水木しげる
テンプレート:Infobox 漫画家/sandbox テンプレート:Sidebar with collapsible lists 水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年[1]3月8日 - )は、日本の漫画家。勲等は旭日小綬章。本名は武良 茂(むら しげる)。
鳥取県境港市出身[2]。(旧:西伯郡境町)東京都調布市在住。ペンネームは、紙芝居作家時代に経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家としてデビュー。代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。
概要
大阪で生まれ、鳥取県で育つ。幼少時、まかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)に可愛がられ、彼女が語り聞かせた妖怪話の強い影響を受けた。
高等小学校卒業を経て、画家を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し、近眼であったが体躯壮健で徴兵検査は乙種合格、補充兵役編入(現役兵ではなく補充兵のため入営はせず)。1943年、夜間中学3年生在学時に召集され帝国陸軍の軍人(兵)となった。太平洋戦争下のニューギニア戦線・ラバウル方面に出征、過酷な戦争を体験。同地で爆撃を受け左腕を失う。一方で、現地民のテンプレート:仮リンクとは親しくなり、ニューブリテン島に残ることも希望したが適わず、再会を約束して帰国した。
復員後、貧窮により画家になるのを諦め、生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。1958年、貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。1961年、布枝婦人とお見合いで結婚。
1963年、代表作『悪魔くん』を貸本の東考社から出版したが、貸本漫画界が下火になったことから、1964年に『ガロ』で商業誌デビュー。1965年に『テレビくん』が講談社児童まんが賞を受賞したほか、貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、以降、妖怪を扱った作品により人気作家となった。1966年には『悪魔くん』が水木作品として初めてテレビドラマとして映像化された。最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より5度TVアニメ化されている。
長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章を受章。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。調布市名誉市民、東京都名誉都民。2010年に文化功労者にも選ばれた。
来歴
生い立ち
1922年(大正11年)3月8日、大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区東粉浜[3])に生まれた[4]。父・武良亮一、母・琴江の次男。水木によれば、当時父親の亮一は、親戚が大阪の梅田駅近くで経営していた印刷会社で働いていたという[3]。身重の母親・琴江は夫に会うために境港からやってきて、大阪で水木を産んだ[3]。父は共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興す為に、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現在の境港市入船町)に帰した[4]。境港に戻った理由は「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」からという[3]。水木が境港に戻った年齢についてははっきりとわかっていないが、生後まもなくから2歳ぐらいのときとされている[5]。
その後間もなく父は事業に失敗して帰郷[4]、結局は一家全員が境港に落ち着くことになった[4]。
5歳の頃のある日、「死」に興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹(大叔母)に「やいと(灸)」をすえられた[6]。
少年時代
比較的に恵まれた環境で育つが学校の勉強はできる方ではなく、両親が尋常小学校入学を1年遅らせたほどだった。自身も認める超マイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという変わった生徒だった。当時、「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。また、屁を自在に出すことができ、朝礼のおりなどに放屁して子供たちをワッと笑わせるのが得意だった[7]。
やがて二つ上の兄や二つ下の弟は成績が良かったため旧制中学校(高校)に進み[8]、勉強そっちのけだった水木も進学を希望した[8]。だが母が学校に進路相談に赴くと、先生は「無理じゃろう」と即答したという[8]。結局、進学を断念して無試験の高等小学校に進む事になった[8]。
青年時代
1937年(昭和12年)3月境港小学校高等科卒業後、働き先を探す為に親類を頼って大阪に出る。たった一人でふるさとを離れて働きに出る水木のことを不憫に思い、また学歴を気にする性質だった母は「中学に行く人たちとの差は開くばかりだよ」と心配そうに嘆いたという[9]。大阪では石版印刷の図案職人見習いとして就職するもマイペースさから仕事に付いて行けず、僅か2ヶ月でクビになる[10]。次は大阪・寺田町にある小村版画社に入社したが、これも短期間で解雇された[11]。その後、体調を崩して黄疸の症状が出た為に田舎へと戻る事になった[12]。
帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな道(絵の勉強)に進ませる事にした。水木は「もう職探しはやめて絵の勉強を…」という父の言葉に躍り上がったと回想している[13]。勉学が苦手な自分の気質を考慮して、様々な美術学校から「試験や入学資格の無い所」を探したという。やがて大阪の上本町で精華美術学院という専門学校を見つけて父と共に足を運ぶも、教員と校長と事務員が同一人物という個人塾のような所で、授業内容もデッサンとは名ばかりの実践的な図案講習会に近かった[14]。画家になるんだと思い詰めて一心不乱に独習を重ねてきた水木の方が、もったいぶって教える先生より技倆(ぎりょう)が上だった[14]。失望から程なく学校には行かなくなり、近所の森や山で時間を潰す日々を送った。
上記の反省から学校を選び直す事を思い立ち、東京美術学校(現・東京藝術大学)に進んで本物の画家になりたいという大きな夢が膨らんだ[15]。 しかし高等小学校卒の水木は、芸大の受験資格がなかった[15]。そこで、卒業しても受験資格がもらえない専門学校の精華美術学院を辞めて旧制中学校を再び目指し、大阪府立園芸学校(現・大阪府立園芸高等学校)を受験した[15]。幸運にも同年の筆記試験は国史(日本史)の一科目だけであり、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ[16]。加えて定員50名に対し受験者51名(つまり一人だけが落ちる)[16]という倍率で、絶対に合格すると自信満々で結果すら見に行かなかったが、父が確認すると不合格だった[17]。
水木は不合格の原因について、面接で「卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「満蒙開拓義勇軍に入ります」というのが模範回答だが、旧制中学校卒の資格が目当てであって別に園芸や農業に興味はないと正直に答えたためではないかと推測している[18]。流石の水木も惨めな思いをしたが、父は怒らず「本当に満州行きになったらどうするんだ」と優しく慰めてくれたという。
1940年(昭和15年)新聞配達で働きながら別の学校(日本鉱業学校採掘科)を受験、今度は合格する。しかし例によって専門科目に全く興味が抱けず、成績不振且つ欠席が多く半年で退学処分となった[10]。間もなく新聞配達も辞め、大阪の朝日ビルディングの中にあった中之島洋画研究所に通っていた。水木は両親と今後を話し合い、両親から日本大学付属の旧制大阪夜間中学校(現・大阪学園大阪高等学校)への進学を勧められ、同校に入学した[10]。昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事をし、休日には宝塚ファミリーランドの動物園や昆虫館、宝塚歌劇によく足を運んでいた[19]。そうした中、太平洋戦争が勃発する。
軍隊時代
20歳になった水木は徴兵検査を受け[20]、結果は体は頑健ながら近眼により乙種合格で[20]、補充兵役に編入され現役入営(入隊)はしなかった。だが戦争が激化する中で(甲種合格の現役兵主体では兵員不足のため)次第に召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書を乱読し、仏教書や聖書など宗教文献を読み漁った[21]。その中で一番気に入ったのが、ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』で、これは戦地にも持っていった。21歳の時、夜間中学3年生の補充兵役であった水木に召集令状が届き[20]、本籍地の鳥取の歩兵第40連隊留守隊に入営した[20]。なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。
軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂で幹部と間違われて古年兵に背中を流してもらった[22]。初年兵教育を終えると喇叭手になったが上手く吹けず、自ら配置転換を申し出た[23]。最初は取り合ってもらえなかったが、三度目に曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた[23]。国内配置についての事だと考え、寒いのが嫌いなので「南であります」と答えた[23]。てっきり九州など国内南部の連隊への配属になると思っていたが、南方のラバウル行きが決定したと告げられて青ざめた[23]。楽天家の水木も南方戦線の惨状は知っており[23]、異動命令の直後に二泊三日の外泊が許されて両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという[23]。
歩兵第229連隊所属となった水木をパラオからラバウルまで輸送したのは、日露戦争で活躍した老朽船の「信濃丸」だった[24]。敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ、水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後にラバウルに派遣された部隊は全て途中で沈没させられているため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊であった[25]。ラバウルに着いた時、上陸できた奇跡から気が緩んで「ここは何処でありますか」と尋ねてしまい、上官から猛烈な往復ビンタを食らった[26]。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で[27]、「ビンタの王様」というあだ名がついた[27]。その一方で、水木が所属していた第2中隊の中隊長である児玉清三中尉(30歳代後半の材木屋出身の予備役将校)からは、その腕を買われ似顔絵を描く事をよく頼まれていた[28]。
ニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。優れた装備と圧倒的な物量の連合軍の前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。しかし、支隊本部の総員玉砕報告に反して生存者が出たことから、児玉は責任を取って自決した。また島の住民にも襲われそうになった。バイエンに配属され、決死隊として夜間の見張りをしていたとき、敵の飛行機から機銃掃射された[29]。さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海にとびこんで逃げた[30]。水木は銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、落ち武者狩りをやりすごしつつ、奇跡的に生還した[31]。
九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられ、「なぜ死ななかったのか」と詰問された。この経験から虚無主義的な考え方をするようになった。また帰還してまもなく水木はマラリアを発症、追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負った。軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。傷病兵部隊に送られるが、そこで島の原住民との交流がはじまる。住民はとても親切で水木に果物などの差し入れをしてくれた。
1945年、戦地で敗戦の報告を受ける。周りの上官達は泣き崩れて敗北を悔しがったが、水木は「生き延びられた事への喜び」を抱いたという。連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、現地除隊して永住することを考えたこともあったが[32]、家族に会った方が良いという助言から帰国を決意した。1946年、24歳の時に駆逐艦「雪風」で日本へ復員した。
片腕を失ったことに対して水木は、「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。
美術学校時代
1946年、3年振りに故郷に戻った水木は片腕の本格的な治療を受けながら、故郷で養生する日々を送った。両親が片腕を失った水木の不幸を悲しむ中、水木自身は生き抜いた喜びと「絵を続けられる」という希望を胸に抱いていたという。
食料の買い出しをしたり、病院直属の染物工場の絵付けの仕事をして生活費を稼ぎながら、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)が学生を募集中と知る。すぐに入学を思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校の卒業資格が必要だった。水木は件の夜間学校に掛け合ったが、「出征により退校」となっていた事から卒業資格は与えられないと回答された。それでも在学証明書を貰って美術学校に直談判し、特別に入校を許可される。1948年、26歳の時に入学した美術学校は敗戦直後という事もあって学生の服装は古びていて、技術や年齢層も不揃いだったが懸命に学んでいたという。
入学後、染物工場が倒産したため教会で施しを受けたり、「新生会」という傷痍軍人の団体に参加して魚売りをするなどした[33]。その後、魚売りの権利を売り、その金で輪タクを四台購入して一日五百円で貸し出すが、輪タク稼業はすぐにじり貧になる[34]。そして、起死回生を狙って「新生会」の副会長と二人で全国募金行脚を挙行することになる[35]。募金旅行の途中で立ち寄った神戸市兵庫区水木通のアパートで家主に持ちかけられた話に乗り、借金の肩代わりを条件にこのアパート「水木荘」を譲り受け、貸家経営を始める。
学業の方は絵で食べていく事の厳しさを痛感する中で徐々に見切りを付け始め、数年後に中退した[36]。これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々学校に行ったが、結局は高等小学校卒という事になった」と回想している。
紙芝居・貸本作家時代
アパートの住人に紙芝居作家がいたことから、紙芝居の語り手として名人だった鈴木勝丸の阪神画報社に所属し、また加太こうじを紹介され、紙芝居作家として作品を描く。ペンネームの「水木しげる」は、鈴木が本名を覚えてくれず、いつまで経っても「水木さん」「水木さん」と自身を呼ぶため、それに従ってつけた。貸家経営も紙芝居も次第にジリ貧となり、経済的に逼迫した毎日が続く。この頃すでに、『墓場の鬼太郎』『河童の三平』を描いているが、紙芝居は使い捨てで「後世に残す」という部類のものではなかったため、水木の紙芝居作品は現存していない。
その後、テレビの普及等で紙芝居が廃れたことからアパートを整理して1957年に上京。翌年の1958年に『ロケットマン』で貸本漫画家への転身を果たす。各地を転々としていたが、調布市に家を買い、現在もその地に住んでいる。貸本時代の水木は、主に戦記漫画や怪奇系漫画を描いたが、他にもSF漫画、ギャグ漫画、少女漫画、時代劇などの多彩なジャンルを、さまざまなタッチで描き分けている。また、この頃の画風には、海外の幻想的な絵画やアメリカン・コミックスの影響が大きい。また、ストーリーは翻訳された海外の短編小説から大きな影響を受けている。戦車等の劇画の草分け的存在、小松崎茂にも影響を受けた。しかし貸本業界も零細産業であり、頼りの原稿料を反故にされたり、版元の倒産のため全く稿料がもらえなかったということもざらだった。また、当時の水木の漫画は、マニアックな読者には人気だったが、一般読者には人気がなく、そのため事前の約束より原稿料を値切られることもしばしばだった。
『鬼太郎夜話』の一編「亀男の巻」は版元が倒産した際の混乱で出版もされずに原稿が紛失してしまっている。
あまりの貧しさに、訪れた税務署員は「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑ったが、水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と怒って追い返した。この時代に描かれた『貸本版・悪魔くん』の「この間違っている世の中を倒して、革命を起こす」という過激な思想は、当時の水木の「懸命に働いても貧乏が続く」自身の生活の悲しみと憤りから発している[37]。
結婚
この貧乏生活のさなか、すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県能義郡大塚村(現在の島根県安来市)出身の飯塚布枝と見合いで1961年(昭和36年)に結婚。見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚であり[38]、式場は米子の灘町後藤のお屋敷[39]だった。間に立ったのは布枝の母の弟で、この叔父の妻の実家が武良家の遠縁だった[40]。
なお、見合いから結婚式の間、水木は母親の厳命で左手に義手をつけていたが、本人は義手が大嫌いだったため、以降は義手をつけることはなかった。結婚後身体の不自由さについて愚痴を言うことなく、あらゆることを人の手を借りず行おうとする態度に布枝は感嘆した。
布枝は上京して、水木のあまりの貧乏生活に驚く。水木は母親が上京してくるのを恐れて自分の家族にさえ貧しさを隠していたため、見合いの際は、「東京でそれなりの暮らし」と偽っていた。だが、布枝は水木の非常に熱心な仕事ぶりを見るうち、次第に尊敬の念が湧き、器用だったため漫画のアシスタント役もこなした(『墓場鬼太郎』など)。また、夫婦で「連合艦隊の再現」を目指して「軍艦の模型作り」を楽しんだりもした。
成功
長女が生まれて生活がさらに困窮する。しかし、長い貸本作家としての活動を経て、1964年、長井勝一編集の雑誌『ガロ』創刊号で、漫画家として雑誌デビュー。『ガロ』には『新講談 宮本武蔵』、『鬼太郎夜話』(鬼太郎シリーズ)、本名の武良茂名義での「親切なる漫画のかき方」などを連載した。当時の『ガロ』は“白土三平の『カムイ伝』を載せるための雑誌”だったが、水木のユーモラスな作品も、読者の人気を呼んだ。
