北野ファンクラブ

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北野ファンクラブ』(きたのファンクラブ)は、1991年2月13日から1996年3月22日までフジテレビで放送されていた深夜バラエティ番組である。キー局であるフジテレビでの放送時間は金曜日の深夜25:25 - 26:25(JST)(※後期には25:30 - 26:30)で、いわば『ビートたけしのオールナイトニッポン』のテレビ版とも言える番組である。『オールナイト』は前年の1990年12月で終了しており、僅か2ヶ月のブランクでたけしと高田のフリートークが事実上復活した。

ビデオソフト「北野ファンクラブ会報」(過去の放送の名場面+未放送シーンを取り上げた)、単行本「北野ファンクラブ」(北野武・監修、高田文夫・編著、フジテレビ出版、「北野ファンクラブ会員証」のおまけつき)が発売されており、2007年11月21日にはDVDが発売された。

同番組終了後も、たけしメインのフジテレビ系深夜番組は番組内容・タイトル・放送時間を変えながら、2013年9月23日まで実質22年半継続放送された。

番組概要

番組は『オールナイトニッポン』同様ビートたけし高田文夫をパーソナリティに迎え、最近の時事問題から深夜放送ならではの下ネタまで幅広いジャンルから毎回話題を取り上げて爆笑トークを展開した。セットも予算の関係から「北野」の印判をイメージしたパネルとテーブル。その上に東京スポーツや週刊誌(たけしがネタにされているものが多い)、黒板数枚(グレート義太夫ダンカンがイラストデザインやレイアウトをし、毎回チョークで書き込んだ)だけという地味なものであった。初期の放送では、床面にミステリー・サークルが大きく描かれたパネルが敷かれていた。

番組当初からのコンセプトは「たけしのたけしによるたけしのためのテレビ。」たけしのやりたい事だけで企画構成され「深夜なんだから嫌なら見なくてイイ」という事で制作していた。

また、番組内ではたけし軍団出演による、海パン一丁や全裸姿のキャラが登場するコントや、当時の人気番組をパロデイ化したゲーム、亀有ブラザース(たけし、ガダルカナル・タカつまみ枝豆、グレート義太夫)の生バンドによる下ネタ男性器の俗称をそのまま替え歌の歌詞にして連呼したり、女性器の俗称を業界用語風に言い換えたものを織り込んだ替え歌を毎回ピー音なしで放送するなど、放送コードスレスレの替え歌をほぼ毎週放送していた)を絡ませた替え歌コーナーが人気を呼んだ(オフィシャル単行本で、同コーナーの替え歌を掲載する企画も出たが、著作権などの理由で断念している)。放送数ヶ月で、髪型もオールバックから、ボッチャン刈りに戻している(この写真はオフィシャル単行本の裏に掲載)。

こういった深夜番組志向が功を奏し、コアなたけしファンにとどまらず夜型生活の若者たちの間で一気に人気が広まる。人気深夜トーク番組の「東西の雄」として、『鶴瓶上岡パペポTV』(読売テレビ)と比較されることも少なからずあったが、晩期には放送曜日が同じとなり、放送時間もわずかながら重なる(『「北野ファンクラブ』が終了する10分前に『パペポTV』のオンエアが始まる)時代もあった(関東地区の場合)時期もあった。最高視聴率は、深夜枠レギュラー番組としては当時異例中の異例ともいえる7.9%であった(最終回のトークより。最低視聴率は0.7%)。 また当番組のトークやコントは1994年12月30日放送の特番「たけし大全集'94 たけしが愛した101人」で再編集放送された。

当番組はテレビ業界のみならず、各マスメディアからたけしの動向や発言が注目される事から一般視聴率だけでなく「業界視聴率」も極めて高い番組だった。

上記の通り、キー局での放送時間は金曜の深夜であったが、関西地区では関西テレビがネットしておらず、独立UHF放送局であるKBS京都サンテレビなどで番組販売という形で放送されていた。KBS京都では一時期水曜の夜10時から放送されていたことがあり、これを知ったたけしが番組中のトークで「こんな危ない番組をゴールデンタイムに放送しているバカな放送局がある」などといった発言をしたことがある。それを知ってか知らずか、半年後にはKBS京都での放送時間も夜11時30分からの放送に変更された。

