鶴瓶上岡パペポTV

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テンプレート:複数の問題 テンプレート:基礎情報 テレビ番組 テンプレート:基礎情報 テレビ番組鶴瓶・上岡パペポTV』(つるべ・かみおか パペポテレビ、英字表記:TSURUBE KAMIOKA PA-PE-PO TELEVISION)は、笑福亭鶴瓶上岡龍太郎を出演者として讀賣テレビ放送(YTV→ytv)制作、日本テレビほかで放送されていたトーク番組である。

概要

1987年4月14日から1998年3月31日まで、讀賣テレビ放送本社スタジオでの公開収録という形をとって放送された。番組開始当初(1987年4月~1988年3月)は毎週月曜日、1988年4月以降は毎週水曜日に収録していたが、1991年頃から月曜日収録に変更。(生放送はパペポシアター開催時と500回記念の2回だけ。また、1988年8月27日に読売テレビ開局30周年イベントの一つとして「鶴瓶上岡10000人のパペポTV大阪城ホールスペシャル」というタイトルの特番が生放送されている)。『パペポTV』としては1998年で終了したが、番組は同年7月から同趣旨の『LIVE PAPEPO 鶴+龍』(ライブ・パペポ つるとりゅう)に移行し、2000年まで続けられた(後述)。

放送状況

制作局・よみうりテレビでの番組開始当初(1987年4月~1988年3月)は火曜日深夜24:50 - 25:45の放送であったが、1988年4月からは、金曜日深夜25:10 - 26:05に枠移動。25:25 - 26:20放送→25:40 - 26:35放送と少しずつ放送時間帯が遅くなって行く。最後の半年は再び火曜日の放送(深夜25:40 - 26:35)に戻る。

日本テレビでの放送は、1988年10月のネット開始当初は月曜日深夜 25:10 - 26:05に放送されていた。最初の3回は「入門編」と称して過去の内容が放送されていた。そして、湾岸戦争時の影響による1990年12月から1991年3月までの放送休止時期を経て[1]、復活後は当初水曜日深夜26:30 - 27:25の放送となり、2ヵ月後元の曜日と時間帯に戻り、1994年10月にいったん木曜日深夜25:40 - 26:35に移動し(これは東京タワーのアンテナのメンテナンスのため月・火が早終了のためだった)、1995年4月には関西と同じ曜日で35分遅れの金曜深夜26:15 -27:10に移動し(ただし当日のものではなく、原則1週遅れでの放送であった)、番組終了まで続いた(ただし、最終回に限っては放送日の都合上、日本テレビでの放送が読売テレビよりも先行されたため、日本テレビでは最終回前週分は未放送)。

地方局での放送も深夜時間帯で、地方によっては途中でネットが打ち切られたり、逆に開始された局もあり、中には東海地区の中京テレビなど、途中で一度打ち切られた後しばらくしてからネットを再開した地域もあった。放送曜日・放送時間は地域によりバラバラであったが、石川県テレビ金沢に限ってなぜか土曜日の朝 9:30 - 10:25に放送されていた時代があった(開局当初はNTV同様月曜日深夜 25:10 - 26:05の放送であった)。(※以上の時間表記は全てJST

この番組は、読売テレビのディレクター(当時)の白岩久弥と構成の疋田哲夫が「笑福亭鶴瓶さんで番組を作ろう」と企画したのが始まりで、鶴瓶が共演相手に上岡龍太郎を指名して番組が始まることになった。しかし、肝心の番組内容がなかなか決まらず、結局「2人に決めてもらおう」ということで、1987年3月に特番で『鶴瓶上岡・激突夜話』(つるべ・かみおか げきとつやわ)が組まれる。ここでの2人の会話が後のパペポTVのスタイルになっている。

タイトルが示すとおり、鶴瓶と上岡の2人が、60分間トークのみを放送する番組。最近の時事問題から2人の身近な話題に至るまでシナリオなし、ぶっつけ本番の毒舌トークを展開させる。放送禁止用語も多く飛び出した。

