ダグラス・マッカーサー
テンプレート:参照方法 テンプレート:基礎情報 軍人 ダグラス・マッカーサー(テンプレート:Lang-en-short、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカの軍人、陸軍元帥。第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍の最高司令官や、アメリカの植民地のフィリピンの高等弁務官などを務めた。1928年アムステルダムオリンピック米国選手団団長でもある。
生涯
生い立ち
1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で生まれ、基地内で育った。父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり、名誉勲章を受章している。アメリカが植民地支配していたフィリピンでは初代軍政総督も務めた人物であり、ダグラスは親子2代でフィリピンに縁があった。
母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州ノーフォーク生まれである。兄のアーサー・マッカーサー3世はアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大佐に昇進したが、1923年に病死。弟マルコムは 1883年に死亡。兄アーサーの三男であるダグラス・マッカーサー2世は在日本アメリカ合衆国大使となる。
フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係にある。これは、マッカーサー家が元々はイギリス貴族の血筋で、祖父のアーサー・マッカーサー卿(英語版)の代にイギリスから移民したためである。祖父はサーの称号を持っている。
幼少期は、母ピンキー・マッカーサーによってフランスの風習に倣い女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって陸軍士官学校に入学させられることとなる。
陸軍入隊
1899年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校にトップ入学し、1903年に陸軍少尉で卒業した。この時期、マッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住んでいた。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はこれまで二名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。
卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてアメリカの植民地であったフィリピンに配属された。彼の長いフィリピン生活の始まりであった。1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。
第一次世界大戦
その後に陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長についた。1917年(大正6年)4月にアメリカが第一次世界大戦に参戦することが決まった際、マッカーサーはウィルソン大統領に「欧州に送り込む最初の師団は全州の州民から徴募して創設した師団にしたい」と提案した。「アメリカ人は一丸となって戦いぬく」という姿勢を示すことでアメリカ国民の戦意を鼓舞するためであった。
ウィルソン大統領はマッカーサーの提案を採用し、各州の州兵からなる第42師団を立ち上げた。マッカーサーはウィルソン大統領に「虹のように様々なカラー(気風)を持った各州住民が、大西洋にかかる虹のように戦場に向かうのです」と説明し、これに感銘を受けたウィルソン大統領は第42師団に「レインボー師団」の名前を与えた。
マッカーサーは第42師団「レインボー師団」の参謀長・旅団長に就任した。同師団は1918年(大正7年)2月に西部戦線に動員され、アメリカ軍で第一次世界大戦の実戦に参加した最初の部隊の1つとなった。マッカーサーは雨のような銃弾にもひるまず、突撃隊を率いて果敢に敵の陣地を強襲した。戦場において2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。
このヨーロッパ派遣軍(AEF)の総司令官はジョン・パーシングであったが、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。
戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた。この大会の金メダルを三段跳びで獲得した織田幹雄は終戦時にマッカーサーがアメリカの将軍であった事に驚いたと言う。
陸軍参謀総長
1930年、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任した。このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付いた。
1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座った事件(ボーナスアーミー)で、陸軍による武力排除が行われた。これは、「退役軍人たちは、共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか」と疑念を抱いた政府が、マッカーサーの計画案を許可して行われたものである。マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。
フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判した事で大統領の怒りを買った。
フィリピン生活
1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。
マッカーサーがアメリカ陸軍でする仕事はほとんど無くなり、ケソンの求めに応えてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。なおこの頃もアイゼンハワーはマッカーサーの副官を務めていた。
マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。1936年1月17日にはマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した[1]。
1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。