収録はほとんどが渋谷ビデオスタジオで行われていたが、ニッポン放送のスタジオや船の科学館神立高原スキー場、逗子湘南海岸などで行われたこともある。『平成教育テレビ』での特別放送時は、河田町のフジテレビ本社(当時)で行われ、多数のスタッフとカメラに対し、たけしがイヤミを言ったこともある。反面、『平成教育テレビ』での特別放送では、普段のファンのみならず、一般人も視聴しており、過激発言や替え歌にクレームが殺到した。

放送回数はレギュラー化する1991年4月12日以前の2月13日と3月6日と4月5日に放送された90分スペシャルを含めて、全232回(レギュラー放送225回+90分スペシャル7回)。他に'92・'93年の25時間テレビ平成教育テレビ内で「たけしの平成ファンクラブスペシャル」と題して2回生放送を行った。

たけしがバイク事故で入院しテレビ出演できなかった期間も、高田とたけし軍団がこの番組を支えた。1995年春にたけしが復帰し番組も元の形態に戻ったが、これ以降たけしは精彩を欠くようになり(事故復帰後はたけしと高田の2人だけのトークよりも、たけし軍団やその他の芸人を交えてトークすることの方が多くなった)、翌1996年3月に番組は終了した。この番組終了後も同じくたけし・高田の司会による『北野富士』、たけし軍団や女性タレントがトークに加わった『足立区のたけし、世界の北野』と題されたたけし司会の深夜番組が継続して放送された。また1993年10月に当番組のゴールデンタイム版として『ビートたけしのつくり方』が半年間放送された。さらに当番組シリーズから派生したものでスカパーで開局した『北野チャンネル』(後のフジテレビ721の『チャンネル北野』)などもある。

使用楽曲と音声について

番組のオープニングテーマは美空ひばりの「STAR DUST」。エンディングテーマは、番組初期は1クールごとに変わり、鈴木結女「PART OF LIFE」や藤原久美「卒業の朝」、杉山清貴「夏服最後の日」等。 また森田浩司「愛のX」、TWIN FIZZ「BODY」、KAZZ「青空に追いついて」などトライアングル・プロダクション所属のアーティストが歌うものが多かった。さらに、遊佐未森「恋かしら」もエンディングテーマとして使われる予定があったが、アーティストと番組のイメージが合わないという理由で実際には使われなかった。後期ではビートたけし自身が歌う「嘲笑」が長く使用されていた。番組末期には、「浅草キッド」も使われていた(歌詞は小説の冒頭で確認できる)。 北野ファンクラブビデオ会報1・会報2にて使用されているスタッフロールの曲は、92年1月の番組放送時で使用されたエンディングテーマ、杉山清貴の「LOVE IS YOU」である。 また一度だけ使用されたエンディングテーマには、尾崎豊「LONELY ROSE」、鈴木結女「TELL ME」「強さの意味」、Sing Like Talking「Steps of love」、藤原久美「純愛」、五十嵐はるみ「LONELY NIGHT」、山下達郎「クリスマスイブ 英語版」等がある。

この番組の音声は、放送開始当初からステレオ放送であったが、スタジオ内音声はモノラル収録したものを流していた(テーマ曲や編集時に加えられる音楽、BGMなどと効果音のみステレオ放送)。『亀有ブラザーズ』などの替え歌コーナーも番組中期頃までは、実質的にはモノラル放送(モノステレオ放送)であった。この手法は、後に家庭用ビデオレコーダーのCMカット機能防止が目的と考えられる一部のバラエティ番組に活用されることとなっていった。なお、1993年11月5日放送分からはスタジオ内の音声もステレオ収録されるようになり、替え歌コーナーもステレオ放送へとグレードアップした。

トークコーナーにおいてはモノステレオ放送時代は原則、オープニング直後及びCM明け直後にBGMとして洋楽を数十秒間流していたが、フルステレオ放送化された翌週からは取り止められている。