収録は第1回 - 第65回放送分(1988年7月8日)まではよみうりテレビ旧社屋で行われ、新社屋移転後の第66回放送分(1988年7月15日)からは主によみうりテレビ本社第2スタジオ(収容限界人数約300名)を使用。新春スペシャルの収録や春休み、収録日が祝日に当たる場合等、観客の増加が見込まれる回の収録は通常のスタジオより大きい第1スタジオ(収容限界人数約600名)を使用していた。第1スタジオを使用する時の告知は番組内で「次回はちょっと大きいスタジオで収録します」というテロップが表示されていた。ただし1988年秋 - 90年秋は第2スタジオを夕方の帯番組『ざまぁKANKAN!』が使用していたため、第3スタジオ(面積及び収容人数は第2スタジオと同じ)または第1スタジオを使用した。第216回放送分(1991年7月12日)には、新橋演舞場で収録が行われたこともある(鶴瓶がそこで上演されていた松竹新喜劇に出演していたことによるもの)。

公開収録も原則として事前申し込みが必要なく、予告された収録日に配布される入場整理券を入手すれば、自由に見学することが出来た。整理券の配布は番組開始当初収録日の夕方に配布されていたが、観覧希望者がスタジオの収容限界人数を大幅に上回るファンが集まるようになり、早朝から並ぶ観覧希望者が後を絶たなくなったため当日正午配布に繰り上げられ、その後更に朝9時半に繰り上げられた(観覧希望者は朝に整理券を受け取り一度解散して、夕方に再集合していた)。ただし、後に出演者の両名のスケジュールの都合により2本分のまとめ撮りとすることが徐々に増え、朝から並んで順番を待つことが出来ない社会人などの救済措置を兼ねて2本目は事前にはがき申込みをして抽選に当選した視聴者にだけ公開するパターンが定着して行った。

よみうりテレビ旧社屋で収録が行われていた時代、観客は基本的にカメラの後方で観覧することになっていた(1988年新春スペシャル、1988年6月3日放送分を除く)。そのため、番組のエンディングの際に、鶴瓶・上岡両名が通称「鶴瓶ダンス」をしながら番組セットからカメラの方へ飛び出したり(1987年7月14日放送分)、「浜寺の水練学校」をテーマにした即興漫才が行われた際に、鶴瓶がオチとして「後は任したー!」と叫びながらカメラの方へ泳ぐようにしてフレームアウト(1988年7月8日放送分)というような演出がたびたび行われていた。新社屋移転後は、観客が番組セットの目の前に座って観覧するようになったため、前述のようなことは一切無くなった(例外として、第176回と第370回放送で無観客による収録が行われた際には、昔を懐かしむ形で前述の行為を再現していた)。

また、番組開始当初は郵政省(現・日本郵政グループ)が「郵便局」のクレジットで1社提供していたことから、番組の最終コーナーではゆうパックを使った「ふるさと小包プレゼント」を開催していたことがあり、そこで視聴者の感想文に答えていた(のちに郵政省筆頭の複数協賛スポンサーとなってからも続いたが、郵政省はその後スポンサーを降板したため「ふるさと小包プレゼント」は廃止となるが、感想文紹介は行われ続けた)。

番組企画・イベント

番組のイベントとして、大阪・梅田ダイヤモンドプラザで開催した「パペポシアター」(1988年3月21日 - 27日)、大阪城ホールで2回(1989年10月3日・1992年5月13日)、日本武道館(1992年5月25日。武道館でこういったトーク・イベントは初だった)・ニューヨークでトーク・イベント(1996年9月28日)を開催した。

さらに1990年3月25日、番組で「2人が相撲をとったらどちらが勝つ?」という話から「嵐の春場所」と称し長居公園でイベントを開催し2万人を集め、客の押し合いで5人が怪我するというハプニングもあった(このときの新聞の見出しには「救急車ピーポーパーペーポー」と書かれていた)。なお、この時の勝敗は収録で東京に行った上岡の代理で弟子のテントが、鶴瓶に5回とも倒されている(この「長居パニック」は、後の武道館イベントにつながる)。同日に行われた大相撲大阪場所の千秋楽よりも人が入ったという(大相撲の約1万人に対し、当イベントは約2万人もの観客が来場した。番組中の公表による数値)。