太平洋戦争
現役復帰
1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東陸軍司令官となり、アメリカが対日戦に突入後の12月18日付で大将に昇進した。
ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたが、マッカーサーは大変不満であった。一度は大将に就いていたし、自分は中将なのに、同じくフィリピンを本拠地とする海軍のアジア艦隊司令長官で、知り合いでもあったトーマス・C・ハートが大将なのも気に入らなかった[2]。中将になってからも「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していた[3]。
フィリピン撤退
12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦うこととなった。日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じ、その旨を報告した。
怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。「2ヶ月に渡って日本陸軍を相手に『善戦』している」と、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。
一方、ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、マッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく応じた。
日本軍に追い詰められた揚句コレヒドール島からの脱出を余儀なくされ、「I shall return"(必ずや私は戻って来るだろう / 私はここに戻って来る運命にある)」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイング B-17 でオーストラリアに飛び立った。
この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアに逃亡したマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。
フィリピン反攻
1942年4月18日、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官(Commander in Chief, Southwest Pacific Area 略称 CINCSWPA)に任命され、日本の降伏文書調印の日まで、その地位にあった。
1943年3月のビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。
1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キング作戦部長をはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。マッカーサーがこの作戦をごり押しした理由としては、フィリピンからの敵前逃亡を行った汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復の2つがあったと言われている。ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。
マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸した。フィリピンのゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で反撃を続け、結果的に殲滅は出来なかった。この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。
連合国軍最高司令官(SCAP)
1945年8月14日に日本は連合国に対しポツダム宣言の受諾を決定。戦争終結のための調印式が、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に行なわれ正式な降伏へ至った。かくして直ちに日本はアメリカ軍やイギリス軍(イギリス連邦占領軍)、中華民国軍やフランス軍を中心とする連合軍の占領下に入る事となる。
マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声を以下の様に答えた。
その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した皇居前の第一生命館内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官[4]として日本占領に当たった。
1945年9月27日には、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招いて会談を行った。この会談においてマッカーサーは昭和天皇を出迎えはしなかったが、昭和天皇の退出時には、自ら玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。なおマッカーサーは略装を好み、重要な場や自分より地位が高いものと同席する場合でも略装で臨むことが多かったために(上記の天皇との会談の際も、意図せず略装で迎えたと言われている)、その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともある[5]。
これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、連合国軍最高司令官総司令部[6]の反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。これを切っ掛けとして GHQ は「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66) を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。また、連合国と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。
連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜の野戦病院(現横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、後に東條は、重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという[7]。
