大須演芸場
テンプレート:ホール概要 大須演芸場(おおすえんげいじょう)は、愛知県名古屋市中区大須にある劇場。大須観音のすぐそばにある。
目次
概要
落語や色物などを毎日上演する常設の寄席である。木造の2階建てで1階は椅子、2階は座敷席となっている[1]。1階が約150席で1階が約80席で座席数は250[2]。ビートたけしや明石家さんまらがまだ売れない駆け出し時代に出演している。客が少ないことでも有名で[3][4][5]、客が1人しかいない中で上演されることもあった[6]。
常に経営難で、大須演芸場の苦境を知って、古今亭志ん朝が独演会を開いて応援するなど、救いの手をさしのべる人たちによって閉鎖の危機を乗り越えたことでも知られる[7]。
戦後の名古屋でほぼ唯一の常打ちの寄席だった。名古屋に限らず中京地区唯一の寄席で、落語・漫才・手品などの演芸や、年2回のロック歌舞伎スーパー一座による公演が行われ、大須大道町人祭の会場としても使われていた。
沿革
前身は大正期から同地にあった映画と演劇の中規模劇場だった港座。戦後の1947年に再開されてからはストリップ劇場になり、1957年からの日本映画を上映する大須劇場を経て、最後はストリップ劇場の「港ミユウジック」となっていた。ストリップの合間にはコントが上演されていた[8][9][10][11]。この港座時代にショーやコントの台本を書くスタッフとして住み込みで働いていた中には後に脚本家となる山田信夫がいた[12]。
1963年に港座が閉館して建物の半分は取り壊され、残った楽屋部分を改築し、1965年10月1日に落語とコントと漫才を上演する寄席として、樋口君子を席亭に大須演芸場がオープンした。ストリップ小屋の経営者の夫が死んだことがきっかけの衣替えだった[9][13][11]。戦前の名古屋には多数の演芸場があったが空襲によって焼失し、戦後は納谷橋の富士劇場が1年ほど営業していた程度で、約20年ぶりに出現した名古屋の常打ち寄席だった[14]。
開館当初は、三遊亭圓生、柳家小さん[15]、三笑亭夢楽、横山やすし・西川きよし、コント55号、チャンバラトリオなど著名な落語家や人気芸人が出演[16]。開場当初は、31日には演芸余一会という落語会を開催していた[17]。
1966年7月21日からはレギュラーの中継録画番組『東西お笑い大須寄席』の放送が名古屋テレビでスタート。1967年1月からは『東西デラックス寄席』の番組名となり[18]、1968年8月から司会が東京二・京太から内海カッパ・今宮エビスに交代。日曜日の午後に放送されていた[19]。
開場して数年は毎月大入り袋がでる大盛況ぶりで[20]、これに刺激されて大須が開場した翌年の1966年には中村区に中村演芸場が今池には今池演芸ホールが開場したが、中村は半年で、今池は約20日間で閉鎖した[21]。1967年1月には地元の資産家が近くに新たに定員234名のシネラマ演芸場を開設したことから、危機感を抱いた樋口は芸人を拘束して出演機会を増やしシネラマへ出演できなくしようと新たな演芸場を開設した。1967年3月1日に名古屋市中川区の尾頭橋に誕生した尾頭演芸場がその姉妹館である。しかし立地条件の悪さから定員140名の尾頭は集客がうまくいかず、常打ちをやめて同年6月から全指定席の日曜寄席にし、最終的には9月で閉館になった。シネラマ演芸場を6月限りで閉鎖に追い込むことには成功したが、尾頭演芸場の失敗で赤字を抱え、大須演芸場の資金繰りにまで窮するようになった[11][22]。そして大須演芸場は再び名古屋唯一の常打ちの寄席になった[23]。
樋口君子の後を継いで1973年11月1日より席亭となったのが、以後40年以上にわたって席亭を務める名古屋市中区出身の足立秀夫である。足立は大阪の不動産業で財産を築き、 生来の寄席好きから芸能プロダクションも経営していた人物。樋口から依頼で不動産会社と芸能プロダクションを閉め、運営資金として1億円を用意し、名古屋へ戻って経営を引き継いだ[24]。
