沖縄戦

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 沖縄戦(沖縄の戦い)
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 240px
沖縄南部を占領したアメリカ軍
戦争太平洋戦争
年月日1945年3月26日 - 6月20日
場所沖縄本島および周辺島嶼、海域
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 テンプレート:USA1912
テンプレート:Flagicon オーストラリア
テンプレート:Flagicon カナダ
テンプレート:Flagicon ニュージーランド
テンプレート:UK
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon牛島満陸軍中将
テンプレート:Flagicon長勇陸軍中将
テンプレート:Flagicon大田実海軍少将
テンプレート:Flagiconサイモン・B・バックナー
テンプレート:Flagiconブルース・フレーザー
テンプレート:Flagiconレイモンド・スプルーアンス
テンプレート:Flagiconジョセフ・スティルウェル
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 116,400人 548,000人(うち上陸部隊183,000人)
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 死者・行方不明者 94,136人
民間人死者 94,000人
死者・行方不明者 12,520人
戦傷者 72,012人

テンプレート:Battlebox/nested

テンプレート:Tnavbar

テンプレート:沖縄県の歴史 沖縄戦(おきなわせん、沖縄の戦い)とは、太平洋戦争大東亜戦争)末期の1945年昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍日本軍との間で行われた戦いである。連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦テンプレート:Lang-en-short、氷山作戦)。

第二次世界大戦における太平洋地域での最大規模の陸戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった。

概要

沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主要な戦闘沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日ないし6月23日に終了した。アメリカ軍の目的は日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し[1]、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦[注 1]に向けた時間稼ぎの「捨石作戦[2]」(持久戦)を意図するという不統一な状況であった[1]。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦大和」などの日本海軍残存艦隊と連合軍艦隊の間で海戦が行われたほか、飛行場制圧のため陸軍空挺部隊から抽出されたコマンド部隊も投入した反撃が試みられた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に連合軍は首里を占領し、日本軍は南部に後退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、掃討戦は終戦まで続いた。

陸海空において日米の大兵力が投入され、両軍最高指揮官が戦死するなど太平洋戦域における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[3]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では「鉄の雨」や「鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)」などと呼ぶ[注 2]。残された不発弾の処理は、陸上自衛隊第101不発弾処理隊海上自衛隊沖縄基地隊の手により、現在も継続中である。

沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる[4]。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。このほか、朝鮮半島出身の土木作業員や慰安婦など1万人以上が統計から漏れているとの見方もある[4]。なお、地上戦域外での病死者や餓死者、県外疎開中の死者等を加算した沖縄県出身の死者数は15万人以上と推定されている[4](住民被害の詳細は#住民犠牲についてを参照)。

なお、沖縄戦について「国内唯一の地上戦」と称される事がある。しかし当時は日本委任統治地域南洋諸島として日本の委任統治下にあった地域があり、その地域おける「サイパンの戦い」なども発生していることから正確な表現ではない。かつ、現在は日本領でないが当時は日本領で日本本国(当時の表現での「内地」)であった北海道占守郡における「占守島の戦い」や樺太庁全域における樺太の戦いがある為、日本本国(当時の表現での「内地」)での戦闘も唯一ではない。さらに、現在も日本領の地域である、東京都硫黄島村(現・小笠原村)の硫黄島における「硫黄島の戦い」、があるため、「(沖縄戦は)現在の日本の領土内では唯一の地上戦」という認識も誤りである。これらの事情から2010年、日本政府は国会質問への答弁書をつくる際、唯一の地上戦という認識が「必ずしも正確ではない」と閣議決定している[5]

背景

日本軍の戦略

ファイル:Okinawa, Initial Attack;ch1p11.jpg
アメリカ軍の沖縄上陸作戦計画図

1944年(昭和19年)に入りトラック島空襲などアメリカ軍の太平洋正面での反攻が本格化してくると、マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦を構想していた当時の日本軍は、後方拠点として南西諸島の防備に着手した[6]。1944年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成司令官には渡辺正夫中将が任命された。もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった[6]。同年4月には、海軍も沖縄方面根拠地隊を置いたが、その司令官は九州・沖縄間のシーレーン防衛を任務とする第4海上護衛隊司令官を兼務し、防衛戦力というより後方組織としての性格が強かった。

日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだきっかけは、1944年7月に絶対国防圏の要であるサイパン島が陥落したことであった。大本営は、捷二号作戦を立案して沖縄周辺海上での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手[7]、本土や台湾への民間人疎開も開始した。沖縄本島に3個師団・1個旅団を置いたほか、宮古島などにも1個師団・4個旅団が展開した[7]。軍首脳部の人事も一新して新司令官には牛島満中将を任命、砲兵を統括する第5砲兵司令部も置かれ、その司令官には砲兵の権威だった和田孝助中将が充てられた。第32軍は敵上陸時に主力を機動させての決戦を目論見[8]、砲兵部隊に援護された精鋭3個師団で水際からアメリカ軍を追い落とせると自信を深めた[7]。ただ、増援の独立混成第44旅団が乗った軍隊輸送船富山丸」がアメリカ潜水艦に撃沈され、4000人近くが死亡、到達したのは約600人という、先行きを不安視させる事件も起きた。

1944年10月にレイテ島の戦いが起きると、状況は変わった。11月13日、大本営および第10方面軍司令部は、レイテに転用された台湾駐留部隊の穴埋めのため、第32軍の反対を押し切って沖縄から1個師団を抽出することを決めた。その結果、第32軍で最も練度の高い第9師団が1944年12月中旬から翌1945年1月中旬にかけて台湾へ移動し、第32軍は兵力の三分の一近くを失った[9]。大本営は、1945年1月22日に補充のため第84師団の沖縄派遣を内示したが、宮崎周一作戦部長の判断で翌日には撤回した。こうした経緯から第32軍は大本営に不信感を抱き、その後の作戦に支障をきたした[10]。他方、大本営の戦略的見地から見ると、当時の状況からは台湾を経由しての中国南部上陸も予想されており、台湾の喪失はひいては南方との考えうる唯一の補給線にも影響するため、台湾の防衛も重要だった。また、補充部隊を送るにも海上輸送中に消耗する危険が大きく、本土決戦用に温存すべきとの見解も強かった[10]

第9師団の抽出を受けて、第32軍は1944年11月に作戦方針を大転換し、機動決戦を断念して本島南部での持久戦を行うことにした。本島中部に配置されていた第24師団を南部に移動し、北部・中部の飛行場は小部隊による遅滞防御と砲撃による利用妨害程度にとどめることを決めた[8]。1945年1月下旬には南部にさらに戦力を集中させている。一方、大本営は天一号作戦を定めて、沖縄へ来攻するアメリカ軍を航空戦力主体で迎撃して大打撃を与え、終戦に持ち込もうとする全く異なった戦略を考えていた[1]。そのため、大本営は飛行場確保を重視して第32軍に作戦変更を要求したが、第32軍は応じないままアメリカ軍を迎えることになった[1]