その後、W3事件の影響で「劇画路線」を採用した『少年マガジン』編集部から執筆の依頼がくる。1965年には『別冊・少年マガジン』に掲載された『テレビくん』が、講談社児童漫画賞を受賞。40歳を過ぎてようやく人気作家となる。なお、貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのに、非常に努力したという[41]。
その後、『悪魔くん』や『墓場の鬼太郎』(鬼太郎シリーズ)、『河童の三平』など主に妖怪が登場する漫画を発表し、妖怪漫画の第一人者となる。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界は一大妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語だった「妖怪」が、一般に伝わる経緯ともなった。また、『少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も、水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。
1966年に水木プロダクションを設立。初めてまともな原稿料が入るようになり、またアシスタントを多数使えるようになったため、水木漫画おなじみの「点描が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した非常にユニークなものである。なお、それまでの貧乏生活で、質屋に入れていた物品は質札3㎝分にもなっていたが、雑誌連載の原稿料ですべて返済し、質流れになることなく取り戻すことができた。ただ、最初に質屋に入れた背広は、10年経って変形していたので外につるして置いたら、ドロボウに盗まれてしまったという[42]。
1970年には連載が11誌に達し、テレビやイベントの仕事も増え始める。慢性的な寝不足の中で翌年も連載を10誌抱え、思案の末に仕事をセーブするようになる。連載がない間、アシスタントには妖怪の絵を手伝って貰い、やがて膨大な数の妖怪画が蓄積されていった[43]。
その後は鬼太郎作品の度重なる映像化などで収入も生活も安定するが、1980年代初期には低迷期もあった。水木家では、夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほどのピンチだったという。水木は自信を失い、「妖怪なんていないんだ」と言い出すほどの落ち込みぶりだった。だが、次女が修学旅行で「目々連」を目撃し、その話をしたところ、水木は喜んで立ち直ったという[44]。
1985年の鬼太郎の再アニメ化や、『のんのんばあとオレ』『コミック昭和史』などの自伝的な作品で、水木自身の特異なキャラクターと昭和の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、再ブームを巻き起こし現在に至っている。また、これまでの功績が称えられ1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章を受章する。
妖怪研究家として
1966年から『少年サンデー』連載の「ふしぎなふしぎなふしぎな話」で妖怪画を発表し始める。やがて、『少年マガジン』増刊の『日本妖怪大全』を経て、1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も「妖怪図鑑」の類を多数執筆している。
水木は妖怪を題材にするにあたり、古い文献や絵巻などから多くの伝承や妖怪画を蒐集してゆく。そして、鳥山石燕など古典の画が存在する場合は参考にして描き、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」など文字の記録のみで古典の画が存在しないものは、水木によって初めて絵として描かれていった。そのため多くは水木が創造した形であり、現在の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている。
大衆の中で失われていた多くの妖怪を救ったともされ[45]、こうした仕事に対しては、水木を妖怪文化の継承者にして布教者などと評す声もある[46]。一方、出典が不詳のため、創作の可能性を指摘されている妖怪(樹木子など)も幾つか描いている[47]。
また、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明したように、近年の研究で水木の創作以前の絵が発見された例もある。
1980年代には『水木しげるの妖怪事典 正・続』、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。1992年には『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となる。1998年からは、1600点以上の妖怪画を収録した『妖鬼化』シリーズの刊行が開始。
水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年に世界妖怪協会を設立して会長となる。荒俣宏、京極夏彦、多田克己らが会員となり、「世界妖怪会議」が開催される。1997年からは、世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『怪』(角川書店)が刊行開始。水木も漫画を執筆している。
それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国のドゴン族、マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示している。
大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『水木しげるの妖怪画集』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。それらの結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えるようになる。
のんのんばあと水木
のんのんばあとは彼がベビィ(水木語で“子供”の意味)の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである[48]。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていた[48]。
景山ふさの素姓について、水木の母・琴江によると「(松江の)士族の娘。貧乏侍。…親父は足軽」という[49]。
ふさは子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれた[48]。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている[48]。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。
ふさは水木が小学5年生の時に死去した。
幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名が『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。
戦争
戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が放送された。
水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官である砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった。砂原は2004年(平成16年)1月28日に逝去したが、1999年(平成11年)7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。
また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。それでも、アドバイスに従い、大戦前期の戦果を挙げた戦闘に取材した漫画も描いたが、題材が敗色濃厚になる末期に移るにつれ、案の定売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた[50]。
『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた[51]。
人柄・性格
現在の一人称は「水木サン」である。「私」や「僕」、「俺」を使っていたこともある[52]。
「胃が丈夫だった」と称し、幼少時から大食漢であり、「ズイダ」というあだ名(「何でも食べる浅ましい者」という意味)がある。そのため、戦中、戦後の食料不足の際は、非常に辛い思いをしたという。90才を過ぎた現在も食欲は非常に旺盛で、特に病気もなく健康そのものという。自身のツイッターでも度々、食事や間食の様子が書かれている。
座談が面白いことで有名で、多忙な水木のため、水木プロには「面談30分」という貼り紙があったが、水木自身がそれを無視して来客と何時間も会話を楽しんでいたという。なお、テレビに出演してトークをしたことがあるが、ダイナミックに左右に体を動かして話すため、テレビのフレームからはみ出して喋っていたこともある。
自身を漫画のキャラとして登場させることが多いが、『コミック昭和史』のような自伝的作品を除いて、「左手はある」ように描かれている。また水木の自画像は「現在の顔」と比べると細長く描かれているが、実際に貸本漫画家時代の水木は、十分な食事が取れないこともあって、やせて細い顔をしていた。
