F-104 (戦闘機)
テンプレート:Redirectlist テンプレート:Infobox 航空機 F-104 は、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機。愛称はスターファイター (Starfighter)
概要
F-100 スーパーセイバーに始まるセンチュリーシリーズの一員とされ、また、第2世代ジェット戦闘機に分類される、アメリカ合衆国初のマッハ2級のジェット戦闘機。初飛行は1954年2月。
細い胴体に短い矩形の主翼を持つ小型軽量の機体にゼネラル・エレクトリック社の強力なJ79型エンジンを一基搭載している。その卓越した高速性と形態はミサイル(当然無人である)を彷彿させ、日本やアメリカにおいては「最後の有人戦闘機」とも称された。
アメリカ空軍では短い期間の運用に終わったが、冷戦下において日本やイタリア、中華民国(台湾)や西ドイツなどアメリカの同盟国や友好国を中心に、世界15ヵ国で供与・運用された。1960年代に勃発したベトナム戦争のほか、第二、第三次印パ戦争等の実戦に投入された。
高度な操縦・整備技術を要し、高価であった事もあり、南ベトナムや韓国、フィリピン、南アメリカ諸国をはじめとする発展途上国への供与はF-5A/Bへ譲られたが、ライセンス生産を含め2,578機が生産された。初飛行後から半世紀を経た2004年、イタリア空軍に所属したF-104S退役を最後に全機退役となった。
開発の経緯
ロッキード社の設計者であったクラレンス(ケリー)・ジョンソンは、実戦を経験した戦闘機パイロットによる戦闘機への要望の調査の為に、朝鮮戦争最中の1951年12月に韓国を訪問した。当時、アメリカ空軍のF-86パイロットの前にMiG-15戦闘機がソ連の援助により投入された時期にあたる。 その結果、ジョンソンは複雑な構造を持つ大型の機体ではなく、MiG-15の様に必要最小限な装備を搭載し軽量化された機体が必要とされていると結論付けた[1]。
アメリカに帰国後、ジョンソンは早速航空機のデザイン作成に取り掛かった。1952年3月にジョンソン率いる開発チームは、数種類の航空機スケッチを描いた。デザインを重ねるごとに機体スタイルは洗練され、重量が50,000lb(23t)の大型のものから、8,000lb(3.6t)という小型機のデザインに変わっていった。
同時期、アメリカ空軍もMiG-15 との戦訓から、出来る限り軽量な機体に強力なジェットエンジンを搭載し機動力と高速性を高めた戦闘機を欲していた。そして、迎撃戦闘機の開発要求を1952年5月に国内のメーカーに提示し、ジョンソン率いる設計チームスカンクワークスは小型軽量機の開発計画案を1952年11月にアメリカ空軍に提出した。ロッキード社の案にアメリカ空軍は大変興味を示し、他社の開発案との比較の結果、ロッキード社が1953年3月12日に開発の契約を結び、2機の原型機発注が行われた。
当初、開発中のJ79型エンジンの搭載を予定していたが、試作機作成に間に合わなかったため、J65-B-3型エンジンを搭載することとなった。試作1号機であるXF-104(53-7786)の製造は、ロッキード社カリフォルニア工場で1953年より開始された。1954年に機体が完成し、3月4日に初飛行を行った。試作2号機(53-7787)の製造は、1953年秋に始まっている。
1954年3月30日にはエンジンをYJ79-GE-3に換装し、強化したYF-104が17機発注されている。なお、YF-104は1955年4月27日にマッハ2を記録している。
- Lockheed XF-104 060928-F-1234S-001.jpg
XF-104とパイロット
- J79 with F-104.jpg
YF-104とJ79型エンジン
特徴
基本構造
機体は高い縦横比、つまり、細長く、尖った機首に向かって先細りになる胴体内にレーダー、コックピット、機関砲、燃料、着陸装置、およびエンジンが余積なく搭載され、前面投影面積は小さく纏められた。小面積の主翼と相まって、誘導抵抗が非常に高くなる高迎角時を除いて、抗力を非常に低く抑えたものとして、充分な加速力、上昇力と潜在的最高速度を発揮することとなった。
その反面、持続旋回性能は不十分なものであり、F-104A/Bに対してM1.8/550ノットまではフラップの使用を可能にする変更により操作性を改善したものの、制御入力に敏感で操縦を困難なものとした。
単座型の他、何種かの複座練習機型が生産された。それらは一般に単座機と同様の内容ながら、追加コックピットのために、機関砲と内部燃料の一部を取り外すことになった[2]。首脚格納部は位置を変えられ、収納方向が後方に変更された。複座型は垂直尾翼面積の僅かな拡大と機体重量に係わらず、サイドワインダーを使用した戦闘においては初期の単座機と同等の性能を発揮した。
主翼
F-104は先進的な翼設計をその特徴としている。参考としたのは、X-7だった。X-7による実験等の結果、超音速飛行のために最も効率的な形としたのは、当時から現代までのジェット戦闘機の主流である後退翼やデルタ翼[3]ではなく、非常に小さい中翼配置とした台形の直線翼[4]と結論付けていた。この結果を踏まえ、F-104のために新たに設計された翼は、翼厚比3.36%アスペクト比2.45の非常に薄いものとなった。さらに翼の前縁を0.41mmと非常に薄くしたために、地上作業時には作業員の安全のために保護材を填めなくてはならなかった。燃料タンクと着陸装置は胴体に収容する他なくなり、さらには補助翼を操作する油圧シリンダーを厚さ25mmに抑える必要を生じた。
高翼面荷重の小さな翼は非常に高い着陸速度となり、前後両縁にフラップを装備したのみならず、安全な着陸のために保守負担増を甘受しながらもエンジン抽気を後縁フラップから吹き出し揚力を高める境界層制御システム(BLCS)を組み込まざるを得なかった。それでもなお、可能な限り小型に設計した主翼は揚力を発生しにくい形状であったこともあって低速での揚力が不足したため、90ノット(170km/h)以下での飛行ができないとされた。
全遊動式水平尾翼はイナーシャカップリング減少のために、垂直尾翼の上に取り付けられた。空力的効果のために垂直尾翼は主翼の長さより僅かに短くされたに過ぎず、その結果としてダッチロールを起こす可能性があったため、主翼に10°の下反角を与えることとなった。
NACA(アメリカ航空宇宙局・NASAの前身)はF-104の風洞模型による安定性評価として、高迎角時の不安定さを指摘し、引き上げ時の操縦装置サーボ出力を制限し、パイロットへの警告のために操縦桿を振動させることを推奨した。同レポートではウイング・チップタンクが不安定性を若干軽減したとも報告している。
エンジン
F-104は固定吸込コーンを備え超音速飛行に最適化された胴体横の取り入れ口を持ち、ゼネラル・エレクトリック社J79ターボジェットを搭載した。このエンジンを搭載したF-104は、最高速度マッハ2.2に達するに至っているが、これはアルミニウム機体構造やエンジン流入温度制限による制限によるものであり、推力は最高速度域でもまだ余裕を残していた。F-104A搭載のJ79-GE-3A型エンジンは、アフターバーナー時の推力が6,715kgという当時としては群を抜く推力を発揮し、後期のモデルは推力と燃料消費量ともに改善された改良型を搭載した。特に耐熱限界を向上させたJ79を搭載したイタリア空軍のF-104Sは、最高速度マッハ2.4を発揮するまでに至った。
射出座席
初期の機体は上方射出座席と尾翼との衝突の懸念から下方射出のスタンリーC-1を使用した。このことは低高度脱出での明白な問題となり、約21人のアメリカ空軍パイロットが深刻度の低い非常時に射出を断念したという事態に至った。このため、最低170km/hの速度制限があったものの尾翼を飛び越すことのできる上方射出式のロッキードC-2に更新している。輸出型の多くは速度0、高度0で射出可能なマーチン・ベイカー製テンプレート:仮リンクを装備している。
電子装備
初期のアメリカ空軍機は、AN/ASG-14T索敵レーダー、TACAN、およびAN/ARC-34 UHFラジオを装備した。その後の輸出型戦闘爆撃機仕様では、Autonetics NASARRレーダー、簡単な赤外線照準機、リットンLN-3慣性航法装置、およびエア・データ・コンピュータを装備した。いずれもレーダー誘導ミサイルの運用能力を持たないため、全天候戦闘機としての能力は限定的である。
ロッキードは、1960年代後半にイタリア空軍向けに全天候迎撃戦闘機としてF-104Sを開発した。F-104Sはスパローやアスピーデといったセミアクティブ・レーダー誘導ミサイル用の移動目標表示装置とCWイルミネーターを持つNASARR R21-Gを搭載した。このため、M61は撤去されることとなった。 1980年代の半ばに、残存していたF-104SはASA標準化(Aggiornamento Sistemi d'Arma / Weapon Systems Update)において、はるかに改良され、小型化されたフィアットR21G/M1レーダーに更新された。
なお、電子装備の大半はサブミニアチュア管などの真空管を使用していた。後期に生産された機体では半導体へ換装されているものも存在する。
兵装
F-104は基本的兵装として、M61A1 20mmバルカン砲(発射速度は毎分6,000発)を初めて搭載した。機体の下部に取り付けられた砲に、操縦席の後ろに設置され725発の砲弾を収納したドラムから送弾された。ただし当初は信頼性に乏しく、F-104Aはこれを取り外した状態で部隊配備されている。また、偵察機と初期のF-104Sを含む、すべての複座機と幾種かの単座機には搭載されず、機関砲搭載部とドラムは後部座席や追加燃料タンクに取り替えられた。