番組でのエピソード

  • 蓮舫が番組に乱入した際、高田文夫が蓮舫に対して猛烈な口撃をした。たけしと高田文夫が2人がかりで、「知ってるぞ。親父が蒋介石殺したんだってな」、「お前サッポロ黒ラベル飲んで吐いてたじゃねぇか」(当時、蓮舫はサッポロビール黒ラベルのCMに出演していた)「お前テレビ番組で吉田栄作と共演した時に、股間拭いてただろ」、「本名は謝蓮舫?彼氏は謝国権か」、「お前の親父タイマイの密輸やってるだろ」などとさんざんバカにした挙句、高田文夫は「国へ帰れ!!」と一喝した。たけしはそのあまりにもムチャクチャなその罵倒に何も言えずただ爆笑していたが、「国へ帰れ」と言った時にはさすがにイスから落ちてひっくり返っていた。蓮舫はただ大笑いしていた。後に篠山紀信は自身の撮影した写真集でこのトークが面白かったと述べている。
  • 記念すべき第一回目では、「愛の賛歌」と題し、色々な動物の交尾の場面ばかり集めた映像を連続で放映し、最初からスタジオが盛り上がった。後日、番組内で、この愛の賛歌の映像を再放映。「最初に番組で放映したとき、クレームは一つも来なかった」とたけしが述べた。
  • テレビ番組でありながら、たけしが美容師に白髪染めを受けながらトークを続けたことがある。別名「毛染めトーク」と呼ばれ、業界内では受けたと次週に高田文夫が話していた。
  • 1994年、たけしと高田文夫が行ったトークの中で当時激ヤセしたみのもんたについて、「みのもんたも危ない」「俺はがんだと思うな」と発言。その後週刊誌やスポーツ紙がみのもんたの重病説を取り上げ、みのもんたが日本テレビの深夜番組で上半身裸になって健康であることをアピールする会見を行う大騒動に発展した。2008年に、たけしがみのの番組、『クイズ$ミリオネア』に出演した際、このトーク内容が放送され、たけしがみのに謝罪していた。
  • 1992年、この番組の美術さんを顔出し出演させ、たけし・高田・軍団のメンバーとともに『美術さんを考える』という討論会を開催。深夜番組で低予算の為、コントで使った小道具のダイナマイトの制作費が30円という衝撃の事実が発覚。さすがのたけしも呆れていた。
  • 多くのテレビ番組は一度の収録日に2本分収録する。しかし当番組は時事ネタやたけしの近況をトークテーマに扱う性質上、毎週火曜日に1本ずつ収録していた。その為、渋谷ビデオスタジオの使用料を通常の番組より倍払っていたので深夜番組としての低予算の制作費をより圧迫していた。
  • また低予算のエピソードとして番組内で使用するテロップも、隷書体以外はドットの粗いワープロ文字が使われていた。90年代中期まではまだ編集スタジオにテロップマシンが導入されておらず、写植会社にテロップを発注するのが当たり前の時代であり、テロップ発注する度に予算がかかるのであれば文字をその場でワープロで打ちカメラで取り込んで使用する手法が用いられた。
  • トーク中に突然地震が発生し(東京で「震度4」だった)、パニックに陥ったたけしは、すぐに机の下に身を潜め、高田も、「1人でずるい!」と言いながら机の下に入り、そのままトークを続行しようとした。この時、「世界初●机の下トーク」とテロップが表示された。
  • 他番組でたけしが収録を休む事はよくあり当番組でも数回収録を休んだ事があったが、映画ソナチネの撮影現場であった沖縄や番組制作会社イーストの会議室にて急遽トークを収録したりと、他番組と違いたけしなりに当番組には愛着があったと思われる。またスタジオ収録の日にたけしが風邪で体調が優れない時があり「今日は総集編にしよう」と言ったのだが、なんだかんだとトークが盛り上がり更にタカや島田洋七・太平サブローがトークに加わって結果的に50分近く収録した為、エンディングテーマ「嘲笑」が流れる時に「本日の総集編は急遽中止になりました。」というテロップを表示した珍事もあった。たけしだけでなく高田文夫も「春の屋形船ツアー」の時にプロレス観戦に行く為、仮病(?)で欠席した事もある。
  • 番組開始して間もなく日本テレビの深夜に放送していた『秋元流』が当番組の演出ディレクターと編集スタッフが同じ為、トーク番組の形式としては似ている作りになっていた。それを知ってか知らずか当番組のトークの中でたけしが「秋元康 の野郎、俺の当たった番組の真似やパクリばかりしやがる」と揶揄し高田もたけしに同調していた。
  • たけしのトークは過激すぎるため、批判を浴びたこともあり生放送でお詫びのトークをしたこともある。
  • 映画「あの夏、一番静かな海」が報知映画賞最優秀監督賞をたけしが受賞した事を記念し、当番組で映画のパロディとして「あの夏、一番マヌケな馬鹿」というコントを作ったが、当番組のチーフディレクターのつきざわけんじが編集時に間違えてBGMに「となりのトトロ」の音楽を使用して制作してしまった(映画音楽担当が同じ久石譲だった事で間違えた)。視聴者からの指摘で間違えが発覚した後、音楽を直した完全版を二週間後に放送した。

