氣比神宮

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氣比神宮(けひじんぐう、気比神宮)は、福井県敦賀市曙町にある神社式内社名神大社)、越前国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

概要

福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島・中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。

古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇(第14代)・神功皇后応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。また、中世には越前国一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。

社殿はほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる。空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、国の重要文化財に指定されている。また境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名発祥地であると伝える。そのほか祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、古図、古面等の有形文化財を伝えている。

社名

神宮の社名について、史料には主なものとして次の呼称が見えるテンプレート:Sfn(史料の引用には常用漢字体を使用)。

以上のほか、史料には「気比宮」「気比大明神」「気比社」「気比明神」などの呼称も見えるテンプレート:Sfn明治維新後、明治28年(1895年)には神宮号が宣下され、それ以後は社名を「氣比神宮」としているテンプレート:Sfn。なお、気比の松原の冠称「気比」も神宮の社名に由来するもので、同地が古くは神宮の領地であったことに因むとされるテンプレート:Sfn

「ケヒ(気比/笥飯)」の由来としては、『古事記』[原 1]では「御食津(みけつ)」から「気比」に転訛したというテンプレート:Sfn。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は当て字ながら「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある[1]テンプレート:Sfn。これとは別に、応神天皇・気比神による名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もある[2]

以下本項では、社名には「氣比」を使用し、史料の引用など社名以外では常用漢字体の「気比」を使用して解説する。

祭神

祭神は次の7柱テンプレート:Sfn。本殿(本宮)に主祭神と2柱、本宮周囲の四社の宮(ししゃのみや)にそれぞれ1柱を祀るテンプレート:Sfn

本殿(本宮)

  • 伊奢沙別命 (いざさわけのみこと) - 主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称される。
  • 仲哀天皇 (ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
  • 神功皇后 (じんぐうこうごう) - 仲哀天皇の皇后

四社の宮

  • 東殿宮:日本武尊 (やまとたけるのみこと)
  • 総社宮:応神天皇 (おうじんてんのう) - 第15代天皇。
  • 平殿宮:玉姫命 (たまひめのみこと、玉妃命) - 『気比宮社記』では神功皇后の妹・虚空津比売命とする。
  • 西殿宮:武内宿禰命 (たけのうちのすくねのみこと)

祭神を7柱とする記載は、古くは『延喜式神名帳に見えるテンプレート:Sfn。『気比宮社記』によれば、当初の祭神は伊奢沙別命1柱であったが、大宝2年(702年)の社殿造営にあたって仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀、周囲に日本武尊ほか4柱を配祀したとするテンプレート:Sfn

祭神について

上記の通り主祭神はイザサワケ(伊奢沙別・去来紗別)で、氣比神宮特有の神である[注 1]。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる[1]。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記されているテンプレート:Sfn。これらは、いずれも祭神が「食物の神」としての性格を持つことを指す名称でありテンプレート:Sfn、海産物朝貢地としての敦賀の性質を反映するといわれる[1]。このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されているテンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。一方、『日本書紀[原 9]新羅王子・天日槍の神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘がありテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もあるテンプレート:Sfn

イザサワケは、仲哀天皇神功皇后応神天皇と深いつながりにあることが『古事記[原 1]日本書紀[原 10][原 3]によって知られる。両書の伝承によれば、仲哀天皇は角鹿に笥飯宮を営んだが、紀伊国滞在中に熊襲の謀叛を聞いて笥飯宮にいた神功皇后を出発させるテンプレート:Sfn。皇后は仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征(三韓征伐)、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産むテンプレート:Sfn。そして皇后と太子はヤマトへ戻る際に謀叛に遭い、平定後に太子は武内宿禰に連れられてのためケヒ神に参詣したというテンプレート:Sfn。以上の説話から、歴史の早い段階からケヒ神が朝廷の崇敬を受けた様子が見えるとともにテンプレート:Sfn、当地が一連の出征の始まり・終わりの地であることから「軍神」としての性格が指摘されるテンプレート:Sfn