翼端ステーションは2発のAIM-9サイドワインダー空対空ミサイルや増槽を搭載した。 F-104Cと後のモデルは胴体中央線と翼下に爆弾やロケット弾ポッド、増槽を搭載可能なパイロンを追加された。胴体下パイロンは核爆弾や、最低地上高の小ささからシーカーヘッドを地上の異物で損傷しがちでではあるものの、2発のAIM-9サイドワインダーを搭載可能な「カタマラン」ランチャーを搭載可能となっている。
さらに、F-104Sでは、左右インテーク下に胴体下パイロン、左右主翼下にさらにパイロンを追加し、総計9箇所のハードポイントを持つに至っている。
記録
1958年5月18日にF-104Aが2,260km/hの速度記録を、1959年12月14日にF-104Cが31,500mの高度記録を作った。
- F-104C-udorn-479tfw-1966.jpg
F-104C(1966年)
- Flugplatz Memmingen 21.09.2008 11-38-58 3072x2304.JPG
操縦席に備わる計器類
- NF-104.jpg
上昇するNF-104A
- F 104 002.jpg
前脚部
- Airforce Museum Berlin-Gatow 220.JPG
空気取入口
- J79 components.jpg
J79エンジン
配備と運用
アメリカ空軍をはじめ、F-104Cの改良型であるF-104Gは西ドイツを中心に北大西洋条約機構各国で大量に採用された。なお、F-104を最も長く運用したのはイタリア空軍である。
アメリカ
- 防空軍団(F-104A/B)
- アメリカ空軍では、1958年2月に防空軍団において部隊運用が開始され、以下の4個飛行隊に配備された。
- テンプレート:仮リンク、オハイオ州ライト・パターソン空軍基地
- テンプレート:仮リンク、カリフォルニア州テンプレート:仮リンク
- テンプレート:仮リンク、マサチューセッツ州テンプレート:仮リンク
- テンプレート:仮リンク、ワシントン州テンプレート:仮リンク
- 同年8月23日に中華人民共和国(中国)が中華民国(台湾)が実効支配する金門島に対して砲撃を行った際、アメリカは台湾に対する支援の一環として配備されたばかりのF-104Aを装備する第83戦闘迎撃飛行隊を台湾に派遣したが、中国人民解放軍の戦闘機との交戦の機会が訪れることなく終息した。
- しかし、1959年に同じマッハ2級の戦闘機であるF-106の部隊配備が開始され、公式には「SAGE(半自動地上管制迎撃システム)との連携機材が搭載できない」という理由で早くも防空軍団では1960年には退役し、機体は台湾、ヨルダン、パキスタンに供与されたほか、空軍州兵に属する以下の3個飛行隊に配備された。
- 1961年8月の東ドイツによるベルリンの壁の建設を切っ掛けに東西間の軍事的緊張が高まったテンプレート:仮リンクの際にも、F-104A/Bを装備する空軍州兵の3個飛行隊は全て合衆国空軍の指揮下に編入されたうえで、第197、第151の2個飛行隊が西ドイツのテンプレート:仮リンク、第157飛行隊がスペインのモロン空軍基地に展開した。
- なお、F-104A/Bは燃料給油口が空中給油に対応していなかったため、後のF-104C/Dのように空中受油プローブを装着することができず、空中給油を利用してのフェリー飛行は不可能であった。このため台湾やヨーロッパへの展開時にはいったん分解してからC-124 グローブマスターII輸送機に搭載して空輸し、到着後に現地で組み立てる方式で移動することとなった。
- 1962年のキューバ危機終結後、翌1963年から空軍州兵の3個飛行隊に配備されていたF-104A/Bは防空軍団に再配備され、以下の3個飛行隊がF-102もしくはF-106からF-104A/Bへの機種転換を実施した。
- テンプレート:仮リンク、フロリダ州テンプレート:仮リンク
- テンプレート:仮リンク、テキサス州テンプレート:仮リンク
- テンプレート:仮リンク、フロリダ州ホームステッド空軍基地
- これらの部隊はF-104A/Bを受領後、カリブ海方面から飛来するキューバ・ソ連機に対するスクランブル待機任務に就いた。1967年には第319飛行隊に配備された26機のF-104A/Bに対して、エンジンをイタリア空軍向けに開発されたF-104Sと同型のGE-J79-19に換装する改修が行われた。
- しかし1967年には第331飛行隊が解隊され、1969年6月には第482飛行隊が解隊、最後に残った第319飛行隊も同年12月をもって解隊され、アメリカ空軍からF-104A/Bは退役することとなり残存機体はスクラップとされるか外国へ供与された。
- 戦術航空軍団(F-104C/D)
- 戦術航空軍団においては以下の4個戦術戦闘飛行隊にF-104C/Dが配備されたが、いずれもカリフォルニア州テンプレート:仮リンクを本拠地とするテンプレート:仮リンクの傘下にあった。
- これらの4個飛行隊は、1961年のベルリン危機の際に欧州各地へ展開したほか、交代で中華民国の清泉崗空軍基地(現在の台中空港)にも展開した。
- ベトナム戦争においては、1965年より南ベトナムのテンプレート:仮リンクや、タイのテンプレート:仮リンクを前線基地とし、戦闘空中哨戒や戦闘爆撃機の護衛、対地攻撃などに従事した。北ベトナム空軍のMiG戦闘機との交戦の機会が訪れることはなく、航法ミスで中国領空を侵犯した機体が中国軍のJ-6戦闘機に撃墜される事態も発生している。部隊は1年ほどで引きあげる事となった。
- 次第に、戦術航空軍団においても防空軍団と同様に退役が進められてゆく。第434飛行隊は1962年に一時人員と機材を引き上げられて半ば解隊状態となり、1966年までにF-4 ファントムIIに機種転換し、第435飛行隊もタイのウドーン基地へ展開中の1967年にF-4 ファントムIIに機種転換した。第476飛行隊は1969年3月18日付で解隊され、戦術航空軍団最後のF-104配備部隊となった第436飛行隊も、1971年3月8日付で解隊された。
- 戦術航空軍団から引き揚げられたF-104C/Dは、一部のF-104Dが台湾に供与されたほか、1967年からテンプレート:仮リンク所属のテンプレート:仮リンクに配備された。この第198戦術戦闘飛行隊はアメリカ空軍および空軍州兵における最後のF-104配備部隊となり、1975年にA-7D コルセアIIに機種転換されるまで運用が続けられた。
- 評価
- 実際の所、F-106のMA-1はともかく、F-102に搭載されたものであれば充分に搭載可能な機体内空間は存在していたが、航続距離の短さや装備可能な空対空ミサイルがサイドワインダー4発だけという武装の貧弱さが嫌われたのでは無いかと言われている。また、戦術航空軍団においても、搭載力や航続距離の不足が問題視され、同じくごく少数の配備で終わっている。
- ただし、これらの欠点は軽量戦闘機である以上はやむを得ないものであり、基本的には昼間制空戦闘機であるF-104を全天候迎撃機や戦闘爆撃機として使う事自体が、上述の「軽快なMiG戦闘機に対抗する」という本来の開発目的からは外れている。この時期のアメリカ空軍が、制空戦闘機というカテゴリを軽視していた事の表れである。開発目的から見てのF-104の欠点は、高翼面荷重とT字尾翼による運動性の低さである。上述のベトナム戦争においての戦闘空中哨戒が、アメリカ空軍において唯一、本来の目的に使われた例である。
- 一方で、要撃機としては上昇能力に優れ、戦闘爆撃機としては低空侵攻能力に優れているという長所もある。後述の通り、航空自衛隊および西ドイツ空軍ではその長所を生かして運用された。
ベルギー
- ベルギー空軍は1963年2月14日から、F-104G 101機とTF-104G 12機の、計113機を導入し、以下の2個航空団/4個飛行隊に配備・運用していた。運用中に事故でF-104Gを38機とTF-104Gを3機失っている。
- 第1航空団は全天候防空戦闘を任務としていたが、第10戦術航空団は有事にはアメリカ空軍が提供した戦術核爆弾を装備しての戦術核攻撃を任務としていた。
- 退役は1983年9月19日。退役に伴い、残存機体のうちF-104G 11機とTF-104G 9機が阿里山11号計画に基づいて台湾空軍に譲渡されたほか、F-104G 17機がトルコ空軍に譲渡された[5]。
カナダ
- 概要
- カナダ空軍は1962年から1986年の期間、カナディア(現:ボンバルディア・エアロスペース)がライセンス生産したCF-104 200機と、38機のCF-104D(ロッキード社製造)を導入している。運用中に110機が事故で失われた
- カナダ空軍のCF-104部隊は、カナダ本土においては機種転換訓練部隊のみに配備され、実戦部隊は全て西ドイツとフランスに配置され、フランス北東部モゼル県のメスに司令部を置くテンプレート:仮リンクの指揮下に置かれた。CF-104部隊は就役から退役までに、以下の部隊と航空基地に配備された。
- カナダ・アルバータ州、テンプレート:仮リンク
- テンプレート:仮リンク(機種転換訓練部隊。旧部隊名は第6攻撃/偵察転換訓練部隊 (6 Strike/Reconnaissance Operational Training Unit)であったが、1972年に現名称に改編。1983年に解隊され、1993年に再編成)
- 第1航空団 - フランス・ムーズ県、テンプレート:仮リンク / 西ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州、テンプレート:仮リンク
- 第2航空団 - フランス・モゼル県、テンプレート:仮リンク