初期の作品には、海外の短編小説等からストーリーを転載したものが多かったが、著作権に対する認識が浸透していない時代であり、問題とはならなかった。ただし、1966年に朝日ソノラマから刊行された『猫又』に収録された短編「太郎稲荷」は、星新一作品とのストーリーの類似が指摘され、水木は盗作を認めて謝罪。朝日ソノラマが和解金を星に支払い、単行本『猫又』は「太郎稲荷」が削除された版が刊行された[53]。
家を改築するのが好きで、気が向くままに自宅を改築した結果、トイレ5つ、風呂場3つ、階段5ヶ所の2階建て、しかも3階がある部分もあるという迷路のような家になってしまったという。そのせいか、『東西奇ッ怪紳士録』には「二笑亭主人」「フランスの妖怪城」(郵便配達夫シュヴァルの理想宮)の建築道楽の2篇が収録されている。
売れない貸本漫画家時代から、膨大な「絵についての資料」をスクラップ・ブックにしてコレクションしていた(貸本漫画家時代は100冊。現在は300冊を超えるという)。また、「ハヤカワ・ミステリ」などの書籍も「ネタになる」と、多数購入していた。妖怪関連書も神保町の古本屋で、古いものまで集めていた。それを見た桜井昌一は、「この人は絶対、世に出る」と感じたという。のちに、若き時代の呉智英などが、その資料の整理を手伝った。
ゲゲゲの鬼太郎の主題歌そのままに朝寝を好む。NHKの『あさイチ』で水木プロダクションから生中継が行われた際も水木は普段どおり就寝中で、妻布枝のみが出演した(これは水木のドタキャンではなく、当初から布枝のみが出演する約束であった)。
評論家の呉智英は、「ひょっとしたら、水木しげるの最高傑作は水木しげるかもしれない」と賞賛(『犬儒派だもの』所収)し、作家の京極夏彦もラジオ番組(TOKYO FM『サントリー・サタデー・ウェイティング・バー』2010年7月3日放送分より)で同様の発言をしている。
『ぴったんこカン・カン』に出演した際、「好きなキャラは?」と聞かれて「ねずみ男」と答えた。
境港市・調布市との関係
境港市
- 故郷の鳥取県境港市に「水木しげるロード」がある。ロードに沿って妖怪オブジェが並び、水木ロード郵便局(既存局を改称)もある。なお、境港郵便局をはじめ市内7郵便局の風景印は全て鬼太郎らのキャラクターがデザインされている。
- 設置されていた86体の妖怪を100体にするために1体100万円としてスポンサーを募集し、2009年現在、合計120体となった。このオブジェの「目玉の親父」は度々盗難に遭うため現在は台座に固定されている。合わせて「水木しげる記念館」も開館している。また同市では世界妖怪協会による「世界妖怪会議」の第1回、第2回も開かれた。
- 境港市の観光協会による「第1回妖怪人気投票」で3位になっている。
- 2007年3月22日、妖怪のブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」の振興に役立てて欲しいと水木プロダクションは境港市に2000万円を寄付した。水木プロは2004年にも200万円を市に寄付している[54]。
- 2003年10月には「深大寺そば」で有名な調布市深大寺の門前に「鬼太郎茶屋・深大寺店」が開店した。「妖怪舎」(株式会社きさらぎ。本社:鳥取県米子市)が経営している。なお、元祖「鬼太郎茶屋」は境港の「水木しげるロード」内にあり、「妖怪舎」とは無関係。境港の「本店」店長は「鬼太郎音頭」の作詞者である。
- 自宅近くの覚證寺には鬼太郎などが彫刻された生前墓と、水木が描いた「二河白道図」が置かれている。
近年の動向
90歳を超えてなお新作漫画を発表し続けている。近年の主な作品としては、『遠野物語』を漫画化した『水木しげるの遠野物語』、長年の課題としていた出雲を描いた『水木しげるの古代出雲』、極貧時代の家計簿を元にした『ゲゲゲの家計簿』などがある。
映像作品としては、『ゲゲゲの鬼太郎』の実写映画や貸本版『墓場鬼太郎』のテレビアニメなどが実現し、2010年には妻・布枝の著書『ゲゲゲの女房』がNHK連続テレビ小説としてテレビドラマ、および映画化される。夫妻ともに注目されるようになり、水木は同年度の文化功労者に選ばれる。
また、近年になり過去の作品が海外で評価され始め、2007年に『のんのんばあとオレ』がアングレーム国際漫画祭で最優秀コミック賞を受賞。2009年には『総員玉砕せよ!』が同漫画祭で遺産賞、2012年にアイズナー賞最優秀アジア作品賞を受賞する。
2011年、東日本大震災について考察した絵を描き、ニューヨーク・タイムズに掲載される。
2013年、水木しげる初の全集となる『水木しげる漫画大全集』が講談社から刊行開始。
略年譜
- 3月8日 - 大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区)に武良亮一・琴江の二男として生まれ、生後まもなく父の故郷である鳥取県西伯郡境町(現在の境港市入船町)に戻る。
- 本籍地は鳥取県西伯郡境町(現・境港市)
- 祖父の代からまかない婦として武良家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)に可愛がられ、強い影響を受ける。
- 1937年(昭和12年)
- 3月 - 境港小学校高等科卒業。大阪・谷町の「田辺版画社」という石版印刷所に入社するが、2ヶ月で解雇になる。叔父のツテで、大阪・寺田町にある「小村版画社」に入社するが、これもすぐに解雇になる[11]。
- 1938年(昭和13年)
- 精華美術学院に入学。
- 1939年(昭和14年)
- 大阪府立園芸学校を受験(定員50名受験者51名)するが水木1人だけ不合格。松下電器守口工場に職工として就職するが、わずか2日で解雇される[10]。その後、JR福知山線塚口駅前の新聞販売店に住み込みで新聞配達の仕事を始める[55]。
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 日本大学付属大阪夜間中学(現・大阪学園大阪高等学校)に入学。
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 爆撃により左腕を失う。ニューギニアの病院で療養し、現地人のトライ族(水木いわく「土人」)たちと仲良くなる。
- 1945年(昭和20年)
- 敗戦。水木は現地人たちと仲良くなっていたため、「現地除隊」を申し出るが、説得され断念する。
- 1946年(昭和21年)
- 1948年(昭和23年)
- 武蔵野美術学校に入学。輪タク業を営む。
- 1950年(昭和25年)
- 神戸で、のちにペンネームとなる「水木荘」というアパートの経営者になる。
- 1951年(昭和26年)
- アパートの住人のつてで、紙芝居画家となる。
- 1953年(昭和28年)
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 調布に家を購入。
- 1960年(昭和35年)
- 『少年戦記』の売れ行きが上々ゆえに兎月書房から水木が新たに責任編集したSF専門誌『宇宙少年』と怪奇専門誌『妖奇伝』が新創刊された。前者には『ベビーZ水人間現る』を後者には鬼太郎の誕生編を描いた第一話『幽霊一家』第二話『幽霊一家・墓場鬼太郎』を発表。
- 1961年(昭和36年)
- 1963年(昭和38年)
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)
- 44歳にしてようやく、売れっ子漫画家になる。プロダクション制をとり調布の自宅を水木プロとする。
- 10月 - 『悪魔くん』が実写でテレビドラマ化。最初の放送は、実家の両親も上京して一緒に正座してテレビを鑑賞し、感激して番組終了後は拍手をしたという。
- 1968年(昭和43年)
- 『墓場の鬼太郎』を当時の東映テレビ部長であった渡邊亮徳(元東映副社長)等のアドバイスにより『ゲゲゲの鬼太郎』と改名することで、スポンサーが了解してテレビアニメ放映開始。この時も、初回放送は一家で正座して鑑賞し、終了後拍手をしたという。以降、何度もリメイクを繰り返す長寿シリーズとなる。
- 1971年(昭和46年)
- 『ゲゲゲの鬼太郎』が二度目のアニメ化。
- 偶然再会した元上官の宮軍曹や戦友の石橋と3人で、26年ぶりにパプアニューギニアを訪れ、現地人たちと再会する。以降、何度もニューギニアを訪れ、「ニューギニアに移住したい」と言うまでに惚れ込む。
- 1985年(昭和60年)
- 『ゲゲゲの鬼太郎』が三度目のアニメ化。
- 『悪魔くん』がアニメ化。
- 1990年(平成2年)
- 画業生活40周年。『水木しげる画業四〇周年』(籠目舎)が刊行される。
- 1991年(平成3年)
- NHKテレビでドラマ『のんのんばあとオレ』が放送される。翌年には続編が放送。
- 1992年(平成4年)
- 『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行。
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 「水木しげるの妖怪道五十三次 妖怪と遊ぼう」展が開催される。以降、各地を巡回。
- 1995年(平成7年)
- 1996年(平成8年)
- 『ゲゲゲの鬼太郎』が四度目のアニメ化。生まれ故郷、鳥取県境港市に「水木しげるロード」が敷設される。
- 8月、境港市において、世界妖怪協会主催の「世界妖怪会議」が開催される。以降、毎年夏に行われるようになる。
- 1997年(平成9年)
- 1998年(平成10年)
- 作画活動50周年を記念して、1,600枚の妖怪画の原画集『水木しげる妖怪原画集 妖鬼化(むじゃら)』全8巻を翌年に掛けて刊行。
- 2003年(平成15年)
- 境港市に「水木しげる記念館」開館。
- 2004年(平成16年)
- 荒俣宏・京極夏彦プロデュースによる「大(Oh!)水木しげる展 なまけものになりなさい」が鳥取県立博物館で開幕。以後、2006年まで全国巡回。
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)