古事記[原 1]ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったという(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられるテンプレート:Sfn。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)がいたテンプレート:Sfn。そして太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったというテンプレート:Sfn。同様の説話は『日本書紀』[原 4]でも別伝として記されているが、『古事記』『日本書紀』とも内容には矛盾点が指摘される[注 2]。この説話の解釈には諸説あるが、特にその真相を「名(な)と魚(な)の交換」すなわち「名の下賜」と「魚の献上」であるとして、ケヒ神(とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を二重に表した説話であるといわれるテンプレート:Sfn。また、以上のように当地が応神天皇の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の継体天皇(第26代)とも関係すると指摘されるテンプレート:Sfn

イザサワケとともに祀られる仲哀天皇以下6柱に関しては、7世紀後半に天皇霊が国家守護神として各地に設置された動きと関連づける説があるテンプレート:Sfn。その中で、守護神として合祀された仲哀天皇は敗者の霊として「祟り性」を備えていたために、早い段階での神宮寺成立・神階昇叙につながったと指摘されるテンプレート:Sfn

歴史

創建・伝承

社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したというテンプレート:Sfn。そして『気比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后三韓征伐出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得たテンプレート:Sfn。そして仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしているテンプレート:Sfn。またこの時、気比大神は玉姫命に神憑りして三韓征伐の成功を再び神託したとも伝えるテンプレート:Sfn。その後大宝2年(702年)に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったというテンプレート:Sfn

また前述のように、『古事記』『日本書紀』では仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の時期に記事が記されている。しかしながら、その後は持統天皇6年(692年)まで神宮に関する記事は見えないことから、7世紀中頃までは朝廷とのつながりは薄かったとして、7世紀後半頃に気比神の祭祀権が在地豪族から朝廷の手に移ったと推測されるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

概史

飛鳥時代から平安時代

国史において気比神が再び現れるのは持統天皇6年(692年[原 5]で、その記事では越前の国司が角鹿郡の浜で獲った白蛾を献上したため、20戸の神封(神社に寄進された封戸)が増封されたと記されているテンプレート:Sfn霊亀元年(715年)には境内に神宮寺気比神宮寺)が設けられたというが、これは文献上で全国最古の神宮寺成立になるテンプレート:Sfn。また『新抄格勅符抄[原 11]によれば、天平3年(731年)に従三位料として200戸の神封があり、天平神護元年(765年)には神封は244戸に及んだテンプレート:Sfn。同記事では神階として「従三位」と記されているが、これも全国諸神の神階記事の内で最古になる[注 3]。その後、神階は寛平5年(893年)までに正一位勲一等の極位に達したテンプレート:Sfn。このような神階昇叙には9世紀の東アジア情勢が背景にあり、この時期に海神としての本来の性格が朝廷から重要視されたと推測されるテンプレート:Sfn

また、神宮は朝廷鎮護の重要な一角として古くから朝廷との結びつきが強くテンプレート:Sfn、朝廷からの奉幣宝亀元年(770年[原 2](使者:中臣葛野連飯麻呂)、承和6年(839年[原 12](使者:大中臣朝臣礒守・大中臣朝臣薭守)、仁寿2年(852年[原 8]貞観元年(859年[原 13](使者:大中臣朝臣豊雄)にあった。また、承和6年(839年)[原 7]には神宮の雑務は国司預かりから神祇官直轄に移行され、朝廷との関わりを一層強めているテンプレート:Sfn

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では越前国敦賀郡に「気比神社七座 並名神大」と記載され、七座が名神大社に列しているテンプレート:Sfn。また、同帳に見える「角鹿神社」「大神下前神社」「天利剣神社」「天比女若御子神社」「伊佐奈彦神社」の式内社5社は神宮の境内社に比定されるテンプレート:Sfn。そのうちでも特に、天利剣・天比女若御子・天伊佐奈彦の3社は『続日本後紀』[原 14]において「気比大神之御子」と見える。このことから、神宮周辺の諸社が御子神として編成されたとして、敦賀の在地社会において神宮中心の国家祭祀体系が構築されたと考えられているテンプレート:Sfn