大統領選
連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないため、早く占領行政を終わらせ凱旋帰国を望んでいた。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび「日本の占領統治は非常にうまく行っている」「日本が軍事国家になる心配はない」などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって日本への占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。
1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。
マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心[8]に、シカゴ・トリビューン紙のロバート・マコーミック社主や、やはり新聞のランドルフ・ハースト社主がいた。ニューヨーク・タイムズ紙も彼が有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。
だが、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカの国民や政治家の視線を気にせずに日本の占領政策を施行できることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。なおイギリスやソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点において、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。
朝鮮戦争
北朝鮮による奇襲攻撃
第二次世界大戦後に南北(韓国と北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。
当時、マッカーサーは、アメリカ中央情報局 (CIA) やマッカーサー麾下の諜報機関 (Z機関) から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにも関わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際「考えたいから一人にさせてくれ」と言い、日本の降伏から5年で平和が破られたことに衝撃を受けていたという[9]。
だがその後は、「韓国軍は奇襲を受けて一時的にショックを受けているだけであり、それが収まれば必ず持ち直すに違いない」と考え、あまり戦況を心配する様子を表に出さなかった(GHQ 外交局長だったウィリアム・シーボルト『日本占領外交の回想』による)。6月27日にマッカーサーは、朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与され、直ちに軍需物資の緊急輸送とアメリカの民間人救出のための船舶、飛行機の手配を行った。なお朝鮮半島には国連軍として、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍や、ベルギー軍なども参軍展開した。
28日にソウルが北朝鮮軍に占領された。僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、李承晩大統領ら要人との会談を行った。かつてマッカーサーは李承晩らに、1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。その言葉通り、マッカーサーはすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、その後前線視察を行い、兵士を激励鼓舞しすぐさま東京へ戻った。
なおマッカーサーは、インフラストラクチャーが貧弱な上に、戦争により破壊された朝鮮半島に留まることを嫌い、その後も暮らし慣れた東京を拠点とし戦線に向かい、朝鮮半島に一時滞在するものの日帰りで東京へ戻るという指揮形態を繰り返した。これらの行動は現状を理解する妨げとなり、状勢判断を誤り、後に成立間もない中華人民共和国の中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)参戦を招く一因ともなった。
仁川上陸作戦
7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓アメリカ軍、イギリス軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。マッカーサーは急遽在日アメリカ軍第八軍を援軍として派遣したほか、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍も追加派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。
そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の仁川への上陸作戦を提唱した。この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、統合参謀本部と海軍は反対で、ワシントンからはコリンズ陸軍参謀総長とシャーマン海軍作戦部長、ハワイからはラドフォード太平洋艦隊司令長官とシェパード太平洋艦隊海兵隊司令官を東京に送ってまで中止にさせようとしたが、マッカーサーは作戦を強行した。
マッカーサー自身も成功率が低いと見積もっていたこの作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転、9月になると国連軍はソウルの奪回に成功した。これはマッカーサーの名声と人気を大きく高めた。
中国人民志願軍の参戦
テンプレート:Main その後マッカーサーは勝利を重ねて開戦以前の南北朝鮮両国の国境線であった38度線を突破し、朝鮮半島を北上するものの、トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。しかしマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境の鴨緑江にまで迫った。
その結果、中華人民共和国とソ連に過度に警戒心を抱かせることとなり、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された「中国人民志願軍」(「抗美援朝義勇軍」)の参戦を招くに至った。その後彭徳懐司令官率いる「中国人民志願軍」は人海戦術で一時中朝国境にまで迫った国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。
