B&B (お笑いコンビ)

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テンプレート:Infobox お笑いコンビ B&B(ビー アンド ビー)は、日本漫才コンビ。広島県広島市出身の島田洋七(しまだ ようしち、1950年2月10日 - )が、相方を3度変えたコンビ名である。特に岡山県笠岡市出身の島田洋八(しまだ ようはち、1950年2月13日 - )と組んだ三代目B&Bについて詳述している。このコンビの東京進出が漫才ブームを誘発・点火させた[注釈 1][1][2][3]

コンビ名「B&B」は洋七が、昔アルバイトしていた大阪宗右衛門町ディスコの店名を勝手に拝借したもので意味はない[4][5][6]

経歴

初代B&B

1971年島田洋之介・今喜多代に弟子入りした島田洋七[2]1972年、桂三枝(後の六代目桂文枝)に紹介された団順一萩原芳樹)と初代B&Bを結成[4][7]、洋七は島田洋一名で漫才師としてデビューした(以下洋七)。コンビ名は島田洋之介から「洋一・順一」と付けられたが、洋七はいかにも漫才師らしい名前がしっくりこず[5]、"今"という最新のネタをテーマに喋る仕事だからこそ、ネーミングも今風にしたいと洋七がバイトしていたディスコの店名を拝借して「B&B」と命名した[4][5][6]。今でこそコンビ名をつけるのは当たり前だが、コメディNo.1がその先駆けで、当時はまだ珍しく[5]、師匠からはこっぴどく怒られて、「何の意味があるんや!」と怒鳴られ、苦し紛れに「ボーイ&ボーイの略です」と答えたものが、現在もコンビ名の由来として一部の文献に見られる[4]。初舞台となった名古屋大須演芸場のお客は5人だった。当初は団がリーダーで、洋七はツッコミ担当。弟子上がりで素人然の洋七に対し、学生時代から横山やすしや桂三枝の薫陶を受け、テレビやラジオのお笑い番組で前説を担当していた団が洋一に教え込む形でリードしていた[5]。後に漫才をそれまでの"8ビート"から"16ビート"に上げたといわれる、洋七のマシンガン漫才のルーツは、団に面白いから見に行こうと誘われて見た松竹芸能ケンケン・てるてるであった[1]詳細は後述)。

初舞台から11ヶ月で最優秀話術賞を受賞[8]。しかしこの初代B&Bは相方の団の失踪で消滅した[9][10]

二代目B&B

1973年5月、洋七は上方よしお(当時の芸名は上方真一、以下よしお)と二代目B&Bを結成[2][11]。このときよしおは松竹芸能から吉本に移籍した[12]。なお、よしおは「B&Bの片割れが新しい相方を探している」と聞き、以前から目を付けていた団と組めると思って申し込んだら、相方を募集していたのは洋七の方だったという。洋七と西川のりおとは犬猿の仲で知られるが、不仲となったのは「ヤング!おー!おー!」のコーナーにおける経緯から)、よしおはのりおの勧めでコンビを結成したという[12]。天性とも言えるスピード感溢れるしゃべりとセンスは、関係者の間で高い評価を受け、数々の賞を受賞[12][13][14]1974年の「NHK上方漫才コンテスト」に出場してB&Bを客席で観たというザ・ぼんち・里見まさとは、「『もうええよ!』と言うくらいの大爆笑に次ぐ大爆笑で圧倒された。『負けた..』と正直にそう感じた」と述べている[15]。またこの頃、当時18歳の島田紳助がTVで洋七を見て衝撃を受け「島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう」と考え、同門入りした話は今や伝説となっている[16][17][18][19][20][21]。紳助は「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と語るが、実際は二年間、金魚のふんのように洋七について回っていた[22]。紳助が見たときの洋七の相方はよしおである。この二代目B&Bは結構売れて[4]1975年フジテレビバラエティ番組オールスター90分』に、学業専念で一時活動を休止したあのねのねに代わってレギュラーに抜擢された[7]吉本興業所属のタレントが、ゴールデンタイムでレギュラーを持つのはこれが最初ともいわれる[7]。洋七はこれを機に東京進出を目指してよしおを誘うが、よしおが「怖い」と尻込み[5][7]。また洋七がよしおに楽器を持てと強要し大ゲンカとなって二代目B&Bは解散した[12][23]

三代目B&B

洋七は漫才は諦めようかと悩んだが、花月劇場の幕引き、進行役をしていた島田洋八を、また桂三枝が「あの人はどないや。」と薦めるので洋八を口説き1975年9月、三代目B&Bを結成[10][7][2][24]。「七転び八起き」または「七転八倒」から、それぞれ洋七・洋八に改名。この命名は師匠の島田洋之介[7]。島田紳助は「洋七の相方が洋八になって戦力は落ちた」と述べている[20]。結成二年目の1977年には第6回上方お笑い大賞銀賞を受賞。翌1978年には第13回上方漫才大賞奨励賞を受賞するなど実力が認められた。こと劇場内で笑いをとることにかけてはB&Bは、一、二を争っていた[25]。しかし当時は関西でも演芸番組が激減していた時代[26]、B&Bが売れっ子になるという訳ではなかった[14]新野新は、B&Bを当時から高く評価し、「久方ぶりの上方漫才の収穫といわれながら、仕事がないという彼ら。B&Bくらい面白くなった漫才なら、どんどんテレビへ出て、もうとっくに茶の間のおなじみになっていいはずだが、時期が悪いといおうか、B&Bがテレビに出演することは、めったにない。それにしても、売り出す、ということはむずかしいことだと改めて思う」などと著書で述べている[14][27]1979年、「ヤングおー!おー!」(MBS制作)のチンチラチンコーナーにレギュラー抜擢されなかった事が原因で大阪の活動に限界を感じる(詳細は後述)。この事が最終的に決断した理由だが、頑なに東京行きを決行した理由を洋七は幾つか異なる説明をしている。一つは当時の吉本興業には、やすしきよしWヤング中田カウス・ボタンといったそうそうたる売れっ子がズラリといて、どんなに賞を獲ったとしても、自分たちは野球でいえば二軍、いつかはおハチが回ってくるかもしれないが、ボクは待ちきれなかった[24]。また当時の大阪の若手実力漫才コンビの中では、ほぼ唯一の"非関西圏"の出身でもあり、大阪にいるあいだは"ヨソもん意識"があって大阪に執着は無く、東京なら"ヨソもん"の集まりだからいいだろうと考えたこと[28][29]。「僕ら広島と岡山の出身やから、大阪で働くのも東京へ行くのも、根本的には違いない」[30]、「一部から認められているのだが、いっこうに売れない。生活だって楽ではない。そんな焦りから気分を変えるために東京に出た」[30]。他に星セント・ルイスが大阪の東西対抗というテレビ番組にやってきて、西の代表として迎え撃ったが、笑いでは自分たちが勝っていた。セント・ルイスの人気をみて、東京に行った方が売れるんじゃないかと思ったこと[1][31][32]。また、大阪では結構売れっ子となっていたのに、郷里の広島や、祖母のいる佐賀では殆ど知られておらず、「いくら売れても大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がない」と悟ったこと[10][33]。他にも、この頃から付き合いのあったビートたけしから「東京に来いよ」と言われていた[31]Wヤングの平川幸男に「お前らなら売れる。東京に行け」と勧められたという話もある[34]。友人でもあり、ライバルでもあったザ・ぼんち・里見まさとは、「洋七は以前から、このままではいかん。東京に出たい、出たいと言っていた」と話している[35]。これらの理由から東京で活躍したいという野望が沸く[36]。当時の吉本は東京に事務所がなかった[注釈 2][37]。 1979年8月26日、NHK教育テレビ若い広場」出演、「B&Bラストin大阪(うめだ花月)」。同年9月、東京行きを決行した。吉本興業の幹部・芸人仲間からの反対を押し切って、強行で反旗を翻したため、吉本興業側から一方的にマネジメント契約の解除を言い渡される[38][39][40]