主なコーナー

フリートーク
たけしのおねえちゃんに関するマヌケなプライベート話から、時事ネタや当時メディアで注目されていた人物を、たけし・高田両人が徹底的にこきおろす話まで、さまざまな話題を提供し続けた。以下の人物に対する風刺はパンチが効いていて印象深い。
また、貴・りえ問題などに関してのインタビューもこの番組を通じて行われた。実際にスタジオに芸能レポーターを入れ、当人は病人コント風にやつれた老人の扮装で溲瓶片手に現れ、インタビューの模様を放映した。この時の放送を偶然みていた長嶋茂雄が「大丈夫ですか」と本気で心配したというエピソードもある。
変わったところでは一輪車おじさん(一輪車協会会長)、関東地方での番組スポンサーだったピザーラの社長など、このフリートークでの話題を通じて著名になった人物も多数いた。明治大学替え玉入試事件の受験生であったなべやかんを、事件後に初めてテレビ出演させて話題となった。
トークはたけし・高田の2人だけで行うことが多いが、後期はタカを加えた3人でのトークや、軍団数名を加えるようになった。
B&Beat
たけしとB&Bの島田洋七がコンビを組み、全盛期の勢いそのままに繰り広げた漫才コーナー。1980年代前半では、ありえない組み合わせであった。後に太平サブローが加わり、BB-KINGとなる。当時、洋七の営業ネタに対するたけしの配慮があり、ほとんどがアドリブ、勢いだけで放送していた。その結果、冷や汗をかくようなシーンがほぼ毎週あり、本人達の反応とは別に視聴者からは楽しみなコーナーとなっていた。
全裸企画
番組初期に多かったもので、ほとんどが単発である。文字どおり、たけし軍団が全裸で登場しクイズやゲーム、スポーツ、全裸盆踊り、全裸ラジオ体操(掛け声は番組独自のもの)などを行っていた。全裸ラジオ体操を放送した後日、NHKから苦情が来たということはない。またコーナー内で、タカと浅草キッドによるアイドルグループ「フリチン隊」が誕生、全裸におぼん姿でシブがき隊のものまねや黒田節を披露している。また神立高原スキー場の山頂で、寒風吹きすさぶ中で全裸ラジオ体操を披露、凍傷寸前であった。
海パン刑事
たけしが海パン姿で演じる刑事ドラマコント。ダンカン演じる「パンスト刑事」などの登場人物もあった。同時期にたけしが病気で収録をドタキャンした際、当時マネージャーだった八木茂(現・オフィス北野専務取締役)が、パンツ一丁にネクタイ・ジャケット姿で「海パンマネージャー」と称して登場し、状況報告をしたこともあった。なお、この番組のファンだった漫画家の秋本治が漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』で、この企画をモチーフにして「海パン刑事・汚野たけし」なる人物が登場している。コント後半では、刑事ではなく、ただ「海パン」と呼ばれ、怪盗や奉行、人造人間などになっていた。この時期には青い帽子もトレードマークになっている。「海パンレンジャー」と名乗って、ダンカンとラッシャー板前の3人で登場した回もある。
中年ジェット
「海パン刑事」と同じ形式で放送されたドラマコント。ガダルカナル・タカが演じる「透明人間(本当は全裸姿であるが、本人は透明になったと思い込んでいる男)」と、たけしが演じる中年ジェットが毎回いろんなシチュエーションで対決する。ジェットが名前を呼ばれるたびにキーの合わないテーマ曲(最後が「J・E・T!」で締める)を延々と歌わされる設定で、結局たけしが喉を潰してしまったことでコント続行不可能となり、コーナーも打ち切りとなった。一度だけ行われた新宿での公開収録でも、客前で披露された。タカ演じる「透明人間」は、スキー場やたけしのロスでの滞在先でも演じられ、コーナー終了後ではあるが、派生キャラとして井手らっきょの「蜘蛛男」、グレート義太夫の「ビッグフット」なども登場した。
びっくり仮面
ドラマコントシリーズの一つ。たけしが演じる「びっくり仮面」がさまざまなシーンで乱入し、見つかると「びっくりしたなぁもう」と言うのがお決まりのオチであった。ギャグは三波伸介からのパクリであるが、当時すでにネタ元が若いファンには知られておらず、「びっくりしたなぁもう」がたけしオリジナルのギャグだと勘違いする者が多かった。
亀有ブラザース
たけしがヴォーカルとなり、タカ、枝豆、義太夫による生バンドを率いて歌を披露する(キーボードは、たけしがCDを出していた縁でビクター音楽産業小池秀彦ディレクターが多く担当した)。このコーナーを担当していたのは放送作家の小泉せつ子で、替え歌のほとんどを手掛けていた。オープニング(『ザ・ヒットパレード』のテーマの替え歌、『ヒットパレード』の部分を「引っ張れ」とかけて男性器などの俗称など(例・「チンポを引っ張れ」やタマキンと歌う替え歌)以下、すべて下ネタによる替え歌。ゲストアーティストに斉藤ノブ忌野清志郎などが参加した事もある。