更迭
1951年になると、北朝鮮軍と中国人民志願軍の反攻が本格化し、1月4日に中朝連合軍はソウルを再攻略し、再び戦線を押し戻すようになった。このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国の海上封鎖、中華民国の中国国民党軍の中華人民共和国統治地区への上陸、中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。しかしトルーマン大統領は、「核兵器を使用することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない」としてこの意見を却下した。
マッカーサーが第三次世界大戦勃発の危機さえ誘発しかねない核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を無視して北上を続けたために中華人民共和国の参戦を招いたことに激怒していたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーに対する更迭を発令した。
マッカーサーはそのとき愛妻のジーンと共に、来日したウォーレン・マグナソン上院議員とノースウエスト航空のスターンズ社長と会食をしていた。副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーン夫人に解任のニュースを知らせ、「至急報」と書かれた茶封筒を渡し、夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かって「ジーン、これで帰れるよ」と言ったと伝えられている。オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。
4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞と朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。また、吉田茂の日本政府は彼に『名誉国民』の称号を与えることを決定したが、マッカーサーは受けるとも受けないとも言わなかった。これらの戦後の日本におけるマッカーサーの絶大な人気は、GHQからの圧力により、日本のマスコミにおける"マッカーサーブーム作り"があったためである。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に東京国際空港から離日した。
退任
退任後
1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、ウェストポイント陸軍士官学校に自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」[10]と述べ、有名になった。
この歌には何通りかの歌詞があるが、要約すると
という痛烈なものである。
この演説のあとに軍人として活動することは無かったが、アメリカ軍においては「元帥」の位には引退の制度がないため、籍は生涯現役の元帥だった[11] 。
議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨーク市のマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まってマッカーサーを祝福した。その後はマンハッタンにある高級ホテル「ウォルドルフ=アストリア」のスイートルームを自宅として家族と暮らすこととなった。
マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するが、すでに高齢で党内の支持を得られず断念し、同年レミントンランド社(タイプライター及びコンピュータメーカー)の会長に迎えられた。また複数の名誉職を兼任し、併せて政治的発言も多く行ったが、もはやその影響力はかつてと比べ物にならないほど小さいものとなっていった。
死去
1964年3月6日に、老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院に入院、3月29日の手術は腸を2.4mも切り取るなど大掛かりなもので術後そのまま危篤となり、3月30日には腎機能がほとんど停止し三度目の手術を受けた。4月に入り一旦は意識を取り戻したものの、4月3日に意識不明となり4月5日午後2時39分(日本時間、6日午前4時39分)に84歳で死去した。
翌日、遺体はニューヨークのユニバーサルフュネラル教会へ移送されて告別式を行った後、4月8日にワシントンD.C.に戻されて国会議事堂に安置された。そして翌9日にバージニア州ノーフォークまで運ばれ、4月11日に聖パウロ教会でリンドン・B・ジョンソン大統領ほか数千人が参列して国葬が執り行われた。日本からは代表として吉田茂が出席した。
家族
1938年にマニラで妻ジーンとの間に出来た長男がいる。マッカーサー家は代々、家長とその長男がアーサー・マッカーサーを名乗ってきたが、兄であるアーサー・マッカーサー3世の三男がダグラス・マッカーサー2世になり、三男であるダグラスの長男がアーサー4世になっている。
息子のアーサー・マッカーサー4世は日本在住の時にはマッカーサー元帥の長男として日本のマスメディアで取り上げられることもあった。息子は軍人にはならず、コロンビア大学音楽科を卒業してジャズ・ピアニストになったが、大成せず晩年がどうなったかについては知られていない。
マッカーサー記念館
ノーフォークのノーティカスから東へ約400m行ったところにあるダウンタウンのマッカーサー・スクエアには、19世紀の市庁舎をそのまま記念館としたダグラス・マッカーサー記念館が立地している。館内にはマッカーサー夫妻の墓や、博物館、図書館が設けられている[12]。博物館には軍関連品だけでなく、マッカーサーのトレードマークであったコーンパイプなどの私物も多数展示されている。また、伊万里、九谷、薩摩の磁器や有線七宝など、マッカーサーが持ち帰った日本の工芸品も展示されている[13]。建物は「旧ノーフォーク市庁舎」として国家歴史登録財に指定されている[14]。記念館の正面にはマッカーサーの銅像が立っている。日本にもマッカーサー記念館を建設する計画はあったが、実行されなかった。
マッカーサーのアメリカ議会証言録
引退後の1951年5月3日、上院軍事外交共同委員会で朝鮮戦争における中華人民共和国へ対しての海上封鎖戦略についての証言の中で、