大須演芸場の地権者は大須観音で、営業権を取得した足立は建物も購入しようとしたが、前の経営者による税金滞納のため国や県・市による差し押さえや金融業者からの差し押さえ付いていたことが判明したために購入は断念して、建物は賃貸で運営していくことにした[25]。
足立が席亭になった当初は運営資金の1億円があったことから、東西の人気芸人を呼んで繁昌していたが、その出演料は高く、また大勢のスタッフを雇っていたためにその人件費の負担が大きかった。放漫経営、丼勘定で赤字の興行が続き[26]、資金難に陥ると従業員もどんどん辞めていき2、3名となった。ギャラの高い有名芸人も呼ぶことが出来なくなり[27]、ギャラの安い芸人や新人芸人しか呼べなくなって、客席には閑古鳥が鳴くようになった[26]。
この時代には、後に有名になった芸人が若手時代に出演しており、漫才コンビのB&Bが1972年にここで初舞台を踏んだ。ツービートはこの大須演芸場からの出演依頼がきっかけとなって誕生した。当初はビートきよしが他の相方とコンビを組んで出演する予定だったが立ち消えとなり、急遽誘ったのがビートたけしである[28][29]。ビートたけしは下積み時代に大須演芸場で経験した思い出話を語ることがある[30]。(詳細はツービートの該当記事を参照)。楽屋化粧前の台の裏側には1975年に書かれたであろう明石家さんまの落書き(サイン)があり、そこには「今日も客なし 明日は?」と書かれている[31]。なお、当時のツービートのギャラは2人合わせて1日4千円、明石家さんまのギャラは1日1000円であったという[32]。この他にも泉ピン子、笑福亭鶴瓶らが新人時代に出演した[31]。
足立が経営を引き継いだ2年後の1975年についに資金が底をつき[33]、以後は入質して運営資金を捻出していた[34]。1978年頃にはその質草もなくなって金融業者から借金するようになった[35]。1978年6月には借金2千万円で経営難が報じられた[36]。翌月には事実上倒産したとされて、大須商店街の商店主らを中心に新会社を設立して、名古屋演芸場として再発足することで話がまとまりかけたが、最終的には流れた[37][38]。
打開策として芸人のギャラを削減するため、1978年8月1日より売り上げに応じてギャラを配分する割り興行のスタイルをとった[39]。対外的には席亭の足立が資金繰りのため行方知れずで不在とし、芸人たちによる自主興行という形で危機をアピールして[38]マスコミの注目を集めたが、実際には席亭の足立が裏で全てを仕切っていた。表向きに興行主として表に出ていたのは吉本新喜劇出身のコメディアン奥津由三で、奥津のつてで藤田まことやディック・ミネが自主興行時代に友情出演した[26][38][40][41]。
その後、1979年頃からの漫才ブームで一息つくも1981年後半から再び客足が落ち、1983年8月から芸人の自主興行の形の割り興行から元の寄席経営のスタイルに戻した[42]。
その後も経営難の連続で、1985年には3年間の家賃滞納で最初の強制執行を受けた[1]。このときは話し合いで9月1日より未払いの家賃を毎日1万円払うことで合意して営業を継続[43]。『中日新聞』で強制執行による閉鎖危機を大きく報じられ、強制執行にはマスコミが殺到。これが逆に宣伝となって、1986年の冬まで漫才ブーム以来の大入りが続き、そのおかげで借金を返済できた[44]。 同年には東海テレビが支援に乗り出し、2月26日から寄席を中継録画した『名古屋爆笑寄席 大須演芸場」を毎月最終火曜日の深夜0時30分から1時にレギュラーで放送した[45]。
1987年から再び1日の来客数が10名未満という閑古鳥状態に戻り[46]、1990年代には東西の大物の好意の出演で窮状を救われた。1990年からの10年間、3日連続で古今亭志ん朝は格安の出演料で独演会を引き受け[31][47]、ミヤコ蝶々も1993年からの3年間をノーギャラで出演した[31][48]。特に志ん朝の独演会は東京では行われないため[49]、立ち見が出るほどの盛況で、東京在住の作家の小林信彦やエッセイストの中野翠はわざわざこのためだけに泊まりがけで名古屋に滞在するほどであった[3][50]