なお、南部での持久戦構想を固めた第32軍は、1945年に入って沖縄上陸が必至の情勢となった時点で、島内に残っている老幼婦女子を非戦闘地域と予定した北部山岳地帯へ半強制的に疎開させようとした。その目的は、非戦闘員が戦闘の支障にならないようにすることと、民間人を巻き込んだ「玉砕」を防ぐことにあった。多くの人々はわずかな食糧と身のまわりの品を持って避難をしたが、それでも激戦地となるであろう中南部には数十万人の住民が避難せず踏みとどまっていた。テンプレート:要出典範囲(疎開の詳細は#住民犠牲についてで後述)

日本軍の戦力状況

ファイル:150-mm-japanese-gun-okinawa.jpg
砲爆撃に耐えるため洞窟内に放列布置した独立重砲兵第100大隊の八九式十五糎加農。重加農の長所を活かし、アメリカ軍占領後の嘉手納飛行場に対しても妨害砲撃を行うなど、約2ヶ月間に渡り活躍した

沖縄本島地区における最終的な日本側の陸上兵力は、116,400人である。内訳は、陸軍が86,400人と海軍が1万人弱のほか、「防衛隊」と俗称される現地編成の補助兵力が2万人強である。陸海軍の戦闘員には、兵力不足から現地で召集された予備役補充兵役などが多く含まれる。旧制中学校の生徒から成る鉄血勤皇隊や、女子生徒を衛生要員としたひめゆり学徒隊白梅学徒隊なども組織された。

本島守備隊のうち最精鋭と目された第24師団は、関東軍からの転用部隊で装備や訓練は十分であったが、実戦経験が無かった。もうひとつの本島所在師団である第62師団は、師団砲兵を欠いた本来は警備用の編制であったが、支那派遣軍からの転用部隊であるため日中戦争での実戦経験が豊富だった。独立混成第44旅団は輸送船の撃沈で大損害を受けた部隊で、補充のため空輸された独立混成第15連隊を受け取っていた。機甲部隊は30両に満たない戦車第27連隊があるだけだった。兵站部隊や船舶部隊も地上戦闘用に使うため6個の特設連隊として再編されている。海軍部隊は飛行場の基地要員などを海軍陸戦隊として再編成したもので、武器も訓練も不足していた。

その反面、第32軍の砲兵戦力は当時の日本軍としては極めて充実していた。第5砲兵司令部指揮下だけで400門以上の火砲を擁すほか、師団砲兵1個と独立混成旅団砲兵隊および戦車第27連隊の機動砲兵、また歩兵部隊中の歩兵砲があった。生産力や補給力に劣る太平洋戦争時の日本軍において、このような大量の火砲が投入されたのは第1砲兵隊が投入された緒戦の一連の南方作戦(香港の戦いシンガポールの戦いフィリピンの戦い(コレヒドール島砲撃戦)等)や、硫黄島の戦い等に限られる。

連合軍の戦略

ファイル:Naha bomb 10 oct 1944.jpg
十・十空襲に遭う那覇市街

連合軍は、沖縄本島の存在について、有力な航空基地と泊地を設置可能で日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた[11]。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた[11]。他方、連合軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。

1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた[12]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦についてはコーズウェイ作戦(Operation Causeway)の名の下に具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官にはアメリカ陸軍サイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた[13]

ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた[14]。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した[14]。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾の代わりに沖縄本島を攻略することを提案し[14]、検討の結果、10月5日に沖縄攻略作戦の実施が決定された[13]。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった[15]。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された[16]

さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。10月10日、アメリカ軍機動部隊が南西諸島一帯に対して大規模な空襲を行い、所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。偵察活動も進められたが、1944年12月末に偵察任務で沖縄へ向かった潜水艦「ソードフィッシュ」が未帰還となった[17]ペリリュー島の戦いで行われた偵察上陸では半数の人員が未帰還と言う大被害を出していることも踏まえて、偵察要員の事前上陸は見送られた[18]

1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。ルソン島攻略の遅れによる輸送船不足と3月の悪天候により沖縄侵攻は2度にわたって繰り下げられ、当初計画よりはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった[19]。投入される陸上戦力はアメリカ陸軍第10軍の陸軍5個師団・4個戦車大隊ほかとアメリカ海兵隊3個師団で、強力な航空部隊と艦隊が支援にあてられている[20]。第10軍自体は新編成の組織であるが、主力の第24軍団と第3水陸両用軍団に属する師団はいずれも実戦経験を積んだ部隊であった[21]

戦闘経過

事前攻撃

ファイル:Youngest kamikaze only 17 years old.jpg
沖縄戦には陸海軍計2,500機の特攻機が投入された。写真は陸軍特別攻撃隊第72振武隊の操縦者達(中央・荒木幸雄伍長)。撮影の翌日、5月27日に隊長・佐藤睦夫中尉以下九九式襲撃機10機の第72振武隊は万世飛行場を出撃、その内2機が金武湾上において米海軍フレッチャー級駆逐艦「ブレイン」に突入し大破の戦果をあげた。

アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、航空母艦16隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月14日にウルシー環礁を出撃、3月18日から九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した[22]。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。

3月23日、第58任務部隊は沖縄県周辺に対する本格空襲を開始し、初日だけで延べ2000機を出撃させた。24日には沖縄への増援部隊を乗せたカナ304船団を全滅させている。また、24日には第59任務部隊の戦艦5隻などが本島南部に対する艦砲射撃を行い[23]、上陸予定地点の掃海作業も始まった[24]。このほか日本軍の反撃を妨害する目的で、B-29爆撃機による関門海峡などへの機雷投下も行われた(飢餓作戦)。艦艇1500隻、輸送船450隻、兵員54万8000人(うち上陸部隊18万人)の攻略部隊もサイパン島やレイテ島から続々と出発し、沖縄洋上に集結した。

日本側は、九州沖航空戦でアメリカ艦隊に大打撃を与えたと判断していたため、すぐには沖縄への侵攻があると考えなかった[23]。しかし、24日に艦砲射撃が始まるに及んで、現地の第32軍は警戒度最高の甲号配備を発令した。

慶良間諸島の戦い

沖縄戦が開始される直前まで、日本軍はアメリカ艦隊の動向を把握できずにいた。これは、アメリカ艦隊のレーダーが日本軍の偵察機をよく捉え、戦闘機によりそのことごとくを撃墜していたからである。

