ジョン・フォスター・ダレス
ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles, 1888年2月25日 - 1959年5月24日)は、アメリカ合衆国の政治家。日本国との平和条約が締結された1951年9月8日、その同日に調印された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約の“生みの親”とされる[1][2]。1953年から1959年までドワイト・D・アイゼンハワー大統領の下の第52代国務長官を務めた。
反共主義の積極的なスタンスを主張した、冷戦時代の政治家であった。インドシナでベトミンと戦うフランスの支援を主張し、1954年のジュネーブ会議では握手を求める周恩来を拒絶した。講和発効以降、国際社会に復帰したばかりの日本(特に保守陣営)にとっては強い反共主義者である“ダレスの親父さん”の意向は無視できないものがあった。
32代国務長官ジョン・ W・フォスター の孫で、 42代国務長官ロバート・ランシングの義理のおいにあたる。 アイゼンハワー政権で中央情報局長官を務めたアレン・ウェルシュ・ダレスは弟。
目次
経歴
生い立ち
ジョン・フォスター・ダレスは長老教会の牧師の息子としてワシントンD.C.で生まれ、ニューヨークの公立学校に入学した。プリンストン大学とジョージ・ワシントン大学を卒業。
法律事務所時代
彼はニューヨークのサリヴァン・アンド・クロムウエル法律事務所(Sullivan & Cromwell)に加わった。彼はそこで国際法を専門とした。
第一次世界大戦
第一次世界大戦中には陸軍へ志願したが、弱視のため入隊は拒絶された。パリ講和会議には外交官として参加し、ヴェルサイユ条約のうち、テンプレート:仮リンク(戦争責任条項、テンプレート:Lang-en-short)作成にノーマン・デイヴィスと共に携わった。
アドバイザー時代
ダレスは1944年の共和党大統領候補トーマス・E・デューイの親しい友人であった。選挙期間中ダレスはデューイの外交政策アドバイザーを務めた。
1945年にダレスはアーサー・H・ヴァンデンバーグのアドバイザーとしてサンフランシスコ会議に参加し、国連憲章前文の作成を支援した。
国連代表時代
彼は続く1946年と1947年(および1950年)にアメリカ代表として国連総会に出席した。
上院議員時代
ダレスは、民主党上院議員ロバート・F・ヴァーグナーの辞職による空席に対する補欠選挙に共和党から出馬、当選し1949年7月7日にアメリカ上院議員に就任した。ダレスは1949年7月7日から1949年11月8日まで上院議員を務めた。1949年の選挙でダレスは民主党のハーバート・レーマンに敗北、落選した。
在野時代
1950年、ダレスはアメリカ合衆国の外交政策を分析した『War or Peace』を出版し、それはワシントンで外交担当高官の多くに支持された。彼はハリー・S・トルーマンの外交政策を「封じ込め」が「解放」にすり替えられると批判した。
国務長官顧問時代
1950年、トルーマン政権のディーン・アチソン国務長官のもとで国務長官顧問に就任。 同年、6月20日に、訪韓中のダレスは国務長官顧問として38度線を視察、その5日後、25日に朝鮮戦争が始まる。 同年、三たびアメリカ代表として国連総会に出席し、11月3日の総会最終日にはテンプレート:仮リンク(テンプレート:Lang-en-short)を提案して採択された(平和のための結集決議)。
1951年、ダレスはサンフランシスコ平和条約で、朝鮮戦争の間の中華民国に対する中立を保つというトルーマンの政策を実行した。韓国の李承晩大統領が1949年からサンフランシスコ平和条約の締結国に参加することをジョン・ジョセフ・ムチオテンプレート:仮リンクに主張していた。しかし、1951年5月にイギリスが韓国の条約署名に反対すると、7月19日には韓国駐米大使の梁裕燦が「米国草案に対する韓国側意見書(テンプレート:Lang-en-short)」[3]をアメリカ合衆国政府に提出し、「波浪島(現蘇岩礁)、竹島は韓国領土である」と主張した。同日の会談で、ダレスは韓国大使へ署名国となれないことを通知した。8月、米国国務次官補ディーン・ラスクが韓国にラスク書簡を回答し、マッカーサー・ラインの継続や「波浪島(現蘇岩礁)、竹島は韓国領土である」とする韓国政府の要望に対して拒否回答した。9月に日本はサンフランシスコ平和条約をアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和にしたため、ソ連などの社会主義諸国との講和はこの時には行なわれなかった。朝鮮戦争中の翌1952年1月18日に、韓国の李承晩は、李承晩ラインを一方的に設定して竹島の領有を主張し対日強硬路線をとった。ムチオは独裁的な統治を行なう李承晩を説得していたが、失敗し、1952年9月に駐韓大使を退任した。