漫才コンビの正司敏江・玲児も、1985年3月と1991年の2度にわたって大須演芸場を助けようと連日出演。志ん朝や蝶々と並んで足立が苦境を救ってくれた恩人と呼ぶ存在である[51]。正司敏江は、2014年1月の閉鎖を知ったときも、大阪での舞台をキャンセルして、大須演芸場に駆けつけ10日間の正月興行に参加した[52]。
2000年になり建物の所有者の負債を処理するため演芸場の建物は競売にかけられ、舞台美術を手掛ける地元企業が所有権を落札。新たな建物所有者とは月額30万円の賃貸契約で営業が続いた[53]。
平日の客入りは10人程度前後で、売上は1万円から2万円[7]。芸人の出演料の3万円を支払うと赤字で、その穴埋めのために専属芸人の営業斡旋(「出張演芸」と称す)や席亭自らの講演料等によって、興行収入の減少を補っていた[1]。
建物の所有者は地権者に土地代を払いながら、大須演芸場の家賃滞納に悩まされ続け、2011年には30万円の賃貸料を20万円に値下げしたが、芸人への支払いを優先して賃貸料は支払われず滞納は改善されなかった。大家側は貸し小屋事業では収益を確保できていながら未払いを続けているとみて強制執行の申し立てをし、2014年2月3日に建物明け渡しの強制執行がなされ、営業が終了した[53][7]。席亭の足立は以後も同演芸場の住居部分に居住していたが、2月25日に近隣のマンションに引っ越したため[54]、3月3日に正式に所有者に建物が引き渡された[55]。
営業終了翌日の2月4日に高須克弥(高須クリニック院長)が席亭の足立に対する営業支援を表明[56]。一方で所有者側では5月始めまでに建物の現状確認を行った上で耐震等の補強工事を行い、新たな席亭を立てて「年内に新生演芸場の第2幕が開けられる状態にこぎ着けたい」との意向を示しており、席亭・所有者双方が営業再開に意欲を見せている[55]。
歴史
- 1965年10月1日 - 開場[57]。
- 1966年7月 - 名古屋テレビでレギュラー番組『東西お笑い大須寄席』が放送開始。
- 1967年3月1日 - 姉妹館の尾頭演芸場がオープン。9月で閉館。
- 1973年8月 - 席亭が足立に交代。
- 1978年 - 出演者に対する出演料に東京同様「割」制度を導入。
- 1980年10月 - 9月中旬から3日かけて東西の演芸人が出演したNHK総合テレビの『ひるのプレゼント』「名古屋で笑おう 東西演芸腕くらべ」が17日から5日連続で放送[58]。
- 1980年12月 - 半年と1年間の定期の入場券を発行[59]
- 1983年 - 割制度を廃止。
- 1985年8月21日 - 家賃滞納により強制執行処分を受ける。
- 1986年2月26日 - 東海テレビで火曜深夜(水曜日)に月に1度のレギュラー番組『名古屋爆笑寄席 大須演芸場』が放送開始。
- 1986年12月 - NTTの名古屋中電電局が1日2回の公演をテレホンサービスで生中継した。公演時間外は、三遊亭円丈の落語「きいてちょうでェ名古屋弁」を流した[60]。
- 1988年12月 - ロック歌舞伎スーパー一座による大須師走歌舞伎の公演がこの年より始まる[61]
- 1990年 - この年より年に1度の古今亭志ん朝の独演会が始まる。
- 1990年4月17日 - 開館以来初の観客数ゼロを記録[62]。
- 1993年 - ミヤコ蝶々のトークショーが始まる。
- 1994年1月 - 大須に本社を置く地元局テレビ愛知が開局10周年を記念して、『新春大須演芸場中継』と題した同演芸場からの中継特別番組を放送した。
- 2000年7月 - 競売に掛けられるが、支援者が落札。
- 2007年6月 - テレビ番組『さまぁ〜ずげりらっパ』の企画でその窮状を知った落語家の笑福亭鶴瓶が無報酬で公演を引き受け、売り上げ金は施設の改修などに費やされた。
- 2008年3月7日 - テレビ愛知が開局25周年を記念して、『笑いの花道IN名古屋』を収録した。愛知県出身のスピードワゴンなどが出演し、120人の観客が訪れた。この模様は、その翌日の3月8日に同局で土曜スペシャル枠内にて放送された。