また、番宣ポスターを制作したことがある。鶴瓶・上岡両名が上半身は燕尾服姿も下半身丸出し(当然モザイク処理されている)で写っており、糸井重里が考案した『見てるあんたも同罪じゃ。』というキャッチコピーがつけられたシロモノであった。(当時はヘアヌードの解禁が話題となっていたこともあり、それに便乗したアイデアと言われている)番組最後で葉書が読まれた視聴者にプレゼントされたが、中には「こんなもの受け取れません」と番組に送り返した視聴者もいたが、強制的に再び番組から送り返された(らしい)。パペポシアターの時も、ポスターを録っている。上岡は、(上下)タキシード。鶴瓶は、上だけタキシード。ただあの部分は、前張りを張っていた。が、ポスターが完成したら、その部分が白くボヤケ、鶴瓶にポスターにサインを頼むとその部分にサインをしていた。

パペポシアターに関しては、1988年6月10日に開催3日目のトーク(合計90分)を収録した音源が50ページ冊子付きのカセットブックとして東芝EMIから発売された。

公開録画が原則の番組であったが、収録当日のトラブルや意図的な理由などで観客を入れずに放送した回が5回あった。

1回目(1990年9月21日放送)
収録時に近畿地方を台風が直撃したため、収録直前に観客を帰らせた。
2回目(1990年10月19日放送)
観客なしの放送が新鮮であったため、もう一度やってみたいという鶴瓶・上岡の申し出による。なお、この回では特別に、普段ではコマーシャルのためにカットされる部分のトークが放送された。
3回目(1994年8月26日放送)
2本撮りの予定であった日に鶴瓶が食中毒で倒れて出演できなくなり、上岡が1人で出演して1時間喋った回があった。この影響で、その日は1本しか収録が出来ず、その翌々週も2本撮りのスケジュールが組まれていたため、翌々週が3本撮りに変更された。しかし3本目の収録が夜遅くになるため、家に帰れなくなる人が出てしまう恐れがあるという問題が発生し、3本目の収録が無観客で行われることとなった。なお、この放送のオープニングトークで、上岡がちょっとしたことで笑う番組スタッフに対し、「我慢するとか、遠慮するとか、空気を考えるとか、周りのムードを読むっちゅうことがでけんのか、お前には!」と本気で激怒した。スタッフの笑い声が入るような、いわゆる「内輪だけの笑い」は、視聴者が見ていて一番不快で面白くないというのが理由であった。
4回目(1995年1月27日放送)
阪神・淡路大震災の影響によるもの。俗に言う「怒りのパペポ」。27日放送分(23日収録)は阪神・淡路大震災直後で「笑わすことができない」ということで二人だけの収録となった。以下に示す二人が発した主な発言の通り、被災者(鶴瓶)として、またはテレビを見ていたもの(上岡)として、後手に回り人間的かつ柔軟な対応ができないタテ割り行政や、人間としての資質を疑うような言動をするマスメディア(特にテレビメディア)への怒りをあらわにした。なお、オープニングテーマもエンディングテーマも流れず、放映の最後にはよみうりテレビの親局である日本テレビ制作の『24時間テレビ』への批判まで出た。
5回目(1997年4月4日放送)
500回を記念して生放送で行われた。この放送の終盤で上岡が鶴瓶をそそのかし、生放送であるにもかかわらず放送禁止用語(関西弁で女性器の意味を表す俗語)を鶴瓶が言ってしまったところで提供に入り、生放送が終了した。ただし日本テレビを始め同時ネットされていない局では上からピー音でかぶせられていた。翌々週の放送(翌週の放送分は500回記念生放送前に収録されたため)で鶴瓶はその発言に対し謝罪した。