鎌倉時代から江戸時代

中世以降は越前国の一宮に位置づけられテンプレート:Sfn、「北陸道総鎮守」とも称されたというテンプレート:Sfn。古代に続いて中世も広大な社領を有しており、その土地は越前を中心として遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいたテンプレート:Sfn南北朝時代の戦乱では、宮司・気比氏治は南朝方につき金ヶ崎城を築いて奮戦したが、北朝方に敗れ一門は討ち死したテンプレート:Sfn。この敗死により神宮の社領も減じられたが、それでもなお24万石を所領したと伝えるテンプレート:Sfn。神宮は中世を通じて社殿焼失が多く、史料には再建を示す記事が多く見られるテンプレート:Sfn

戦国時代には、社家は戦国大名朝倉氏の下に組み込まれたテンプレート:Sfn。そのため、織田信長の侵攻によって社殿のほとんどを焼失、朝倉氏滅亡とともに社領も没収されて社勢は著しく衰退したテンプレート:Sfn

江戸時代に入ると慶長8年(1603年)に結城秀康から100石が寄進され、慶長9年(1604年)には社殿造営がなされて再興が果たされたテンプレート:Sfn。その後は、徳川家光から秀忠の病気平癒祈願料として50石が寄進されたほか、大野城主・松平但馬守などからの奉幣も受けているテンプレート:Sfn。しかしながら、かつての繁栄は見られなくなったというテンプレート:Sfn

明治以降

明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣大社に列したテンプレート:Sfn。明治28年(1895年)には官幣大社に昇格するとともに、神宮号宣下により社名を現在の「氣比神宮」に改称したテンプレート:Sfn

昭和20年(1945年)には敦賀空襲により旧国宝の本殿ほか社殿の多くを焼失したテンプレート:Sfn。本殿は昭和25年(1950年)に再建され、その他の社殿も再建・修復を経て現在に至っているテンプレート:Sfn。また、戦後は神社本庁別表神社に列している。

神階

神職

気比神の祭祀は、古代には角鹿氏(つぬがうじ、角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれるテンプレート:Sfn。この角鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者(海人族)でありテンプレート:Sfn、一説には角鹿国造の氏族ともいわれるテンプレート:Sfn。敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳(直径約60メートルの円墳[[[:テンプレート:座標URL]]35_38_16.64_N_136_5_10.31_E_region:JP-18_type:landmark&title=%E5%90%91%E5%87%BA%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B31%E5%8F%B7%E5%A2%B3%EF%BC%88%E8%A7%92%E9%B9%BF%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%95%B7%E5%A2%93%EF%BC%89 位置])が残るが、その副葬品には被葬者と朝鮮半島の深いつながりが指摘されるテンプレート:Sfn。この角鹿氏は、7世紀後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られているテンプレート:Sfn

記録上では、宝亀7年(776年[原 21]に朝廷から初めて宮司職が置かれ、宮司は従八位に準じたとあるテンプレート:Sfn。以後、文献では宮司として大中臣氏中臣氏の各人物が見える[注 4]延暦23年(804年[原 6]からは、宮司の就任には神祇官の認可が必要となり、朝廷とのつながりを強めている。また承和2年(835年[原 15]の記事では禰宜・祝の各職が見える。『延喜式[原 22]によれば、松原客館(渤海使の客館)の検校も宮司が担っていた。なお『朝野群載』には、承暦4年(1080年)に神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録が見える。

古くは神職として大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職があり、48の社家は大中臣姓・角鹿姓を称したという(室町時代からは菅原姓も加わった)テンプレート:Sfn。人物としては特に、南北朝の争乱で恒良親王尊良親王を奉じた大宮司の気比氏治・斉晴親子が知られる。また検校・行司・別当・執当等36坊を数える社僧職もあったという。信長の越前侵攻後は、大中臣姓の東河端・西河端・北河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の島家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなったテンプレート:Sfn。この社家制度は、明治4年(1871年)の太政官布告を以て廃止されている。