- 第3航空団 西ドイツ・ラインラント=プファルツ州、テンプレート:仮リンク
- 第4航空団 西ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州、テンプレート:仮リンク
- 当初の4個航空団/8個飛行隊体制は、フランスのNATO軍事機構脱退とカナダ自身の財政難による軍縮から、次第に縮小してゆくこととなる。
- 1965年には、グロスタンクア航空基地の閉鎖に伴い第2航空団は解隊され、第430飛行隊はツヴァイブリュッケン航空基地の第3航空団、第421飛行隊はバーデン=ゾーリンゲン航空基地の第4航空団へ移転する。
- 1967年には第1航空団がマールヴィル航空基地から、西ドイツのレーア航空基地に移転する。この際、第1カナディアン航空師団の司令部もフランスのメスから西ドイツのレーア基地へ移転し、第1カナディアン航空群(1 Canadian Air Group)として再編される。このほか、第434飛行隊と第444飛行隊が解隊される。
- さらに1969年8月27日には、西ドイツのツヴァイブリュッケン航空基地をアメリカ空軍に譲渡し、カナダ空軍は同基地から撤収した。この時、第427飛行隊はバーデン=ゾーリンゲン航空基地へ、第430飛行隊はレーア航空基地へ移転する。
- 1970年には、カナダ軍はヨーロッパに駐屯するCF-104飛行隊を3個飛行隊に削減することを決定。この決定に基づいて第422、第427、第430の3個飛行隊が解隊され、残存の第421、第439、第441の3個飛行隊はバーデン=ゾーリンゲン基地に集中配備される。
- この時期に余剰化したCF-104およびCF-104Dの一部機体は、1972年から1974年にかけてデンマーク空軍(15機のCF-104と7機のCF-104D)とノルウェー空軍(18機のCF-104と4機のCF-104D)に譲渡された。この時ノルウェー空軍に譲渡された機体のうちの3機(単座型のCF-104が2機、複座型のCF-104Dが1機)がアメリカの民間アクロバットチームのスターファイターズ(Starfighters Inc)によって再整備が行われ、民間で飛行可能状態にある[6][7]。
- 1982年からはCF-104およびCF-101、CF-116の後継機として採用されたCF-18 ホーネットへの更新が開始され、1986年にはカナダ空軍からCF-104は全機退役した。余剰化した機体のうち、44機のCF-104と6機のCF-104Dがトルコ空軍に譲渡された[8]が、これらの機体も部品取りのために解体されたか、トルコ空軍からF-104系統の機体が全機退役する1995年までには退役したと推定される。
- 運用
- カナダ空軍のCF-104部隊は、西ドイツ空軍の戦闘爆撃航空団と同様に、NATO軍の指揮下でアメリカ空軍が提供した戦術核爆弾を胴体下に搭載しての低空侵攻による戦術核攻撃を任務とした。このため、配備当初のCF-104はM61 20mmバルカン砲を搭載しておらず、航続距離延伸を目的にバルカン砲と弾倉のスペースに補助燃料タンクを装備した。また、機体も当初は核爆発の閃光から機体を保護するため、機体は無塗装で主翼のみが白色に塗装されていた。
- 1970年代初頭には核攻撃任務を解除され、代わりにMk 82"スネークアイ"高抵抗無誘導爆弾やテンプレート:仮リンク/テンプレート:仮リンククラスター爆弾、ナパーム弾、CRV7 70mmロケット弾ポッドなどの通常兵器(精密誘導兵器の運用能力は無し)による戦術攻撃を任務とするようになり、その一環として1972年にはM61 20mmバルカン砲を装備した[9]。
- このほか、戦術写真偵察もCF-104の重要な任務であった。CF-104を装備する8個飛行隊のうち、第439飛行隊と第441飛行隊は戦術偵察任務を付与されており、両飛行隊に所属するCF-104は胴体下部のハードポイントにVinton社製Vicon偵察用カメラポッド(70mmカメラを4機内蔵)を装備しての写真偵察を行うことが可能である。
- CF-104部隊の任務はもっぱら低空侵攻による戦術攻撃(核兵器と通常兵器の双方含む)と戦術写真偵察とされていたため、カナダ空軍においては空対空戦闘の訓練は行われていたが、レーダーFCSが対地攻撃に最適化されていたこともあり、CF-104が対空戦闘用のAIM-9サイドワインダーを装備することはなかった。ただし、後にカナダから余剰機を譲渡されたデンマークやノルウェー、トルコにおいてはAIM-9サイドワインダーを装備している。
台湾
- 中華民国(台湾)は1960年代より、阿里山計画(阿里山计划)に基づいてF-104を装備した。総計で282機を保有。当初はアメリカ空軍で使用していた中古のF-104A/F-104Bを導入していたが、MAP計画による、新品のF-104G(TF-104GとRF-104Gを含む)をロッキード社およびカナディアから受領し、アメリカにおける在庫がなくなった後は、航空自衛隊や西ドイツ空軍、デンマーク 空軍、ベルギー空軍で使用されていた中古機を導入・配備していた。なお航空自衛隊の中古機に関しては、アメリカが日本に無償援助を行った分を退役後に返還した機体であり、直接日本から台湾に輸出した訳ではない。早期に導入配備されたF-104A/F-104Bの機体の一部は、アメリカに返却してヨルダン・パキスタンに再供与されており、航空自衛隊の中古機とは逆の例となっている。最終的に導入したF-104は、F-104A/B/D/G/J/DJ、RF-104G、TF-104Gの8種類となる。1997年に全機退役。
デンマーク
- デンマーク空軍は、当初25機のカナディア製F-104Gと、ロッキードで組み立てられた4機のTF-104Gを受領・運用した。1972年と1974年には、カナダ空軍で余剰となったCF-104 15機とCF-104D 7機を追加で導入する。導入された機体は、オールボー航空基地(軍民共用)のテンプレート:仮リンクと第726飛行隊(Eskadrille 726)に配備された。
- 計51機のF-104は1986年まで運用され、退役に伴って15機のF-104Gと3機のTF-104Gが1987年に阿里山10号計画に基づいて台湾に引き渡された[10]。
西ドイツ
- 概要
- 西ドイツにおいては、749機のF/RF-104G、137機のTF-104G、30機のF-104Fの、合計916機が運用された。
- これらは西ドイツ空軍では主に低空侵攻用の戦闘爆撃機としても用いられ、近接支援任務のほか核攻撃任務が付与され、アメリカ軍管理の核爆弾250発と作戦機が分散配置された。また、西ドイツ海軍航空隊においては北海およびバルト海における対艦攻撃任務に用いられ、2発のテンプレート:仮リンク空対艦ミサイルを装備可能であった。
- 上述の通りアメリカ空軍においては、搭載量と航続距離の不足から、戦闘爆撃機としては不適とされたが、高翼面荷重故の突風に対する安定性、海面高度でマッハ1.15の高速、機体規模の小ささ故の低被発見率など、その長所を生かしての運用がなされた。
- 天候の良いアメリカでの訓練を受けて帰国したパイロットが、テンプレート:要出典範囲。そのため、「未亡人製造機(Witwenmacher、英語読みのウィドウメーカー(Widowmaker)でも知られる)」、「空飛ぶ棺桶(fliegender Sarg)」、「縁起の悪いジェット機」、「アンカーボルト」または「テントのペグ」(Erdnagel)」などの仇名で呼ばれていた。西ドイツ空軍においては、916機中292機が失われた。導入選定時、第二次世界大戦の撃墜王エーリヒ・ハルトマンは、当機の導入を反対していたとされる。後にヨーロッパ化と呼ばれる訓練プログラムを追加している。
- 1970年代に入ると、第51、第52の2個偵察航空団がRF-4Eへ機種転換し、第36戦闘爆撃航空団と第71、第74戦闘航空団がF-4Fに機種転換した。さらに1980年代には他の4個戦闘爆撃航空団と2個海軍航空団(1993年には第51偵察航空団も)がトーネード IDSへ機種転換し、1987年には西ドイツ空軍の実戦部隊からF-104は姿を消し、試験機として残っていた機体も1991年5月22日に退役した。
- 西ドイツ空軍および西ドイツ海軍航空隊での運用を停止された中古のF-104は、多くの国に譲渡されていった[11]。
- アメリカにおける西ドイツ軍のF-104
- 西ドイツ軍のF-104パイロットの養成はアメリカで行われた。西ドイツ空軍および海軍航空隊のF-104パイロット候補生は、アリゾナ州マリコパ郡のテンプレート:仮リンクにおいて、西ドイツ空軍が保有するTF-104GおよびF-104Gを用いての機種転換訓練および戦闘訓練を受けることとされた。
- ルーク空軍基地には、1964年2月20日付で第4510戦闘機搭乗員訓練航空団(4510th Combat Crew Training Wing)の傘下に西ドイツ空海軍のF-104パイロット養成を任務とする第4540戦闘機搭乗員訓練航空群(4540th Combat Crew Training Group)が編成された。さらに同航空群の指揮下に3月1日付で第4518戦闘機搭乗員訓練飛行隊(4518th Combat Crew Training squadron)、7月1日付で第4519戦闘機搭乗員訓練飛行隊(4519th Combat Crew Training squadron)が編成され、西ドイツ軍パイロットの機種転換および戦闘・攻撃訓練を開始した。
- なお、上記の訓練部隊は1969年10月1日付で、第4510戦闘機搭乗員訓練航空団はテンプレート:仮リンクが任務を引き継ぎ、第4518/第4519の両戦闘機搭乗員訓練飛行隊もそれぞれテンプレート:仮リンク/テンプレート:仮リンクの両戦術戦闘訓練飛行隊(Tactical Fighter Training Squadron)に任務を引き継いで解隊した。