なお、通常の放送ではオープニングから最初のCMまでの間とCM明けの座りトークの冒頭約2分間、そしてエンディングの場面でBGMが挿入されるが、無観客の回に限り全編BGMなし(1,2,4回目)、またはオープニングのみ挿入(3,5回目)という形で放送された。

主なスタッフ

構成
  • 疋田哲夫
  • 鹿児島俊光(番組初期)
  • 藤本多賀雄(番組後期)
プロデューサー(1993年1月まで1人、1993年2月より2人体制)
  • 岡島英次(番組開始 - 90年7月)
  • 池田智(1990年8月 - 1992年9月・1993年2月 - 1996年7月)
  • 白岩久弥(1992年10月 - 番組終了まで)
  • 西村良雄(1996年7月 - 1997年2月)
  • 松下泰紀(1997年2月 - 番組終了まで)
ディレクター(1991年1月まで及び1993年1 - 3月は1人、1991年2月 - 1992年12月及び1993年4月以降は2人体制)
  • 白岩久弥(番組開始 - 1992年12月、1993年4月 - 1996年4月。1991年2月よりチーフディレクター。1992年10月以降はプロデューサーを兼務)
  • 武野一起(1991年2月 - 1993年3月。番組開始から1991年1月まではADとしてエンドロールに表記されていた)
  • 高津英泰(1993年4月 - 番組終了まで。1996年5月よりチーフディレクター)
  • 内海博久(1996年5月 - 1997年6月)
  • 西川義嗣(1997年7月 - 番組終了まで)

テーマ曲とセット

テーマ曲は番組開始~提供までの立ちトークの間とエンドロール時に使用。立ちトークがいつ終わるかわからないため、エンドレスに加工して使用していた。選曲はすべて白岩プロデューサーが行い、番組の雰囲気に合う最新洋楽ナンバーを中心に選曲されていたが、一部例外として邦楽の英語詞ヴァージョンや、CD化されて再発売されたクラシックヒットナンバーの中から選曲されたケースもあった。

1代目セット時代(1987年4月 - 1989年3月)
正面背後にピンクの大砲を配置した、当番組の象徴ともいえるセット。関西ローカル時代に作られたもので、最もシンプルな雰囲気の造りであった。
2代目セット時代(1989年4月 - 1991年7月)
全国ネット化から半年後に、セットの模様替えを実施。1代目セットをベースに、「PAPEPO」の文字の電飾看板を配置するなどグレードアップしたもの。ピンクの大砲は舞台向かって左側奥に移設された。
  • HE AIN'T NO COMPETITION(BROTHER BEYOND)
  • IF I DON'T HAVE YOU(JASON DONOVAN)
  • CAN'T DENY A BROKEN HEART(ANNICA)
  • SECRET LOVE(ビージーズ
3代目セット時代(1991年8月 - 1993年5月)
全面模様替え。より大きな「PAPEPO」の文字の電飾や、背景ホリゾントに回転する「PAPEPO」の文字を映し出すライトを配置。茶色系配色を中心としたセットで、舞台背景全面に電飾を使用していた。
  • WHEN THE LIGHTS GO OUT(GERARDO)
  • GIVE ME JUST A LITTLE MORE TIME(MIC MURPHY)
  • ADDAMS GROOVE(ハマー
  • CHIC MYSTIQUE(シック
  • TAKE MY ADVICE(KIM SIMS)
  • GET LOVE~ENGLISH VERSION(横山輝一
  • FULL TERM LOVE~Club Mix Edit(MONIE LOVE)
4代目セット時代(1993年6月 - 1995年12月)
回転する「PAPEPO」の文字のライトを除いて、全面模様替え。巨大な本や文具、スタンドなどを模したセットが置かれた机の上、背景は橋や高層ビルの町並みをイメージして造られたセットが用意された。
  • TWENTY-FIVE HOURS A DAY(THE HOOTERS)
  • TUESDAY MORNING(THE POGUES)
  • I ONLY WANT TO BE WITH YOU(BLIDGETTE WILSON)※オープニングのみ
  • STAY(ETERNAL)※エンディングのみ
  • GIVE IT UP(CUT'N'MOVE)
  • SWEETS FOR MY SWEET(C.J.LEWIS)
  • DAYDREAM BELIEVER(THE MONKEES)
  • WON'T WALK AWAY(NELSON)
  • TOTAL ECRIPSE OF THE HEART~ボーナストラックREMIX(NICKY FRENCH)
  • I'LL BE THERE FOR YOU(THE REMBRANDTS)
5代目セット時代(1996年1月 - 1997年9月)
4代目セットをベースに、より派手な電飾を施したセット。机の上を模した舞台は変わらず、「TK」の文字の形をした電飾ミラー、アーチ状の建物、受話器を天井から吊り下げたピンク色の巨大な電話のセットなどを配置。PAPEPOの文字の形をした謎の生物6体がペンキを塗ったりこぼしたりしている様子などを表現していた。
  • DUB-I-DUB(Me&My
  • THE RIGHT TIME~ディスコバージョン(ザ・コアーズ
  • LAST NIGHT(C.J.LEWIS)
  • SOONER OR LATER(THE GRASS ROOTS)
  • RING A LING(TIGGY)
  • MY OH MY(アクア
6代目セット時代(1997年10月 - 1998年3月)
全面模様替え。これまでの派手な電飾路線から一転して、砂漠を背景にした西部風の落ち着いたイメージのセットに変更されたが、僅か半年後に番組が終了することとなった。番組終了の背景には、白岩プロデューサーが1998年4月付で吉本興業系番組制作会社のワイズビジョンへ出向することとなり、松竹芸能系番組である当番組の制作に関わることが実質不可能となったことが大きく影響したと考えられている。
  • UNTOUCHABLE(RIALTO)
  • WHAM BAM(THE SCARLET)

