37年)- 正式に小学区制から、大学区制(4学区制)に移行。
- 1976年(昭和51年)- 大学区制(4学区制)から中学区制(14学区制)に移行し、県内6地区で新たに総合選抜を実施。
- 目的 - 大学区制による下宿生の増大などの問題を解決するため。
- 内容
- 結果
- 中学区制移行に伴い、広島地区と三次地区では学区内に総合選抜高以外に公立普通科高がなくなり、実質小学区制[8]となった。移行措置として、各校とも定員の10%(第4学区「市内五校」は20%)は他学区の生徒を受け入ることが可能であった。しかし、その措置も1981年(昭和56年)からは全校とも定員の3%に縮小、1998年(平成10年)に5%に再拡大するも、進学実績が徐々に振るわなくなっていった。
- 特に、県北部の進学校である三次地区の三次高等学校は実質小学区制になったうえに、総合選抜相手校の日彰館高等学校が地理的に冬季は下宿を必要とする可能性があったことや、福山地区では総合選抜各校間の距離が遠いこともあり、さらに進学実績も振るわないようになっていく。
- 14学区制
- 高校数などは1976年発足当時のもの。高校数には分校を含まない。ただし学区外から定員の3〜20%を限度に受け入れを行っていた。
- 第3学区(安芸郡・広島市安佐南区、安佐北区、安芸区等)(5校) - すべて単独選抜。
- 第4学区(広島市中区、東区、南区、西区)(5校)
- 広島地区総合選抜実施校(5校(市内五校)、1978年(昭和53年)に1校追加で6校(市内六校))
- 広島国泰寺高等学校
- 広島観音高等学校
- 広島皆実高等学校
- 基町高等学校
- 舟入高等学校
- 広島井口高等学校(新設に伴い、1978年(昭和53年)に参加。)
- 第9学区(福山市など)(7校)
- 1988年(昭和63年)- 福山地区(旧第9学区)において、総合選抜5校を6校とし、東西の学校群(グループ・各3校)に分割。
- 既存の福山明王台高校の総合選抜加入によるもの。
- 東部グループ(3校)
- 福山誠之館高等学校
- 大門高等学校
- 福山明王台高校
- 西部グループ(3校)
- 福山葦陽高等学校
- 松永高等学校
- 福山高等学校(福山市立)
- 1991年(平成3年)
- 「広島市内六校」を東西の学校群(グループ)に分割。
- 三次地区(旧第13学区)廃止。単独選抜へ移行。
- 14学区制から15学区制へ移行(第3学区を2地区に分割(安芸・安佐))。
徳島県
長崎県
- 県内三地区(3市1郡)の普通科高校入試において総合選抜が実施されていたが、いずれも2003年(平成15年)度からの長崎県による県立高校改革の一環として前年(2002年(平成14年))限りで廃止された。
-
- 長崎五校
- 長崎県立長崎東高等学校(長崎市)
- 長崎県立長崎西高等学校(同上)
- 長崎県立長崎南高等学校(同上)
- 長崎県立長崎北高等学校(同上)
- 長崎県立長崎北陽台高等学校(西彼杵郡長与町)
- 諫早二校
- 長崎五校
- 長崎県の総合選抜試験の歴史[9]
- 昭和
- 1948年(昭和23年)11月 - 長崎県立長崎東高等学校と長崎県立長崎西高等学校、長崎県立諫早高等学校が開校。
- 1949年(昭和24年)2月 - 長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保北高等学校が開校。
- 1950年(昭和25年)3月 - 教員、財産、生徒に格差を生じさせないことを理由に、長崎東高と長崎西高の間で総合選抜試験を開始(長崎二校)。
- 1958年(昭和33年)3月 - 各校独自の方法で生徒募集をしたいという要望から、長崎東高と長崎西高の総合選抜制を一旦廃止。
- 1961年(昭和36年)
- 3月 - 長崎県立長崎南高等学校設立にあたり、総合選抜制度が復活。(長崎三校)
- 4月1日 - 長崎県立長崎南高等学校が開校。
- 1964年(昭和39年)4月1日 - 長崎県立長崎北高等学校が開校。(長崎四校)
- 1972年(昭和47年)
- 3月 - 佐世保市立西高等学校の県立移管に伴い、各校の学力の均衡を保つことを目的として、佐世保三校での総合選抜試験が開始。
- 4月1日 - 移管により、佐世保市立西高等学校が長崎県立佐世保西高等学校と改称。
- 1979年(昭和54年)4月1日 - 長崎県立長崎北陽台高等学校が開校。(長崎五校)
- 1986年(昭和61年)
- 3月 - 長崎県立西陵高等学校の新設に伴い、諫早高校と西陵高校の諫早二校総合選抜が開始。
- 4月 - 長崎県立西陵高等学校が開校。
- 平成
大分県
- 大分市、別府市、中津市で合同選抜、総合選抜が実施されていたが1995年(平成7年)までにすべて廃止された。
- 大分県における合同選抜、総合選抜の違い
- 合同選抜制度 - 受験生が希望校を指定し、その希望を一定程度考慮しつつ合格者を各校に振り分ける制度。
- 総合選抜制度 - 受験生による希望校の指定なしで合格者を各校に振り分ける制度。
- 大分県における合同選抜、総合選抜の違い
宮崎県
- 以下の3つの通学区域において、「宮崎市、都城市、延岡市における高等学校入学者選抜に関する特別措置」(通称・合同選抜)が行われていた。「合同選抜」とは呼ばれるものの、実質は小学区制に近いものである。居住地により通学する高校が決められており、その境界に位置する中学校の校区は調整区域とされ、定員に応じて2校あるいは3校に振り分けられた。(普通科系専門学科・コースは合同選抜に含まれず全県学区である。)
- しかし、出願・受験・合格とも各校単独で行うため、例えば大規模なニュータウンの開発などといった各高校の後背地における状況変化によって、高校間で難易度差や学力差が発生し、必ずしも均等とはならなかった。2000年(平成12年)には普通科系専門学科・コースと普通科の併願が可能となり、また、推薦枠を各校が10%~50%の範囲で設定可能となるなど規制が次第に緩和され、3通学区域とも2003年(平成15年)に合同選抜は廃止された。さらに2008年(平成20年)からは通学区域は全県となり、事実上学区制は廃止された。各校は優秀層を少しでも多く取り込むため、普通科系専門学科や1年次からの選抜クラスの設置などを行っている。
- 下記の市町村名は合同選抜廃止の2003年(平成15年)当時