- テレビ・ドキュメンタリーのため、荒俣宏とパプアニューギニア・セピック河へ。
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)
- アニメ版鬼太郎生誕40周年。それを記念して『墓場鬼太郎』が初のアニメ化。
- 「水木しげるの妖怪道五十三次 妖怪と遊ぼう」展がアメリカ・ワシントンDCにて開催。
- 実写映画版2作目となる『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』(松竹)が公開。
- 2010年(平成22年)
- 妻の布枝の著書『ゲゲゲの女房』がドラマ化および映画化。
- 2013年(平成25年)
- 『水木しげる漫画大全集』(講談社)刊行開始。
別名義
貸本時代の水木は、出版社や作品などによって複数の名義を使い分けていた。特に自身が編集を任されていた貸本誌では、多数の作家が執筆しているように見せるため、1冊の中で複数の作品を別名義で書き分けていた。
以下は、名義の一覧と簡単な使用歴など[56]。
- 東真一郎
- 西宮時代に階下を貸していた歯科医の名前「東」と、兄の長男の名前「真一郎」を合わせた名前。兎月書房以外の出版社で多数使用。
- むらもてつ
- 少年時代に名乗っていた雅号から付けた名前。戦記漫画で使用。
- 関谷すすむ
- 短編漫画、読み物、イラストなどで多数使用。
- 武良茂、武良しげる
- 水木の本名。短編漫画、読み物、イラストなどで多数使用。
- 米替富夫
- 貸本時代のアシスタントの名前をいじったもの。短編漫画で使用。
- 戦記屋三平
- 戦記読み物やイラストで使用。
- なんでも屋三平
- 科学読み物やイラストで使用。
- 萩原治、堀田弘
- 出版社が勝手に付けた名前。時代劇漫画で使用。
- 猿飛佐一
- 忍者読み物やイラストで使用。
- 武取いさむ
- 出版社が勝手に付けた名前。戦記漫画で使用。
- 水木洋子
- 少女漫画で使用。
受賞
- 1965年 『テレビくん』で第6回講談社児童漫画賞
- 1989年 『コミック昭和史』で第13回講談社漫画賞一般部門
- 1991年
- 1996年 「『ゲゲゲの鬼太郎』他一連の妖怪漫画」に対して第25回日本漫画家協会賞文部大臣賞
- 1998年 星雲賞アート部門
- 2003年
- 2005年 織部賞グランプリ
- 2007年 Non Non Bâ(『のんのんばあとオレ』仏訳)で第34回アングレーム国際バンド・デシネ・フェスティバル オフィシャル2007 最優秀コミック賞。日本人が同賞を受賞するのは初。
- 2008年 調布市名誉市民
- 2009年
- 2010年 文化功労者
- 2011年 東京都名誉都民
- 2012年 Onward Towards Our Noble Deaths(『総員玉砕せよ!』英訳)で2012年度アイズナー賞最優秀アジア作品賞
作品
代表作
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貸本漫画
シリーズ物や、長編作品を中心に記載。
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連載漫画
『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』は前述。
- 新講談 宮本武蔵(1965年、ガロ)
- 子供の国(1965年、ガロ)
- なまけの与太郎(1966年、中一コース)
- 日本の民話(1967年 - 1969年、漫画アクション)
- 世界怪奇シリーズ(1968年、ビッグコミック)
- 妖怪百物語(1968年、週刊少年キング)
- サラリーマン死神(1968年 - 1969年、ビッグコミック)
- 水木氏のメルヘン(1969年 - 1970年、ビッグコミック)
- 河童千一夜(1969年 - 1970年、漫画アクション)
- 現代妖怪譚(1969年、小説エース)
- SILENT SHOCK(1970年、現代コミック)
- 妖怪水車(1970年、ぼくらマガジン)
- コロポックルの枕(1970年、週刊プレイボーイ)
- コケカキイキイ(1970年、週刊漫画サンデー)
- 怪奇幻想旅行(1970年 - 1971年、漫画アクション)
- 星をつかみそこねる男(1970年 - 1972年、ガロ)
- コケカキイキイ外伝(1970年 - 1971年、週刊漫画サンデー)
- 東スポまんが展(1971年 - 1972年、東京スポーツ)
- 野坂昭如原作シリーズ(1971年、漫画アクション)
- 劇画ヒットラー(1971年、週刊漫画サンデー)
- 新・春雨物語(1973年、潮)
- 新・雨月物語(1973年、潮)
- 魔女モンロー(1973年、コミック&コミック)
- フーシギくん(1974年、テレビマガジン)
- のんのんばあ(1975年 - 1976年、週刊少年チャンピオン)
- 縄文少年ヨギ(1976年、週刊パワァコミック)
- 水木しげるの妖怪めぐり(1977年、どっかんV)
- 水木しげるの幻想劇画(1977年 - 1978年、DONDON)
- ぽけっとまん(1978年、週刊少年キング)
- 沖田総司(1978年 - 1979年、週刊実話)
- おばけのムーラちゃん(1979年、テレビマガジン)
- 猫楠(1991年 - 1992年、ミスターマガジン)
- 妖怪博士の朝食
- 不思議シリーズ(1992年 - 1993年、ビッグゴールド)
- 妖怪変化シリーズ(1993年 - 1995年、ビッグゴールド)
- ようかい百ものがたり(1994年、小学一年生)
- 東西奇ッ怪紳士録(1996年 - 1997年、ビッグゴールド)
- 神秘家列伝(1997年 - 2004年、怪)
- 木槌の誘い(1998年 - 1999年、ビッグゴールド)
- カランコロン漂泊記 (1999年、ビッグコミック)※活字エッセイは97年から
- 妖怪大戦争(2004年 - 2005年、怪)
- 神秘家 水木しげる伝(2006年 - 2007年、怪)
- 水木しげるの異界旅行記(2008年 - 2009年、怪)
- 水木しげるの遠野物語(2008年 - 2009年、ビッグコミック)
- ゲゲゲの不思議草子(2010年 - 2012年、怪)
- ゲゲゲの家計簿(2011年 - 2012年、ビッグコミック)
- 水木しげるの日本霊異記(2012年 - 連載中、怪)
- わたしの日々(2014年 - 連載中、ビッグコミック)
長編描き下ろし漫画
- 総員玉砕せよ!(1973年、講談社)
- 東海道四谷怪談(1974年、学研劇画文庫 日本の妖異)
- 死神大戦記(1974年、学研劇画文庫 日本の妖異)
- 耳なし芳一(1975年、学研劇画文庫 日本の妖異)
- コミック昭和史 全8巻(1988年 - 1989年、講談社)
- のんのんばあとオレ 全2巻(1992年、講談社)
- ノストラダムス大予言 全2巻(1993年・1994年、辰己出版)
- 今昔物語 全2巻(1995年・1996年、中央公論社 マンガ日本の古典)
- ボクの一生はゲゲゲの楽園だ 全6巻(2001年、講談社)
- (改題)完全版 水木しげる伝 全3巻(2004年、講談社漫画文庫)
- 水木しげるの古代出雲(2012年、角川書店)
- 方丈記(2013年、小学館 マンガ古典文学)
短編読み切り漫画
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他、多数。
著作
エッセイ
- 娘に語るお父さんの戦記(1975年、河出書房新社)
- のんのんばあとオレ(1977年、筑摩書房)
- ほんまにオレはアホやろか(1978年、ポプラ社)
- 水木しげるの不思議旅行(1978年、サンケイ出版) - 1977年から1978年に掛けて『月刊小説』で連載。
- (改題)怪感旅行(2001年、中公文庫)
- ねぼけ人生(1982年、筑摩書房)
- 妖怪天国(1992年、筑摩書房)
- 水木しげるのラバウル戦記(1994年、筑摩書房)
- トペトロとの50年(1995年、扶桑社)
- 水木しげるのカランコロン(1995年、作品社)
- (分冊・改題)妖怪になりたい(2003年、河出文庫)
- (分冊・改題)なまけものになりたい(2003年、河出文庫)
- カランコロン漂泊記(2000年、小学館文庫) - 1997年、1999年に『ビッグコミック』で連載。
- 生まれたときから「妖怪」だった(2002年、講談社)
- 水木サンの幸福論(2004年、日本経済新聞社) - 2003年に『日本経済新聞』で連載。
- 水木しげるのんのん人生(2004年、大和書房)
- ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気(2012年、保健同人社)
画集・図鑑
- 水木しげる妖怪画集(1970年、朝日ソノラマ)
- 妖怪なんでも入門(1974年、小学館)
- (改題)水木しげる 妖怪大百科(2004年、小学館)
- 水木しげるの妖怪事典(1981年、東京堂出版)
- 水木しげるのあの世の事典(1983年、東京堂出版)
- 水木しげるの続・妖怪事典(1984年、東京堂出版)
- 水木しげるの世界妖怪事典(1985年、東京堂出版)
- 水木しげるの中国妖怪事典(1990年、東京堂出版)
- 水木しげるの続・世界妖怪事典(2000年、東京堂出版)
- 日本妖怪大全(1991年、講談社)
- 図説 日本妖怪大全(1994年、講談社+α文庫)
- 続・日本妖怪大全(1994年、講談社)
- 図説 日本妖怪大鑑(2007年、講談社+α文庫)
- 決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様(2014年、講談社)
- 妖怪画談(1992年、岩波新書)
- 続 妖怪画談(1993年、岩波新書)
- 愛蔵版 妖怪画談(2002年、岩波書店) - 上記、妖怪画談2冊を再編集したもの。
- 水木しげるの憑物百怪(1995年、学習研究社) - 1991年から1995年に掛けて『月刊ムー』で連載。