テンプレート:Quotation と答弁した。
秦郁彦は、小堀桂一郎などの東京裁判批判を行う論客たちがこの発言を「(マッカーサーが太平洋戦争を)自衛戦争として認識していた証拠」として取り上げる論点であると指摘している[15]。小堀はこの個所を「これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分がsecurity安全保障の必要に迫られてのことだつたのです」と訳している[16][17]。しかし、“securityを安全保障と訳すと、文意が通らない。これは治安維持(内政安定)を指す”と言う意見もある。直前まで日本の国内経済について語っていたのに、突然それが国家間の安全保障の話になるのは、論理が飛躍していておかしいというものである。
エピソード
「目玉焼き事件」
厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食で注文の品が並ぶことはなく、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。マッカーサーは、料理人を呼び出して問いただしたところ、料理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく卵が一つ手に入りました」と答えた。その瞬間、マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分の為すべき仕事を理解したという。ただし、このエピソードを事実として証明する関係者の証言はない。
当時のホテルニューグランド会長の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラとサバ、酢をかけたキュウリ、そして鯨肉のステーキであり、マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。その三日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料が荷揚げされたという[18]。
昭和天皇との会談とマッカーサーの占領統治手法
昭和天皇が敗戦国の国家元首としてマッカーサーが滞在するアメリカ大使館に出向き会談した際、マッカーサーは、会談の際の昭和天皇の真摯な姿勢に感銘を受ける。当時、連合国のソ連とイギリスを中心としたイギリス連邦諸国は、天皇を「戦犯リスト」の筆頭に挙げていた。しかし、マッカーサーは、もし天皇を処刑した場合、日本に軍政を布かなくてはならなくなり、ゲリラ戦に陥る可能性を予見していたため、ソ連やイギリスの意に反し天皇を丁重に扱うことで、安定した占領統治を行うつもりだった。
だがマッカーサー自身は、「天皇が、敗戦国の君主がそうするように戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではないか」と懸念したが、昭和天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べたと語っている[19]。マッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには昭和天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる[20]。後にも「あんな誠実な人間は見たことがない」と発言している。
会見写真での夏の略式軍装にノーネクタイというラフな格好は、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた[21]。不敬と考えた内務省は、この写真が掲載された新聞を回収しようと試みたが、GHQによって制止されたため、この写真は内務省による言論統制の終焉も証明することになった[22]。
なおマッカーサーは略装を好み、重要な場や自分より地位が高いものと同席する場合でも略装で臨むことが多かったために、その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともある[23]。さらにこの当時アメリカ大使館には冷房設備がなかったこともあり、天皇との会談の際も夏の暑さを避けるために意図せず略装で迎えたと言われている。
松本健一は、リチャード・ニクソンの回想[24]を引用し、マッカーサーの服装とスタイルには一種の「ダンディズム」ともいえる独特な性向があり、「天皇の前でのスタイルはいつものものでもはるかにマシなものであった」と指摘している。ニクソンが回想する「サングラス、色褪せた夏軍服、カジュアルな帽子、そしてコーンパイプ」という第二次大戦中のマッカーサーのスタイルはまさに厚木飛行場に降り立った時の彼の姿である[25]。
日本人は「12歳」発言
民主主義の成熟度について「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年、日本ならば理想を実現する余地はまだある」と述べた。
上記「12歳」発言は、1951年5月5日に米上院軍事外交委員会において上院議員 R・ロングが行った「日本とドイツの占領の違い」に関する回答として行われたものである。マッカーサーは次のように回答した。
- 科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソン民族が 45 歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年齢である。
- しかし、日本人はまだ生徒の時代で、まだ 12 歳の少年である。
- ドイツ人が現代の道徳や国際道義を守るのを怠けたのは、それを意識してやったのであり、国際情勢に関する無知のためではない。ドイツが犯した失敗は、日本人の失敗とは趣を異にするのである。
- ドイツ人は、今後も自分がこれと信ずることに向かっていくであろう。日本人はドイツ人とは違う。
5月16日にこの発言が日本で報道されると、日本人は未熟であるという否定的意味合いのみが巷間に広まり、このため日本におけるマッカーサー熱は一気に冷却化した。
政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」「マッカーサー記念館の建設」はいずれも先送りになり、三共、日本光学工業(現ニコン)、味の素の三社が「12 歳ではありません」と銘打ち、タカジアスターゼ、ニッコール、味の素の三製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった。
国際基督教大学(ICU)創設
国際基督教大学 (ICU) の創設にあたり、同大学の財団における名誉理事長として、米国での募金運動に尽力した[26]。
原爆投下について