1992年7月19日未明の『FNSの日スーパースペシャル1億2000万人の平成教育テレビ』での深夜スペシャル枠(『北野武の平成ファンクラブ』)においても、かまやつひろしつのだ★ひろMALTA吉田建難波弘之玉置浩二らをゲストに迎えて亀有ブラザーズが生放送されたが、その時もほとんど観る人がいない通常の放送時同様にビートルズの"Let it be"を替え歌にして延々「アトピー」を連呼し、これを観たアトピー性皮膚炎の患者団体から抗議がきた。和田弘とマヒナスターズの替え歌のときは、サビの高音が出ない[1]ため、本人に別枠(スタジオは同じ)で歌ってもらったこともあった。

また、メンバーが女装した「川口シスターズ」、力士の着ぐるみを着た「両国ブラザーズ」や、たけしがジョージ・マイケルに扮した「ブロンクスブラザーズ」、替え歌をカラオケ風の画面にした「亀有興商カラオケ」、歌謡ドラマ仕立てで歌う企画などもあったが、いずれも下ネタによる替え歌であることに変わりはなかった。
普段は後ろで踊っているデビル・ガールズが一度だけ単独で歌っている回がある(この時たけしは裏でひたすら踊っていた)。その際は普段と異なり、オープニングから性器の比喩の部分にもピー音が被せられていた(後で1曲たけしが歌っているが、同じ性器の比喩のところでピー音は被せられていなかった。歌い手が女性であることを考慮した措置であると思われる)。また、オープニングでピー音が被せられたのは、このときと最後の亀有ブラザースの演奏のとき(『足立区のたけし、世界の北野』。当時は北千住ブラザース)だけである。
DVD版や書籍では、2010年現在収録されていない。「歌詞を読めないくらい小さな文字で載せる」「購入者に後でコッソリ送る」「暗号あぶり出しで載せる」などのアイデアがあったが、実現しなかった[2]
早いよおじさん
コントの中で、いろんなキャラに扮した早いよおじさん(たけし)が「早いよ!」と突っ込む。『水戸黄門』の水戸光圀に扮した早いよおじさんが、印籠を見せる前に悪代官が「私がやりました」と言ったのを「早いよ!」と突っ込むコントなど。
鞍馬刑事
たけしが鞍馬天狗の頭巾に背広の扮装で現れるコント。強引なオチが特徴。『遠山の金さん』のパロディをやったこともある(「海パン刑事」のコントでも、たけしが奉行「遠山鞍馬の助」に扮したことはあった)。
刑事●林家ピー
たけしが林家ペー、枝豆が林家パー子に扮する刑事コント。最終的にたけしが林家彦六に変身するオチ。本人がコントに参加したこともあった。
パンツ宝塚
たけしと軍団メンバーが上半身は、『ベルサイユのばら』で下半身がパンツ一丁の扮装で登場し、宝塚歌劇団の出し物のパロディをするコントコーナー。オチは決まって「わっはっは」と大げさに笑った後で「すみれの花咲く頃」の替え歌「チ○ポの皮むく頃」を合唱する。
北野映画祭
東京スポーツ映画大賞との連動企画。番組では計3回を放送。崔洋一監督や所ジョージなど豪華なゲストも参加。
北野カルトQ
たけしのバイク事故による入院中の折、急場をしのいだ企画。司会はタカで、高田はコメンテーターとして解答者にツッコミをいれていた。一般視聴者、たけし軍団やオフィス北野の社員、たけしの友人(当番組プロデューサーの吉田宏、当番組美術の丸ちゃんこと丸山覚、テレビ朝日澤將晃プロデューサー、東通の海老谷充カメラマンなど)が参加した。ただし、本家と違って初級が10点、中級が20点、超カルトクイズが30点と設定され、最終問題で2位以下が必ず逆転できる得点が予告なしに設定されたが、逆転したケースはなかった。10週勝ち抜きで温泉旅行獲得で、CMプランナーの中根一薫が見事達成した。問題の読み上げは本家カルトQと同じ牧原俊幸アナウンサーや川端健嗣アナウンサーが担当した。
料理の凡人