- 1975年、西ドイツ空軍はRF-4EおよびF-4Fの導入によるF/RF-104Gの保有機数削減に伴い、F-104訓練部隊の規模縮小を決定。この決定に基づき、1976年10月1日付で第418戦術戦闘訓練飛行隊が解隊される。さらに1980年代にはトーネードIDSへの更新によるF-104Gの退役が迫ったため、西ドイツ空軍および西ドイツ海軍航空隊のF-104Gパイロットの養成訓練は1982年末をもって終了。第69戦術戦闘訓練飛行隊は、翌1983年3月16日付で解隊される。
- ルーク空軍基地には累計110機のF-104(F-104G 73機、TF-104G 37機)が配備されていたが、1975年にTF-104G 2機がノルウェー空軍に譲渡されたほか、ルーク空軍基地での運用が終了した後の1984年には、阿里山8号計画に基づいてF-104G 39機とTF-104G 27機が台湾空軍に譲渡された[19][20]。
- 配備部隊
- 空軍
- 第51偵察航空団 "インメルマン"(Aufklärungsgeschwader 51 „Immelmann“)- テンプレート:仮リンク。
- 1993年3月17日付で解隊されるが、翌1994年1月1日付で再編成。2013年10月1日付で第51戦術空軍航空団"インメルマン"(Taktisches Luftwaffengeschwader 51 „Immelmann“)として再編成。
- 第52偵察航空団(Aufklärungsgeschwader 52)- テンプレート:仮リンク。
- 1993年12月付で解隊。
- 第31戦闘爆撃航空団 "テンプレート:仮リンク"(Jagdbombergeschwader 31 „Boelcke“) - ネルフェニッヒ航空基地
- 2013年10月1日付で第31戦術空軍航空団"ベルケ"(Taktisches Luftwaffengeschwader 31 „Boelcke“)として再編成。
- 第32戦闘爆撃航空団(Jagdbombergeschwader 32)- レヒフェルト航空基地。
- 2013年3月31日付で解隊
- 第33戦闘爆撃航空団(Jagdbombergeschwader 33)- ビューヒェル航空基地
- 2013年10月1日付で第33戦術空軍航空団(Taktisches Luftwaffengeschwader 33)として再編成。
- 第34戦闘爆撃航空団(Jagdbombergeschwader 34)- テンプレート:仮リンク。
- 2003年6月30日付で解隊
- 第36戦闘爆撃航空団(Jagdbombergeschwader 36)- テンプレート:仮リンク。
- 1991年5月24日付で第72戦闘航空団(Jagdgeschwader 72)として再編、2002年1月31日付で解隊。
- 第71戦闘航空団 "リヒトホーフェン"(Jagdgeschwader 71 „Richthofen“) - ヴィットムントハーフェン航空基地
- 2013年10月1日付で戦術空軍航空群"リヒトホーフェン"(Taktische Luftwaffengruppe „Richthofen“)として再編成され、第31戦術空軍航空団"ベルケ"の指揮下に入る。
- 第74戦闘航空団(Jagdgeschwader 74)- テンプレート:仮リンク
- 2013年10月1日付で第74戦術空軍航空団(Taktisches Luftwaffengeschwader 74)として再編成。
- 第10空軍兵器学校(Waffenschule der Luftwaffe 10) - ネルフェニッヒ航空基地、1964年にイェファー航空基地へ移転。
- 1983年8月26日付で第38戦闘爆撃航空団(Jagdbombergeschwader 38)として再編成されるが、2005年8月31日付で解隊。
- 第61防衛技術試験隊(Wehrtechnische Dienststelle 61) - テンプレート:仮リンク
- 海軍航空隊
- 第1海軍航空団(Marinefliegergeschwader 1)- シュレースヴィヒ航空基地。
- 1993年12月付で解隊。
- 第2海軍航空団(Marinefliegergeschwader 2)- テンプレート:仮リンク。
- 2005年8月9日付で解隊。同航空団の解体により、空対艦攻撃任務は空軍の第51偵察航空団(現:第51戦術空軍航空団)に移管される。
ギリシャ
- 1965年、ギリシャ空軍はロッキード/カナディア製F-104G 45機とTF-104G 6機を受領し、テンプレート:仮リンクとテンプレート:仮リンクの2個飛行隊にF-104Gを配備した。
- ギリシャ空軍のF-104Gは、西ドイツやカナダ、オランダ、ベルギーなどと同様に戦術核攻撃を主任務としており、東西冷戦が熱戦に変化した暁には、アメリカ空軍が提供する戦術核爆弾(後には各種通常兵器を含む)を搭載して、ワルシャワ条約機構軍に打撃を与えることとされていた。
- 第335/第336飛行隊はF-104の受領当初はタナグラ(Τανάγρας)空軍基地の第114航空団(116 Πτέρυγα Μάχης)の指揮下にあったが、1977年には テンプレート:仮リンクの第116航空団(116 Πτέρυγα Μάχης)の指揮下に移動した。
- ギリシャ空軍は1970~80年代にかけて、キプロス問題を抱えて対立するトルコと争うように、多くの国から中古のF-104を多数導入した。1975年にはスペイン空軍からF-104G 9機とTF-104G 1機を受領したほか、西ドイツ軍からF-104G 40機、RF-104G 17機、TF-104G 23機を受領。オランダ空軍からもF-104G 10機を受領した[21]が、その多くは第335/第336の2個飛行隊の損耗補充やスペアパーツの提供元とされた。1993年3月、A/TA-7Hに更新され退役する。
イタリア
- イタリア空軍は、1962年に最初のF-104G(ロッキード製)を受領したのち、同年からフィアット(後のアエリタリア)でライセンス生産された104機のF-104Gと20機のRF-104G、24機のロッキード製TF-104Gを導入した。さらに1969年からは改良型のF-104Sを205機導入したほか、1984年には西ドイツ空軍から中古のTF-104G 6機を受領して[22]おり、イタリア空軍は合計355機を導入した。
- イタリア空軍においては、F/RF/TF-104GおよびF-104Sは、以下の8個航空団(Stormo)/13個飛行隊(Gruppo)に配備された。
- 第3航空団(3º Stormo)(1999年に解隊) -テンプレート:仮リンク
- 第28飛行隊(28º Gruppo)
- テンプレート:仮リンク
- テンプレート:仮リンク
- 第20飛行隊(20º Gruppo)
- テンプレート:仮リンク(2010年10月5日付で解隊)-テンプレート:仮リンク
- テンプレート:仮リンク(2010年10月5日付で解隊)
- テンプレート:仮リンク(第6航空団傘下に転属)
- 第154飛行隊(154º Gruppo)
- 第12飛行隊(12º Gruppo)
- 第156飛行隊(156º Gruppo)
- テンプレート:仮リンク(1999年2月25日付で解隊)
- テンプレート:仮リンク
- テンプレート:仮リンク(1999年7月28日付で解隊)-テンプレート:仮リンク
- 第21飛行隊(21º Gruppo)
- イタリア空軍向けの F-104S は、FCSの交換とハードポイントの追加により AIM-7E スパローの運用能力を持ち、また、エンジンの換装により最高速度はマッハ2.4に向上している。これは耐熱限界が向上したためで、パワー自体はもとより余裕があった。
- 1981年に計画された近代化改修によりAIM-9Lが、1997年の近代化改修でAIM-7Eベースのイタリア国産ミサイル、アスピーデがそれぞれ運用可能となっている。F-104Sは、ユーロファイター タイフーンが導入される2005年まで運用されていた。
ヨルダン
- 1967年に29機のF-104Aと4機のF-104Bをアメリカから供与された。
- アメリカからの供与時に「対イスラエル作戦には使用しない」という条件が付されたため、第一陣の引き渡し直後に勃発した第三次中東戦争ではイスラエルの攻撃を避けるためトルコに避難し、終結後に引き渡しを再開した。これは、ヨルダンが新戦闘機の入手先をソ連に求めるのを防ぐための処置であったという。1機は1972年11月のフセイン国王に対するクーデター未遂事件で戦闘に参加したとされているが、詳細は不明である[23]。第2・3次印パ戦争においては飛行隊の一部がパキスタンに派遣され、戦後、アメリカの禁輸措置後には保有機の一部が部品取り用に同国に転売されたという。
- 1983年までにF-5とミラージュF1との置き換えに伴って全機が退役。
オランダ
- オランダ空軍は1962年から、F-104G 95機とRF-104G 25機、TF-104G 18機の、合計138機のF-104を導入した。
- オランダ空軍のF-104は、以下の5個飛行隊と2個機種転換訓練部隊に配備された
- 第306飛行隊 - 元々はF-104への機種転換訓練部隊であったが、1964年に機種転換訓練任務を訓練・機種転換訓練部隊Aに移管し、戦術偵察部隊として再編成。フォルケル空軍基地
- 第311飛行隊 - フォルケル空軍基地
- 第312飛行隊 - フォルケル空軍基地