- 2008年12月29日 - 大須商店街の人たちがNPO法人あいちクローバーと協力し、「笑死阻止!大須演芸場へAEDを!」をスローガンにチャリティ歌合戦を開催。150名を超える観客が来場し、収益金でAEDが設置された。チャリティには多くの著名人が協力し、オリンピック金メダリストの吉田沙保里や中日ドラゴンズの荒木雅博も出品協力した。チャリティオークションの司会は地元で活躍するラジオパーソナリティの黒岩唯一が担当した。
- 2011年5月 - 所有者と席亭の間で、賃料の減額および今後滞納した場合に賃貸契約を解除する旨の調停が成立[7]。
- 2013年4月 - 演芸場の土地・建物の賃料の支払いが滞り、所有者が建物の明け渡しを通告。強制執行を名古屋地裁に申し立てた。
- 2014年1月29日 - アマチュア時代にコントチーム温泉こんにゃくアクロバットショーのメンバーとして演芸場で度々自主興行を行っていた青木さやかと東京ダイナマイトの松田大輔が『恩返し公演』を行い、売り上げ金全額を寄付した。[63]
- 2014年1月31日 - 最後の有料興行を行う。翌日より無料興行を実施。
- 2014年2月3日 - 2代目快楽亭ブラックによる「お血脈」の公演途中に執行官が到着し興行を打ち切る。その後強制執行が行われ営業を終了した[64]。
番組
落語、曲独楽、ものまねなどの演芸を中心に、休日には演歌も上演。毎月ごとに出演者・演目が入れ替えられ、出演者は月中でも交替することがあった。1 - 10日を上席、11 - 20日を中席、21 - 30日を下席とし、原則として10日間同じ番組だが、出演者の都合(病欠、営業、テレビラジオなど他の仕事など)によって変更する場合があった。
開演は平日が12時から二回公演、土日祝日は11時から三回公演。いずれも出演者は同じで、入れ替え無しの出入り自由。客入り具合で途中打ち切りもあり。三回公演の場合、三回目に全員が出ない場合がある(二回半公演)。一組の持ち時間はおよそ20分で、六組2時間が一公演の標準。1 - 2か月に1度くらいの割で不定期で18時開演の夜席が行われていた。
2008年までは7月にはスーパー一座の『大須オペラ』を、12月には『大須師走歌舞伎』を上演していた。毎年9月には落語芸術協会による『芸協まつり』が実施されて、浅草演芸ホールや新宿末広亭、また、テレビでおなじみのメンバーが出演していた。この他、本公演以外に各種イベント会場として使用されることもあった。
2006年の4、5月には、今池の大衆演劇専門劇場(今池アカデミー劇場)閉鎖に伴い、貸し小屋となり大衆演劇が上演された。
主な出演者 (過去~現在)
大須演芸場専属の落語家ならびに色物芸人が出演。東京や上方からも客演があった。
レギュラー出演者
- 多嶋ゆきお - コミックマジック。なげやりな口調で客の少なさを愚痴りながら、テレビで見た事のある様な演目を披露するが、オチはテーブルマジックでも大技を演じる信念を持って演じていた。待ち時間の間にロビーで犬を抱いている事が多い。2005年逝去。
- 伊東かおる - 大分県出身の名古屋弁漫談家。「名古屋弁を全国に広める会(名全広)」会長。もともとはボーイズやコントユニットのメンバーとして東京でも活動し、浅草松竹演芸場にもレギュラーで出演していた。2007年7月8日逝去。
- 大東両 - 居合い切りが出来た唯一の紙切り師。また、アニメ『機動戦士ガンダム』に登場する全てのモビルスーツを切ることができた。浪曲師・寿々木冨士若は同一人物。2006年逝去。
- 波たかし - 漫談家。東京の軽演劇出身で三波伸介門下。伊東かおると組んでの漫才・コントも行う。
- ふしぎ光 - 手品師。
- 大須くるみ (三遊亭笑くぼ) - 落語家、ダンサー。愛知県出身。天狗連の女流漫才師出身。稲垣流社中の舞踊家、パフォーマーとして、それまでのキャリアのほとんどを大須演芸場と共に過ごしたが、主任を長年勤めていた師匠(1989年入門)である三遊亭歌笑の東京復帰とともに上京して活躍の場を移し、以降は愛知と東京を行き来し活躍している。