上記企画と同時期に立ち上がった、『料理の鉄人』のパロディ企画。たけし軍団と素人女性がペアを組み、服部栄養専門学校にてテーマに沿った料理を作るというものだったが、あまりにもマズい料理が続出したため、審査員の服部幸應が激怒する場面もあった。後に、このコーナーはテレビ朝日愛のエプロン』に発展したといわれている。
漫才の哲人
バイク事故のたけし復帰後からの企画。番組内で軍団が組んだコンビがネタを披露するゴングショー形式のコーナー。冒頭は『料理の鉄人』にならい、鹿賀丈史に扮したガダルカナル・タカ(後述の「かしまし建設」登場以降は、枝豆が扮した)の語りからスタートする。B&Bの再結成をはじめ、ツービート(「松鶴家二郎・次郎」や「空たかし・きよし」の旧名で再結成された)、タカ・ダンカン・義太夫によるかしまし娘のパロディー(かしまし建設・太平建設)、最終回近辺ではたけしの「タケーシー高峰(ケーシー高峰のパロディ)」が登場するなど、長期間続く人気コーナーとなった。審査員はいつも辛口の高田とボケきれない人(吉田プロデューサーや八木マネージャーが多い)。また、一時期予選が行われ「ハンダンズ」などが本選出場をかけて挑むが、大部分がたけしによって落とされてしまった。また、若手が演じている部分はカットされることが多い中、雨空トッポ・ライポ北京ゲンジ、最終回近辺限定でなべやかん(ビートキヨシとのコンビで)はそのまま放映されることが多かった。なお、ツービート(ビートキヨシ)がレギュラー化するとツービートの漫才だけ別枠で流されるようになり、次第にゴングショー的要素は形骸化していく。
北野のささやき
これもたけし入院中の企画。TBS『クイズ悪魔のささやき』のパロディ。司会は、中井美穂(当時フジテレビアナウンサー)と、古舘伊知郎に扮したタカ。番組内のフリートークでネタにされ迷惑をこうむった人物が出演しその内容を告白。『悪魔のささやき』で「○○ビンボー」と紹介されていた画面は「○○メイワク」とパロディ化されていた。マネージャーを長年務めた菊池忠、神宮外苑の喫茶店・茜のマスター、デビル・ガールズ、北野屋の板さん、TBSの桂さんなどが出演した。
所ファンクラブ
たけし入院中の企画。所ジョージと高田によるフリートーク。番組トレードマークである「北野」の印判も、「所」に替えられていた。両方つっこみ型のため会話がかみ合わないところも見受けられた。また、1993年にイギリスで映画『ソナチネ』が注目され始め、BBCや映画配給会社からの招待で渡英し1か月ほどたけしが休んだ時期があり、そこでも所が代理で参加。このときも番組ロゴの印判が「北野」から「所」に変わっていた。
兼子ファンクラブ
たけしチームとキヨシチームで対決し、キヨシチームが勝ったため行われた企画。たけしはフロアディレクター、高田はカメラマンに扮した。しかし、二人のイタズラによる邪魔とキヨシ自身のトークのネタが続かなかったため、わずか数分で打ち切られた。その後は通常の『北野ファンクラブ』に戻っている。
人気番組パロディ
「クイズハンター」や「お笑いマンガ道場」「減点パパ」などの人気番組がパロディ化された。また、たけしが当時出演していた「たけし・所のドラキュラが狙ってる」のコーナー「ドラキュラ裁判」のセルフパロディも行った。
スポーツ企画
トークだけだとどうしても運動不足になるということで、不定期でスポーツ企画を放送。スタジオに三角ベースを用意してたけし・高田・軍団のメンバーの芸能人チーム対スタッフチームで野球大会を行った。
やっている人は面白いけど見ている人はつまんない企画
番組末期にスタジオ内で、たけしや高田が少年期に遊んだメンコやベーゴマ、ビー玉遊び等を展開。これが予想外に高視聴率を獲得した為、後番組「北野富士」へリニューアルしたきっかけの企画。