社領

六国史時代における社領の記録は次の通りテンプレート:Sfn

上記のうち持統天皇6年の記事は「増封」であるため、これに先立ってすでに封戸があったとされるテンプレート:Sfn。また244戸という神封は、全国でも屈指の数になるテンプレート:Sfn。その後、『日本三代実録』によれば元慶8年(884年[原 23]に神宮の封租穀は神庫に納めて祭祀費にあてられるともに、神戸の百姓の国役への充当が停止されているテンプレート:Sfn

平安時代末期以降には社領が荘園化し、鳥羽院本家として皇室領に入り、美福門院八条院春華門院順徳院後高倉院安嘉門院・室町院・亀山院後宇多院後醍醐天皇へと大覚寺統に伝えられたテンプレート:Sfn。また、律令制の崩壊とともに先の封戸も荘園化したとされるテンプレート:Sfn。それらの荘園領は建暦2年(1212年)注進の目録によって知られ、同文によると社領は敦賀郡を中心とする越前国に加え、敦賀港三国港の要港、越中・越後までの一部にまで及んでいたテンプレート:Sfn。作田は257町余で所当米は1,700石余、さらに請加米を加えると2,111石であったテンプレート:Sfn。そのうち本家分は702石余、領家分は292石余、大宮司(預所)分は177石余であるテンプレート:Sfn。前述のようにこれら荘園の本家は皇室であったが、領家は九条良輔九条兼実の子)の知行に始まって延暦寺属の青蓮院に伝えられたテンプレート:Sfn

応仁の乱の後は、武家による侵略を受けながら朝倉氏滅亡までは所々の社領を有したが、朝倉氏の滅亡後に衰退したテンプレート:Sfn。江戸時代の社領は100石であったテンプレート:Sfn

社殿造営

神宮の社殿は被災が多く、文献には度々再建なされた様子が見える。『気比宮社記』等によると、再建年次は次の通り。


神宮の中世期の境内の様子は「気比神宮古図」(室町時代後期)によって知られるテンプレート:Sfn。また、戦災で焼失した旧本殿は珍しい「両流造」であったことが知られるが(「社殿」節参照)、以上の変遷を踏まえると、その両流造の形式は文永2年(1265年)までは確実に遡ることができ、可能性としては保延1135年)または元久1204年)頃に遡ると推測されるテンプレート:Sfn

また、現在の神宮の入り口は境内西側に国道8号線に面して設けられているが、古くは東側にあったとされているテンプレート:Sfn。史料によれば、正安3年(1301年)に神宮を参詣した他阿真教時宗第2世)は、西参道の沼地を改善するため浜から砂を運んで整地したといい、それ以来神宮の入り口は西側に移ったというテンプレート:Sfn。この故事に因み、現在でも時宗総本山の法主交代時には神宮で「お砂持ち」の儀式が行われるテンプレート:Sfn

境内

境内の広さは11,253坪(約3.7ヘクタール)テンプレート:Sfn

社殿

主要社殿は昭和20年(1945年)の空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である。本殿(本宮)は昭和25年(1950年)の再建で、南面して鎮座する。本殿の周囲には東殿宮(本殿の東)・総社宮(東北)・平殿宮(西北)・西殿宮(西)の4社殿が立ち、これらは「四社の宮(ししゃのみや、四社之宮)」と総称される。四社の宮はいずれも平成に入っての再建社殿である。また、本殿に接続して内拝殿・外拝殿が立つが、これらは昭和の大造営時の再建になる。テンプレート:Sfn

戦災で焼失した旧本殿は、江戸時代初期の慶長19年(1614年)に結城秀康によって再建されたもので、旧国宝に指定されていた。桁行三間・梁間四間、「両流造」という独特の形式[注 5]の大規模な社殿で、屋根は檜皮葺、正面には一間の向拝が付設されていた。また内部は正面一間通りを外陣とし、奥は一間ごとに3分割して中央間に中陣・内陣・内々陣を設け、左右脇間は空殿とされていた。『気比宮旧記』によれば、そのうち内々陣の中央に仲哀天皇、右(西)に神功皇后、左(東)に保良太神(伊奢沙別命)が祀られていたという。テンプレート:Sfn