- 伊勢元気 - 三重県出身のコメディアン・漫談家・喜劇俳優・劇団主宰者。元々は吉本興業やホリプロに在籍していた (昭和45年入社の間寛平や木村進と同期) が大阪→東京と流転を重ね、大須を本拠地と定めて活躍している。マルセ太郎+間寛平と並び、猿のモノマネで有名。映画『お姐ちゃんお手やわらかに』(1975年4月26日公開、ホリプロ+東宝)に当時在籍していたコントチーム『てんつくてん』の一員として出演している。
- かつら竜鶴 - 三味線漫談、民謡。愛知県警察本部警察官、カメラ店経営、芸人と多彩な経歴を持つ。
- 東英治 - 一輪車・手品。自分の歌う『チンライ節』をBGMに手品を演じていた。
- 柳家小三亀松 - 日本都々逸協会会長。ボーイズ出身の元落語家。愛知県出身、在住。柳家三亀松の名前弟子。2009年逝去。
- 柳家三亀司 - 江戸曲独楽。得意技は衣紋流し、投げ独楽二刀流。よしおかつかさとして司会業や、相棒ケンイチとともに腹話術も行う。
- 雷門小福 - 名古屋出身。江戸噺家・雷門の一党ではあるが、デビュー以来ずっと名古屋で活動していた艶笑落語を得意とする落語家。東京の協会等には属さず、フリーの芸人として自身のプロダクションを持っていた。得意ネタは「花色木綿」(=「出来心」)など。2012年4月7日逝去。
- 雷門獅篭(元・立川志加吾) - 落語家兼漫画家。小福門下。
- 雷門幸福(元・立川談号) - 落語家。小福門下。
- 雷門福三(元・チャーリー) - 落語家。小福門下。俳優としても活動。大須で駄菓子屋バー「チャーリーズ」を経営している。
- 桂福若 - 上方落語家。犬山市在住のためか、「名古屋の落語家」としてカウントされていない。桂福團治は師匠で実父。従姉の泉ピン子も大須演芸場に出ていたことがある。阪神優勝時に、初めて道頓堀川に飛び込んだ人物とされる。
- 桂ぽんぽ娘 - 落語家。以前は東京で女流漫談家おさなぎ色として活動していた。2007年、正式に桂文福の弟子となり、「ぽんぽ娘(ぽんぽこ)」と命名される。
- ひとみちゃん - 漫談家・司会者。名古屋市出身、在住。 艶歌シャンソニエ家元。無慈悲なパイプ所属。自作の艶歌を織り交ぜたバーレスクショーを意識した老若男女が楽しめるオリジナルの芸題で出演。
- 旭堂左南陵 - 講談師。名古屋市在住。元、あひる艦隊メンバー、浪曲師を経て、1972年に三代目旭堂南陵門下に移る。厳密には同年入門の四代目の僅差の兄弟子にあたる。
- 四代目三遊亭歌笑 - 落語家。1985-2004年の長きに渡り、同劇場の主任を勉め、東西の落語家との橋渡し役を勉めた。
主な客演者
- 古今亭志ん朝 - 東京落語の名人。席亭の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行っていた。小林信彦は、毎年その公演を聞きに名古屋まで出かけていた。2001年10月1日逝去。
- 露の五郎兵衛 - 上方落語の名人。定期的に露の五郎兵衛一門で出演。
- 南けんじ - 東京の漫談家、司会者。最晩年の拠点として出演を続けた。ネタは時事漫談と浅草での思い出ネタが多かった。
- 三代目三遊亭圓丈 - 地元名古屋出身の落語家として、大須演芸場のことを常に気にかけており、末期は回数が減ってしまったものの、年1回程度は高座に上がっていた。
- 桂珍念 - 上方落語家。桂文珍門下。客演として頻繁に出演していた。
- 二代目快楽亭ブラック - 元・立川流。2011年1月より3年間、自宅のある東京から随時「出張」する形で、拠点としていた。上述の通り、強制執行が行われる直前まで大須の高座で演じ続けた。
- 荒川キヨシ・小唄志津子 - 戦前から大阪で活躍した阿呆陀羅経でお馴染みの古老のコンビ。舞台は大阪中心だったが晩年大須で活動する。大阪市西成区山王の「てんのじ村」に住んでいた。
- 東洋小勝 - 1912年生まれ。戦前の16歳の頃に『チャップリンのそっくりさんコンテスト』で優勝して芸界入りし、後に奇術師に転身。戦後は曲芸(太神楽と玉乗り)に転身し舞台は大阪中心だったが、晩年大須を拠点として活動する。決まりギャグは『曲芸はパランス!!!!』(原文ママ)。荒川キヨシ・小唄志津子と同じく、てんのじ村に住んでいた。尚、宝塚映画の『河内風土記 おいろけ説法』(1961年 久松静児監督、森繁久彌主演)に出演したことがある。