3月26日、アメリカ軍は、沖縄本島への上陸に先立ち泊地や水上機基地などを設置するため、第77歩兵師団慶良間諸島座間味島など数島へ上陸させた[25]。日本軍はこれらの島への初期侵攻を想定していなかったため、地上部隊をほとんど配備していなかった。展開していたのは、本島防衛任務の特攻艇マルレ部隊である陸軍海上挺進戦隊3個とその支援部隊程度であった。第32軍司令部は、出撃困難と判断して機密保持のためマルレの処分を命じた。すでに事前空襲で300隻のマルレの多くを地上撃破されていた各部隊は、命令に従って島の奥へ後退した。慶留間島所在のマルレのうち4隻のみが出撃して、うち2隻が攻撃後に本島へ生還した。アメリカ軍は、29日までに慶良間諸島全島を占領した。アメリカ軍第77歩兵師団の記録によると、31日までに日本兵530人が戦死・121人が捕虜となり、アメリカ兵31人が戦死・81人が負傷した[26]

26日の上陸開始により、ようやく日本の連合艦隊も沖縄への本格侵攻と断定し、天一号作戦を発動した。上陸部隊を洋上撃破すべく第3航空艦隊などを九州方面へ移動させるとともに、戦艦「大和」を中心とした第一遊撃部隊、回天特攻「多々良隊」の潜水艦4隻にも出撃準備を命じた。陸軍も九州の第6航空軍が航空総攻撃の態勢に入った。しかし、九州沖航空戦での消耗に初動の遅れが重なり、31日までに集結できた海軍航空隊約220機、26日時点での陸軍航空隊約200機に止まっていた[23]。台湾の第8飛行師団には約480機の兵力があったにもかかわらず、この時期には本格参戦しなかった[27]。そのため上陸開始前に行えた日本側の航空反撃は散発的なものしかなく、上陸船団の損害は軽微だった。なお、27日に沖縄本島発としては最初の特攻機が出撃している。29日には本島配備の海上挺進第29戦隊のマルレ19隻が出撃し、中型揚陸艦1隻を撃沈した。

3月31日、アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸した。そのうち神山島に第420野砲群(仮訳:420th Field Artillery Group)の155mmカノン砲24門を布陣させ、沖縄本島の日本側陣地の奥深くまでを射程圏内に収めた。日本軍は4月1日未明から「250mm砲」による砲撃を神山島へ仕掛けてきたが、アメリカ側に被害は無かった[28]

先島諸島の戦い

イギリス海軍は、戦後の香港、シンガポールの権益保持のために当諸島で戦闘を展開。相当な特攻攻撃を受けた。

米軍の上陸

ファイル:Okinawa 01.jpg
上陸中のアメリカ軍 (4月13日)
ファイル:USS Bunker Hill hit by two Kamikazes.jpg
日本軍の特攻攻撃を受け炎上する空母「バンカーヒル

4月1日朝、アメリカ軍は、守備の薄い本島中西部で、陸軍の第7第96歩兵師団第1第6海兵師団による上陸を開始した[29]。戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、127mm以上の砲弾44825発・ロケット弾33000発・迫撃砲弾22500発が撃ち込まれた[30]。北飛行場(読谷村・後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)の占領が第一目標とされた。第32軍が宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、日本側が中西部沿岸地域に置いたのは賀谷支隊(1個大隊基幹)と急造の特設第1連隊だけであった[31]。日本軍が水際作戦を放棄したため、アメリカ軍はその日のうちに6万人を揚陸して北・中飛行場を確保。4月3日には第7歩兵師団が東岸の中城湾(アメリカ軍呼称:バックナー湾)へ到達し、第32軍は沖縄本島南北に分断された[32]。4月5日までにはうるま市石川周辺の東海岸一帯が占領下に入った。日本軍は飛行場を自ら破壊していたものの、作業期間が短く不徹底であった。アメリカ軍は1日夜には中飛行場を不時着場に使える程度まで復旧、8日には北飛行場へ戦闘機89機を進出させて上陸船団の防空任務を開始した。翌週には夜間戦闘機まで含む144機が展開して強力な防空網を形成してしまった[33]

第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営・第10方面軍司令部・航空関係者などから消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた[34]。米軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。度重なる大本営や連合艦隊の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。4月4日には、長第32軍参謀長主導[注 3]で攻勢移転が一時決定されたが[36]、島南東部の港川方面への連合軍上陸部隊接近との報告により、中止された[37]。この港川方面への「上陸部隊」は、陽動作戦任務のアメリカ第2海兵師団で、実際には上陸しなかった。

4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、菊水作戦と連動させる形で戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊も出撃させた。特攻機などの攻撃により連合軍艦艇6隻が撃沈されたが、日本軍機は200機以上が失われ、「大和」も空襲で撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。それでも日本軍は、特攻機を中心とした攻撃を続行した。この空海からの反撃にあわせて、第32軍も第10方面軍の指導で再び総攻撃実施を決定していたが、またも港川方面への陽動部隊接近に惑わされ出撃を中止した[37]。同時期には第5航空軍から派遣された独立飛行第18中隊分遣隊の一〇〇式司令部偵察機III型甲が、沖縄本島の米軍制圧下飛行場および機動部隊に対する強行偵察に成功し、鮮明な航空写真を第6航空軍にもたらしたものの、これを攻撃するに十分な航空兵力や艦艇はなかった[38]

北部の戦い

ファイル:Nago 1945.jpg
名護市街(1945年4月)
ファイル:Ernie Pyle.jpg
伊江島で戦死した従軍記者アーニー・パイル

日本軍第32軍の作戦計画では本島南部を主戦場とすることになっていたため、北部(国頭地区)には独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊)程度しか配備されていなかった。これに対してアメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけた。八重岳などの山地帯に拠って日本軍は抵抗したが、4月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。

この戦闘での第6海兵師団の損害は、戦死・行方不明243人、負傷1061人であった[39]。なお、北部は住民の避難地域に指定されていたため推定15万人の住民が県内疎開してきており、アメリカ軍の管理下に入ることとなった。ただし、北部にいた住民のうち、かなりの者はアメリカ軍の北上後に山中に逃れて南進し、すぐには収容所に入らなかった[40]

4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に飛行場と海上防空用のレーダーサイトを設置するため上陸した[41]。伊江島には、独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されていた。島民は人口8000人のうち5000人が残留していた。日本軍は島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島が占領された。アメリカ軍によれば、日本側は民間人多数を含む4706人が戦闘により死亡し、3人が捕虜となった[42]。アメリカ軍は218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、中戦車60両・自走砲6両が被撃破(うち完全喪失は5両)などの大きな物的損害を受けた[42]。アメリカ軍の戦死者には、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルも含まれていた。生き残った住民は、渡嘉敷島へ移された[43]