社務所は平成23年(2011年)の再建テンプレート:Sfn。以前の社務所では裁判所庁舎が移転・使用されていたテンプレート:Sfn

土公

境内から天筒山の方角の敦賀北小学校校庭には「土公(どこう)」と称される小丘がある([[[:テンプレート:座標URL]]35_39_20.17_N_136_4_33.21_E_region:JP-18_type:landmark&title=%E5%9C%9F%E5%85%AC 位置])。「土公」とは陰陽道における神の名である。土公は神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。社伝では、気比神はこの土公に降臨したといい、大宝2年(702年)の社殿造営以前は土公を神籬として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、最澄空海は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝える。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

この土公は聖別されているため、調査が行われておらず詳細は明らかでない。社伝に見える説のほかに、古墳とする説や経塚とする説があるテンプレート:Sfn

社叢

中鳥居前に立つ松は「旗掲松(はたあげのまつ)」と称される。社伝では、延元元年(1336年)に宮司・気比氏治が南朝方として挙兵するにあたり、この松に気比神の神旗を掲げたという。現在もその旧根が残るとともに2代目の松が生育している。テンプレート:Sfn

また、境内には昭和11年(1936年)に陸軍関係者から献木されたユーカリの大木が生育している。この木は敦賀市の天然記念物に指定されている。テンプレート:Sfn

そのほか、境内東南側には庭園「神水苑」が整備されているテンプレート:Sfn

大鳥居

境内入り口に立つ大鳥居は、江戸時代前期の正保2年(1645年)の造営。木造朱塗の両部鳥居で、高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺である。扁額「氣比神宮」は有栖川宮威仁親王の染筆になる。テンプレート:Sfn[3]

神宮の境内入り口は古くは東側にあったため(「社殿造営」節参照)、初代鳥居は弘仁元年(810年)に境内東側に建てられていたが、その鳥居は康永2年(1343年)に大風で倒壊したという。そして、寛永年間(1624年-1644年)に佐渡の旧神領地・鳥居ケ原から奉納された(むろ)の大木を使用して、現在の大鳥居が境内西側に建てられたと伝える。この鳥居は空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されている。また、奈良の春日大社・広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられている。テンプレート:Sfn[3]

摂末社

現在の摂末社は、摂社5社・末社9社の計14社(いずれも境内社)テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。摂社は伊佐々別神社以外は式内社で、末社のうちでも大神下前神社は式内社である。

これら摂末社のうち、本殿向かって左手に鎮座する伊佐々別・天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦・擬領・劔・金・林・鏡の9社には本宮と関係が深い神々が祀られており、「九社の宮(くしゃのみや、九社之宮)」と総称されるテンプレート:Sfn。『続日本後紀』[原 14]によると、天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の3社は「気比大神之御子」であるという。