マッカーサーは、広島長崎への原爆投下を批判している。元帥たる自身への相談なく行われた上、日本はソ連へ和平仲介を打診した1945年6月の時点で抗戦の意思がなく、戦略的に無用であると考えたためである。逆に戦略上の必要性があれば使うべきだと考えており、朝鮮戦争の際には原爆投下を立案したために司令官を解任されている。
コーンパイプ
マッカーサーはコーンパイプをこよなく愛したが、使用していたものはかなり大きなもので、タバコ葉を何倍も多く詰められるように深くなっている。これで喫煙するのはテクニック的にかなり難しいのでマッカーサーはかなりのパイプ熟練者だったと想像できる。現在ではこのような形のコーンパイプを「マッカーサータイプ」と呼ぶまでになっている(但しコーンパイプとしては今でも特殊な部類である)。マッカーサーは自分のパイプを識別するために、横軸の真ん中あたりを軽く焼いて焦げ目をつけて印とした。現在のマッカーサータイプのコーンパイプでも、機能に関係無いにもかかわらずその印がされて売られている。
その他
日本滞在中はプライベートで幾度か京都や奈良、日光など観光地を訪問したが、公に報じられることはなかった。しかし、唯一の例外としてミズーリ艦上での降伏文書調印式を終えた後に鎌倉の鶴岡八幡宮を幕僚とともに参拝したことが、1945年9月18日の「読売報知」で報じられている。マッカーサーにとって40年ぶりの訪問だったといわれる。
連合国軍最高司令官在任中は、朝鮮戦争の指揮を任された総司令官にも拘らず、一回もマッカーサーは朝鮮に宿泊することがなかった。言い換えれば指揮や視察で、朝鮮を訪れても常に日帰りであった[27]。
1946年に東京を訪れたハーバート・フーバー元大統領が、フランクリン・ルーズベルト大統領はドイツと戦争を行うために日本を戦争に引きずり込んだと述べたことを受け、マッカーサーは、フランクリン・ルーズベルト大統領は1941年に近衛文麿首相が模索した日米首脳会談を行って戦争を回避する努力をすべきであったという旨を述べている[28]。
占領当時のマッカーサーはフリーメイソンのフィリピン・グランドロッジ(Manila Lodge No.1)に所属しており、32 位階の地位にあったとされる[29][30]。
マッカーサーを取り上げた作品
- 『マッカーサー』 - MacArthur (1977年 監督:ジョセフ・サージェント 主演:グレゴリー・ペック)
- 『終戦のエンペラー』
賞罰
- 議会名誉勲章
- 陸軍殊勲章
- 海軍殊勲章
- シルバー・スター
- ブロンズ・スターメダル
- パープルハート章
- 旭日章(勲一等旭日桐花大綬章ほか)
参考文献
当時の文献
- ダグラス・マッカーサー 「陸海軍省併合及空軍独立論に対する米軍参謀総長の意見」
(『隣邦軍事研究の参考 第四号』)、偕行社編纂部発行, 1933(昭和8年) - ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、朝日新聞社, 1964/中公文庫(上下), 2003、新版(全1巻), 2014
- 『吉田茂=マッカーサー往復書簡集』 袖井林二郎編訳・解説、法政大学出版局, 2000/講談社学術文庫, 2012
- コートニー・ホイットニー 『日本におけるマッカーサー 彼はわれわれに何を残したか』(抄訳) 毎日新聞社外信部訳、毎日新聞社, 1957
- チャールズ・ウィロビー[31] 『マッカーサー戦記』 大井篤訳、時事通信社(全3巻), 1956/朝日ソノラマ(全2巻), 1988
- ジョン・ガンサー 『マッカーサーの謎 日本・朝鮮・極東』 木下秀夫・安保長春訳、時事通信社, 1951
- ラッセル・ブラインズ[32] 『マッカーサーズ・ジャパン 米人記者が見た日本戦後史のあけぼの』(抄訳) 長谷川幸雄訳、中央公論社, 1949/朝日ソノラマ, 1977
- ウィリアム・シーボルド 『日本占領外交の回想』 野末賢三訳、朝日新聞社, 1966
伝記研究
- 増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』 中公新書、2009 ISBN 412101992X
- ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985
- ロジャー・エグバーグ 『裸のマッカーサー 側近軍医50年後の証言』 林茂雄・北村哲男共訳、図書出版社, 1995
- マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996
- 『戦後60年記念 別冊歴史読本18号 日本の決断とマッカーサー』 新人物往来社, 2005
- リチャード・B・フィン『マッカーサーと吉田茂 (上下)』 同文書院インターナショナル. 1993/角川文庫(巻末の書誌索引は省略), 1995
- 工藤美代子 『マッカーサー伝説』 恒文社21, 2001
- 榊原夏『マッカーサー元帥と昭和天皇』 集英社新書, 2000、主に写真本
- 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 岩波現代文庫, 2008、ISBN 400-6001932
- 袖井林二郎 『マッカーサーの二千日』 中公文庫, 新版2004、ISBN 412-2043972
- 袖井林二郎 『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』 岩波現代文庫, 2002、ISBN 400-6030614
- 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、大判本、下記の原本
- 袖井林二郎・福島鑄郎編 『図説 マッカーサー』 ふくろうの本・河出書房新社、2003、ISBN 430-9760384
- 河原匡喜 『マッカーサーが来た日 8月15日からの20日間』 新人物往来社, 1995/光人社NF文庫, 2005、ISBN 476982470X
- シドニー・メイヤー 『マッカーサー 東京への長い道 第二次世界大戦ブックス23』 芳地昌三訳、サンケイ新聞社出版局, 1971
- シドニー・メイヤー 『日本占領 第二次世界大戦ブックス30』 新庄哲夫訳、同上, 1973、各写真多数
- クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978、映画「マッカーサー」の原作。
- 児島襄 『日本占領』(文藝春秋 のち文春文庫)/『講和条約』(新潮社 のち中公文庫)
- 三好徹 『興亡と夢 戦火の昭和史 5』(集英社 のち集英社文庫)
- 谷光太郎「ハート アジア艦隊司令官」、『米軍提督と太平洋戦争』より 学習研究社, 2000.