日本軍が伊江島に保有していた陸軍飛行場は、3月のうちに徹底的に破壊のうえ放棄されていた。アメリカ軍は復旧作業を進め、5月10日までに最初の戦闘機隊を伊江島飛行場へ進出させた[43]。滑走路・誘導路・レーダーサイトが完成したのは5月中旬で、その後も工事は続き、6月14日までに3個の戦闘機隊と1個の夜間戦闘機隊が展開している[43]

首里戦線

南部の日本軍は賀谷支隊を主体として、島袋方面から嘉数陣地へ遅滞行動をとりつつアメリカ軍を誘導した(嘉数の戦い)。アメリカ軍は首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中の宜野湾市付近には守備軍が丘陵地形と地下壕を利用した陣地で構え、進軍してくるアメリカ軍を何度も撃退した。賀谷支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団の歩兵第22連隊などが激しい抵抗を見せている。この激戦は歩兵第22連隊第1大隊長小城正大尉の記した著書『天王山』に詳しい。戦闘は約50日間続き、遅滞作戦は一定の成功を収めた。この間、4月8日・12日には長第32軍参謀長の発案で[注 3]日本軍の大規模な夜襲が行われたが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった[44]

4月9日、船舶工兵第26連隊の決死隊50人が神山島に潜入し、野戦重砲陣地の破壊を報じた。これに合同して海上挺進第26戦隊のマルレ40隻が出撃し、フレッチャー級駆逐艦チャールズ・J・バジャー」を大破させた[45]。その後も、4月中に延べ60隻以上のマルレが出撃し、若干の小型艦艇を撃破している。

5月4日・5日に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。船舶工兵第23、26連隊と海上挺進第26-29戦隊は、舟艇で海上を迂回しての逆上陸を試みた。本土の日本軍も、菊水五号作戦と第六次航空総攻撃を実施して掩護した。しかし、この総反撃は大打撃を受けて失敗に終わり、日本軍は継戦能力を一気に喪失した。アメリカ軍は、日本軍の発砲地点を観測機により発見して効果的に反撃し、対砲兵戦により59門を破壊したと記録している[46]。戦車第27連隊が攻撃に参加させた軽戦車は全滅した[47]。第32軍の戦死者は7000人に及んだ。アメリカ軍の損害は、日本軍の攻勢正面で死傷者714人を生じている。この損害は、日本軍の攻勢正面から外れた地域で侵攻中だった第1海兵師団が5月4日だけで352人の死傷者を出したのと比べると相対的に軽い[48]。第32軍の八原高級参謀はこうした結果になることを予想し、総攻撃実施には反対していた。

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シュガーローフ・ヒル(安里52高地)

バックナー中将は、日本軍が予備隊を使い果たした状況であるのを踏まえ、5月中が首里へ向けて総攻撃を行う好機と判断した[49]。第6海兵師団を中心とする第3水陸両用軍団は、島北部の掃討任務を第27歩兵師団と交代して5月11日までに南へ転進した。これによりアメリカ軍は、西から順に第6海兵・第1海兵・第77・第96師団を並べ、第7師団を予備隊に控えた態勢で総攻撃を開始した[50]。5月12日-18日にかけて第6海兵師団が安謝川を渡り、首里西方の安里付近の高地で日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。アメリカ軍は死傷2662人の著しい損害を受けながらも19日にシュガーローフなど一帯の高地を制圧する[51]。アメリカ軍は激しい抵抗と雨に悩まされながらも包囲網を縮め、日本側は首里の防衛も困難な状態となった。この危機に大本営は、菊水七号作戦を発動し、制空権確保のためにコマンド部隊を飛行場に強行着陸させる義号作戦も行ったが、戦況を動かすことはできなかった。

5月24日、第32軍司令部は南部島尻地区への撤退を決定。5月27日に津嘉山、30日にはさらに本島南端の摩文仁(まぶに)に撤退して新たな防御陣をたてた。この時点で第32軍は戦力の80パーセントを消耗していた。31日までにアメリカ軍は首里市(現那覇市の一部)を占領した[52]

日本軍守備隊の壊滅

5月26日、陸軍参謀本部は沖縄諸島方面での継戦を断念し、以後は航空作戦を縮小することとした。反面、海軍軍令部はなお戦闘に固執し、練習機まで投入して菊水作戦を継続した。

日本の海軍部隊である沖縄方面根拠地隊は、主に飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成したもので本来の戦闘部隊は少なく、航空機用機銃を陸戦用に改造するなどの努力はしたものの装備は劣悪であった。比較的戦力のある4個大隊を陸軍の指揮下に入れて首里戦線に送った後、本隊は陸軍守備隊と別行動をとり、小禄地区に篭って抗戦した。接近したアメリカ軍駆逐艦「ロングショー」を海岸砲で砲撃して沈めるなどの戦果を挙げた[53]。6月4日にアメリカ軍は第6海兵師団を迂回上陸させ、沖縄方面根拠地隊に対して包囲攻撃を開始した。沖縄方面根拠地隊は第32軍の撤退命令を受けて5月末から南部への移動を開始していたが、連絡の齟齬から行動時期がずれるなどしたため、最終的に包囲突破は不可能として撤退拒否し6月中旬に壊滅した。海軍部隊司令官の大田実少将は6月6日に海軍次官宛に有名な『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という訣別電報を打った後、豊見城の海軍司令部壕内で6月13日頃に自決した。

日本の陸軍部隊も急速に戦力を失いつつあった。八重瀬岳方面の独立混成第44旅団は、6月14日までにほぼ全滅した。6月15日頃、第32軍司令部への侵攻を防ぐため第62師団は全力反撃を実施したが、残存戦力の大半を失った。喜屋武地区の第24師団も、6月17日には師団としての組織的抵抗が不能の状態となった。17日までにほぼ各戦線の防衛線他、国吉戦線与座・八重瀬岳戦線等遂に各最終防衛線が突破されるなど各戦線が崩壊、それらを埋める兵力・武器弾薬は無きに等しく潰走を重ねるのみとなる。

日米両軍司令官の戦死と自決

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共に沖縄戦で使用された野戦重砲兵第1連隊第2大隊第4中隊の九六式十五糎榴弾砲(左)と、独立重砲兵第100大隊の八九式十五糎加農(右)。靖国神社遊就館収蔵

6月18日、アメリカ第10軍司令官(沖縄上陸軍最高指揮官)・サイモン・バックナー中将は、喜屋武半島の最前線視察中、野戦重砲兵第1連隊第2大隊の九六式十五糎榴弾砲の砲撃を受け戦死した[注 4]。これは2012年現在に至るまで、アメリカ軍史上において最高位の階級で戦死した事例である。日本側にとって将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を死亡させる大戦果であったものの、アメリカ軍有利の状況には変化がなかった。むしろ、その後数日はバックナー中将が殺害された地域を中心にアメリカ軍が徹底的な掃討作戦を行い、日本軍の被害は増大している。アメリカ第10軍の指揮は、急遽ロイ・ガイガー(Roy Geiger)少将が司令官代理を務め、同月23日にはジョセフ・スティルウェル大将が後任司令官となった。