摂社

角鹿神社
  • 祭神:都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、合祀に松尾大神
  • 社格:式内社「角鹿神社」、越前国内神名帳「正四位 敦賀神」
  • 例祭:5月初卯日
「つぬがじんじゃ」。境内東側の裏参道に鎮座する。『気比宮社記』や「気比宮古図」では「政所神(まんどころのかみ)」と見える。また、正安2年(1300年)まで東口が境内表口であったことにより、別に「門神(かどのかみ)」とも称されていた。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
祭神の都怒我阿羅斯等は、『日本書紀[原 24]において垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子で、同書では笥飯浦に至ったと見える[4]。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとして、「敦賀(つるが)」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
角鹿神社の祭神を都怒我阿羅斯等とする説は諸文献に記されているが[5]、一方で祭神を角鹿国造祖・建功狭日命(たけいさひのみこと)とする説もある[6]。建功狭日命は『先代旧事本紀[原 25]に角鹿国造として見える人物で、江戸時代末期まで角鹿神社の社家であった島家が角鹿氏後裔を称したことからも、角鹿氏祖と推測される建功狭日命説が有力視されている。またこれとは別に、この角鹿神社は古くからの敦賀の地主神であったとして、イザサワケ並びに応神天皇が主神として本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もある[7]。なお、松尾大神は天保10年(1839年)の合祀とされる。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
明治10年(1877年)に神宮摂社の第一に定められた。社殿は流造銅板葺。嘉永4年(1851年)の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。テンプレート:Sfn
伊佐々別神社
  • 祭神:御食津大神荒魂(みけつおおかみあらみたまのかみ)
「いささわけじんじゃ」。九社の宮の一社として本殿西側に鎮座する。祭神は本宮主祭神の荒魂である。社伝では、気比神から御食の魚を賜った誉田別命(応神天皇)が、武内宿禰に命じて新たに気比神の荒魂を勧請したことに始まるという。漁撈の神であるとされ、海を向くために社殿は北面するという。テンプレート:Sfn
天利劔神社
  • 祭神:天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)
  • 社格:式内社「天利剣神社」、越前国内神名帳「正四位 天利剣神」
「あめのとつるぎじんじゃ」。九社の宮の一社で、第五之王子宮。社伝では仲哀天皇による宝剣の奉納に始まるという。『続日本後紀』によると承和7年(840年)[原 14]に無位から従五位下に昇叙された。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
明治10年(1877年)に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55年(1980年)に流造銅板葺で再建。テンプレート:Sfn
天伊弉奈姫神社
  • 祭神:天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)
  • 社格:式内社「天比女若御子神社」、越前国内神名帳「正四位 天若神子神」
「あめのいざなひめじんじゃ」。九社の宮の一社で、第六之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天比女若御子神」として承和7年(840年)[原 14]に無位から従五位下に昇叙された。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
明治10年(1877年)に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55年(1980年)に流造銅板葺で再建。テンプレート:Sfn
天伊弉奈彦神社
  • 祭神:天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)
  • 社格:式内社「伊佐奈彦神社」、越前国内神名帳「正四位 天伊佐奈彦神」
「あめのいざなひこじんじゃ」。九社の宮の一社で、第七之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天伊佐奈彦神」として承和7年(840年)[原 14]に無位から従五位下に昇叙された。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
明治10年(1877年)に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55年(1980年)に流造銅板葺で再建。テンプレート:Sfn

末社

擬領神社
  • 祭神:建功狭日命(たけいさひのみこと)
「おおみやつこじんじゃ」。九社の宮の一社。祭神は一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)とも、玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも。建功狭日命は『先代旧事本紀』[原 25]に角鹿国造祖と記されている人物である。テンプレート:Sfn
劔神社
  • 祭神:姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
「つるぎじんじゃ」。九社の宮の一社で、第一之王子宮テンプレート:Sfn。社伝では、敦賀市莇生野の劔神社からの勧請という[注 6]テンプレート:Sfn
金神社
  • 祭神:素盞嗚尊(すさのおのみこと)
「かねのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第二之王子宮テンプレート:Sfn。社伝では弘仁7年(816年)に参詣した空海が金神社の霊鏡を高野山に遷したとして、高野山鎮守社の丹生都比売神社で祀られる気比神は当社にあたるという(ただし、現在の丹生都比売神社では祭神を大食都比売神とする)。テンプレート:Sfn
林神社
  • 祭神:林山姫神(はやまひめのかみ)
「はやしのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第三之王子宮テンプレート:Sfn。社伝では延暦7年(788年)に参詣した最澄が林神社の霊鏡を比叡山に遷したとして、比叡山鎮守社の日吉大社で祀られる気比神は当社にあたるという(ただし、現在の日吉大社では祭神を仲哀天皇とする)。テンプレート:Sfn
鏡神社
  • 祭神:神功皇后奉献の宝鏡の神霊
「かがみのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第四之王子宮テンプレート:Sfn。社伝では、神功皇后が奉献した神宝のうち宝鏡が霊異をなしたので、別殿に国常立尊とともに「天鏡宮(あめのかがみのみや)」として祀ったことに始まるという。テンプレート:Sfn
大神下前神社
「おおみわしもさきじんじゃ」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。明治9年(1876年)に村社に列したが、明治44年(1911年)に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。本殿は流造檜皮葺。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
兒宮(児宮)
「このみや」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。寛和2年(986年)に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。江戸時代以降は子育て・小児の守護神として信仰されている。テンプレート:Sfn
猿田彦神社
表参道の大鳥居近くに鎮座する。祭神は気比神を案内する神であるという。テンプレート:Sfn
神明両宮
九社の宮と並んで鎮座する。外宮は慶長17年(1612年)、内宮は元和元年(1615年)の勧請。テンプレート:Sfn