- 河内文春・尾乃道子 - 戦前から大阪で活躍した音頭取り系漫才の古老のコンビ。長らく大阪中心だったが1980年代の晩年大須で活動する。かつてわらわし隊第4回北支那班のメンバー。当時は河内家美代次・文春という芸名だった。
- 花島二郎 - 東京演芸協会所属 人形漫談(腹話術)客演として出演。エルヴィス・プレスリー、マリリン・モンロー、恐竜のジョイ、紙切り~猫のミッシェル、宇宙人レインボーマン・ダン、ジミー・ザ・キッド等々毎回6体以上のパペットを持ち込み、毎回演目を変えて演じていた。
- 杉のぼる - 大阪在住の川上のぼるに憧れて腹話術人形師になった、師匠を持たない芸人で長年大須演芸場に出演していた。『銭形金太郎』(テレビ朝日系)のスペシャルには欠かせない存在。
- 奥津由三 - 吉本新喜劇、コマ新喜劇に出演していたコメディアン。「チャボチャボ!!」のギャグで有名。
料金
いずれも、2007年8月現在。特別興行の場合などには変更あり。
- 一般 1500円
- 学生(高校生以上) 1000円
- シニア(シルバー、65歳以上) 1000円
- 小人(小学生以上) 800円
1980年12月から半年で5000円、1年で9千円(学生割引、老人優待券あり)の定期券が存在したが[59]、2年ほどで廃止になった。
所在地
- 愛知県名古屋市中区大須2-19-39
アクセス
参考文献
- 関山和夫『寄席見世物雑志 名古屋寄席興行史』泰文堂、1968年 - 1967年から1968年にかけての大須演芸場を含む毎月の寄席評あり
- 足立秀夫『え〜泣き笑いを一席… -- 大須演芸場涙の20年』郷土出版社、1993年10月 ISBN 4-87670-055-9) - 二代目席亭による回顧録
脚注
外部リンク
- 大須演芸場
- 奇跡の寄席!大須演芸場 - 三遊亭円丈の公式サイトの一部ページ
- 雷門幸福のYose In Ohsu - 雷門幸福による番組表
- 桂ぽんぽ娘(元おさなぎ色)ホームページ
- 無慈悲なパイプ - ひとみちゃん所属公式サイト
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- ↑ 足立、pp.124-125
- ↑ 足立、p.139
- ↑ 足立、p.159
- ↑ 小林信彦『コラムの冒険』新潮社、1996年、p.246
- ↑ 小林信彦『昭和のまぼろし』文藝春秋、2006年、p.96
- ↑ 足立、p.150
- ↑ ありがとう大須演芸場 青木さん、正司さん 朝日新聞 2014年1月31日
- ↑ 53.0 53.1 大須演芸場:日本一客入らない演芸場 大家の温情裏切った 毎日新聞 2014年2月3日
- ↑ 愛知)大須芸人、それぞれの道 足立席亭が引っ越し - 朝日新聞デジタル・2014年2月26日
- ↑ 55.0 55.1 大須演芸場:「年内に新生」所有者代理人が再開に意欲 - 毎日jp・2014年3月4日
- ↑ 高須クリニック、大須演芸場の支援名乗り 賃料肩代わり - 朝日新聞デジタル・2014年2月5日
- ↑ 「大須年表 (戦後編)」『大須レトロ 名タイ昭和文庫2』名古屋タイムズ・アーカイブス委員会編、樹林舎、2010年、p.177
- ↑ 「盛況だった『ひるプレ』収録 大須演芸場」『中日新聞』1980年10月20日付夕刊
- ↑ 59.0 59.1 「お笑い定期券 大須演芸場が来月から発行」『中日新聞』1980年11月29日付
- ↑ 「大須の笑いを生中継 NTTがテレホンサービス 25日まで」『中日新聞』1986年12月23日付
- ↑ 「大須年表 (戦後編)」『大須レトロ 名タイ昭和文庫2』名古屋タイムズ・アーカイブス委員会編、樹林舎、2010年、p.176
- ↑ 「終幕の時 大須演芸場の40年 (3) 救世主現る」『中日新聞』2014年1月24日付
- ↑ 大須演芸場へ恩返し公演 2014年1月24日 中日新聞 Web Opirina
- ↑ 大須演芸場:強制執行も笑いに「サプライズゲスト執行官」(毎日新聞、2014年2月3日)