- テンプレート:仮リンク - レーワルデン空軍基地
- 第323飛行隊 - レーワルデン空軍基地
- 訓練・機種転換訓練部隊A(T/CU A) - レーワルデン空軍基地
- フォルケル機種転換部門(Conversie Afdeling Volkel)- フォルケル航空基地。
- オランダは西ドイツやカナダ、ベルギーと同様にアメリカから有事の戦術核兵器提供を約束されていたため、フォルケル航空基地にアメリカ空軍管理下の戦術核兵器を貯蔵しており、東西両陣営の直接軍事衝突が勃発した際には、フォルケル空軍基地に駐屯する第311/第332飛行隊の所属機体が低空侵攻による戦術核攻撃を行うことになっていた。ちなみに、レーワルデン空軍基地の第322/第323飛行隊は全天候迎撃を任務としていた[24]。
- 1980年代初めごろにF-16への機種更新後、余剰機はF-104G 10機がギリシャ空軍に引き渡されたほか、F-104G 24機、RF-104G 18機、TF-104G 10機がトルコ空軍へ引き渡された[25]。
ノルウェー
- ノルウェー空軍は、1963年からMAP供与により、ロッキード製RF-104G 16機、カナディア製F-104G 3機、ロッキード製TF-104G 2機の計19機を受領した。ただし、ノルウェー空軍に引き渡されたRF-104GはM61 20mmバルカン砲を装備しており、実態はF-104Gそのものであった[26]。
- ノルウェー空軍は受領したF-104をボードー空軍基地のテンプレート:仮リンクに配備し、同飛行隊で運用されていたF-86Fセイバーを更新した。
- 1973年には、カナダ空軍から余剰機のCF-104 18機とCF-104D 4機を受領し、リュッゲ空軍基地のテンプレート:仮リンクに配備し、同飛行隊のF-5A/B(G)を更新した。ノルウェー空軍は、導入したCF-104にM61 20mmバルカン砲を再装備するとともに、レーダーの対空捜索能力を向上させる改修を行った[27]。
- さらに1975年には、西ドイツ空軍がアメリカのルーク空軍基地で運用していたTF-104G 2機を受領している[28]。
- 1981年、第331飛行隊はF-16A/Bへの機種転換を開始し、第331飛行隊に所属していた機体のうちF-104G 3機、RF-104G 9機、TF-104G 1機の合計13機がトルコ空軍に引き渡された[29]。
- 1982年には第334飛行隊もF-16への機種転換を開始し、1983年にはCF-104およびCF-104Dもすべて退役した。ノルウェー空軍で使用されていたCF-104/CF-104Dの中には民間に引き取られた機体もあり、2機のCF-104と1機のCF-104Dがアメリカの民間アクロチーム『テンプレート:仮リンク』[30]に引き取られて運用されているほか、ノルウェー国内のボランティア団体"Friends of Norwegian Stafighters"[31]が1機のCF-104Dを保有している[32][33]。
パキスタン
- パキスタンは1961年にアメリカの軍事援助計画に基づいて旧アメリカ空軍のF-104A 10機とF-104B 2機を供与されている。これらの機体はアメリカ空軍では取り外されていたM61 20mmバルカン砲が再装備されたほか、エンジンをJ79-GE-11に換装されており、初期型故に機体が軽い分推力重量比はF-104各型の中で特に優れていたという[23]。
- パキスタン空軍のF-104は全機がサルゴーダーのテンプレート:仮リンクに駐屯するテンプレート:仮リンクに配備され、第2・3次印パ戦争にF-86、ミラージュIIIと共に実戦投入された。1965年の第二次印パ戦争では9月6日の戦闘でインド空軍のミステールを撃墜しF-104最初の撃墜戦果を挙げたが、インド空軍がF-104との交戦を避けたため、撃墜戦果は約250回の出撃で僅か4機だけであった。F-104の損失は2機のみであったが、インド側の資料では地上でもう1機破壊したとされている。9月11日にはMiG-21と遭遇しマッハ2級戦闘機同士が対立した史上初の事例となったが、F-104は燃料が少なくなっていたため交戦することなく退却した[23]。1971年の第三次印パ戦争ではいくつかの撃墜戦果こそ挙げたものの、MiG-21に苦手な格闘戦に巻き込まれるなどして7機を失う大損害を被り、終戦後アメリカの禁輸措置によって部品供給を絶たれて退役した。
スペイン
- スペイン空軍は1965年から、18機のカナディア製F-104Gと3機のTF-104Gを導入した。1972年のF-4C導入により余剰となった機体はギリシャ空軍とトルコ空軍に引き渡された。
- なお、スペイン空軍では17,000時間以上運用されたものの、事故等で失われる事はなかった。
トルコ
- テンプレート:仮リンクは、1963年からロッキード/カナディア製のF-104G 48機とTF-104G 6機をアメリカからのMAP供与によって受領した。
- トルコ空軍においては、F-104は以下の4個航空団コマンド(Ana Jet Üs Komutanlığı)/10個飛行隊(Filo)に配備・運用された。
- 第4航空団コマンド(4. Ana Jet Üs Komutanlığı)- テンプレート:仮リンク
- 141 Filo
- 142 Filo
- 143 Öncel Filo(転換訓練部隊)
- 第6航空団コマンド(6. Ana Jet Üs Komutanlığı)- Bandırma空軍基地
- 161 Filo
- 162 Filo
- 第8航空団コマンド(8. Ana Jet Üs Komutanlığı)- テンプレート:仮リンク
- 181 Filo
- 182 Filo
- 第9航空団コマンド(9. Ana Jet Üs Komutanlığı) - テンプレート:仮リンク
- 191 Filo
- 192 Filo
- 193 Filo
- 1974年にはイタリアから新造機のF-104S 40機を受領した[34]。1980年代に入ると、トルコ空軍はキプロス問題で対立するギリシャ空軍に対抗するように、欧州各国から多数の中古F-104を導入し始めた。
- これにより、トルコ空軍のF-104取得機数は総計439機にまで膨れ上がったが、その多くはスペアパーツ確保のために解体されたといわれている。
- 後継機のF-16の配備とライセンス生産が進められたことや機体の老朽化などもあり、トルコ空軍のF-104は1995年に全機退役した。
日本
- 概要
- 航空自衛隊は、G型を基に日本での要撃任務用途にあわせて火器管制装置などを改良したF-104J、および複座の練習機F-104DJを採用した。日本にとっては、独自で機体選考を実施した最初のジェット戦闘機ともなった[41]。空自では栄光という愛称を持つ。三菱重工業がライセンス生産を担当し、細い胴体に極端に小さな主翼という形状から、空自の現場では「三菱鉛筆」の愛称もある[42][43]。F-15Jの配備に伴い、1986年に全機が退役した。
- 導入経緯
- T-33A導入で日本への足がかりを築いたロッキードは、アメリカ空軍での採用以降、空軍からデータが公表されると共に、防衛庁に対して売り込み始めた。アメリカ本国における大量調達の芽が無くなったものの、F-86の後継としてF-100の採用を狙うノースアメリカン社との販売競争が行われていた。
- 防衛庁は1957年(昭和32年)に次期戦闘機(F-X)調査団を米国へ派遣した。
- 増強が進むソビエト空軍の爆撃機を意識し、以下の要求を満たす戦闘機の選定を行った。日本としては初めての機体選定作業となった。
- 以上の要求に当てはまる戦闘機はF-104、F-100、N-156F(後のF-5)、F-102の4種となった[41]。F-104は実機が完成し初飛行を成功させてはいたが、アメリカ空軍での配備はまだであった[41]。F-100は当時のアメリカ空軍主力戦闘機、N-156Fは計画機、F-102はもっとも高価な機体であった[41]。これらに加え、米国防総省から予定に無かったグラマンG-98J-11(F11Fタイガーの発展型)の紹介を受け、調査に追加した[44]。当時、最も有力視されていたのが、三菱重工と親密であったノースアメリカン社のF-100で、機首にレーダーを搭載した日本向けF-100Jの発表もなされた[41]。
- 調査団は1957年9月13日に帰国し報告書を提出したが、結論は明記されておらず、結論は先送りとなった[44]。この折、主力戦闘機であるノースアメリカンF-86Fをライセンス生産する三菱重工に、同じノースアメリカン製F-100Jを「つなぎ」として80機ライセンス生産させる意見も上がり、半ば決定とされていたが、F-100について当時の総理大臣岸信介に「戦闘爆撃機」と説明したために「日本に爆撃機は要らない」と一喝され、沙汰止みとなった[44]。
- 1958年1月に佐薙毅航空幕僚長が渡米しF-X次期戦闘機の選定を実施し、帰国後に報告書を提出[44]。報告書で候補機はF-104とG-98に絞られたが、米空軍に配備されたばかりのF-104の事故と、同機が3000メートル級滑走路を必要とする事、データリンクの容量不足等から、翌1958年(昭和33年)に防衛庁はG-98J-11の採用を決定[44][45]、国防会議で内定した。同時に佐薙航空幕僚長らが訪米し、国防総省及び空軍と交渉したが、どちらを採用しても良いとの承認を得た。