漫才ブーム

東京の漫才協団に加入し戸崎事務所に移籍[41]。東京の業界はB&Bを概ね好意的に受け入れた[42]。このため吉本は円満退社だったという説がある[注釈 3][13]。東京の漫才協団にすんなり加入できたのはこのため[43]浅草松竹演芸場など東京の寄席にノーギャラで出演。B&Bの名前は東京の関係者には轟いており、観客がまばらなのに偵察に来た東京の若手芸人達が立ち見に並んだ[42][44]。自身もこれを見たというラサール石井は「何より凄かったのは洋七さんのテンポ、速射砲のような喋りとパワーあふれるツッコミ」「しかも画期的なことは、出番でない他の芸人達がB&Bが出ると楽屋から出てきて客席の後ろの方で大笑いしていた」と話している[45]。同業者にはウケないのが普通なのである。まったく売れていなかったツービートビートたけしもまた、洋七の“言葉の連射攻撃”“客を完全に飲み込んで唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受け、スピードを早め、たけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した、と著書『浅草キッド』に記している[46]。ツービートの看板ネタ「山形いじめ」は、B&Bの「広島vs岡山ネタ」を真似たもので[46]借用元のB&Bの上京以降「山形いじめ」ネタを封印せざるを得なくなり、それがツービートの過激度を一段と高めることになった[47]。こうして東京でも瞬く間に高い評価を得て、漫才協団幹部の内海桂子が「よくもこんな(凄い)人を吉本がくれたわね」と驚嘆した[48]

1980年1月、澤田隆治プロデュースによる「花王名人劇場」(関西テレビ)「激突!漫才新幹線」に大抜擢され出演[42][49][50]。この番組はゴールデンタイムの1時間枠をMC無しで、B&Bとやすしきよし星セント・ルイスの三組が、おのおの10数分間の持ち時間で漫才のみをする、という当時としても画期的で、勿論現在のゴールデンでも見られない形態のものだった[51][52][53][54]。当時のテレビでの漫才は、お昼の演芸番組(『大正テレビ寄席』など)や、正月の寄席中継、タレントのかくし芸等で5分とか3分にコマ切れして見せるもので[55]、この頃はコントが非常に人気があり、特に東京では漫才はコントや落語に比べて影が薄い、古臭いイメージだったのである[56]。関西でも同様で、極端にいえば、漫才は年寄りの娯楽に過ぎないイメージで[57]、当時は演芸番組自体が激減していて、大阪でも漫才だけという番組はなく、テレビ局全体で週1~2本が細々と残っているだけという状況でゴールデンではほとんど漫才は無かった[58][59][60]。ましてや若手漫才師が全国ネットのゴールデンに出演することなど無かった[61]吉本興業木村政雄は「若者はゴールデンタイムに漫才なんて見たことがなかったと思う」と述べている[52]。また漫才と言えば、スーツや派手なタキシード蝶ネクタイ等を着用し、年期の入った掛け合いを見せる、というものだったが[62][63]、TシャツにGパン、長髪の今風の若者が、掛け合いを無視したボケの一方的なしゃべりで、広島や岡山など地方をネタにした郷土ギャグを、体を使ったオーバーアクション、一発芸を駆使してみせるという高速漫才は、従来の漫才とは違うとても新鮮なもので[注釈 4]、やすきよにも一歩も引かない姿は大きな反響を巻き起こした[2][42][53][64]。"16ビート"の"マシンガン漫才"が初めて全国のお茶の間に届けられた[1]。こういったスタイルは多くがその元祖、草分けといえるものであり、現在もお笑いの基本となっている。元々、この企画はタイトル通り、東京代表の星セント・ルイスと、大阪代表のやすしきよしの激突で、広島vs岡山ネタをやっていた新人のB&Bは"つけ合わせ"としての出演だった[65]。この千載一遇のチャンスをB&Bはモノにしたわけである。長らく司会に専念していたやすしきよしが、長い漫才をやるという話題性もあって「激突!漫才新幹線」は高視聴率を稼ぎ、これが各局とも漫才番組を製作する切っ掛けとなった[66]。洋七は「『激突!漫才新幹線』の時は、僕らが一番売れておらず、伸び伸びとできた。お客さんも新鮮に感じたんやろね、ドッカン、ドッカン受けた。終了後、舞台のそでで横山やすし師匠に『お前ら、売れるで』って言われて、ものすごくうれしかったね。ブームが起きるなんて、全然思わなかった。全国ネットで夜9時やから、名前ぐらいは知ってもらえるやろうと。放送翌日にCMの話が来て、びっくりしたわ」などと話している[52]。また漫才番組はドラマと違って、企画を立てて1週間後に放送できるというお手軽さもあった[67]。同年4月から始まった「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)でも、先兵役を務めて、ケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク[68]漫才ブームを引き起こす[注釈 5][69][70][71][72]。お笑い芸人で初めて化粧品洗剤業界のCM(花王シャンプー)に起用され[注釈 6][32][51]、お笑い芸人で初めて客席からテープが飛んだ。サイン色紙を手にした女子中・高校生が演芸場のロビーに列をつくり出待ちした[58][73][74]。最初に女性ファンを呼び込み、お笑い芸人をアイドル化させた功績は計り知れない[17][75]。漫才師で初めて全国ネットのレギュラー『笑ってる場合ですよ!』の総合MCを務めたのも、B&Bが一番人気があったからである[69][76]。『サンデー毎日』1981年1月4日・11日合併号の「ニュー漫才 東西の人気コンビ名鑑」という記事のB&Bの紹介に「大阪にいるころはパッとしなかったが東京に出てくるやたちまち大当たり、一躍人気ナンバーワンとなる。"これが青春だ" "広島名物もみじまんじゅう"など数々のギャグアドリブ早口言葉で文字通り体当たり演技」と書かれている[77]。ビートたけしは著書『たけし吼える!』で「漫才ブームのころさ、オレ自分で考えてみたわけ。B&B、紳助・竜介とかいただろ。どう考えても四番手くらいだったのよ。ツービートって」と述べている[78]。B&Bは漫才ブームの最大のスターであった[79][80]。洋七は「あの時期、爆発的に売れてるアイドルがいなかったんです。それで、騒ぐ対象がないから漫才師に向けられたと思う」と解説している[81]たのきんトリオがブレイクする直前のエアポケット状態の時期であったかもしれない。