- 妖鬼化(むじゃら) 全8巻(1998年 - 1999年、Softgarage)
- 妖鬼化(むじゃら) 全6巻(2003年 - 2004年)
- 妖鬼化(ムジャラ)完全版 全12巻(2008年 - 2010年)
- 水木しげる 妖怪道五十三次(2003年、やのまん)
- 水木しげるの日本全国神様百怪(2010年、小学館)
絵本
- のんのんばあ カッパの水(1975年、文研出版)
- のんのんばあ おばけどろぼう(1976年、文研出版)
- 水木しげるのおばけ学校 全12巻(1980年 - 1983年、ポプラ社)
- ゲゲゲの鬼太郎おばけのくに 全8巻(1987年 - 1988年、ポプラ社)
- 絵巻えほん 妖怪の森(1995年、こぐま社)
- 絵巻えほん ゲゲゲの鬼太郎 妖怪島へ(1996年、こぐま社)
- 水木しげるのふしぎ妖怪ばなし 全8巻(2007年 - 2009年、メディアファクトリー)
- 水木少年とのんのんばあの地獄めぐり(2013年、マガジンハウス)
監修
テレビ番組
水木が出演した番組
- ETV8 妖怪たちはどこへ行った 〜水木しげるのねぼけ人生(NHK、1989年)
- 妖怪博士水木しげるの夢探検シリーズ(テレビ東京、1990年 - 1992年、年1回)
- いのちの響「妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論」(BSジャパン、2006年)
- 知る楽「人生の歩き方・100歳まで生きるでしょう」(2008年6月 NHK教育テレビジョン)
- 水木夫妻のこれまでの人生を松本和也とのインタビュー形式で綴った講義。
- 2010年にNHKデジタル衛星ハイビジョン「プレミアム8」で「水木しげるのなまけ者になりなさい〜ゲゲゲの女房とののほほん人生〜」と題して、未収録・新規の撮り下ろしのインタビューを交えた再編集版を放送
『ゲゲゲの女房』がヒットした2010年には『あさイチ』(NHK総合、2010年5月19日)、『ボクらの時代』(フジテレビ、2010年8月15日)などに夫妻で出演。
テレビドラマ・映画
- 月曜ドラマランド ゲゲゲの鬼太郎(1985年) - 霊界郵便配達夫役
- 月曜ドラマランド 悪魔くん(1986年) - 先生役
- 妖怪天国(1986年) - 巡礼者役
- ゲゲゲの鬼太郎 妖怪奇伝・魔笛 エロイム エッサイム(1987年) - 霊界郵便配達夫役
- 京極夏彦 「怪」 第4話「福神ながし」(2000年9月15日、WOWOW) - 鳥山石燕役
- 妖怪大戦争 (2005年の映画) - 妖怪大翁役
水木を扱った番組
- また、夏目やいしかわじゅん、岡田斗司夫らは、「悪魔くん」の革命思想は60年代の左翼運動や白土三平の影響がありつつも、水木自身は上記の「卑小な人間」の観点から革命の成就に関して諦観をもっている点を指摘している。
テレビドラマ・映画
- 『のんのんばあとオレ』(NHK、1991年・1992年)
- NHKスペシャル『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』(NHK、2007年8月12日)
- 『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ。
- NHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』(NHK、2010年4月-9月)
- 『ゲゲゲの女房 (映画)』(2010年)
- 妻の自伝を原作としたドラマ・映画。
DVD
- 水木サン大全 - 水木しげると荒俣宏の対談 2004年
- 妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論(同テレビ番組のDVD版)
CM
- フンドーキン醤油 2010年(夫妻で出演)
家族・親族
武良家
- “武良”(むら)という苗字は全国的には珍しいが、境港にはたくさんある[57]。武良氏は隠岐発祥と考えられており、隠岐諸島の島後(とうご)にある隠岐郡隠岐の島町(旧:隠岐郡西郷町)に“武良祭り”があり、“武良トンネル”が残っている[58]。水木は、自らのルーツを求めて、隠岐を訪問している。
- 水木の著書『ねぼけ人生<新装版>』12頁によれば、「僕の祖先のことは、マジメに調べたことはないが、武良という姓もちょっと変わっているし、古い記録にも時々出てくる。最近読んだ『出雲祭事記』(講談社)という本によると、隠岐諸島の島後(諸島の北側の島)に武良郷という村があって、ここでは、ずいぶん昔から、二年に一度村民が寄り集って“武良祭り”という祭りをやっていたらしい。隠岐と境港は海をへだてた隣どうしだから、たぶん、武良郷あたりから、空腹に耐えかねた連中が食い物を求めて境港にやってきたのだろう。それが僕の遠い先祖ではないかと、推測している。」という。
- 戦国時代の弓ヶ浜に高岡城という城があって、武良隣左ェ門という豪族がおり、この一族が記録に残るルーツだろうと水木は考えている[58]。
- 当時の境港のあたりは、毛利氏と尼子氏の勢力争いの場であったが尼子氏側の亀井能登守が毛利側の騙し討ちにあった時、その手引きをしたのが武良隣左ェ門だったと父から聞き伝えられている[59]。
- 水木の著書『ねぼけ人生<新装版>』14頁によれば「境港の竹之内には高岡城趾といわれる所があり、古松が三本はえている。『伯耆志』によると、ここが武良氏の舘の跡だということになる。米子の郷土史家の説では、僕の家の墓地のあたりが武良舘のあった所だそうだ。どっちが真実かわからないが、どうやらずっと昔に、このあたりに武良氏という一族がいて、それが僕にまでつながっていることだけは本当らしい。」という。
- 曾祖父・惣平(回船問屋)
- 境港で“武良惣平商店”という回船問屋を営み、一時は大層な羽振りをきかせていたが、鉄道便の発達で明治になると家業は衰えた[63]。惣平は1892年(明治25年)境町会議員に当選した[64]。
- 境港市長中村勝治によると「水木しげる先生の曽祖父にあたる武良惣平氏は自ら交易船を所有し、繰綿や木綿などの商いを手広く営んでいたと伝えられています」という[65]。
- 祖父(実業家)[66]
- 水木の著書『ねぼけ人生<新装版>』14-15頁によると、
- 「祖父は、米子の町長で呉服商をしていた住田善兵衛の長女と結婚する。そして、僕の父の亮一が誕生するのだが、その頃には回船業がいよいよダメになり、大きな家は人手に渡ってスッカラカンになった。それでも、祖父は多少やり手だったので、また努力して、昔日のおもかげはないものの、何とか家も建てた。」という。
- 家業の回船問屋をやめて、大阪で「関自動車」というタクシー会社を経営した(後に倒産)。
- また、バタビヤ(現・ジャカルタ)に渡り印刷会社を興して成功した。親類・彦一は軽食堂を閉店後、印刷会社の人員募集に応じ、バタビヤに渡っている。
- 祖母・(呉服商、政治家・住田善平の長女)
- 大叔父・住田延寿
- 大叔父といっても水木の父亮一より二歳年長なだけである[67]
- 武良家に居候(いそうろう)していた。水木の兄宗平によると、「二階にいて、赤鉛筆片手に英語の原書ばかり読んでいたが、結局、定職に就かずに遊んで暮らした。今から見ると変人だった」という[67]。
- 父・亮一(会社員、銀行員等)
- 1984年(昭和59年)10月没(享年88)[68]
- 胃が丈夫なことから、水木は父親に「イトツ」(突出して強い胃袋)とあだ名をつけていた[69]。
- 早稲田大学商学部[70]卒。在学中は歌舞伎や芝居見物にうつつを抜かし、町に帰ってきてからも遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)[71]。勤めに出ても、さぼって映画を見ていたのがばれてクビになり、祖父から大金をもらって始めた農機具輸入事業もあえなく失敗[71]。
- 境町に戻り、今度は銀行に勤めるようになったが、夜は近所の芝居小屋を借りて映画を上映し、銀行員が本業か映画館が本業かわからないといったぐあいだった[72]。
- ある時、銀行強盗が横行したことがあり、当直だった亮一は明け方まで粘ったが、恐怖に耐え切れずついに当直を放棄して家に帰ってしまった[71]。このため銀行をクビになったが「なんとかなる主義」という奇妙な主義を信じていたため全く平気だったという。なお『ねぼけ人生<新装版>』には“銀行強盗”となっているが、『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』には“脱獄囚”と記されている。
- また、英語が得意だったため美保航空隊で駐留軍の通訳をした[73]。
- 妻布枝の著書『ゲゲゲの女房』によると、水木が漫画で成功し、上京して一緒に暮らすようになってからは、好きな映画や歌舞伎を観るなどして、幸せに暮らしていたという。死の際は「境港に葬ってくれ」と遺言があり、武良家代々の菩提寺に納めた。そのため水木はその後、境港をしばしば訪れるようになり、「水木しげるロード」誕生につながったという。
- 水木の兄宗平は父亮一について、「ぼんぼんの道楽者。自由人だった。少し頼りない。楽をするのが好きで、スイカを買っても自分で持たないで、我々に持たすのだ。まったくおやじは家長らしくなかった。」と述べている[74]。
- 母・琴江
- 1994年(平成6年)4月没(享年94)[75]
- すぐ怒ることから、水木は母親に「イカル」とあだ名をつけていた。
- 母・琴江は江戸時代、苗字帯刀を許された米子の旧家に生まれ、その家柄を誇りとしていた[76]。
- 水木の著書『ねぼけ人生<新装版>』15頁によると、
- 「母の実家というのが三島という米子市の旧家で、元禄時代から今日までの墓がずらりと並んでいるほどなのだが、これも先代でボツラクしている。この先代という人は風流人なのはいいが、俳句だの書画だのをひねくるばかりで、仕事というものを全くしなかった。」という。