脚注
関連項目
- 人物
- 出来事
外部リンク
- Douglas MacArthur's biography at the Official U.S. Army website
- The MacArthur Memorial - The MacArthur Memorial at Norfolk, Virginia
- MacArthur Museum Brisbane - The MacArthur Museum at Brisbane, Queensland, Australia
- MacArthur - a site about MacArthur from PBS.
- Killing the Budda - Red Flags and Christian Soldiers - about MacArthur's effort and vision to establish International Christian University
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テンプレート:琉球列島米国民政府の高官 テンプレート:Normdaten
- ↑ 『歴史読本臨時増刊 世界 謎の秘密結社』1986年9月掲載 79ページ 犬塚きよ子「フリーメーソンの全貌 占領政策」)から
- ↑ アジア艦隊のトップが大将なのは、上海などで砲艦外交をする上で仕事をやりやすくするためという理由があった
- ↑ マッカーサーがウエストポイント校長時代、アナポリス校長はハートであった
- ↑ テンプレート:Lang-en-short、略称 SCAP
- ↑ デービッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第1部』(金子宣子訳、新潮社、1997年)
- ↑ テンプレート:Lang-en-short、略称 GHQ/SCAP
- ↑ 重光葵『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年8月号掲載)より、同社で単行本正続が刊行。
- ↑ ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第1部』(金子宣子訳、新潮社、1997年)
- ↑ デービッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第1部』(全2冊、金子宣子訳、新潮社、1997年)、続編『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』(上・下、山田耕介・侑平訳、文藝春秋、2009年)
- ↑ テンプレート:Lang-en-short
- ↑ 朝日新聞昭和39年4月6日夕刊記事
- ↑ Home. MacArthur Memorial.
- ↑ Museum. MacArthur Memorial.
- ↑ Virginia Landmarks Register, National Register of Historic Places. p.12. Virginia Department of Historic Resources, Commonwealth of Virginia. 2011年4月8日. (PDFファイル)
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 小堀『東京裁判 日本の弁明』、講談社学術文庫、1995年8月
- ↑ 正論1月号解説 牛田久美(原文41項~65項)
- ↑ 『横浜の歴史』(横浜市教育委員会編)より
- ↑ 美和信夫『天皇研究』広池出版、『マッカーサー回想録』、「朝日新聞」昭和39年1月25日付、同社で単行本。
- ↑ 吉田茂『回想十年』(初版 新潮社 全4巻 1957-59年/東京白川書院と中公文庫 各全4巻で再刊)
- ↑ 竹田恒徳「この道」(『雲の上、下 思い出話』 東京新聞社、1987年)。
- ↑ (ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』岩波書店、2001年)
- ↑ デービッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第1部』(金子宣子訳、新潮社、1997年)
- ↑ ニクソン『指導者とは』(徳岡孝夫訳、文藝春秋、1986年)。同書によると、マッカーサーの略式軍装は、マッカーサーの奇行が習慣化したもので、1950年に朝鮮戦争問題でマッカーサーと会見したトルーマン大統領は、マッカーサーのサングラス、シャツのボタンを外す、金モールぎらぎらの帽子という「十九かそこらの中尉と同じ格好」に激怒したという。
- ↑ 松本健一『昭和天皇伝説 たった一人のたたかい』 河出書房新社、pp.123-130。朝日文庫で再刊
- ↑ Our History - JAPAN ICU FOUNDATION 2011年11月9日閲覧
- ↑ デービッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 (上下)』、山田耕介・侑平訳(文藝春秋、2009年)
- ↑ 「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判 産経新聞 2011.12.7
- ↑ Denslow, W., 10,000 Famous Freemasons from K to Z, p 112
- ↑ Famous Freemasons M-Z
- ↑ 側近二名の回想だが、研究が進んだ今日では、双方とも(回想録と同様に人物研究以外では)史料としての価値は低いとされる。
- ↑ ラッセル・ブラインズは、当時AP通信東京支局長で、マッカーサーに最も近いジャーナリストと言われた。