- だが、G-98の内定に対して批判が起き(第1次FX問題)、関係者からの事情聴取や証人喚問にまで発展した。1959年(昭和34年)の国防会議において、内定の撤回と再調査が決定。「乗ってみなければわからない」の名台詞を残した源田実航空幕僚長を団長とする官民合同の調査団が再び訪米した[44]。G-98はマッハ1級の機体を無理にかさ上げしてマッハ2級にしたものであり、後退翼を採用した事から遷音速域での加速は優れるが、音速突破後の加速に劣り、超音速域での機動が悪かった。対してF-104は、直線翼を採用した事から遷音速域での加速性に劣るが、音速突破後の加速は優れ、マッハ2の最高速度域でもエンジン推力に余裕があり高い機動ができ、両者の性能差は明らかだったという。二ヵ月半にわたる調査の結果提出された報告書に基づき、「F-104Gを日本向けに改装した型を採用する事を承認する。機数は180機、ほかに訓練用20機を昭和40年を目処として国産する」と決定した。
- これらの機体の導入にあたっては、総経費968億円のうち7500万ドル(270億円)をアメリカ政府による資金援助(無償供与)を受けて配備される事となった。日米の分担比率は72対28である。
- 生産
- J型1号機は1961年(昭和36年)6月30日に米国で初飛行、フライング・タイガー・ライン(貨物航空会社 フライング・タイガース)のCL-44により空輸された。3号機までは完成機として輸入され、国内で再組み立てされた。続いて17機が三菱重工業でノックダウン生産、160機がライセンス生産された。DJ型は20機全てが完成品輸入で、国内で再組み立てされた。
- 1963年から1966年にかけて、第201から第207までの7個飛行隊が新編された。1964年(昭和37年)10月から第202飛行隊がアラート待機を開始、1965年(昭和40年)には所要飛行隊を維持することが難しいとして、J型30機のライセンス生産による追加調達が決定。1967年(昭和42年)度に計230機が配備された。
- 機体
- F-104J は要撃機という日本の要求にあわせてM-2爆撃コンピュータを取り外しており、NASARR F15Jも、F-104Gの搭載したF15Aと異なり対地攻撃の機能を持たない。空中給油については、C型以降は給油口が一点加圧式であるため、空中給油プローブを取り付ければ可能だが航空自衛隊は装備していない。なお、給油口の位置自体は左エアインテイク前方で自衛隊機もその他の空軍機も同じである。諸外国のF-104もプローブは着脱が可能で、装着したときの最大速度はマッハ1.75に制限された。
- 武装はJM61A1 20mmバルカン砲とAIM-9B/Eサイドワインダー空対空ミサイル、2.75in FFARロケット弾を装備できる。ロケット弾の装備は、当時のサイドワインダーでは全天候戦闘を行う事ができなかったからである。バルカン砲は当初装備の予定はなく、C-1契約の180機は未装備で引き渡されている。後にバルカン砲が搭載されたが、F-104J計210機のうち、装備した機体は160機前後に留まった。未装備機の機体の銃口はふさがれ、空きスペースには予備の燃料タンクを有していた。
- 単発エンジンで故障も多く、1969年2月8日に金沢市で落雷を受け民家に墜落し、住民4名が死亡し民家17戸が全焼するという墜落事故を契機に、自衛隊戦闘機の選考にも影響を及ぼした。22年間での大事故は24件とされている。
- 最後の有人戦闘機
- 登場時はミサイル万能論の影響もあり、将来的には航空自衛隊の戦闘機は全て地対空ミサイルに置き換えられると予想されていた。そのためか、日本では最後の有人戦闘機とも呼ばれた。ちなみに地対空ミサイルは1970年の地対空誘導弾ナイキJの導入によって実現したが、同時期にF-4EJ戦闘機も導入しており、ミサイルによって全ての有人戦闘機が置き換えられる事態には至っていない。
- ちなみに最後の有人戦闘機の呼び名はultimate manned fighterを訳したものだと言われているが、正しい和訳は究極の有人戦闘機である。日本ではかなり有名な表現だが、英語圏ではこのような表現はほとんどされていないらしく、少なくとも、英語版wikipediaのF-104にはそのような表現はない[46]。
- これはロッキード社の副社長が来日したおりの記者会見で「これ以上のものは有人では無理である」との発言を捉えたものだと云われる。誰しもにそう思わせるようなラジカルな姿態の戦闘機だった[47]。
- 退役
- F-4EJ、さらにはF-15Jの配備が進むと減数となり、1986年(昭和61年)に那覇基地の第207飛行隊が解隊され、実戦部隊から退役した。このとき多くの機体が用途廃止となり、書類上のみでアメリカに援助相当分を返却したことにして直接廃棄したものもあるが、36機(F-104J:30機、F-104DJ:6機)は状態が良好だったためアメリカに返却された後に阿里山9号計画によって台湾空軍に再供与された。また、アメリカに返還された機体の他に39機が飛行可能な状態だったため、航空実験団に残す4機を除いて35機がモスボール化された。
- 1986年から無人化研究の予算が付き、その中から2機を試作機である有人飛行可能なUF-104Jとして試改修を行い、1992年より臨時無人機運用隊にて試験運用が開始された。1994年に正式に発足した無人機運用隊は、試作機2機、量産型の完全無人標的機UF-104JAを12機の計14機を無人標的機UF-104J/JAに改修して使用した。航空自衛隊最後の「マルヨン」でもあったUF-104J(46-3600)は1997年(平成9年)3月11日に無人標的機として撃墜され、これをもって航空自衛隊から全機姿を消した。
- 評価
- F-104は軽量戦闘機であり訪米調査団が「触らせてももらえなかった」アメリカ防空軍団(ADC)の全天候要撃機F-106デルタダートのような充実した電子兵装や重武装、大航続距離のための燃料、レーダー誘導式の中射程空対空ミサイルを搭載できない。ミサイルによる全天候戦闘能力を持たないことは要撃機としては大きな欠点となる。とはいえ、F-106が戦闘機単体での能力ではなくSAGE(半自動防空システム)とのデータリンクで成り立つ兵器であり、システムとして導入しないと効果は期待できない。SAGEは当時の最新鋭のコンピュータシステムで、かつ、特注で作られた一品物というおもむきのシステムであり、アメリカが提供する可能性は低い上、当時の日本の経済力・技術力では購入・導入・運用は不可能だった。
- 日本における防空システムであるBADGE(自動防空警戒管制組織)の運用開始は1969年(昭和44年)であり、これと組み合わせた戦闘機は1969年(昭和44年)の国防会議で採用が決定されたF-4である。従って、F-104は当時の最良の選択だったと言える。また、要撃機に必須の能力のひとつである上昇性能に関しては非常に優れており、次世代機のF-4よりも高く評価するパイロットもいる。また、バルカン砲の装備方法の違いからF-4EJと比較して弾道が非常に安定していた(機体に抱え込むような装備方法のF-104に対して、F-4E/EJは機首を延長して弾倉を搭載し、機銃そのものは機首にぶら下がる形になるため「落ち着きが無い」と評される事もあった)ため、この点においてもF-4EJ戦闘機よりも優れているとしたパイロットもいた。
- 高亜音速域での旋回半径が2キロと大きく対戦闘機戦闘においては不利であるが、運用各部隊の精力的な研究成果として、小型の機体に由来する低視認性や旋回時間が短い事などを生かした航空自衛隊独自の運用(フラップモードを固定するなど)を編み出している。その成果の一例に岩崎貴弘は在官時代、日米共同訓練における模擬空中戦で米空軍のF-15を「撃墜」した。アメリカ空軍は本来の目的である制空戦闘機としてF-104を使用しなかったが、空自がケリー・ジョンソンの設計を生かした運用を実現できたと言える。
- F-104採用後、小笠原諸島と沖縄がアメリカから返還されると、日本は広大な領海を抱える事となり、航続距離の不足が問題になりつづけた。アメリカ空軍ではF-104やF-106と同時期にF-101も要撃機として採用しており、広大な北極海のパトロールのため長い航続距離を要するアラスカの部隊で使用された。こちらはカナダに輸出された実績もあり、上述の通りカナダ空軍はF-104を核攻撃任務に用い、要撃任務はF-101が担った。ただしF-101は空自の選考の際の候補となっていない。
- 配備部隊
- 第2航空団 (千歳) - 第201飛行隊(F-15に機種更新)・第203飛行隊(F-15に機種更新)
- 第5航空団 (新田原) - 第202飛行隊(F-15へ機種更新後に解隊)・第204飛行隊(F-15に機種更新と同時に第7航空団隷下へ移動)
- 第6航空団 (小松) - 第205飛行隊(解隊)
- 第7航空団 (百里) - 第206飛行隊(解隊)
- 第83航空隊 (那覇) - 第207飛行隊(第7航空団で編成後、沖縄返還により移駐。86年に解隊)
- 実験航空隊 (航空実験団を経て現在の飛行開発実験団)
- 無人機運用隊
型式および派生型
総生産機数はライセンス生産も含め2,578機にも及び、派生型も数多い。
- XF-104
- 試作機。ライトJ65エンジンを搭載した2機が製作された。
- YF-104A
- 前量産型機として17機が各種試験用に製作された。
- F-104A
- 初期生産型として153機が生産された。アメリカ空軍では1958年から1960年にかけて防空軍団(Air Defense Command)において運用され、さらに空軍州兵に移管されて1969年まで使用された。一部は、ヨルダンやパキスタン、中華民国へ輸出され、実戦に投入された。
- NF-104A
- 宇宙飛行士訓練用の機体。3機が改造された。武装を降ろし、LR121/AR-2-NA-1ロケットエンジン(推力:26.7kN)1基を垂直尾翼基部に追加搭載している。36,830m(120,800ft)の高高度までの上昇能力がある。1963年12月10日、当時テストパイロットスクールの校長をしていたチャック・イェーガーがこの機体に搭乗中事故に遭遇したことは良く知られており、映画「ライトスタッフ」にも描かれている。
