吉備真備

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吉備 真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) - 宝亀6年10月2日775年11月3日))は、日本奈良時代学者公卿氏姓は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉下道圀勝[1]の子。官位正二位右大臣勲等勲二等

概要

下道氏(下道朝臣)は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。

異説として加茂氏系図に、吉備彦之孫・(鴨の)吉備麻呂・右大臣という記載があり[2]、この人物が吉備真備であるという説がある。また賀茂保憲賀茂光栄を吉備真備の末裔とする文献もある[3]

略伝

備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市真備町)出身。

霊亀2年(716年遣唐留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂玄昉らと共に入唐した。帰路では種子島に漂着するが、天平7年(735年)に多くの典籍を携えて帰朝した。では経書史書のほか、天文学音楽兵学などを幅広く学び、帰朝時には経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東観漢記』をもたらした。

帰朝後は聖武天皇光明皇后の寵愛を得て、天平7年(735年)中に従八位下から一挙に10階昇進して正六位下に、天平8年(736年従五位下、天平9年(737年)従五位上に昇叙されるなど、帰朝後に急速に昇進する。翌天平10年(738年)に橘諸兄右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した僧・玄昉とともに重用され、真備は右衛士督を兼ねた。天平11年(739年)8月母を葬るとされる[4]。天平12年(740年)には、真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣大宰府で反乱を起こす。翌天平13年(741年)に東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。その後、天平15年(743年)には従四位下春宮大夫兼皇太子学士に叙任され、天平18年(746年)には吉備朝臣の姓を賜与され、天平19年(747年)に右京大夫に転じて、天平勝宝元年(749年)には従四位上に昇った。

孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750年)には藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守左遷される。天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752年)に再度入唐、阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の天平勝宝6年(754年)に屋久島さらに紀州太地に漂着するが、鑑真を伴って無事に帰朝する。

同年正四位下大宰少弐に叙任されて九州に下向する。天平勝宝8年(756年)に新羅に対する防衛のため筑前怡土城を築き、天平宝字2年(758年)に大宰府ででの安禄山の乱に備えるようを受け、翌3年に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。その後、暦学が認められて、儀鳳暦に替えて大衍暦が採用された。

天平宝字8年(764年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。同年に発生した藤原仲麻呂の乱では、従三位に昇叙されて、中衛大将として追討軍を指揮して、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、翌天平神護元年(765年)には勲二等を授けられた。翌天平神護2年(766年)称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、同年藤原真楯の薨逝に伴い大納言に、次いで従二位右大臣に昇進して、左大臣藤原永手とともに政治を執った。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。

神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩じた際には、妹の由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。『水鏡』など後世の史書物語では、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この皇嗣をめぐる話は『続日本紀』には認められず、この際の藤原百川の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い[5]

光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年(771年)に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年(775年)10月2日薨去享年83。最終官位は前右大臣正二位。

奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。

人物

公務の傍ら、孔子をはじめとする儒教の聖人を祭る朝廷儀礼である釈奠の整備にも当たった。著書に『私教類聚』『道弱和上纂』『刪定律令』などがあるとされる。在唐中、張旭に学び、帰朝後、晋唐の書を弘めた。古筆中に『虫喰切』『南部の焼切』が現存する[6]

経歴

日付は旧暦。

伝説

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吉備真備、『前賢故実江戸時代後期から明治時代)』より

江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』などによれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備とともに遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果てには食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した。

真備が長期間にわたってに留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたといわれる。

中世の兵法書などでは、張良が持っていたという『六韜三略』の兵法を持ち来たらしたとして、真備を日本の兵法の祖とした。碁に関しても、日本に初めて持ち帰ったとされる伝承があるが、魏志倭人伝に碁と双六が齎されたことが記載されており事実ではない。

また、吉備真備は、陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。その他、『今昔物語集』では、玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし、『刃辛抄』では、陰陽書『刃辛内伝』を持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている。

宇治拾遺物語』では、他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある。

系譜

脚注

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参考文献

  • 木村卜堂編著『日本と中国の書史社団法人日本書作家協会
  • 『群書系図部集』第一、続群書類従完成会
  • 永山卯三郎『岡山県通史』上編374頁「右大臣吉備公傳」
  • 平川親忠『古戦場備中府志』巻の五
  • 古川古松軒『吉備之志多道』
  • 古川古松軒『古川反古』
  • 『吉備大臣聖廟旧跡録』(吉備寺蔵)享和3年
  • 重野安繹『右大臣吉備公傳纂釈』下巻、明治35年

関連項目

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  1. 読みは「しもつみち の くにまさ」
  2. 「加茂氏系図」(『群書類従』巻第63所収)
  3. 「右大臣吉備公傳」、平川親忠『古戦場備中府志』巻の五
  4. 4.0 4.1 楊貴氏墓誌
  5. 河内祥輔瀧浪貞子など
  6. 木村卜堂 p.14
  7. 吉備之志多道』『古川反古』『吉備大臣聖廟旧跡録』『右大臣吉備公傳纂釈』下巻
  8. 新宮市HP熊野学、熊野の歴史/略年表(古代)
  9. 9.0 9.1 9.2 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』上巻 古代氏族研究会,1986年