関係社

祭事

年間祭事

例祭

氣比神宮の例祭(れいさい)は、毎年9月4日に行われる。古くは旧暦8月4日に行われたが、これは仲哀天皇・神功皇后以下4柱の合祀がなされた大宝2年(702年)8月4日に因むという。例祭自体は9月4日になるが、各種神事は2日の宵宮祭から始まる。そして15日の月次祭まで祭事が続くことから、一連の祭りは「気比の長祭」と称される。また、俗に「けえさんまつり」ともいう。この期間中は、敦賀市内でも「敦賀まつり」として各種行事が行われる。テンプレート:Sfn

2日には翌日からの祭りに備えて本殿で宵宮祭が行われ、大鳥居前には各町内から山車が集まって舞が奉納される。そして3日には神幸祭として、祭神の神霊を遷した鳳輦の市内巡幸が壮麗な行列とともに行われ、市内は大きな賑いを見せる。続く4日の例大祭は1年間で最重要の祭りである。この祭りでは神社本庁から献幣使が参向して幣帛料が献じられ、本殿において古式に則った神事が行われたのち、市内各町の山車の巡幸が行われる。その後、祭りは5日からの後日祭を経て15日の月次祭で終了する。テンプレート:Sfn

特殊神事

神宮で行われる特殊神事テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

御誓祭
「みちかいまつり」。3月6日(古くは旧暦2月6日)。仲哀天皇2年2月6日、天皇自ら参詣して「此地に宮居を定めて永く居らん」と誓った故事に因む神事。テンプレート:Sfn
御名易祭
「みなかえまつり」。3月8日(古くは旧暦2月8日)。神功皇后摂政13年2月8日、皇太子(応神天皇)と気比神が名易(名変え)を行なった故事に因む神事。本宮と伊佐々別神社(摂社)に海産物を主とする神饌が献じられる。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
御田植祭
「おたうえさい」。6月15日田植え前に行われる神事で、田長以下早乙女が神楽歌を口ずさんで豊作祈願が行われる。平安時代から行われる神事であるという。テンプレート:Sfn
牛腸祭
「ごちょうさい」。6月16日。9月の神幸祭で引く山車の順序を米くじで決める神事。女人禁制のほか厳重な制度のもと行われる。テンプレート:Sfn
総参祭
「そうのまいりのまつり」。7月22日(古くは旧暦6月中卯日)。仲哀天皇2年に、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かった故事に因む神事。前日夜には「寅神祭」として、海上安全と船型神輿への神霊奉遷の神事が行われる。そして当日には御座船「神宮丸」に船型神輿を載せ、御幸浜(みゆきはま)から敦賀湾に出船して途中船中で祭典が行われ、対岸にある旧摂社・常宮神社への渡御が行われる。この日の敦賀湾は禁漁日となり、奉祀すれば3年の豊漁に恵まれるということから、多数の漁業者も曳行を行う。祭名「そうのまいり」は、このように総じて参拝する様子を称したものという。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
なおこの神事について、神宮では神功皇后が百官を率いて出征した故事に因むとするが、地元では気比神が眷属・氏子を率いて常宮神を妻訪いする神事であると伝える。テンプレート:Sfn

文化財

重要文化財(国指定)

  • 大鳥居(建造物)
    明治34年(1901年)3月27日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定。昭和25年(1950年)の文化財保護法施行により国の重要文化財に指定。