6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)、日本の沖縄守備軍最高指揮官の第32軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が、摩文仁の軍司令部で自決した。長勇中将は自決の前に八原大佐に「八原、後学のため予の最後を見よ」と言った。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。24日頃には基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は、軍旗を奉焼し全滅。大本営も、6月22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。

その後の戦闘

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焦土と化した那覇市街(1945年5月)

しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。この戦闘継続の原因は、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないもの[注 5]であったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかった為とされる。しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄本島全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。

第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)、並びに同連隊指揮下の2個大隊などが降伏まで徹底抗戦している。北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが米軍に投降したのは、日本政府が8月15日に国民へ停戦を発表してから2週間後の8月29日のことである。第32連隊は同月22日にアメリカ軍の軍使と接触しており、翌23日に軍旗を奉焼している。最終的な沖縄守備軍の降伏調印は9月7日に嘉手納で行われた。沖縄守備軍司令部の中では、高級参謀の八原博通大佐が捕虜になり、また航空参謀の神直道少佐(後に中佐)が大本営報告の命令で本土に脱出して生き残っている[注 6]。一方、長野作戦参謀、薬丸情報参謀、木村後方参謀、三宅通信参謀はそれぞれ遊撃戦指導、大本営報告のため司令部を出て北部への脱出を計ったが成功せず、全員戦死している。 轟の壕では、内務省沖縄特高課長佐藤喜一により、避難民に投降が勧告され多くの住民が米軍に収容されている。

主に海軍により、特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃も続けられた。7月28日には九三式中間練習機の体当りで駆逐艦「キャラハン」を沈めているが、これは特攻による最後の撃沈戦果であった[57]。8月12日には戦艦「ペンシルベニア」を雷撃機による通常攻撃で損傷させた[58]。8月15日の玉音放送後にも、菊水作戦の指揮をとった宇垣纏海軍中将が部下を引き連れて沖縄方面へ特攻出撃している。陸軍の第8飛行師団隷下飛行第10戦隊の一〇〇式司偵は、沖縄方面に対する偵察飛行を8月に至るまで継続している[59]

終戦後の状況

テンプレート:Main 戦後、沖縄守備軍の守備範囲であった沖縄県などはアメリカ軍の占領下に入り、1950年12月まで軍政が続いた。その後も米国の琉球列島米国民政府と、下部機関である琉球政府による統治が行われ、全てが日本に返還されるのは1972年5月15日のことであった。最後の激戦地となった南部地域の村は、いくつもの集落で住民が全滅、多くの沖縄の住民は外国(特に南米)に移住、人口の減少により、自治体としての規模維持のため合併を余儀なくされた(三和村)。

住民犠牲について

犠牲者数

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「降伏を促すビラを手に降参する地元住民」[60]

沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では以下の数値である。C+Dの9万4000人が住民犠牲とされる。

  • 沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人
    • A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人
    • B:沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など) 2万8228人
    • C:戦闘参加者(戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)との関係で日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人数[注 7]) 5万5246人
    • D:一般住民(県の避難勧告を拒否したものが多数と証言する昭和29年生まれの沖縄県出身者もいる[62])3万8754人(推定)

うちDが推定となっているのは援護課が一般住民の犠牲者を直接に調査せず、1945年(昭和20年)と1946年(昭和21年)の沖縄県住民数の差から、援護課で戦闘参加者として認定した数Cを差し引いた数をDとした為である。終戦直後の1946年統計は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により誤差が大きいと思われ、また、1946年の人口には、沖縄戦の後で生まれた子どもや、戦時中は沖縄県に不在だった本土への疎開者、海外からの引き揚げ者・復員兵が多数含まれるため、計算上の人口減少より実際の戦没者数の方が大きいと推定される。

沖縄県民の犠牲者15万人とする場合もあるが、これは沖縄県出身軍人(上記B)や地上戦域外での餓死者・病死者、疎開船の撃沈による被害なども含めた数値である[4]。なお、沖縄県平和祈念公園に設置された石碑の「平和の礎」には、1931年(昭和6年)の満州事変以降・南西諸島の日本軍の降伏調印1年程度経過の1946年(昭和21年)9月7日頃までに発生した戦争が主因の沖縄県出身者の死者と、1944年(昭和19年)3月22日の第32軍創設から1946年(昭和21年)9月7日頃までのアメリカ軍将兵などを含む県外出身の死者の名が記載されており、2006年(平成18年)6月23日時点で24万383人(うち沖縄県出身者14万9035人)となっている[63]。この「平和の礎」の数値を根拠に、沖縄戦の戦没者数を24万人と主張する者もある[64]

米軍上陸前の住民避難

大本営陸軍部が沖縄の住民疎開について検討を始めたのは、サイパン島にアメリカ軍が来攻した1944年6月のことである。7月1日に、研究要員として後に第32軍参謀長となる長勇少将(1945年3月に中将)が現地入りした。7月7日にサイパン島が陥落すると、東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断した。沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から、60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることが決定され、沖縄県に通達された[65]。軍も、住民保護目的ではなく、「県民が軍の懐に入り込むことにより軍の活動を妨害することになる」との作戦上の目的からも県民の疎開を希望していた。また、沖縄県では消費米の2/3を県外からの移入に頼っているため、海上交通が途絶えた場合には守備隊増強で膨れ上がった人口を養うのは困難という事情もあった。

その後の通達で疎開目標は本土へ8万人と台湾疎開へ2万人の計10万人と決定された。輸送は陸海軍艦船などを投入して全額国庫負担で行うことになり、大蔵省第2予備金から1500万円を拠出する予算措置が取られた[65]。一般住民の疎開は法的には強制力が無く、県を通じた行政指導による形式であった[66]。県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学校との連絡が欠かせない学童疎開のみは内政部教学課の担当として、その指揮下に各国民学校長が推進することとした。

しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開するという不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。1944年6月29日には増援部隊を乗せた輸送船「富山丸」が鹿児島県徳之島の亀徳沖約4キロで潜水艦に撃沈され、将兵4,600人中約3,700人が犠牲になる大惨事が発生していた。軍はこの事件を「軍極秘」として箝口令を敷いていたが、県民の間に口伝で広まり、疎開に対する不安を煽る結果となった[66]。さらには、第32軍司令部の方針が末端部隊まで徹底しなかったことによる末端将兵の放言も、県民に、日本軍が勝つという希望的観測を生じさせていた。なお、沖縄県知事の泉守紀も北部への県内疎開には食糧供給が困難として消極的な立場で、疎開の促進を求める軍としばしば対立した。