- QF-104A
- 無人標的機。22機がF-104Aより改造された。
- F-104B
- A型の複座訓練型。26機製造。機銃を降ろし、機内燃料が減少している。数機がパキスタンとヨルダン、中華民国に供与された。
- F-104C
- 改良型火器管制レーダー(AN/ASG-14T-2)を搭載した戦闘爆撃機型。アメリカ空軍戦術空軍(Tactical Air Command)向けに71機が製造された。機体中心線と翼下各2ヶ所の計5ヶ所のパイロンを持ち、機体中心線のパイロンにはMk28かMk43核爆弾を搭載できる。一個飛行隊(第476戦術戦闘飛行隊)は1965年から1967年の短期間、ベトナムに駐留し、F-105の爆撃行の護衛を行っていた。APR-25/26レーダー警戒装置を装備していたのにも関わらず、撃墜戦果は無く、地対空ミサイルなどで9機が撃墜された。
- F-104D
- C型の複座訓練型。21機製造。後に一部の機体が中華民国に供与された。
- F-104DJ
- 日本向けのD型(複座訓練型)J型と同じエンジンを搭載しているが、レーダーは搭載していない。20機が完成機輸入され、航空自衛隊で運用された。
- F-104F
- D型をベースとした複座訓練型。G型と同じエンジンを搭載しているが、レーダーや武装は搭載していない。30機が暫定的な訓練機として西ドイツ空軍に使われたが、1971年にはTF-104Gに更新され退役する。
- F-104G
- 戦闘爆撃機型。ロッキード社のみならず、カナディア、メッサーシュミット/MBB、フォッカー、SABCA、フィアットでライセンス生産が行われ、合計1,122機が製造・輸出された。胴体と主翼および主脚を強化し、垂直尾翼を拡大、フラップを改良、さらには機内燃料タンクの容量を増加させている。空対空モードのほか空対地モードを備えたNASARR F15A-41Bレーダー、LN-3慣性航法装置を備えている。
- RF-104G
- 戦術偵察型。ロッキード、フォッカー、フィアットの三社において合計189機がG型を基に製造された。通常は弾倉の搭載箇所である前脚収納室の直後胴体前部に、通常3基のKS-67Aカメラを搭載しており、カメラ窓の部分が機体から下方に少し出っ張っているのが外見上の特徴。
- M61 20mmバルカン砲こそ搭載していないが、レーダーや慣性航法装置などのアビオニクスはF-104Gと全く変わりがないため、AIM-9サイドワインダーをはじめとする空対空・空対地兵装の運用能力はF-104Gと全く同等である。中華民国ではLOROP(長距離斜方撮影)システムを搭載した改造機を運用し「スターゲイザー(Stargazer)」と呼称した。
- オランダ空軍とイタリア空軍のRF-104Gは後の改修により機体内蔵カメラを撤去し、胴体下部中心線のハードポイントにオルフェウス(Orpheus)写真偵察ポッドを装備することが可能となっている。オルフェウス写真偵察ポッドはF-104退役後も、それぞれF-16[48]とAMX[49]に装備しての運用が継続されている。
- TF-104G
- G型の複座型。ロッキード社において220機が製造された。レーダーや慣性航法装置などは単座型のF-104Gと同等であるため戦闘自体は行えるが、機銃を搭載しておらず、機体下部にAIM-9サイドワインダーを装備できない上、機内燃料が減少しているため戦闘能力は限定的である。これには、ロッキード社がデモンストレーション用に保有していた社有機(L104L)があり、ジャクリーン・コクランによって1964年に女性の世界速度記録を出しているが、後にオランダ空軍に売却された。
- F-104J
- 日本の航空自衛隊向けの迎撃戦闘機型。1962年から178機が三菱重工業によりライセンス生産された。機銃は、後期の機体は最初から装備しているものの、実は当初は標準装備でなかったようだ。初期の機体は装備しておらず、後に全機ではないものの改修で取り付けた。装備しなかった機体はその搭載スペースを増設タンクという燃料タンクに当てていた。そのほか、4発のサイドワインダー空対空ミサイルを搭載できるが、爆撃能力は持っていない。1995年退役。退役後に一部の機体は、無償供与を行った米国に返還されたが、その機体は台湾に供与されて使用された。
- F-104N
- NASAの高速試験飛行チェイス機。G型の3機が提供され、1963年より使われている。
- F-104S
- イタリア空軍向けの迎撃戦闘機型で、従来のF-104の改良発展型である。246機がフィアット(後のアエリタリア)により製造され、イタリア空軍に205機導入されたほか、トルコ空軍も40機導入した。残りの1機は、メーカーでのテスト飛行中に墜落して失われた。
- 後述するロッキードの提案による改良型の、CL-1200ランサーのプランを取り入れたもの。一番の改良点はNASARR R-21G/Hレーダーに換装した事により、セミアクティブレーダーホーミングミサイルのAIM-7スパロー空対空ミサイルの運用を可能とした事である。但しその他の点では、後部胴体下部のベントラルフィンの左右に小型フィンを追加、エンジンをJ79-GE-19(推力52.80 kN)に換装、ハードポイントが4ヶ所(左右主翼の既存ハードポイントの外側と、左右空気取り入れ口の下側)増加と、比較的小規模の改良に留まっている。最高速度はマッハ2.4に達し、F-104のバリエーションとしては最速であるが、これはエンジンの耐熱限界の向上によるものである。なお、機銃は装備していない。
- F-104S-ASA
- イタリアの性能向上型。147機がF-104Sより改修された。周波数跳躍など対電子妨害能力、ルックダウン・シュートダウン能力が向上したフィアットFiat R21G/M1レーダー、新型のIFF(敵味方識別装置)、新型の火器管制装置(AIM-9Lサイドワインダーミサイル・セレニア アスピーデ ミサイルの使用可能)を搭載、また電子装置の小型化により機銃装備が復活している。
- F-104S-ASA/M
- F-104S-ASAの改修型。1998年より49機のF-104S-ASAと15機のTF-104Gが改修された。航法装置としてGPS、TACAN、Litton LN-30A2 INSが装備され、操縦席の計器が改良されている。機銃および爆撃関係の装備は取り外された。
- CF-104
- カナダで使用された戦闘爆撃機型。200機がカナディア(現ボンバルディア・エアロスペース)でライセンス生産された。機体の基本構造はF-104G/F-104Jと全く同一であるが、空対地モードのみを備えたNASARR R-24Aレーダーを搭載し、機銃を装備していない。ただし、機銃装備は1972年に復活。エンジンはJ79-GE-7をテンプレート:仮リンクでライセンス生産したJ79-OEL-7エンジン(推力:44.48kN/アフターバーナー時70.28kN)を搭載している。後に一部の余剰機がデンマーク、ノルウェー、トルコに譲渡された。
- なお、カナディアではCF-104とは別に140機のF-104Gをライセンス生産しており、カナディア製のF-104Gはロッキード製のF/RF/TF-104Gと共にいったん米軍に納品されたのち、台湾、デンマーク、ノルウェー、スペイン、ギリシャ、トルコにMAP(Military Assistance Program)供与によって引き渡された。[23]
- CL-1200ランサー
- エンジンを F-111やF-14 にも搭載されたTF-30ターボファンエンジンに換装、主翼面積を2倍以上に拡大、問題があった水平尾翼のT字配置の改正、レーダーFCSを換装しAIM-7スパロー空対空ミサイルを運用可能にするなど、内容にはかなり変化があり、実質上は機首部分だけを流用した別機と呼んでよい。F-5 フリーダムファイター後継機となる海外供与機や、空軍の軽量戦闘機(LWF)計画に応募するも、前者はF-5E/FタイガーII、後者はF-16 が採用され、いずれも不採用となっている。また、航空自衛隊を始めとするF-104を採用した国に対して後継機として売り込みを図ったが、ほとんど不採用に終わった。F-204とも呼ばれているが、上述の通りアメリカ軍で戦闘機として制式採用された実績は無く、これは正規の命名ではなく俗称であり、アメリカ軍から制式の命名はX-27という実験機としての番号であった。
- U-2
- 型番、および一見しただけの外観は全く違うが、本機をベースとして開発された戦略偵察機である。
仕様
- 全長:16.7m(ピトー管含まず)
- 全幅:6.69m
- 全高:4.11m
- 最高速度:M2.2
- 発動機:GE製 J79-GE-7×1基
- 推力:A/B 7170kgf
- 最大離陸重量:12,490kg
- 固定武装:M61 20mmバルカン砲×1門
- 搭載兵装:AIM-9サイドワインダー空対空ミサイル×4発、ロケット弾ポッド、無誘導爆弾など
- 生産数:(F-104A:153機 F-104B:26機 F-104C:77機 F-104D:21機)
登場作品
映画・ドラマ
昭和時代の特撮映画には、F-86やF-4と共によく登場する。しかし、怪獣映画の代名詞でもあるゴジラシリーズには一度も登場していない[50]。
- 『イーグル』
- イタリア空軍の全面協力により、F-104S実機が登場。
- 『宇宙大怪獣ギララ』
- ギララの攻撃に大挙押し寄せて波状攻撃を加えたが、複数機が接近しすぎて撃墜された。ラストでは第6航空団所属機がギララニウムを搭載したミサイルでギララを攻撃。