ゲスト

出演者

スタッフ

  • 企画:北野武鈴木哲夫(フジテレビ)、高橋松徳(フジテレビ・中期まで)
  • 構成:ダンカン、橋カツヒロ(初期)、そーたに(中期まで)、おちまさと(中期まで・1992年8月までは越智真人と表記)/ 小泉せつ子(初期の途中から)、竹内きよのり(中期以降)
  • ナレーター:槇大輔
  • 技術:水越行夫(初期)→ 小山内義紀
  • カメラ:松岡良治(初期)→ 林泰雄、野村和彦、近藤弘志、早川征典、谷下辰郎、原淑浩
  • 照明:ティエルシー(金子信男、斉藤由紀夫、矢作和彦、永田泰二、平野耕一)
  • 音声:入佐隆、鈴木一長、赤沼一男、八木岡清 → 門田晃(末期)
  • VE:池田健二、赤松比呂志(初期)→ 大和田謙一、曽根田三男、木部伸一郎、望月浩二郎 → 吉永明久(後期)
  • VTR:石河修一(初期)→ 堀部潤 → 原田安朗
  • 音効(初期は音響と表記):有馬克己(東京サウンド企画 → GYRO)
  • EED(初期は編集と表記):井戸清(VISUALBAY)
  • MA:豊田浩(RVC)→ 浅川広巳(BULL)、小田嶋洋(TAMCO)、山下知康(TAMCO)→ 大江善保(ビームテレビセンター・中期)→ 宇野雅史(VISUALBAY・後期)
  • TK:今泉暢子(MEN'S)
  • デザイン:金子俊彦
  • 美術制作:丸山覚、高松浩則(初期から中期)
  • 美術進行:菊地誠、伊藤則久(初期のみ)
  • 大道具:青沼哲雄
  • 小道具(初期のみ):竹内秀和
  • 黒板イラスト:ダンカングレート義太夫
  • 衣裳:高野知子
  • メイク:ユミビュアクス(初期) → アーツ(中期以降)、山本司朋、三上美奈
  • 技術協力:東通、VISUALBAY(ヴィジュアルベイ)、RVC(六本木ビデオセンター)、BULL、TAMCO、ビームテレビセンター、東京サウンド企画(1994年10月からGYRO)
  • 美術協力:アックス
  • 企画(初期は企画協力):オフィス北野
  • 協力:MEN'S
  • 収録スタジオ:渋谷ビデオスタジオ
  • 広報:森隆志(フジテレビ)
  • AD(スタッフロール表記なし):中山高嘉(ローラースケートで滑りながらカウントキュー出しした)、笠原裕明、藤保修一
  • プロデューサー:吉田宏(イースト)、梅本満(イースト)/ 河合徹(フジテレビ・中期から後期)
  • ディレクター(初期から中期):永山謙二(イースト・初期)、芳住昌之(イースト・中期)、森本正直(MEN'S・初回から中期)
  • 演出:つきざわけんじ(MEN'S)
  • 制作:イーストフジテレビ

ビデオ会報では、企画:吉田宏・プロデューサー:高橋松徳と入れ替わりになっている。

関連書籍

  • 北野ファンクラブ(1991年、監修 - 北野武、編著 - 高田文夫、フジテレビ出版)

ネットしていた局

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:前後番組 テンプレート:ビートたけし

テンプレート:JOCX-TV2
  1. たけしが誤って本来の裏声のキーよりもさらに1オクターブ高く出そうとしていたためである。
  2. 編著・高田文夫 『北野ファンクラブ』フジテレビ出版、1991年、p218