岡山五校

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岡山五校(おかやまごこう)は、岡山市内のかつて総合選抜制度をとっていた岡山県立の全日制普通科の以下5高校を示す。

ただし旧西大寺市の岡山県立西大寺高等学校、および全県学区の岡山県立岡山城東高等学校は含めない。

岡山五校の総合選抜制度

岡山県1998年(平成10年)の入学者選抜まで、岡山学区の岡山五校、倉敷学区の倉敷四校青陵天城古城池)で、それぞれ学力均等方式による総合選抜制度を取った。高度経済成長期の急激な生徒増に伴って度重なる普通科高校の新設を余儀なくされる中、歴史や知名度の違いで生じる新旧高校間の学力格差拡大を避けるねらいがあった。

このうち岡山五校では、出願時における5高校受検者の受検校は一括して「岡山」とし、志望高校にかかわらず、出身中学もよりの高校で学力検査を実施した。県教委は、合格発表数日前に各出身中学校において受検者一人ひとりの「所属指定校」を発表。所属を指定した各高校で受検者の合格発表を行った。

振り分けは、入学願書に記入された受検者の入学希望校を考慮しつつ、学力検査の成績を基準に受検者を階層化し、各校入学者の学力、男女比が平準化するように行った。通学環境や中学校ごとの平均的な生徒の入学希望校傾向から、振り分け先の高校やその比率は出身中学校ごとにほぼ決まっていた。

高校入試制度の見直しにともなう1999年(平成11年)の総合選抜制度廃止については、低下傾向にあった生徒の学力引き上げや、公立校間の特色ある競争を促すものと期待された一方、多くが県の政財・教育界の中枢を占める岡山朝日(旧第一岡山中学校・第二岡山高等女学校)、岡山操山(旧第二岡山中学校・第一岡山高等女学校)両校の卒業生らによって、知名度の高い母校の「再名門化」を図るねらいがあるのではないか、という批判もあった。

五校戦

岡山五校は1998年(平成10年)まで、毎年5月に、県総合グラウンドを会場として、各校運動部員が出場する「五校戦」(岡山市内普通科五校対抗競技大会)を開催していた。岡山朝日、岡山操山の両校生徒が、早慶戦にならって1954年(昭和29年)に始めた「朝操戦」(岡山操山側は操朝戦と呼んだ)が起源。岡山大安寺の開校(1963年)を受けて「三校戦」(朝操大戦)となった。以後、岡山芳泉(1974年開校)を加えて四校戦に、岡山一宮(1980年開校)を加えて五校戦に改称した。

各校とも毎年4月、新1年生の各学級から男女数人ずつを五校戦応援要員に選び、約1カ月にわたって応援団または生徒会執行部員の指導を受けて猛練習を行い、本番の応援に臨むという慣習があった。当日は5高校の全生徒が県総合グラウンドに集まり、現地で学級担任が出欠を取った。

岡山一宮の開設まもない1982年(昭和57年)ごろ、各校の生徒会執行部、文化系の部長など生徒有志が合同で、文化部版の五校戦を始めたいと学校側に働きかけたが、実現しなかった。五校戦自体も当番校の体育科教員ら学校側の負担が大きく、総合選抜制度廃止と同時に消滅した。

関連項目