- 『ウルトラQ』
- 第30話「2020年の挑戦」に登場。謎の飛行物体を追跡したが、逆に撃墜された。
- 『ULTRAMAN』
- 主人公の回想で登場。劇中では「銀色の流星」と評されている。
- F-86FからF-104Jへの機種転換に臨む訓練生と教官を描いた作品。
- 『スタートレック』
- エピソード「宇宙暦元年7.21」にて、オマハ基地所属ジョン・クリストファー大尉が使用した。
- 『大巨獣ガッパ』
- 『マグマ大使』
- 国際緊急出動隊所属機として登場。
- 『怪獣王子』
- 国防省・レンジャー遊撃隊の航空戦力として登場。
- 『大鉄人17』
- 初期オープニングに登場。劇中でも実機映像で登場するが、ミニチュアは全てF-4になっている。
- 『地球防衛軍』
- 米軍機として登場。航空自衛隊のF-86と共にミステリアンドームを攻撃するが、ミステリアンドームの熱線やミステリアンバトル・ソーサーの攻撃で全滅。
- 『鉄人28号』
- 日本の航空戦力として登場。機首にエアインテークを有する架空のバリエーション機体も登場している。
- 『東京湾炎上』
- 喜山CTS爆破の特別放送に実機が登場。
- 『ブルークリスマス』
- 原田の回想で実機が登場。
- 『不毛地帯』
- ラッキード社の戦闘機として登場。
- 『ライトスタッフ』
- チャック・イェーガーがNF-104でソ連の持つ高度記録に挑むエピソードが登場する。
- 『腐蝕の構造』
- 悪天候のなか旅客機に衝突したことになっている。
漫画・アニメ
- 『ゴルゴ13』
- 作品「ミステリーの女王」で、ゴルゴを題材にした小説を書く女流作家が潜む米空軍基地の襲撃に使用。
- 『エリア88』
- 西ドイツ空軍所属のF-104Gが登場する。
- 『なるたる』
- 航空自衛隊にアグレッサー部隊業務を提供する民間の航空会社の機材として登場する。
- 『ミクロイドS』
- 「再襲来の夜」に航空自衛隊機が登場。「虫の雲」出現の報を受け出撃したが、索敵中に虫の不意打ちに会い全滅。
- 後期OVAシリーズ第15話「星から来た女」に、地球防衛組織CLATの主力戦闘機として登場する。
ゲーム
- SEGAが過去に発売していたフライトシミュレータ
脚注・参考
- ↑ Bowman 2000, p. 26.
- ↑ F-104Bの初期型は機関砲を装備していたものの種々の理由で非実用的なものになっていた
- ↑ 後退翼やデルタ翼は、臨界マッハ数を下げることにより、いわゆる音の壁の発生を遅らせて、巡航速度を音速付近に高める効果がある
- ↑ 直線翼の場合は、後退翼やデルタ翼よりも早々に音の壁に達してしまい、その付近での抵力は大きくなり飛行効率は悪いが、一旦音の壁を突破してしまえば効率が高くなる
- ↑ http://www.starfighters.nl/
- ↑ Starfighters Inc 公式サイト(英語)
- ↑ http://www.kvdvmarketing.com/starfighters.htm
- ↑ http://www.canadianwings.com/Archives/archivesDetail.php?The-CF-104-for-Canada-10
- ↑ http://www.aviation.technomuses.ca/assets/pdf/e_LockheedF104Starfighter.pdf
- ↑ http://www.milfly.dk/pdf/f104uk.pdf
- ↑ http://www.916-starfighter.de/GAF_fate.htm
- ↑ http://www.i-f-s.nl/f-104-miscellaneous/lukewaffe-f-104s/
- ↑ http://www.916-starfighter.de/F-104_NASA.htm
- ↑ http://www.916-starfighter.de/F-104_AMI_serial_TF.htm
- ↑ http://www.916-starfighter.de/F-104_HAF_serials.htm
- ↑ http://www.916-starfighter.de/F-104_TuAF_serials.htm
- ↑ http://www.916-starfighter.de/F-104_RoCAF_serials.htm
- ↑ http://www.i-f-s.nl/f-104-miscellaneous/lukewaffe-f-104s/
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- ↑ http://www.916-starfighter.de/F-104_GAF_Luke%20list.pdf
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- ↑ http://www.916-starfighter.de/F-104_AMI_serial_TF.htm
- ↑ 23.0 23.1 23.2 23.3 文林堂「世界の傑作機No.103 F-104スターファイター」
- ↑ http://karo-aviation.nl/welkom.htm
- ↑ http://www.starfighters.nl/
- ↑ http://karo-aviation.nl/welkom.htm
- ↑ http://starfighter.no/web/hist-en3.html
- ↑ http://www.i-f-s.nl/f-104-miscellaneous/lukewaffe-f-104s/
- ↑ http://www.starfighter.no/web/sq331-e.html
- ↑ http://www.starfighters.net/
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- ↑ [http://www.starfighters.nl/ http://www.starfighters.nl/]
- ↑ http://www.canadianwings.com/Archives/archivesDetail.php?The-CF-104-for-Canada-10
- ↑ 41.0 41.1 41.2 41.3 41.4 41.5 41.6 41.7 41.8 Model Art 2003年12月号P36
- ↑ 世界の傑作機 (No.104) 「ロッキード F-104J/DJ “栄光"」
- ↑ なお、誤解されがちだが三菱重工業と三菱鉛筆は資本的な繋がりのない全く別の会社である
- ↑ 44.0 44.1 44.2 44.3 44.4 44.5 Model Art 2003年12月号P37
- ↑ J79-GE-7エンジンを搭載し、小型レーダーと火器管制装置を搭載するとした
- ↑ なお、the last of the day fighters//最後の「昼間戦闘機」との表現はある
- ↑ 「最初の無人戦闘機F-99ボマークと対をなして呼ばれた」との説もある。また、当時製作された記録映画には『F-104J 人間が乗る最後の戦闘機』というタイトルがつけられている
- ↑ http://www.f-16.net/f-16_versions_article24.html
- ↑ http://web.tiscali.it/aviacolor/72904.html
- ↑ ただし、『怪獣王ゴジラ』の日本版ポスターの中にはF-104が写っているものもある
- ↑ 本来サイドワインダーは空対空ミサイルであり、また、F-104戦闘機自体も制空戦闘機であるため、このような対地攻撃的運用は明らかに誤りである
参考文献
- 世界の傑作機No.104「ロッキード F-104J/DJ “栄光”」
- 文林堂「世界の傑作機No.103 F-104スターファイター」
- モデルアート社「Model Art」2003年12月号 雑誌08733-12
関連項目
- 航空機 — 戦闘機 — 戦闘機一覧
- 航空機メーカーの一覧 — ロッキード — ロッキード・マーティン
- 航空自衛隊の装備品一覧
- ロッキード事件 - オランダでの売りこみをめぐってベルンハルト(ユリアナ女王の王配)に資金工作が行われている。
- おおば比呂司 - 1964年に第2航空団のF-104に搭乗し操縦。航空自衛隊機を操縦した初の民間人(旧陸軍航空隊OBなので、軍用機操縦のキャリアが無かった訳ではない)。
- 三島由紀夫 - 1967年12月5日に百里基地でF-104に体験搭乗、その経験を元にして1968年2月に「F104」と題した短編を著している。
外部リンク
- Lockheed XF-104 to F-104A, F-104B/D, F-104C, and F-104G pages on USAF National Museum site
- Baugher's F-104 Index Page variants and operators
- Photos from F-104N Joe Walker crash site
- Site of Chuck Yeager NF-104A crash
- List of F-104s on display and list of Canadair CF-104 Starfighters on display in Canada from Aero-Web.org
- F-104F Starfighter at the Deutsches Museum, Munich
- Mach madness