敦賀市指定文化財

  • 有形文化財[11]
    • 木彫 猿田彦面(彫刻) - 昭和29年4月25日指定。
    • 能面 尉(銘 イセキ)(彫刻) - 昭和31年4月1日指定。
    • 紙本著色 気比神宮古図 - 敦賀市立博物館に寄託。昭和29年4月25日指定。
  • 天然記念物[12]
    • 気比神宮のユーカリノキ - 昭和58年4月1日指定。

気比神宮寺

気比神宮寺(けひじんぐうじ)は、氣比神宮にかつて存在した神宮寺。現在は廃寺テンプレート:Sfn

藤氏家伝[原 28]によれば神宮寺の成立は霊亀元年(715年)で、文献上では全国の神宮寺の中で最古になるテンプレート:Sfn。同書によれば、藤原武智麻呂の夢に気比神が現れ、宿業によって神の身となったことの苦悩を告げて仏道による救済を求め、武智麻呂はその願いを容れて神宮寺を建立したというテンプレート:Sfn

斉衡2年(855年[原 29]には、気比大神宮寺と御子神宮寺(不詳)に対して得度僧5人・心願住者5人の計10人の常住僧を置くことが定められたテンプレート:Sfn。また、天安2年(858年[原 30]には仏像造立費として稲1万束の充当、貞観元年(859年[原 31]には大般若経一部の安置の記事が見えるほか、貞観2年(860年[原 32]記事では神宮寺が定額寺となされているテンプレート:Sfn。その後の経緯は記録がなく明らかでないテンプレート:Sfn大永6年(1526年)の正遷宮に際して神宮寺御読経所で読経があったともいうが、廃絶の経緯・跡地は不詳テンプレート:Sfn。なお、付近の善妙寺や妙願寺では神宮寺を前身とするという由緒を伝えるテンプレート:Sfn

若狭・越前地方の神宮寺では、劔神社丹生郡越前町)の神宮寺成立が710年代と推定されるほか[注 9]若狭彦神社小浜市)神宮寺の神願寺(若狭神宮寺)では養老年間(717年-724年)の創建譚が『類聚国史[原 33]に記されているテンプレート:Sfn。気比神宮寺を含むこれら神宮寺の相次ぐ成立に関して、その時期・位置の近さから同一僧侶(一説に白山開基の泰澄)による活動を推測する説があるテンプレート:Sfn。また成立要因に関して、敗者として「祟り性」を備える仲哀天皇(氣比神宮祭神)・忍熊皇子(劔神社祭神)の霊を仏道の面から慰撫する目的であったと推測する説もあるテンプレート:Sfn

現地情報

所在地

交通アクセス

周辺

脚注

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原典 テンプレート:Reflist

出典 テンプレート:Reflist

参考文献・サイト

神宮出版物

書籍

サイト

関連文献

関連項目

外部リンク

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  1. 1.0 1.1 1.2 西宮一民校注『古事記』(新潮社、1979年)p. 403。
  2. 西郷信綱『古事記注釈』第6巻(ちくま学芸文庫、2006年)pp. 239-244。
  3. 3.0 3.1 気比神宮大鳥居(福井県ホームページ)。
  4. 『日本古代氏族人名辞典 <普及版>』(吉川弘文館、2010年)都怒我阿羅斯等項。
  5. 都怒我阿羅斯等を採る説は『気比宮社記』、『神名帳考証』、『神社覈録』、『特選神名牒』等(テンプレート:Harvnbによる)。
  6. 建功狭日命を採る説は『大日本史』、『神祇志料』、『敦賀郡誌』、『式内社調査報告』等(テンプレート:Harvnbによる)。
  7. 谷川健一『日本の神々(岩波書店)』(岩波書店、1999年)pp. 77-78。
  8. 常宮神社由緒書。
  9. 大宰神(國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)。
  10. 推前神(國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)。
  11. 市指定文化財-有形文化財(敦賀市ホームページ)。
  12. 市指定文化財-民俗文化財・記念物(敦賀市ホームページ)。


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