絶頂期

同年4月、フジテレビプロデューサー横沢彪が穴埋め企画として、失敗覚悟でゴールデンタイム1時間半という画期的なお笑い番組を敢行。「THE MANZAI」と題したこの番組は、B&Bをはじめとした若手芸人を中心に起用、笑い屋のおばさんを廃止し、客席には落研やプロレス研究会などの大学生だけを入れる、ディスコ調の派手なセット、ナレーションにアメリカナイズされた小林克也の起用、服装は自由、ネタを編集する、CMネタを認めるという、当時としてはタブーだった事をすべて許容した斬新なものだった[82]。これらの大半を提案したのは、何と洋七という[83][84] 。洋七は横澤に「洋七、何かいいアイデアないか」と番組の企画の相談をされて、「客席に仕込みのおばちゃんじゃなくて、若い人を入れて漫才やりましょ。欽ちゃんハガキ読む番組で前に若い人を置いてますよ。"漫才"も若い感覚でB&Bみたいに横文字にしたらどないですか」と提案した。横澤は「なるほど」と言って「THE MANZAI」という横文字の番組名となったと話している[51]。若手芸人といってもそれなりのキャリアを持った彼らは、大いにその実力を発揮し漫才は爆発的な人気を得て社会現象ともなる[85]。7月には「お笑いスター誕生!!」での10週連続勝ち抜き初代グランドチャンピオンとなった[86]。これらの活躍により1980年代初頭の漫才ブームの火付け役となりツービートザ・ぼんちのりお・よしお紳助・竜介らが後に続く[32][87]。当時既に星セント・ルイスが人気を得ていたが、この頃の漫才師の中ではB&Bが、アイドル的人気を得てブロマイドが売れるという現象まで引き起こし一気に追い抜いた。B&Bの人気爆発によって、当時若手といわれた紳助・竜介オール阪神・巨人のりお・よしおらが続いた[19][50]。B&Bは若い女性に大人気となり[88]ブロマイドの売り上げがアイドルと混じって男性部門第3位となる。漫才コンビの売れ行きが順位の上位をしめたのは、マルベル堂の歴史で初めてのことだった[89]。最初はビートたけしがB&Bのボディーガードをやっていた[19]。この人気でピーク時で、週に実に19本[86]、26本[52]、月84本[1](月~金の帯番組を5本と計算すると)、或いは月100本以上もの番組に出演する殺人的スケジュールとなる[58]。月84本をやっていた時は、70本ぐらいで芸能界は俺一人でやってる気持ちになったという[1]。2012年10月11日に出演した「イマなま3チャンネル」(中国放送)では「当時レギュラーが週19本。これはまだ抜かれてない記録ではないか。みのもんたが16本だった」と話した。同年10月、「笑ってる場合ですよ!」(フジテレビ)の総合MCに抜擢される。関西芸人が全国ネットのお昼の番組の司会というのも画期的だった[90]、当時は漫才が司会をやって当たったためしがない、といわれていたのである[91]。この年、時間が取れない中、深夜0時、2時、3時、と3回のクリスマスディナーショーをこなす。「所属事務所は社長が一人、タレントはB&Bだけで社長がマネージャーを兼務した[40]。そのためギャラは3人で分けて毎月数千万を紙袋や段ボール箱に入れて持って帰った[16][92]。漫才ブーム当時は漫才師で最も人気が有り、2007年4月21日放送の『メレンゲの気持ち』(日本テレビ)で洋七は「月給が最高の月は8000万円、4年間で32億円稼いだ」と自称している。1980年代、日本は景気がよく、昔の方が今よりギャラが高かったのではないかと話している[93]

解散、個々での活動

しかし、この人気が原因で漫才のネタを考える時間が無くなり(移動時が唯一睡眠出来る時間だったと言われている)、同じネタを繰り返し使うようになって、徐々に観衆から飽きられるようになってしまう。事務所が小さく、来る仕事は全部受けて、自身もすり減った>[94]1981年5月から始まった「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)では、B&Bは裏番組の『爆笑ヒット大進撃!!』(日本テレビ)でレギュラーを持っていて『ひょうきん族』への参加は半年遅れ、その頃にはもうたけしと明石家さんまがメインになっておりB&Bは完全に脇にまわった[19][95]。また、1982年の「笑ってる場合ですよ!」終了と同時に人気が急降下、1983年秋にB&Bを解散[96]。洋七は精神的な理由で6年間の休養生活に入り、表舞台から姿を消した[94][96]

個々での活動は島田洋七島田洋八を参照

洋七は漫才スタイルのヒントにした「ケンケン・てるてる」の「ケンケン」こと国分健二(元・浮世亭ケンジ)と新たに「スティング」を結成、抜群の面白さを見せたが、所属事務所の力も弱かったためか、テレビではそれほど出演することが出来なかった。テレビ朝日トゥナイト」のレギュラーになるも、すぐに吉本興業の新人タレントにその座を奪われた。のちにB&Bと改名するが、解散。間寛平とも漫才コンビを組むがうまくいかず、1991年1991真夏大阪漫才格闘技バトルロイヤルで8年ぶりにB&Bを再結成させた。しかしまたも解散。親友のビートたけしの番組「北野ファンクラブ」で番組内限定の漫才コンビ“B&BEAT”でたけしとともに漫才のカンを維持、その後1996年に洋八と再々結成して吉本興業に復帰。復帰当時は駆け出しからの出直しを誓い、トップバッターを受け持ち、「もみじ饅頭」等のギャグを封印。正統派漫才で見せると公約した。吉本所属時にはなんばグランド花月他で月替わりのレギュラー出演、スピード感溢れる掛け合いは色あせていなかった。一時期封印していたかつてのギャグは後に解禁している。

洋七は1999年から、佐賀県佐賀市東与賀町に居を構えて[97]、講演会中心の活動してきたが、佐賀での極貧の少年時代を著した「佐賀のがばいばあちゃん」がベストセラーとなって漫画化・映画化もされた。その「佐賀のがばいばあちゃん」関連の収益について吉本と対立して2007年、吉本興業を再度離籍した(2007年4月10日)[17][38][98]。吉本所属時の2002年から5年間『M-1グランプリ』の審査員を担当。吉本退社後はマスメディアへの露出が減ったが[99][100]、洋八とのB&Bは2013年現在も活動している[101]