- 『グレートマザー物語』によると、琴江はしげるが左腕を失ったことを知ると自らの左腕を縛り、一時期右腕だけで生活していたという。
- 妻布枝の著書『ゲゲゲの女房』によると、戦争中に、近所でバケツ・リレーの練習をしていても「負け戦とわかっているのに無駄だ」と参加しなかったという。また、水木が東京で貸本漫画家をしている時は、非常に心配し、「漫画がダメなら灯台守になれ」と薦めた。また、しばしば、心配する長文の手紙を送ったという。返事が来ないと、さらに心配して長文の手紙がくるため、水木は母親から手紙が来ると即「元気だ」という返事を書いた。また、「貧乏している」ことが母にばれないよう、軍人恩給を実家に送っていたという。また、水木が漫画家として成功して両親を呼び寄せた後は、漫画のストーリーにしばしば口を出し、『鬼太郎』にシーサーが登場するようになったのは、母親の強い薦めがあったためだという。
- 兄・宗平
- 兄の娘夫婦(境港の水木プロ中国支部担当)
- 弟・幸夫(水木プロ・ゼネラルマネジャー)
- 1932年(昭和7年)1月生[2]~
- 飯塚家の当主は代々飯塚藤兵衛を名乗り、呉服などを商う商家として知られていた[77]。布枝の父親の藤兵衛は、若い頃から村会議員を務め、酒や塩の小売業を営みながらやがて市会議員になった人物[77]。
- 著書『ゲゲゲの女房』(実業之日本社)
- 長女・尚子(水木プロ社長)
- 次女・悦子(水木プロ勤務)
住田家
住田氏は近世期中ごろから米子の東倉吉町に居住し、住田屋を号した[78]。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した[78]。
“本住田屋”の住田善平は、1896年(明治29年)12月~1900年(明治33年)12月まで米子町町長をつとめた[79]。善平の長女が武良家に嫁いだ。
善平の息子・寅次郎(水木の大叔父)は米子で初めて東大を出たとされる[80]。寅次郎には出世(しゅっせ)欲がなく、米子で町会議員をつとめたり、製パン業を興しパンを売ったりして一生を終えたとのことである。元米子市長野坂寛治の著書『米子界隈』183頁によると、
- 「第四代町長住田善平氏は住田呉服店の御主人で、その令息・法学士住田寅次郎氏は町会議員として、いかなる意味でも英名を四方にはせ、晩年は酒豪としての逸話が山積する。後には転じて製パンを志され、世上これを“学士パン”と呼んだ。学士学士と書いたが、現代の諸君は“アァ学士か”とそこらに落ちている小石のように思うであろうが、明治35、6年ごろの学士さんはトテモドエライもので、住田寅次郎氏が法科を、筆者の叔父貴野坂康二が工科を、共に東大を卒えて帰還した年の夏、渡辺町長その他お歴々の発起によって公会堂で歓迎会を開いて頂いている。それが米子で二人も出たのだからというのですゾ。驚き桃の木サンショの木である。」という。
寅次郎の弟に絵描きの良三と、英語を趣味とした延寿がいる[81]。
- 水木によると、「父の叔父に、パリで三十歳で客死した画家がいて、父はとても尊敬していた。その叔父は松井須磨子の劇団で背景の絵を描いていて、ちょい役で出演したりしたという。祖母の実家で大金持ちの住田一族の直系だから、パリ遊学にも行けたのだろう。確かに画才はあったようだ。その叔父の命日と私の誕生日がたまたま同じで、父は“生まれ変わりだ”と信じていた」という[82]。
親類
- 彦一[84]
- 元職工。大阪で軽食堂を経営していたが世界恐慌が起こりその煽りを受け閉店。水木の祖父辰司がバタビヤ(現・ジャカルタ)に渡り、印刷会社を興して成功した後、印刷会社の人員募集に応じてバタビヤに渡った。帰国後インドネシア語が話せたので軍属になり、兵隊として再びジャワへ渡る。
- 定(さだ)やん
- 水木の著書『ねぼけ人生<新装版>』16-17頁によると、
「祖父の方の親類に、定(さだ)やんという奇人がいた。この人は、妖怪の“倉ぼっこ”じゃないが、倉の中で一生を働かずにすごした。働かずにといっても決して暗い一生だったわけではなく、恋愛はする、読書三昧にふける、結婚もする、町会議員には立候補する、といったあんばいで、人一倍楽しい人生を送った」という。
略系図
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関連項目
関連人物
- アシスタント
- 妖怪関連
- 知人、ファンなど
- 江川達也 - 漫画家。史上最高の漫画家として水木しげるを挙げている。手塚治虫、藤子・F・不二雄に対しては批判的である。
- 瀧利郎 - 戦友で、戦後も水木と交流があった。編著に『ラバウル戦の末路』。
- トペトロ - ニューギニアでの療養中に仲良くなった現地のトライ族の少年。水木は漫画家として成功してから、現地を再訪し、恩返しに中古車を贈った。彼との交際は50年に及ぶが、1993年に亡くなった。トペトロの遺族は葬儀をあげる費用が無かった為、水木が費用を出して盛大な葬儀を行った。その交友関係は『トペトロとの50年』に描かれている。
- 桜井昌一 - 貸本漫画家。後に出版社、東考社をおこし、貸本版『悪魔くん』などを発行。貸本業界が崩壊すると、「桜井文庫」として文庫本形式のインディーズ出版を行い、水木の短編を多数出版している(1980年代後半までは、一般書店でも購入できた。現在は古本市場で高値を生んでいる)。また、水木の漫画作品中に頻出する「眼鏡で出っ歯のサラリーマン・山田さん」のモデル。なお、2010年の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』に登場する戌井慎二(演:梶原善)のモデルも桜井である。
- 白土三平 - 漫画家。『カムイ伝』他多数の大ヒット作で知られる。『少年マガジン』が劇画路線を推進する以前から水木を推薦しており[85]、講談社児童まんが賞の審査でも水木の『テレビくん』を推薦していた[86]。水木漫画では、忍者漫画で一山当てた怪人として水木他の人物がごちそうになりにいくエピソードなどが語られた。
- 杉本五郎 - 貸本漫画家仲間。鬼太郎の「霧の中のジョニー/吸血鬼エリート」のモデル。映画フィルムの日本一のコレクターでもあった。
- 梅田栄太郎 - 貸本漫画家仲間。その「調子のいい」言動で、ねずみ男のモデルとなった。のち、印刷会社の社長に。
- 長井勝一 - 漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。
- 呉智英 - 評論家。70年代初頭に水木の資料整理を担当。その時代に水木漫画の「原作」をいくつか執筆したが、「難解すぎて」採用されなかった。呉は、水木の本質を、「人智を超えたものを信じる人」と、「俗っぽい生活知にあふれた庶民」とが、渾然一体で同居しているところにあると、述べている。
- 南伸坊 - イラストレーター。青林堂の社員時代、『ガロ』で「星をつかみそこねる男」などを担当。
- 松田哲夫 - 学生時代に『ガロ』の仕事を手伝っていた関係で、水木の原稿を取りに行って知合う。筑摩書房入社後、水木に自伝『ねぼけ人生』の執筆を薦めた。また、「ちくま文庫」創刊後は、水木漫画を多く収録した。
- 矢口高雄 - 漫画家。銀行員時代に『ガロ』編集部の紹介でスタジオ見学に訪れたことがある。この時に水木や池上から受けたアドバイスは後々非常に参考になったとの事[87]。
- 宮田雪 - 脚本家。水木に漫画原作を提供。また、アメリカのホピ族インディアンを水木が訪れる、渡し役をした。
- 朝松健 - 作家。1997年の『悪魔くん世紀末大戦』の原案を担当。
- 大泉実成 - ノンフィクション作家。水木の冒険旅行に何度か同行し、紀行本を出版。
- 足立倫行 - ノンフィクション作家。水木に密着取材を行い、『妖怪と歩く』を出版。
- 宮本神酒男 -シャーマニズム研究家。水木とともに、ドラキュラの故郷や、ミャンマーのシャーマンなどの取材旅行をしている。
- 佐野史郎 - 俳優。水木のファンで、公私ともに交流がある。アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第4シリーズの吸血鬼エリートや、映画『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』の蛇骨婆を演じる。
- ら・むうん(有里紅良・夢来鳥ねむ)
- 水木作品の同人サークル「鬼太郎座」を母体として発展構築された劇団兼創作集団。
- 「鬼太郎座」時代に創られたダイナビジョン作品『女禍』の製作には水木本人をスーパーバイザーに招いている。
- 中心者2名(有里・夢来鳥)は後に『HAUNTEDじゃんくしょん』など水木作品をモチーフとした商用作品を執筆している。
- 水木伝説 - 公認ファンクラブ。会誌『フハッ』を発行している。
- 関東水木会 - ファンクラブというより研究会。青林堂の『水木しげる叢書』に協力したファンの有志により、「水木先生をバックアップするための好事家の集まり」として1993年11月に立ち上げられた。会長 山口信二、会員 平林重雄、鈴木信一、荒井良、荒俣宏、京極夏彦、佐野史郎ら。
- EAST - 公認ファンクラブ。2007年11月に新設された。
- 清水ミチコ - 水木のファン
- 三平×2- 水木のファン
- 中川翔子 - 父の勝彦が生前、水木ファンだった影響で自らも水木ファン
脚注
参考文献
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- テンプレート:Cite book - 日本経済新聞社2004年刊の増訂版。
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論文
外部リンク
- げげげ通信 - 水木プロダクション公式サイト
- テンプレート:Twitter
- テンプレート:Facebook
- 水木しげる記念館
- 水木しげる漫画大全集
- ↑ 永らく1924年生れと公表していた。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年 583頁)