荒井退造警察部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であったものの、その後8月10日に出航した第4次の約9000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあった。

皮肉なことに県民の疎開を一挙に促進させたのは米軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった[67]。その後、1945年1月に新たな県知事として赴任した島田叡の下で、最後の努力が行われた。

疎開者の証言例として、父母を疎開させるために那覇港に見送りに行ったところ、そのまま疎開することになったというものもある。水兵がたくさん艦から降りて来て、「艦長命令です! 全員乗ってください。まもなく米軍は上陸します」ということで、そこにいた人力車の車夫から、労働者まで、かたっぱしから三隻の艦艇に乗せられたという。那覇港を出て熊本の三角港に着き、この一家は全員助かっている[62]

沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5586人を含む8万人以上が疎開した。内訳は、沖縄本島周辺からは九州へ約6万人と台湾へ2千人、宮古列島八重山列島から台湾へ2万人以上となっている[67]恵隆之介によると、1945年3月上旬の島外疎開の正式打ち切り後も、一部では海軍艦艇による疎開が行われた例があるという[62]。これに加えて沖縄本島北部への県内疎開は約15万人と推定されている。3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「対馬丸」(約1500人死亡)一隻のみであるとされているが[67]、6隻(約3000人死亡)とする見解もある[62]。このほか、終戦直前の尖閣諸島戦時遭難事件では疎開船2隻が空襲されて約70人が死亡したと見られ、沖縄以外では徳之島からの疎開船「武洲丸」が撃沈されて約160人が死亡している。また、先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。八重山列島では疎開により、多くの住民がマラリアに感染し、死亡したものも多く、これを戦争マラリアと呼んでいる。県内疎開の正確な犠牲者は不明である。[68]

米軍上陸後の住民避難

米軍の上陸後すぐに島は南北に分断されたため、日本側の交通は絶たれ、本島北部山岳地帯への疎開は不可能になった。北部への疎開ができなかった住民は、アメリカ軍の収容下に入るほかは南に避難するしかなく、最終的に島尻地区にかなりの住民が集まることになった。人口密集地だった沖縄県の首里、那覇では避難誘導すべき警察官は逃げていた。代わりに憲兵が各家を一軒一軒回って避難誘導している。生存者の証言によれば、憲兵が避難を促した際に「自分の家で死ぬのが本望です」と言ったところ憲兵に叱責され、「死に急ぐな! 生きることを考えなさい」と言われ避難壕に誘導されている。その憲兵は避難住民に兵糧を配給した後、戦場に戻り戦死しているらしい[62]

なお、九州に事前疎開できた沖縄県民については、沖縄県庁の機能停止後、7月に福岡沖縄県事務所が正式発足して支援業務を引き継いでいる。

集団自決

テンプレート:Main サイパンの戦いなどと同様に、沖縄戦においても一般住民までが集団で自殺する集団自決が発生した。読谷村のチビチリガマの事例(83人[69])などが知られ、集団自決者の総数は1000人以上とする研究者もいる[70]

これらの集団自決を軍の命令によるものとする主張がある一方で、「集団自決は沖縄住民による戦傷病者戦没者遺族等援護法の給付を目的とした嘘である」との証言も一部に存在する[71]

日本軍による住民殺害

アメリカ軍の攻撃及び住民による自決以外に、日本軍による直接的な住民殺害があった。具体的な事例として、久米島守備隊住民虐殺事件(22人死亡)、渡野喜屋事件(35人死亡・15人負傷)、名護市照屋忠英学校長殺害[72]などが挙げられる。日本軍により殺害された住民の総数は明らかではないが、安仁屋政昭は1000人と推定する見解を採り[73]、元沖縄県知事(元社民党参議院議員)の大田昌秀は、スパイ容疑での直接殺害だけで数百人から1000人以上と推定している[74]。援護法との関係で戦闘参加者と認定された民間人のうち、14人は日本軍による射殺が理由となっているが、大田はこれも実数は数倍に上ると見ている[61]

住民殺害の動機は、スパイ容疑での処刑が中心で、そのほか物資や壕を巡る日本兵と住民の争いで殺害された事例や、地下壕の探知を避けるために泣き声の止まない子供を殺害した事例などもある[75]。このような事態に至った原因について、極限状態で不可避というだけの問題ではないとの見方もある。一因として、日本兵が住民に対し、愛国心や武を尊ぶ精神に欠けると見て不信感を抱いていたことや、軍民一体化と防諜のため、沖縄語の使用が使用が禁止され、その使用者を処分する方針であったこともある[76]。また、スパイ容疑での処刑については、アメリカ軍収容下に入った住民が食糧集めに駆り出されているのを、アメリカ兵を日本兵の隠れ家へ誘導しているものと戦場の混乱の中で誤解したことが一因ではないかと推定されている[77]

こういった事例が強調されていることに対し、沖縄戦に参加した日本軍兵士からの反論もある。嘉数の戦いに参加した兵士の一人(独立歩兵第13大隊所属)は、「戦後、日本軍は沖縄県民に犠牲を強いた悪い兵隊だと宣伝された。しかし私の知るほとんどの下級兵士は自分の命など眼中になく、洞窟に潜んで助けを求める県民のため身を挺して戦った。」[78]と述べている。

連合軍による住民の扱い

連合軍による住民殺害

既述のように沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1000人程度と推定されており、残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。

長周新聞によると、「沖縄本島に上陸した米軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦斗は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここは米軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。」[79]

住民がスパイ容疑で処刑されることもあった。ある事例では、「民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。殺害時、周囲には25-45人の米兵が取り囲んでいた。」という[80]。バックナー中将の戦死時には、住民が日本軍を手引きしたと疑われ、数十人の住民が銃殺された[81]

民間人収容所

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沖縄における収容所

アメリカ軍の占領地域となった場所では、民間人収容所が捕虜収容所とは別に設けられ、地域住民や近在の避難民が収容された。アメリカ軍は占領段階に応じたA-Dの4種の軍政要員を用意して、住民の管理・収容を進めた。本島に11か所、周辺島嶼に5か所の計16か所が設置されたが、作戦上の都合などにより合併や閉鎖が適宜行われた。本島では基地建設のために5月から7月にかけて中南部の無人化政策がとられ、北部東岸の収容所への強制移住が実施された。そのため、宜野座地区収容所には、生存島民の2/3にあたる20万人以上が押し込められた過密な状態だった[82]

多くの場合、収容所は集落単位で管理され、それぞれ憲兵が配置されて監視していた。境界が有刺鉄線で区分されている例もあった。収容所の間での移動は禁じられ、違反すれば「カナアミ」と称する有刺鉄線で囲んだ仮拘置所に留置された。収容所の内部的管理については自治体風の形式を採り、収容所ごとに「メイヤー」(市長)や民警察(CP)といった役職を任命して、物資配給や労務者の供出などの実務を行わせた[82]

アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。一例として、浦添村(現浦添市)の場合、全犠牲者の1割以上にあたる312人は、収容所での生活中に死亡している[83]

なお、前述の日本兵による住民殺害事件にも、渡野喜屋事件のように米軍管理下の民間人が殺傷された例がある。

連合軍兵士による性的暴行などの虐待

収容所および米軍の占領地域では、米軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致・暴行・強姦も多数証言されている[79]。戦争の終結後も暴行は続き、たとえば、「南部戦線の戦闘が終結してからはとくに米兵たちは横暴になり、昼夜を分かたず強姦事件が頻発していた。収容所では米兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたたいて女性たちを避難させるさわぎが続いた。」とも[84]、「戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。」ともいわれる[85]。米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定する見解もある[86]ニューヨーク・タイムズの記事によれば、強姦はあまりに多発したため、65歳以上(2000年時点)の沖縄の住民は誰しもこの連合軍による強姦について知っているか、あるいは聞いたことがあるという[87]

沖縄戦時中に米兵が沖縄の住民女性を強姦し、軍法会議で有罪となりながら、戦後米海軍省で判決が破棄されていた。軍法会議で禁錮9年、不名誉除隊の判決が出たが、海軍法務総監が10月に有罪判決を破棄するよう勧告。11月に海軍長官が判決を破棄し、被告を釈放して軍務に復帰させるよう命じた。勧告文では、レイプ犯罪を「女性が能力の限りを尽くして抵抗したとみられるものでなければならない」と定義。「すごくおびえて叫ぶことができなかった」と証言した被害女性に対し、最大限の抵抗をしなかった、叫び声を上げなかった-などを理由に被告を無罪とした[88]

沖縄戦についてのアメリカ軍による評価

圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。これについて八原参謀の作戦計画は、反対斜面陣地と野戦重砲兵の支援砲撃を前提として挑んだ『寝技戦法』とも呼ばれた。この作戦は、強力なボクサーを相手に柔道家が寝技に持ち込み、相手のパンチを防いで得意の接近戦で敵の戦意を挫こうとするものであった。それには、まずアメリカ軍の大部隊を、展開が困難でかつ航空支援や援護砲撃が不可能な日本軍陣地の100-200m程度の直前まで誘導する。そして日本軍は小銃軽機関銃擲弾筒で掃射して戦車部隊と歩兵部隊を分離させる。急速前進を余儀なくされた敵戦車は地雷速射砲、歩兵の肉弾戦によって破壊する。そして駆けつけてきた敵の増援部隊を、精密測量した地域に釘付けにして味方野戦重砲の砲撃により叩くことが基本戦術であった。唯一の有効兵器は満州から転出してきた野戦重砲という状況において、八原の戦術的判断は的を射ている。

また、八原戦術を理解し、その実行を委ねた牛島満中将は、自身の出生地である薩摩に伝承される捨て奸を意識していたといわれる。

史跡

特に戦闘が激しかった本島南部は「沖縄戦跡国定公園」に指定されている。日本国内の国立公園国定公園の中で戦跡であることを理由に指定されているのは現地だけである。海軍部隊大田司令官が自決した海軍司令部壕跡は現在「海軍壕公園」として整備されており、壕内の一部が見学できる他、資料館が併設されている。一方、沖縄守備軍牛島司令官と長参謀長が自決した壕は現在平和祈念公園となっている区域の中にあり、壕の近くには「黎明の塔」が建てられている。塔の手前の展望台の下に壕があり、内部は立ち入り禁止だが、入口までは階段で降りることができる。平和祈念公園内には県立平和祈念資料館や平和の礎(へいわのいしじ)がある。

ひめゆりの塔の敷地内にはひめゆり平和祈念資料館がある。また、南風原町の陸軍病院壕一帯は黄金森(こがねもり、方言名「クガニムイ」)公園となっており、近くにある南風原文化センターには資料室が設置されている他、2007(平成19)年6月から第20号壕が南風原町によって一部復元され、一般公開されている。

読谷村北谷町には「米軍上陸の地」碑がある。また、最初の激戦地となった嘉数高地は嘉数高台公園となっており、複数の慰霊塔がある他、トーチカの跡が残っている。

米軍司令官が戦死した真栄里の高台には「サイモン・ボリヴァー・バックナー・ジュニア中将戦死の碑」が建てられている。周辺はその後アメリカ軍による報復戦が行なわれたのに加え、追い詰められた日本軍が最後の戦闘を繰り広げたため、それに巻き込まれた住民の一家全滅が極めて多い地域である。また、戦死者も多いことから「白梅の塔」など多くの慰霊塔が建てられている。

これら以外にも、戦時中に避難先に使用されたガマの一部が見学可能となっている他、平和祈念公園や米須霊域の一帯、糸満市内を中心として慰霊塔や慰霊碑が島内全域に無数に存在している。

嘉手納基地内には、旧日本軍の滑走路の近く、昭和20年9月7日の沖縄戦の降伏文書調印式が行われた場所に平和公園 peace parkが作られた。屋外であるが、約1メートルの碑に各種の文書がみられる。米軍と日本人の共同で作ったとある。

参加兵力

日本軍

ファイル:Japanese Commanders on Okinawa.jpg
日本軍守備隊指揮官と参謀の合影(1945年2月初)。(1)大田実海軍少将、(2)牛島満陸軍中将、(3)長勇陸軍中将、(4)金山均陸軍大佐、(5)北郷格郎陸軍大佐、(6)八原博通陸軍大佐

陸軍

以下は主要部隊のみで、ほかにも多数の兵站部隊、航空関係の地上部隊などがある。より網羅的なインターネット上の資料として沖縄振興局『沖縄戦関係資料閲覧室』の「第32軍部隊一覧」も参照。

このほか、先島集団(宮古島第28師団及び独立混成第59・第60旅団。石垣島に独立混成第45旅団)、大東島守備隊(第28師団の一部)、奄美守備隊(独立混成第64旅団)といった部隊がアメリカ軍による上陸を想定して配置された。しかし、アメリカ軍が上陸しなかったため、地上戦闘はおこなわれなかった。第32軍司令部の壊滅後、先島集団は台湾の第10方面軍の直轄下に入り、奄美守備隊は九州の第16方面軍隷下となった。

海軍

航空部隊

連合軍

特に注意書きの無い場合、アメリカ軍の部隊を指す。出典は原則としてアメリカ陸軍公刊戦史“OKINAWA: The Last Battle”による[20]