評価

島田紳助は「漫才ブームで新しいことをやったのは、B&Bとツービート紳助・竜介だけ。ほかは前からあったもの[102]」「漫才ブームは、B&Bとツービートと紳助・竜介が作ったんです。時代を作った3組、ルーツは一緒なんです。漫才ブームが興ったときに、今までの漫才と違う形の漫才が始まるんです。それまでの漫才はネタフリがあって、一個のネタでちゃんと起こしていくんです。この3組に共通してるのは、全く違うシステムなんです。それまでの漫才の形と全く違うシステム、ツッコミボケという新しい分野であり、1人が完璧にネタの九割喋るんです。で、誰がこれを編み出したかというと、最初は松竹芸能ケンケン・てるてるという方が、それをちょっとやったんです。それを見た島田洋七がパクったんです。これが自分に合うと思ったんです。その洋七さんを見てたけしさんも"これや!"ってパクったんです。そして高校三年生の僕が洋七さんを見て『今までの漫才なんか全然おもろない。これからはこれや!』ってこの世界に入ったんです。僕もツービートも全然売れてない時、東京の漫才コンクールでたけしさんに会ったんですが、たけしさんの言葉未だに忘れられません。『B&Bに似てるね』って。そんとき『はい』って言いながら心の中で、おまえらもやないかい、と叫びました」と話している[103]。 ビートたけしは「漫才だけは洋七に勝てなかった」「漫才ブームは洋七が作った」などと話している[104][105]

1993年7月2日にテレビ朝日系で放送された、漫才ブームを振りかえる『驚きももの木20世紀』「漫才ブームの真実」という番組では、洋七とぼんちおさむの眼を通しての漫才ブーム、という構成が取られていたが、この中で洋七は「漫才ブームは去ったけど、その中にビートたけしや島田紳助みたいな、とてつもない天才がいた、発見できたことが嬉しい。それは誇りですよ。漫才ブームが無ければ二人は無かったわけだから」と話した。

浅草キッドは、「漫才師」という一見愚にもつかない職業を、あの80年代初頭の空前の“漫才ブーム”の到来とともに、キラ星の如くスターが輝く芸能界のなかで眩しいほどの光明を誇る一等星に押し上げたのは、紛れもなくビートたけしと島田洋七であると話し、「俺たちがこの世界に飛び込んだのも二人に魅入られて決めたようなもの」と述べている[106]

「お笑い」関係の多くの著書があり、漫才ブームにも係わった井上宏は、「B&Bが東京で大活躍しなければ、漫才ブームも起きなかったかもしれない」と述べている[107]。また「笑点」のチーフ作家・遠藤佳三も「B&Bの東京進出がなかったら、若手漫才ブームは、もっと小さなもので終わっていただろうと思う。B&Bは東京人に上方漫才の面白さを改めて吹き込み、関西弁に違和感をおぼえる人々にも、こと漫才だけは抵抗なく受け入れてもらえる素地を作ったのである。その素地がなければ、大阪のニューウェーブ漫才は、そう簡単に東京に進出できなかったはずだ」と論じている[108]。関西弁(近畿方言)の全国普及は漫才ブーム以降の関西お笑いタレントの東京進出の活発化によってより広まったものだが[109]、その嚆矢は非関西人のB&Bである。B&Bの漫才は、老若男女誰にもわかりやすく親しみやすかった。また非常に陽気で愛敬があり言葉の毒を中和して、若い視聴者を関西弁の笑いに馴染ませ素地作りに貢献したのである[110]。B&Bは、大阪の笑いをテレビを通じて全国区にし、後進への道筋をつけたといえる[111]。洋七自身、「漫才ブームの遺産と言えば、関西弁が全国に認知されたことでしょう」と話している[112]

芸風

それまでの息と間を大切にするしゃべくり漫才ではなく、コンビの2人が掛け合いをしないで、ボケが一方的にしゃべり、そのスピードとリズムで笑いを増幅させ、爆笑の渦を巻き起こすB&Bの漫才は、新しいスタイルだった[1][5][113]。それまでの"8ビート"から"16ビート"に上げたといわれるB&Bの"マシンガン漫才"は、同時代の漫才師に大きな影響を与えた[1][5]。漫才ブームの特徴であるテンポの速い漫才はB&Bが与えた影響といわれる[1][5]澤田隆治はB&Bについて「うまいも何もないですよ。とにかくギャー!と攻めて行くという、だからボクシングでいえば、カー!と打ち合ってる感じ。そういうのは無かったですよ。だから、これは漫才を変えれたなと思う」と述べている[1]。澤田は「B&Bの人気爆発によって、自身が温めてきた若手、紳助・竜介オール阪神・巨人のりお・よしおゆーとぴあなどを登場させた」と述べている[50]

紳助は、「洋七はケンケン・てるてるをパクった」と話したが、洋七自身は著書で「逆説的に聞こえるかもしれないが、人から『似てまんな』と言われない為に、そして自分たちの芸で客を笑わす為に、芸人諸兄、諸先輩方の芸を徹底的に見て、徹底的に盗んだ。それらの良さを貪欲にパクり、自分たちの中で消化吸収して、B&Bと言う新しい果実を実らせたと言っても過言でない。4コマ漫画のように漫才が絵としてイメージ出来る。テンポが速く、喋りは明快でキレがある。視線を吸い寄せる派手なアクションがあり、オチもドッカーンと決まる。だから、B&Bは当たった」と解説している[114]2013年3月24日に放送された『漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ』(朝日放送)で、"マシンガン漫才"のルーツは何かとの質問に対して洋七は「B&Bの最初の相方が松竹芸能に面白い漫才師がいるから見に行こう、勉強になるからと誘われて見たのが、ケンケン・てるてるで、こういう漫才もあるんだと驚いた。ネタフリが少なくて(テンポ)が速い。じゃあ俺らもこんなパターンをやろうと。要するにいとし・こいしさんみたいな漫才をやると年数かかる、上手すぎて。年数もかかるし出来んかも分からん。オチさえしっかりいとけばネタフリは簡単なのでいいやと。それはヒントですよね」と答えた。またスタイルの構築に関しては「俺だけがずーと頭にネタ入れて、洋八は何でやねんって言えみたいな。ウチは作りは無茶苦茶。だからテンポ上げるんですよ。お客さん気づかへんやろみたいな。だってやすきよさんとか、仁鶴師匠とかいとし・こいしさんとか上手いじゃないですか。あんな芸ないですもん。だから取りあえず速く喋っとけみたいな。叩くは押すは、誤魔化しみたいな漫才やった」と話している[1]

喋りのスピードを上げたのは、横山やすしに「お前の声は聞きやすい。速く喋っても耳に届く。テンポを上げた方がお客は笑うで」とアドバイスを受けたのが切っ掛け、「横山やすしさんから直接教わったのは自分くらいでないか」と『メントレG』出演時に話した[115]。稽古で洋八があまりにもヘタでイライラしていると、横で聞いていたやすしが「洋七、怒るな。あいつがしゃべれんのやったら、お前がネタ振って自分でボケろ。両方やれ」と的確なアドバイスを頂いて、それで新しいスタイルが生まれた、B&Bのスタイルを確立してくれたのはやすし師匠だと思うと話している[116]。それに頭の回転が速かった佐賀のばあちゃんからの影響もあったと思うという[117]上岡龍太郎は「B&Bの相方をいじめるパターンのネタの元祖は、姿三平・浅草四郎」と述べている[118]。吉本興業前社長・吉野伊佐男は「衣装革命を起こしたのは中田カウス・ボタンで、その衣装革命を受けて出たのがB&B」と述べている[119]ザ・ぼんち・里見まさとは、「B&Bのネタはテンポが速く、いくつものネタを洋七のその場の判断?思いつき?で次から次へと進めていく。どのネタ部分で終わるのかわからない」「ザ・ぼんちは、比較的オーソドックスな漫才だったので、花月などで続けて出演した場合、出番がB&Bの直後になろうものならあのスピードに吹き飛ばされた。B&Bのネタはスゴかった。そしていま42年間を振り返ってみても、ぼくは絶えずB&Bを追いかけていたように思う。当時も意識して、なりふりかまわず、スピードがあって動きのあるネタをつくらなあかんと、ぼくは考えた。B&Bに吹き飛ばされないネタをつくるんだと、そのことだけを考えた漫才をやった」などと話している[15]