国務長官時代
ドワイト・D・アイゼンハワーが1953年1月に大統領になった時、彼は国務長官としてダレスを任命した。ダレスは、第一次インドシナ戦争でソ連と中国の武器支援を受けたベトミンと交戦しているフランスに対する支援の必要性を主張したが、これがマッカーシズムの後遺症である「アジア専門家の空白」と相まって、後にベトナム戦争への全面的な介入を招いた。1954年、第一次インドシナ戦争の休戦に関するジュネーブ会議で、中国の周恩来との握手を拒絶した。ダレスは、軍事ブロックのNATOやANZUSの結成に尽力した。
朝鮮半島やインドシナ半島での共産勢力の拡大に加えて、「アメリカの裏庭」と称されたグアテマラでも、1953年2月にハコボ・アルベンス・グスマン(テンプレート:Lang-en-short)政権がユナイテッド・フルーツ(UFCO、現テンプレート:仮リンク)の土地接収を発表すると、ダレスはPBSUCCESS作戦で政権を転覆させた。これが原因となりグアテマラ内戦(1960年-1996年)が勃発した。
アーバーダーン危機(1951年-1954年)では、パフラヴィー朝イラン帝国のモハンマド・モサッデク首相がテンプレート:仮リンク(AIOC)を国有化して親ソ政策を行なったが、1953年に弟アレンのいるCIAと共にMI6の協力のもと、テンプレート:仮リンク(テンプレート:Lang-en-short)でモサッデクを失脚させ、親米的なパーレビ国王が権力を回復した。1954年にはSEATO、1955年にはCENTOの結成に尽力した。
1956年にはスエズ運河国有化(テンプレート:Lang-en-short)問題をめぐって、ダレスはエジプトのナセル大統領と敵対し、ナセルは親ソ政策に転換した。 同年8月19日にダレスは、日本の重光葵外相とロンドン会談を行い、重光に対して北方領土の択捉島、国後島の領有権をソ連に対し主張するよう強く要求し、二島返還での妥結をするならば、沖縄の返還は無いと指摘して、日本側の対ソ和平工作に圧力を加え、10月の日ソ共同宣言で北方領土は返還されなかった。 同年、英仏軍がエジプトへ侵攻した第二次中東戦争に強く反対した一方で、アメリカのエジプトに対する武器供与を停止させた。 この決定でソ連は中東に対する影響力を獲得し、政策は裏目に出た。
ダレスの体は癌に蝕まれ、1959年4月に彼は国務長官を辞任した。
退役後
1959年5月24日にワシントンD.C.で死去し、アーリントン国立墓地に埋葬された。
ダレスに由来する事物
- ワシントン・ダレス国際空港(バージニア州シャンティリー)
- ダレスバッグ
脚注
- ↑ ケント・カルダー、「日米同盟の静かなる危機」、ウェッジ、2008年、65,66ページなど
- ↑ 豊田祐基子『「共犯」の同盟史 ―日米密約と自民党政権』岩波書店、2009年、35ページ
- ↑ テンプレート:Cite book
文献情報
- 「サンフランシスコ講和条約をめぐるダレス特使の演説・論文」旬報社デジタルライブラリ[1][2](「資料沖縄問題」第3部IV 1969.06)
- ハワード・ショーンバーガー、「占領1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人」、時事通信社、1994年、第8章
- Power and Peace: The Diplomacy of John Foster Dulles by Frederick Marks (1995) ISBN 0-275-95232-0
- John Foster Dulles: Piety, Pragmatism, and Power in U.S. Foreign Policy by Richard H. Immerman (1998) ISBN 0-8420-2601-0
関連項目
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|style="width:30%"|先代:
ロバート・F・ワーグナー
|style="width:40%; text-align:center"|ニューヨーク州選出上院議員(第3部)
1949年7月7日 - 1949年11月8日
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ハーバート・H・リーマン
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|style="width:30%"|先代:
ディーン・アチソン
|style="width:40%; text-align:center"|アメリカ合衆国国務長官
1953年1月21日 - 1959年4月22日
|style="width:30%"|次代:
クリスチャン・ハーター
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