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 足立倫行著『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』、70頁
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、33頁)
- ↑ 水木が境港に戻った年齢について、『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』では「2歳ぐらいのとき」、『完全版 水木しげる伝(上)』や『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』では「生後1ヵ月」となっている
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、43-44頁)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、48頁)
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、55頁)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、59頁)
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 『完全版 水木しげる伝(下)』480頁。
- ↑ 11.0 11.1 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、61頁)
- ↑ 『ほんまにオレはアホやろか』18頁。
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、64頁)
- ↑ 14.0 14.1 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、65頁)
- ↑ 15.0 15.1 15.2 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、68頁)
- ↑ 16.0 16.1 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、69頁)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、70頁)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、71頁)
- ↑ 『ほんまにオレはアホやろか』68-70頁。
- ↑ 20.0 20.1 20.2 20.3 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、77頁)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、76頁)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、79頁)
- ↑ 23.0 23.1 23.2 23.3 23.4 23.5 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、81頁)
- ↑ 水木しげる『水木しげるのラバウル戦記』(筑摩書房、1994)15頁
- ↑ 『ほんまにオレはアホやろか』84頁。
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、85頁)
- ↑ 27.0 27.1 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、86頁)
- ↑ NHKデジタルアーカイブス 戦争証言アーカイブス
- ↑ 『ラバウル戦記』では、機銃掃射ではなく原住民ゲリラの襲撃としている。
- ↑ 他にいた決死隊の仲間は、機銃掃射に当たり、死亡した。
- ↑ 水木しげる『水木しげるのラバウル戦記』(筑摩書房、1994)141-153頁
- ↑ 水木しげる『水木しげるのラバウル戦記』(筑摩書房、1994)225頁
- ↑ 『ほんまにオレはアホやろか』117-131頁。
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、119-120頁)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、120頁)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、124頁)
- ↑ 『ボクの一生はゲゲゲの楽園だ』より
- ↑ 『ゲゲゲの女房』39頁
- ↑ 建築マップ 「灘町後藤家」 | 米子建築塾.Web
- ↑ 『ゲゲゲの女房』30頁
- ↑ 41.0 41.1 武良布枝『ゲゲゲの女房』
- ↑ 『ほんまにオレはアホやろか』(ポプラ社、2004年11月初版、2010年5月新装版、p.212-213)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、160,166頁)
- ↑ 水木悦子『お父ちゃんと私』p.159〜165
- ↑ 京極夏彦『対談集 妖怪大談義』「妖怪と心の闇をのぞく」(角川文庫)
- ↑ 『妖怪まんだら』小松和彦「水木しげると現代の妖怪文化」
- ↑ 京極夏彦・多田克己・村上健司『妖怪馬鹿』(新潮社)
- ↑ 48.0 48.1 48.2 48.3 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、39頁)
- ↑ 足立倫行著『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』、331頁
- ↑ 梅本浩『ビルマ航空戦・下』大日本絵画
- ↑ 2004年8月28日放送『NHK土曜インタビュー』より
- ↑ 実写版『悪魔くん』のプロデューサーによると、水木は“自分”という一人称を使うことが印象深いとコメントしていた。妻の布枝の著書によると、「漫画家・水木しげる」を演じるために使っているようで、家族に見せる顔と、ファン・編集者らに見せる顔は違うという。
- ↑ 『THE ART OF 新書版コミックス サンコミックス編』(まんだらけ)P.12,P97
- ↑ 『日本海新聞』
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、73頁)
- ↑ 『水木しげる貸本漫画のすべて』(YMブックス)、『水木サンの幸福論』(角川文庫、138-139頁)参考。
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、37-38頁)
- ↑ 58.0 58.1 58.2 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、37頁)
- ↑ 『完全版 水木しげる伝(下)』479頁
- ↑ 『完全版 水木しげる伝(上)』14 - 16頁。
- ↑ 『境港市史 上巻』(昭和61年)370頁
- ↑ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』222頁。
- ↑ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』36頁。
- ↑ 『境港市史 下巻』1986年(昭和61年) 788頁
- ↑ 平成22年7月吉日・鳥取県境港市長中村勝治
- ↑ 『完全版 水木しげる伝(上)』 104-107、201-203頁
- ↑ 67.0 67.1 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、201頁)
- ↑ 『完全版 水木しげる伝(下)』492頁。
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、47頁)
- ↑ 足立倫行著『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』、72頁
- ↑ 71.0 71.1 71.2 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、35頁)
- ↑ 『ねぼけ人生<新装版>』15-16頁。
- ↑ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』213頁。
- ↑ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』212頁。
- ↑ 『完全版 水木しげる伝(下)』497頁。
- ↑ 『完全版 水木しげる伝(上)』 250-251頁。
- ↑ 77.0 77.1 足立倫行著『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』、73頁
- ↑ 78.0 78.1 『米子商業史』76頁
- ↑ 『米子自治史』27頁。
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、199頁)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、200頁)
- ↑ 『水木サンの幸福論(角川文庫)』(角川書店、2007年、56頁)
- ↑ 『日本海新聞』 2004年9月2日 23面
- ↑ 『完全版 水木しげる伝(上)』 108-112、203-205、360-362頁
- ↑ 足立倫行『妖怪と歩く』(新潮文庫)
- ↑ 『ガロ』1994年9月号
- ↑ 矢口高雄 『9で割れ!』