前述の『漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ』(朝日放送)は、漫才を一夜に変えた人物、革命を起こした人物=「笑いのジョブズ(スティーブ・ジョブズ)」の正体に迫る歴史ミステリーという内容であったが、漫才ブームが興ったあの夜、1980年4月1日THE MANZAI」の舞台に現れた7組の漫才師、ツービート、B&B、ザ・ぼんち横山やすし・西川きよし島田紳助・松本竜介星セント・ルイス中田カウス・ボタンに加えて、やすきよが漫才を再開する切っ掛けを与えたWヤング、そして洋七に漫才スタイルにヒントを与えた国分健二を1980年代の漫才ブームに於ける「笑いのジョブズ」に認定した[1]

ネタは全て洋七の自作[120]。ほとんど洋七が喋るためネタ合わせもしない[121]。ネタ合わせをしたのは後述する消防士ネタ"だけという。こうしたB&Bら若手の漫才を古川嘉一郎は当時、「自作自演、台本なし。仲間うちのシャレをそのまま出してきた。わたしら、感性の漫才てなこというとるんですが」と嘆いた[122]。漫才ブーム以降の漫才師はネタは自作が多く、澤田隆治は「作家はいらん」と言ったという。漫才ブーム以降は芸は不要、キャラクターが売れる時代になったという見方がある[123]

洋七の話はウソやホラが多いといわれるが、一方的な洋七のしゃべりは、時にはブレーキが利かなくなり、現実とシャレの境目がわからなくなる[124]。自分の経歴ですらその場の空気によっては、マジとシャレを入り混ぜて話してしまい、それが独り歩きしてしまっていると考えられる[124]。ノリとスピードに虚と実が交錯する、いい加減さとノリのよさこそが、B&Bの最大の面白さだったといえる[2][124]

ギャグ

  • B&Bのギャグの代表格と言えば「漫才ブーム」を代表するギャグでもある「モミジまんじゅうー!」である[125]
    • 一発ギャグ「モミジまんじゅうー!」の誕生の経緯であるが、これはネタではなくアドリブで偶然生まれたものだという。お互いの出身地、広島と岡山を自慢し合い、けなし合うという、元祖、"ご当地漫才"[126]ともいわれる有名な「広島VS岡山漫才」[127]の中で使われるギャグだが、これも最初から台本はなく、岡山と広島の褒め合い、けなし合いをしようとだけ決めて舞台に出たのが始まり。洋八から岡山はマスカットが有名だと言われ、その時広島には有名な食べ物は何があるだろうと考えて、何も思いつかず。ふと、全国的にはあまり知られていないが、そういえば「もみじ饅頭」があったなと思い出して、その饅頭の形を思い出しながら、「モミジまんじゅうー!」と言った。意味も何もなかったが、すると会場がどっとうけた。「これだ!」と思い、以降、一発ギャグとして使うようになったという。看板ネタでもある「広島VS岡山漫才」は、数年間受けなかったが、これをやり通し、回りから「もうそのネタやめたら」との声も出たが、「売れた上でもマンネリならやめるが、今はこれで勝負したいんです」と譲らず、しつこく続けたものであった[13]
    • もみじ饅頭も(広島のお好み焼きも)1970年代当時は全国的にはほとんど知られていなかった。もみじ饅頭も、このギャグが流行るまでは、広島県民にとってもあまり馴染みのあるものでは無く「宮島に行きゃぁ売っとるよ」という程度の存在だったが[注釈 7]、このギャグのブームでメーカーが15社から一気に200社にまで増えた[71][128][129]。その中でも最大手のにしき堂は売上が5割増えたとも[130][131]10倍に跳ね上がったともいわれ、最盛期には修学旅行のコースにもなって生産が追いつかず、深夜にまで工場を稼動させていた[71]。大きな工場を新築できたのはB&Bのおかげともいわれる[19]。もみじ饅頭はB&Bのギャグによって全国区になり[71]、ブームが終わった後も完全に広島土産として定着し、現在でもメーカーは150社程度ある[71][131]。広島のお土産物屋では今でも1/3のスペースがもみじ饅頭で占められる。
    • 広島県民にとってあまり馴染みが無かった「もみじ饅頭」を、洋七が広島名物のギャグとして使った理由は、洋七が佐賀に預けられていた時代に、たまたま母親がにしき堂の近くの食堂で働いていて、毎月の仕送りと一緒にもみじ饅頭を入れて佐賀に送っていたため[129][132][71]。「もみじ饅頭」は、遠く離れた母親を思い出す味であり、洋七にとって故郷・広島の味として強烈に記憶に刷り込まれた物だった。洋七は今でも「もみじ饅頭」を見ると涙が出るという[71][133]
    • 洋七の功績に感謝したにしき堂の大谷照三会長は、お礼に現金5000万ほどを手渡そうとしたが、洋七は逆に「われわれももみじ饅頭のお陰で売れた」と受け取らなかった[129]。しかし、大谷会長が感謝の気持ちを表すため、広島の飲食店に対して「B&Bの飲食代は当人から受け取らず、にしき堂へ請求書を回せ」と指示している説があり、洋七は今でも広島へ行くと、店がお金を受け取らないため飲食費は無料とのこと[134]
    • 「モミジまんじゅうー!」のギャグが流行った時、広島の県菓に選ばれ宮島で表彰された。二千人位の参列者の前で、一枚板の3メートルもある巨大しゃもじを渡された。「このしゃもじは由緒あるなにがし寺に奉納されたもので…」と言われたため、「いらん」とは言えず、半分にして持って帰るわけにもいかず。結局梱包して宅配便で送ったら5万円かかった。しかし大きすぎて家に入らず、仕方なく物置を70万円かけて作って斜めに入れた。やはり使い道もないので処分することになり、高野山まで運んで奉納して拝んでもらって燃やしたら100万円かかったという[135][136]
    • 1982年10月17日テレビ朝日系で放送された刑事ドラマ西部警察 PART-II』第18話「広島市街パニック!!」は、広島市内を中心としたロケで終盤には広島電鉄路面電車を爆破するなど、大がかりなアクションシーンで、同ドラマの傑作選として今でもよく再放送されて有名であるが、B&Bはこの回のゲストとして出演している。役柄は洋七がにしき堂の従業員で、広電の市内電車をジャックした犯人に狙われるという設定で、実際ににしき堂の本社・工場でロケが行われた。一方、洋八は洋七の友人役で同じく地元企業であるチチヤスヨーグルトの工場で働く従業員という設定であった。(詳細→広島電鉄#その他
    • 2013年7月から始まったデイリースポーツのMEMORIESシリーズ連載スタートにあたり、洋七は担当者から「人生もみじまんじゅう」という意味不明のタイトルを提案されたが、これを拒否し「島田洋七のこんな人生でゴメンね」と変更した[137]
  • 「モミジまんじゅうー!」以外のギャグとしては、洋八のアフロヘアーをジャングルに見立て髪を掴んで頭の中に「小野田さーん!」と叫ぶ、クイズ「リンゴとミカン、どっちがバナナ」、脳天気に明るく笑って「めちゃめちゃ陰気やで~」と踊る、などがある。B&Bは洋七が一人でしゃべって、洋八がタイミングよくツッコむという形態なので「練習・打ち合わせはしない。したのは消防署のネタだけ」(洋七談)と言う。消防署のネタというのは、セリフをアクションを交えて洋七が少しずつ見せて洋八に復唱させる、というもので、最初は短いので出来るが段々長くなり出来なくなるというネタである。正式題名は"消防士の生きざま"という[138]