放送されたネット局

※1991年8月発売のテーマ曲のCDジャケットには「全国17局ネット」と書かれており、途中から開始したり打ち切られる放送局はあったものの、概ね15 - 20局でネットされていたと考えられる

LIVE PAPEPO 鶴+龍

「パペポTV」の制作に欠かせないスタッフであった白岩プロデューサーが吉本興業系の番組制作会社「ワイズビジョン」へ出向することとなったため「パペポTV」は1998年3月で一旦終了するが、3ヵ月後の同年7月7日から制作スタッフと収録体制を一新した新番組『LIVE PAPEPO 鶴+龍』と題し、30分番組として復活した。

放送時間は当初火曜深夜24:50 - 25:20で、1999年4月から『DO-YA』枠の土曜深夜24:55 - 25:25に枠移動した。関東・日本テレビでは「パペポTV」と同じ金曜深夜26:15 - 26:45の枠で放送された。なお、パペポTVをネットしていた局がすべてこちらもネットした訳ではなかった。

こちらはスタジオ収録ではなく、スタジオを飛び出して全国各地の観光地などでのゲリラ的収録を敢行した(ただ「いつ、どこで収録します」という告知は番組でなされていた)。収録会場は主に京阪神地区の中から選ばれ、1回で2本分(60分)収録するスタイルが基本となっていたが、数回に1回の割合で関東や中部など、番組が放送されているその他地域への遠征も行われていた。また、ごく稀に3週に分けて放送された回もあった。

関西地区以外のロケ地、遠征先
スタッフ
  • 構成 疋田哲夫 藤本多賀雄
  • ディレクター 前西和成 新宅淳 小金澤ゆき
  • プロデューサー 荻原武博 佐藤恭仁子
  • チーフプロデューサー 松下泰紀→松本芳久
  • 協力 リバーボトル
  • 制作協力 松竹芸能 上岡プロモーション

脚注

テンプレート:Reflist

テンプレート:前後番組

テンプレート:笑福亭鶴瓶

テンプレート:上岡龍太郎テンプレート:Asbox
  1. フジテレビの『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』で突然発表された。ただし、1991年の新春SPだけは放送された。