陰陽道
陰陽道(おんみょうどう)は、陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つ。これら道の呼称は大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じで国家機関の各部署での技術一般を指す用語であり、思想ないし宗教体系を指す用語ではない。「おんようどう」「いんようどう」とも。古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。
陰陽道に携わる者を陰陽師とよんでいたが、後には陰陽寮に属し六壬神課を使って占いをし、除災のために御払いをするもの全てが陰陽師とよばれるようになった。陰陽師集団を陰陽道と呼ぶことがある。
目次
略歴・概要
前史・中国での基礎思想
かつては専門の研究者によっても、陰陽家の思想が日本に伝わったものが陰陽道である、と説明されてきた。しかし、中国では陰陽家の思想は儒教や道教などに吸収されて、日本の「陰陽道」に相当する独自の体系は発達しなかったとされているテンプレート:要出典。そのため近年では、陰陽五行説が、自然界の万物は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるとする五行思想を組み合わせ、自然界の陰陽と五行の変化を観察して瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う実用的技術として日本で受容され、中国の占術・天文学の知識を消化しつつ神道、道教、仏教などからも様々な影響を受け取って日本特異の発展を遂げた結果誕生したものと考えられている。
全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五要素の組み合わせによって成り立っているとする、中国古代の夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した陰陽五行思想、ないしこれと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計などは、5世紀から6世紀にかけて飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した512年(継体天皇7年)ないし易博士が来日した554年(欽明天皇15年)の時点までに、中国大陸(後漢(東漢)・隋)から直接、ないし朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由で伝来した。
陰陽五行説伝来
5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わったとき、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。このような技術は、当初はおもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から俗人が行うことが必要となり、7世紀後半頃から陰陽師があらわれ始めた。
7世紀後半から8世紀はじめに律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化された。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた。
平安以降
平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となった。これにともなって陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていった。
日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた。8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。
安倍晴明の時代
10世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むとともに、天文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになった[1]。
安倍氏・賀茂氏の分立
安倍氏・賀茂氏による陰陽道の支配が確立したとはいえ、その内実は複雑であった。朝廷・院の公事のみならず、摂関家から地下官人の私事まで宮廷社会における陰陽道に対する需要は院政期以後も高く、陰陽寮(官人陰陽師)の充実に伴って阿倍氏・賀茂氏は複数の流に分立した。彼らは朝廷に対して陰陽道・天文道・暦道に関する業務を一族として請け負っていた(官司請負制)が、一方で安倍氏・賀茂氏の内部においてもそれぞれの嫡流や陰陽寮の地位を巡る争いを激化させる。こうした中で平安時代末期から鎌倉時代初期になると、賀茂在憲・在宣父子や賀茂家栄、安倍泰親・安倍晴道・安倍広基などが活躍した。彼らは摂関家[2]や鎌倉幕府と結びつき、中には安倍国道のように鎌倉に下って幕府に直接奉仕する人々(関東陰陽道/鎌倉陰陽師)もいた[3][4]。
室町時代に入ると本来安倍氏の嫡流は他の一族を圧倒して本来下級貴族であった家柄は公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏の宗家土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
近世での統制・近代での廃止
幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家幸徳井家を再興させて諸国陰陽師を支配させようとした。やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立した。江戸時代には、陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着したが、その活動は、だましものと扱われた者も非常に多く、後の占い禁止につながるものである。それらを声聞師とよび、士農工商に該当しない、身分の低い賎民として扱われた。
明治維新後の1872年(明治5年)に至り、新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。現代には土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県香美郡物部村(現在の同県香美市)に伝わるいざなぎ流を除けば、暦などに名残をとどめるのみである。
主な陰陽師
陰陽道の神
参考文献
- 村山修一編『日本陰陽道史総説』ISBN 4827310572
- 村山修一編『陰陽道叢書(Ⅰ)~(Ⅳ)』ISBN 4626014259,ISBN 4626014550,ISBN 4626014445,ISBN 4626014569
- 『陰陽道の本』学研、1993年
- 山下克明『平安時代の宗教文化と陰陽道』ISBN 4900697656
- 鈴木一馨『陰陽道―呪術と鬼神の世界』ISBN 9784062582445
- 遠藤克己『近世陰陽道史の研究』ISBN 4404021569
- 小坂眞二『安倍晴明撰「占事略決」と陰陽道』ISBN 4762941670
- 斎藤励『王朝時代の陰陽道』ISBN 4839003300
- 繁田信一『陰陽師』ISBN 4121018443
- 繁田信一『平安貴族と陰陽師』ISBN 4642079424
- 晴明神社編『安倍晴明公』ISBN 4062109832
- 高橋圭也『現代・陰陽師入門』ISBN 4257035846
- 中村璋八『日本陰陽道書の研究』ISBN 4762931306
- 林淳,小池淳編『陰陽道の講義』ISBN 4782303610
- 林淳『近世陰陽道の研究』ISBN 4642034072
- 赤澤春彦『鎌倉期官人陰陽師の研究』(吉川弘文館、2011年)ISBN 9784642028936
- 幸田露伴「道教に就いて」「道教思想」「仙書参同契」(露伴全集18巻、岩波書店)
- 福永光司『道教と日本文化』(人文書院)
- 福永光司『道教思想史研究』(岩波書店)
- 福永光司・千田稔・高橋徹『日本の道教遺跡を歩く』(朝日新聞社、2003年)
- 福永光司・上田正昭・上山春平『道教と古代の天皇制』(徳間書店、1978年)
関連項目
脚注
- ↑ 陰陽寮の中には他氏出身の六位クラスの官人もおり、特に大中臣氏や中原氏のように五位に昇る者を輩出した一族もあるが、鎌倉時代(13世紀)後期には姿を消すことになる。同様に法師陰陽師と呼ばれた民間陰陽師も安倍・賀茂氏のみならず宿曜道との競合もあって11世紀末期には姿を見せなくなる(赤澤、2011年、P63-82・204-206)。
- ↑ 平安期になると、貴族の身分と利用できる陰陽師の身分はほぼ対応していたが、院政期以後摂関家においても私的関係を重視した起用が行われるようになる(赤澤、2011年、P175-194)。
- ↑ 武家政権である鎌倉幕府も陰陽師との関係を持っていた。源頼朝が挙兵した時には賀茂氏・安倍氏の人々がいなかったため、住吉昌長・大中臣頼隆が陰陽道の事を掌り、源実朝の時代には安倍泰親の曾孫・安倍泰貞が近侍していた(『吾妻鏡』承元4年10月16日条)ことが知られている(赤澤、2011年、P328-330)。
- ↑ 赤澤、2011年、P34-63・164-167・226-227。