逸話

  • 1970年代後半、吉本はやすしきよしコメディNo.1Wヤング等、実力者が揃って層が厚く、洋七らの喰い込む余地はなく、吉本に相談したら「ザ・ドリフターズみたいなんをやれ」と言われ1978年、リーダーの洋七が楽屋でザ・ぼんちのりお・よしおに、明石家さんまに声をかけて洋七が『ビールス7』(後にチンチラチン)を作った[31]。「ヤングおー!おー!」(毎日放送)の林プロデューサーに、「番組でウケたらコーナーを持たせてやる」と言われたがコントの練習中、キャラの被る西川のりおと度々殴り合いの大ゲンカを繰り返し、当時まだ20歳そこそこだったさんまが仲裁に走った[31]。二人の機嫌をとるため代わりに殴られ「初めて大人の汚い世界を見た」という。『ビールス7』の前説が好評でレギュラーになるという時になってB&Bが外され、紳助・竜介が代わりに起用され大きな人気を得た[31]。。外された理由をプロデューサーに聞いたら「若い方がええ」と言われたというが、洋七は「ヤングおー!おー!」のレギュラーだった桂きん枝が以前、飲み屋で洋七と間寛平に引き摺り回されたことを恨み「あいつら若いのに生意気」とプロデューサーに口添えしたのが、外された本当の理由と話している。弟弟子にレギュラーの座を奪われた洋七の、吉本への不信は決定的となり、東京行きを決意するに至った[1][31][32][35][139][140]
  • 上記の件から、西川のりおとは犬猿の仲。B&B再結成時の劇場の前座でのりお・よしおが漫才をしたが、「客を温めて」おくのでなく客を「疲れさせ」たのでB&Bが登場してもウケず、洋七が激怒。のりおの泊まっているホテルへ乗り込むも不在で、鍵を開けさせ中に入り衣装を破き、薬を捨てた逸話がある。その後のりおから「請求書」が届いたというオチもある。しかし、現在は不仲ではないようで、松本竜介の葬儀・告別式には共に参列している。
  • 正しくは、B&B再結成時ではなく、間寛平とコンビを結成した時の「花王名人劇場」でのひとコマであり、漫才で「疲れさせ」たのではなく、番組途中の、芸人仲間のトークコーナーでのりおが暴走して「疲れさせ」たのである。また、のりおがホテルに不在だったのは、寛平が「あいつは許さん!」と番組終了後の楽屋で言っていたのを聞いた某芸人がのりおに伝えたため、逃げた結果だった、と、名人劇場放送翌週のオールナイトニッポンでビートたけしが暴露していた。
  • 6年間に二度も相方に逃げられた失意の洋七に洋八を紹介したのは桂三枝(後の六代目桂文枝)とされる。その後洋七自身が「俺と一緒に漫才で勝負しよう」と役者志望の洋八を口説いた。三枝は舞台の袖で進行係をしていた洋八を「あいつ、どうや?」と指さしただけだが、「あいつ男前やんか。これからは漫才も男前が売れるぞ」と言ったという[10]
  • この番組の出演にあたり、プロデューサーからキチッとしたスーツの着用を強要されたが、金が無い事もあり拒否。自らがデザインしたB&Bとロゴの入ったTシャツ着用で舞台に立った。このロゴ入りTシャツやトレーナーがよく売れて、これも数千万の利益が出たといわれる[144]。ロゴのデザインは当時流行っていたABBAのロゴをパクったと言われている[145]。この手法はタカアンドトシが真似ている。
  • お笑いスター誕生!!の10週勝ち抜きチャンピオンの座は実力からして獲得できて当然であるが、洋七自身「あの番組には出来レース的な演出があった」と後に述べている。

受賞歴

レコード

シングル

  1. 恋のTake 3(1980年9月21日) 07SH846
    作詞:高田ひろお 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
    (c/w)ミツコ
    作詞:高田ひろお 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
  2. 潮風の香りの中で(1981年5月1日) 07SH972
    作詞:高木佳代 作曲:下園千晶 編曲:矢野立美
    (c/w)ひとり旅
    作詞:下園千晶 作曲:下園千晶 編曲:矢野立美
  3. 泣き虫ハイウェー(1981年10月) 07SH1056
    作詞:吉村優輝 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
    (c/w)TOKYO CAR BOYビリー・ザ・キッド
    作詞:松本一起 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
  4. 世の中わからない節(1981年11月) 07SH1095
    作詞:島田洋七 作曲:島田洋七
    (c/w)おんど笠岡
    作詞:吉村優輝 作曲:信楽順三
  5. 人生オモロイで(1985年8月、島田洋七、国分健二) AH632
    作詞:鳥井実 作曲:松浦孝之 編曲:池田孝春
    (c/w)同カラオケ

アルバム

  1. 人気もん!ふたり旅 (1981年) 28AH1281

※ 「人生オモロイで」のみコロムビア、他は全てCBSソニーよりリリース

書籍

  • 『B&Bの仁義なき戦い 広島ヤクザと岡山ギャングの巻』 KKベストセラーズ(1980年9月)
  • 『B&Bの愛しかた愛されかた』 KKベストセラーズ(1980年12月)
  • 『B&Bと遊ぶ本 いたずらハイスクール<爆笑編>』 KKベストセラーズ(1982年1月)