陸上部隊

各歩兵師団は歩兵3個連隊を基幹とし、砲兵4個大隊などを持つ。各海兵師団は3個海兵連隊を基幹とし、砲兵連隊と戦車大隊などを持つ。

航空部隊

戦術支援用の航空部隊として、以下の部隊があった。

  • 第301戦闘航空団 - アメリカ陸軍航空軍所属。
  • 第7爆撃コマンド - アメリカ陸軍航空軍所属。
  • 第2海兵航空団 - アメリカ海兵隊所属。

沖縄戦で失われた国宝

建造物

沖縄戦全体を描いた映像作品

ひめゆり学徒隊を中心に描いたものはひめゆりの塔を参照。

映画
テレビドラマ
テレビアニメ
ドキュメンタリー

脚注

注釈

  1. 本土決戦は1945年1月の『帝国陸海軍作戦計画大綱』、『決戦非常措置要綱』等を元に1945年後半を想定して決戦準備がなされていた。
  2. 日本語の呼称「鉄の暴風」は、1950年に刊行された沖縄タイムス社編『鉄の暴風』に、英語での呼称the Typhoon of Steel(鉄の台風の意味)はベローテ兄弟の同名の著書にちなむ。
  3. 3.0 3.1 幕僚会議を主催したのは長参謀長であるが、長個人としては内心反対であり、牛島司令官の攻勢意図や上級司令部に対する体面を察して職責上やむなく方針を変えたとする見方もある[35]
  4. バックナー中将を倒した日本軍の攻撃について、アメリカ軍の公式記録では九六式十五糎榴弾砲の砲撃となっている[54]。日本側でも、2002年に野戦重砲兵第1連隊の元・中隊長が長年の沈黙を破り、自分の指揮による砲撃だったと証言している[55]。他方、日本側には東京都出身の「小野一等兵」が小銃で狙撃したという証言もあるが、厚生省によると該当する兵士の存在は確認されていない[56]
  5. 『…爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ』 文を実質作成したのは長野作戦参謀であり、最後の文を付け加えたのは牛島では無く、長勇参謀長である。
  6. 八原博通は、のちに司令部内部の出来事の貴重な証言をしているが、自ら立案した作戦が多数の住民の死を招いたことから自責の念に駆られ、知人の招きでも再び来島することはなかった。
  7. 戦闘参加者として48509人が認定されていた段階では、軍部隊への地下壕明渡しが11483人を占めた。その他、輸送や食糧提供などが理由に挙げられる[61]
  8. 旅団の海没による損失を受け、1944年7月に空輸により急遽補充された。
  9. 戦車第2師団師団捜索隊を改編し、1944年7月に第32軍編入。1個中隊は宮古島。

出典

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関連文献(著者名順)

以下の文献は、本項目の執筆に使用した参考文献および発展的な関連文献を含む。

総説

テーマ史・研究書

  • 安仁屋政昭『沖縄戦学習のために』平和文化、1997年、ISBN 4938585723
  • 安仁屋政昭、徳武敏夫(共著)『沖縄戦と教科書』草の根出版会、2000年、ISBN 4876481539
  • 石原昌家ほか『争点・沖縄戦の記憶』社会評論社、2002年、ISBN 4784514201
  • 上原正稔『沖縄戦トップシークレット』沖縄タイムス社、1995年
  • 大江健三郎『沖縄ノート』岩波書店〈岩波新書 青版 762〉、1970年、ISBN 4004150280
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  • 大田昌秀『有事法制は、怖い 沖縄戦が語るその実態』琉球新報社、2002年、ISBN 4897420482
  • 大田昌秀『沖縄戦下の米日心理作戦』岩波書店、2004年、ISBN 400022381X
  • 影山昇『男たちの「ひめゆりの塔」 沖縄戦―知られざる悲劇の学徒たち』大空社出版部、1997年、ISBN 4756804373
  • 曽野綾子『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!』ワック、2006年、ISBN 4898315453 - 『ある神話の背景』(文藝春秋、1973年)の改訂版
  • 田村洋三『沖縄の島守―内務官僚かく戦えり』 中央公論新社、2003年、ISBN 4120033902/中公文庫、2006年、ISBN 4122047145
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  • 野里洋『汚名―第二十六代沖縄県知事泉守紀』講談社、1993年、ISBN 4062067153
  • 野村正起『船工26の沖縄戦』亜細亜書房、1998年、ISBN 4947727098
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  • 林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001年、ISBN 4272520679
  • ジェームス・H・ハラス(著)猿渡青児(訳)『沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』光人社、2007年、ISBN 4769813457
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  • 宮良作『日本軍と戦争マラリア―沖縄戦の記録』新日本出版社、2004年、ISBN 4406030417
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体験記

  • 安里要江、大城将保(共著)『沖縄戦ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった…』高文研、1995年、ISBN 4874981550
  • 親里千津子『ちーちゃんの沖縄戦』ニライ社、1994年、ISBN 4931314104
  • 小橋川千鶴子『黒砂糖のかけら チーコの沖縄戦日記』耕文社、2002年、ISBN 4906456286
  • 神直道『沖縄かくて潰滅す』原書房、1967年
  • 創価学会青年平和会議編『命(ぬち)どぅ宝 沖縄戦・痛恨の記憶』第三文明社〈レグルス文庫〉、2003年、ISBN 4476012442
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  • 富村順一『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』柘植書房、1995年、ISBN 4806803588
  • 仲田精昌『島の風景 少年の心に記録されたもうひとつの〈沖縄戦〉』晩声社、1999年、ISBN 4891882891
  • 船越義彰『狂った季節 戦場彷徨、そして――。』ニライ社、1998年、ISBN 4931314287
  • 真鍋和子『いのちの重さ伝えたい 沖縄戦1フィート運動と中村文子のあゆみ』講談社、2004年、ISBN 4062123584
  • 宮城晴美『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』高文研、2000年、ISBN 4874982492
  • 宮城巳知子『ずいせん学徒の沖縄戦 最前線へ送られた女学生の手記』ニライ社、2002年、ISBN 4931314538
  • 八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』読売新聞社、1972年
  • 松木謙治郎『阪神タイガース 松木一等兵の沖縄捕虜記』恒文社、1974年
  • 山城高常『戦場のトンボ 少年がみた沖縄戦』ニライ社、1995年、ISBN 4931314163
  • 吉田久一『八重山戦日記』ニライ社、1999年、ISBN 4931314325
  • 歴史を拓く女の会(編)『オキナワいくさ世のうないたち いたみの共有』ドメス出版、2004年、ISBN 4810706273
  • ユージーン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年8月、ISBN 978-4-06-159885-0

その他

関連項目

外部リンク

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  71. 宮城初枝著「沖縄敗戦秘録ー悲劇の座間味島」テンプレート:要ページ番号勝岡寛次著「沖縄戦集団自決―架空の軍命令」明成社テンプレート:要ページ番号ほか
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  88. http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-06-19_50642
  89. NHKスペシャル|昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~