ドラマ出演

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

関連項目

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  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ(朝日放送)2013年3月24日漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ - 関東版TVトピック検索 - Goo お笑いナタリー - 漫才界のジョブズを解き明かす歴史ミステリーまもなく放送)、「笑いのジョブズ」をご覧になった方へ: 続・お笑い作家の吐息
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 #80年代3、p2
  3. 島田洋七 - be amie オスカープロモーション所属タレント・モデル公式SNS島田洋七「講演で日本一になったる」2013年02月10日(日) - 今日は何の日? - CDJournal.com澤田隆治『漫才ブームメモリアル』、東阪企画、1982年、p83、『昭和ヒーロー事典』講談社、1989年7月、p582-583、西条昇 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁、井上宏『まんざいー大阪の笑いー』世界思想社、1981年、p19
    中田明成『漫才ブームなのです』 作品社、1981年、18、19頁、ザ・ぼんち・里見まさと『おおきに! 漫才 人生は何歳からでもやり直せる』、ヨシモトブックスワニブックス、2013年、p57、ツカサネット新聞紫峰祭特別講演会 2007年10月7日asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース.元吉本芸人の松稔が運営するSTART LINEのアメブロもくめレポート 第1回 平川さんの話(WヤングとB&B)島田洋七さん。中西正男の「ご笑納ください」
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 #こんな人生で(13)2013年7月23日
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 5.8 #80年代3、p5
  6. 6.0 6.1 『転起力。 人間「島田洋七」から何を学ぶのか』、創英社 2009年 p88
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 #こんな人生で(14)2013年7月24日
  8. 『転起力。』、p87
  9. 続・お笑い作家の吐息2 013年03月04日
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 トクベツキカク - SmaSTATION!!
  11. 漫才を終えおじぎ「気持ちええ」(芸能) ― スポニチ Sponichi Annex
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 2年2カ月だけ「B&B」でした
  13. 13.0 13.1 13.2 「漫才ブームなのです」、中田明成、作品社、1981年、p18、19
  14. 14.0 14.1 14.2 新野新『ぼくが書いてきたタレント全部(下)』青心社、1981年、p157-158
  15. 15.0 15.1 ザ・ぼんち・里見まさと『おおきに! 漫才 人生は何歳からでもやり直せるヨシモトブックスワニブックス、2013年、p42-45
  16. 16.0 16.1 東京スポーツ、2011年6月12日、28面
  17. 17.0 17.1 17.2 洋七の舞台見て「この人倒そう」と…島田紳助(1) 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "zakzak"が異なる内容で複数回定義されています
  18. 【紳助ツッパリ列伝】「打倒!島田洋七」が芸能界“天下取り”の原点
  19. 19.0 19.1 19.2 19.3 19.4 ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月22日
  20. 20.0 20.1 週刊朝日、1982年1月29日号、p114-115
  21. 島田紳助 松本人志著『哲学』幻冬舎、2003年3月、30-34頁
    島田紳助『自己プロデュース力』ワニブックス、2009年、p49-56
  22. 島田紳助 松本人志著『哲学』、p63、64、239―241
  23. 元吉本芸人の松稔がプロデュースするSTART LINEのアメブロ【過去の日記】のりお・よしお秘話①
  24. 24.0 24.1 『お笑いスター誕生!!』、日本テレビ放送網、1981年、p166-168
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  26. 第30回 MZ研進会・笑の会・上方演芸研進社mydo « winoue ... - 井上宏
  27. 週刊朝日、1981年6月19日号、p119
  28. #80年代3、p6
  29. 『お笑いスター誕生!!』、p170
  30. 30.0 30.1 『ぼくが書いてきたタレント全部(下)』、p159-160
  31. 31.0 31.1 31.2 31.3 31.4 31.5 #こんな人生で(19)2013年8月1日
  32. 32.0 32.1 32.2 32.3 32.4 ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日
    『東京漫才うらばな史』、p221―222
    浅草キッド著『お笑い 男の星座』 文藝春秋、2001年、p74-75
  33. 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁
    『東京漫才うらばな史』、p220-222
  34. もくめレポート 第1回 平川さんの話(WヤングとB&B)
  35. 35.0 35.1 『おおきに! 漫才』p54-58
  36. 『転起力。』、p99-107
  37. 紳助親分の終末(1)ディスコで番組打ち合わせ読売新聞、2010年3月27日21面 「光景、あの日、あの時、あの場所で16 漫才ブームここから 1980年1月20日」
  38. 38.0 38.1 東京スポーツ、2011年9月4日、25面
  39. 日刊スポーツ、2011年8月24日、1面
  40. 40.0 40.1 週刊文春、2010年12月30日、2011年1月6日号、57―58頁
  41. ツカサネット新聞
  42. 42.0 42.1 42.2 42.3 #こんな人生で(20)2013年8月2日
  43. 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p219
    『まんざいー大阪の笑いー』、p19
  44. 『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』 p39-40、徳間書店、2007年9月
  45. ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで角川・エス・エス・コミュニケーションズ、2008年2月、p30―31
  46. 46.0 46.1 ビートたけし著『浅草キッド』太田出版、1988年、206頁
  47. 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p227―228
  48. 『東京漫才うらばな史』、p220
  49. #つくる216頁
  50. 50.0 50.1 50.2 笑いは世につれ 戦後大衆芸能をふり返る(13) 東京漫才の若手たち笑いは世につれ 戦後大衆芸能をふり返る(14) 東西の対決企画笑いは世につれ 戦後大衆芸能をふり返る(15) 「MANZAI」の誕生
  51. 51.0 51.1 51.2 #こんな人生で(21)2013年8月6日
  52. 52.0 52.1 52.2 52.3 読売新聞、2010年3月27日21面「光景、あの日、あの時、あの場所で16」
  53. 53.0 53.1 『上方放送お笑い史』読売新聞大阪本社文化部編、読売新聞社、1999年、p333-369
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  59. 『おおきに! 漫才』p1-5
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    新野新著『ぼくが書いてきたタレント全部(下)』、p157
  61. 「漫才ブームメモリアル」、p125、252
    自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、イーストプレス、p2
  62. 村上七郎『ロングラン マスコミ漂流50年の軌跡』、扶桑社、2005年、p178
  63. 北野武『コマネチ!―ビートたけし全記録』、新潮社、1998年、p229
  64. 『M-1』決勝者がダウンタウンらの“名作漫才”をカバー ニュース-ORICON
    ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日
    『東京漫才うらばな史』、p222
    西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年、459-461頁
    芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p16
    「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125、161、368
    ながいやんの「ファイト!」: 漫才ブームと甦る「やす・きよ漫才」
    島田紳助 松本人志著『哲学』、256、257頁
    紀伊國屋運営DVD/CD専門ショッピングサイト 「Forest Plus」
    『M-1グランプリ』とは何を目的に、何を審査しているのか?
  65. 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125
  66. 「花王名人劇場」“お笑いの聖地”NGKで23年ぶり復活 ― スポニチ らくごくら::吉本興業、大崎洋新社長
    「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p34-37、54、55、60、61、96-98、125、370他
    ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』、p32―35
    遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p230―233
    「漫才ブームなのです」、中田明成、p16、17
  67. 「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、澤田隆治、東阪企画、p44
    「花王名人大賞 にっぽんの芸人392」、澤田隆治、東阪企画、p82、258、388
    小林信彦著『定本 日本の喜劇人 エンターテイナー篇』新潮社、2008年4月、162、198、199、201頁
  68. 『漫才ブームメモリアル』、p85
  69. 69.0 69.1 島田洋七インタビュー
  70. asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース
  71. 71.0 71.1 71.2 71.3 71.4 71.5 71.6 『日本全国「お土産・名産品」おもしろ事典』日本博学倶楽部、PHP研究所、2008年、p20-22
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    「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p83-85、369
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    ツカサネット新聞
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    「昭和ヒーロー事典 芸能編」講談社、1989年7月、p582-583
    『お笑いスター誕生!!』、p176
  76. 『わたしの失敗Ⅱ』、産経新聞出版、2007年、p19-26
    澤田隆治『漫才ブームメモリアル』、東阪企画、1982年、p104
  77. サンデー毎日』1981年1月4日・11日合併号、p151
  78. ビートたけし『たけし吼える!』飛鳥新社、1984年、p67-68
  79. 大村大次郎『ビートたけしは「財テク」の天才だった!』、あっぷる出版社、2008年、p57
  80. 博士の悪童日記<2001年2月上旬~後編>
  81. 『上方放送お笑い史』p339
  82. 横沢彪『犬も歩けばプロデューサー』 日本放送出版協会、1994年10月、p85-87
    ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』、p35―36
    ゲンダイネット
  83. 芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p12
  84. 「たけし、さんま、タモリの育ての親じゃない!?」故・横澤彪氏の葬儀にBIG3は出席せず
  85. 東京&大阪を1日2往復半!
  86. 86.0 86.1 #こんな人生で(22)2013年8月7日
  87. 『昭和ヒーロー事典』、p582-583
    ながいやんの「ファイト!」: 漫才ブームと甦る「やす・きよ漫才」
    ぴいぷる:ZAKZAK
  88. 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 p462
  89. 『マルベル堂のブロマイド』、マルベル堂、文藝春秋、p64、212
  90. 島田紳助 松本人志著『哲学』、p243
  91. 『漫才ブームメモリアル』、p104
  92. ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』、p35―36
  93. #こんな人生で(23)2013年8月8日
  94. 94.0 94.1 #こんな人生で(29)2013年8月20日
  95. #こんな人生で(28)2013年8月16日
  96. 96.0 96.1 『わたしの失敗Ⅱ』 産経新聞出版、2007年、p19-26
  97. 産経新聞、2009年5月5日14面
  98. 島田洋七監督の『がばいばあちゃん』が公開前から大ピンチ!- 日刊サイゾー島田洋七監督映画『がばい』大コケでもタダでは起きない ... - 日刊サイゾー“決別”を撤回へ…洋七、結局元サヤ吉本“残留決意” - ZAKZAK吉本と再び決別!島田洋七の契約終了
  99. ざわめく吉本興業の暗部......「コメディNo.1」前田五郎の1億2,000万円訴訟に和解勧告
  100. オスカー移籍の島田洋七が若手芸人たちに宣戦布告! - 日刊サイゾー
  101. B&B、5年ぶり復活ライブ あのメーカーが特別協賛
  102. メントレ」スーパーG秋の2時間大放出スペシャル、フジテレビ、2006年10月9日
  103. クイズ!紳助くん」、朝日放送、2008年6月23日([紳助] - タスカプレミアム)、似た内容が、島田紳助の著書『自己プロデュース力』ワニブックス、2009年、p49-56に記述。
  104. 誰でもピカソ」、TV東京、2008年4月4日、「愛のエプロン」、テレビ朝日、2007年8月8日(東国原英夫談)
  105. 週刊現代、2004年4月24日号、p192-195
  106. 『お笑い 男の星座』p71
  107. 井上宏『まんざいー大阪の笑いー』世界思想社、1981年、p18、19
  108. 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』青蛙房、2002年6月、p218-219、224
  109. サンケイ新聞、2010年12月2日1面
  110. 『東京漫才うらばな史』、p220、224
  111. #80年代3、p9
  112. 『上方放送お笑い史』、p349
  113. 『昭和の名コンビ傑作選 第2巻 島田紳助・松本竜介: DVD付きマガジン よしもと栄光の80年代漫才』小学館、2013年、p7
  114. 『転起力。』、p94-95
  115. メントレG』2007年12月16日
  116. #こんな人生で(15)2013年7月25日
  117. 『転起力。』、p96-97
  118. 桂米朝上岡龍太郎『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』朝日新聞社、2000年、p119
  119. 大下英治『吉本興業、カネの成る木の作り方』講談社、2007年、p158
  120. 『年刊 人物情報事典'83』 Ⅲ芸能・スポーツ・世相編、日外アソシエーツ、1983年、453頁
  121. 文藝春秋|雑誌|本の話|自著を語る 島田洋七 『文句あっか!!』
  122. 週刊朝日、1980年8月22日号、29頁
  123. ぼやいたるねん:笑芸つれづれ噺
  124. 124.0 124.1 124.2 #80年代3、p2-4
  125. 沿革(75年の歴史)|宮島の老舗 もみじ饅頭・やまだ屋
  126. お笑いナタリー - 東京ダイナマイトがダウンタウンの漫才「誘拐」を完コピ
  127. 名作漫才ネタの"カバー"は、お笑いの新たなスタイルになる? - サイゾー
  128. ヒットの泉〜ニッポンの夢ヂカラ!〜」、テレビ朝日、2013年1月6日放送(ヒットの泉〜ニッポンの夢ヂカラ!〜))
  129. 129.0 129.1 129.2 「Eタウン」中国放送(RCC)2006年6月3日
  130. わが日々 にしき堂会長・大谷照三氏(5) お笑いブーム
  131. 131.0 131.1 中国新聞、2010年8月13日13面
  132. グレートマザー物語』「 島田洋七の母 ~ 涙のもみじ饅頭 ~」テレビ朝日、2005年12月11日放送
  133. 47CLUB スペシャルインタビュー広島eマガジン VOL.1880 10.28
  134. 社団法人宮島観光協会 |お土産|もみじ饅頭|生誕100周年もみじ饅頭物語 :西広島タイムス
  135. 浅草キッド『お笑い 男の星座』 p79-80、文藝春秋、2001年
  136. 自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、イーストプレス、p32-35
  137. デイリースポーツ連載「島田洋七のこんな人生でゴメンね(1)」2013年7月2日
  138. 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁
  139. 西条昇『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』、白泉社 2003年 460頁、ラサール石井『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』、p30―31、井上宏『まんざいー大阪の笑いー』、世界思想社 1981年 156、157頁
  140. ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』、角川・エス・エス・コミュニケーションズ、2008年2月、p30―31、『転起力。』、p101―103
  141. 『BIG tomorrow』324、p83
  142. 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁
  143. 『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』 p42、徳間書店、2007年9月
  144. #80年代3、p8
  145. 『BIG tomorrow』324、p82
  146. 高須光聖オフィシャルホームページ「御影屋」>「御影歌」>「加地倫三」「ロンドンハーツ」「アメトーーク!」演出・プロデューサー 加地倫三氏