藤原得子

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藤原 得子(ふじわら の なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日1160年12月22日))は、鳥羽天皇の譲位後の寵妃。近衛天皇の生母。女御皇后女院藤原北家末茂流(藤原魚名の後裔)の生まれ。父は権中納言藤原長実太政大臣)、母は左大臣源俊房の女、方子院号美福門院(びふくもんいん)。

生涯

永久5年(1117年)に生まれ、父の鍾愛を一身に受けて育った。長実は「ただ人にはえゆるさじ(並みの人には嫁がせる気になれない)」と語り(『今鏡』)、臨終の間際には「最愛の女子一人の事、片時も忘るゝなし」と落涙したという(『長秋記』長承2年8月13日条)。

父である長実は、祖母に当たる藤原親子(ちかこ)が白河上皇の乳母であったことから恩恵を蒙り、白河院政期には院の近臣として活躍した人物である。父の死後は二条万里小路亭で暮らしていたが、長承3年(1134年)に鳥羽上皇の寵愛を受けるようになり[1]保延元年(1135年)12月4日に叡子内親王を出産する。保延2年(1136年)4月、従三位に叙された。保延3年(1137年)、暲子内親王(八条院)を産んだ後、保延5年(1139年)5月18日、待望の皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産した。同年8月17日、鳥羽上皇は体仁親王を崇徳天皇の皇太子とする。体仁親王の立太子とともに得子は女御となり、正妃の璋子(待賢門院)を凌ぐ権勢を持つようになる。保延6年(1140年)には崇徳帝の第一皇子・重仁親王を養子に迎えた。

永治元年(1141年)12月7日、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳帝の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。近衛帝即位の同年、得子は国母であることから皇后に立てられる。皇后宮大夫には源雅定、権大夫には藤原成通が就任した。得子の周囲には従兄弟で鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成や、縁戚関係にある村上源氏中御門流の公卿が集結して政治勢力を形成することになる。直後の永治2年(1142年)正月19日、皇后得子呪詛事件が発覚したことで待賢門院は出家に追い込まれ[2]、得子の地位は磐石なものとなった。久安5年(1149年)8月3日、美福門院の院号を宣下された。

久安4年(1148年)に得子は従兄弟の藤原伊通の娘・呈子を養女に迎えた(『台記』7月6日条)。藤原頼長の養女・多子が近衛天皇に入内することを鳥羽法皇が承諾した直後であり、当初から多子に対抗して入内させる意図があったと見られる。久安6年(1150年)正月、近衛天皇が元服すると多子が入内して女御となるが、2月になると呈子も関白・藤原忠通の養女として入内することになり、藤原忠通は法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上した。忠通は弟・頼長を養子にしていたが、実子・基実が生まれたことで摂関の地位を自らの子孫に継承させることを望み、得子と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられる[3][4]。 3月14日に多子が皇后になると、4月21日に呈子も入内して、6月22日に立后、中宮となった。

得子は待賢門院と同じ閑院流の出身である多子よりも、自らの養女である呈子に親近感を示して早期出産を期待していた。仁平2年(1152年)10月の懐妊着帯は得子の沙汰で行われ、12月に呈子が御産所に退出すると等身御仏5体を造立して安産を祈願している(『兵範記』10月19日条、12月22日条)。しかし予定日の翌年3月を過ぎても呈子は出産せず、僧侶が連日の祈祷を行うも効果はなく、9月に懐妊は誤りであったことが判明して祈祷は止められた(『兵範記』7月30日条、『台記』9月14日条)。12月に呈子は御産所から内裏に還啓する(『兵範記』12月17日条)。周囲の期待に促された想像妊娠だったと思われる。皇子出産の期待を裏切られた得子は忠通と組んで、意に適う皇位継承者を求めて動き出すことになる。

久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が死去する。得子には養子として、崇徳上皇の第一皇子・重仁親王と雅仁親王(崇徳上皇の同母弟)の息童である孫王(守仁、後の二条天皇)がいた。このうち後者は既に仁和寺覚性法親王の元で出家することが決まっていたために、重仁親王が即位するものと思われた。しかし後継天皇を決める王者議定により、孫王が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。背景には崇徳上皇の院政によって自身が掣肘されることを危惧する得子、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、また崇徳院の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測される。8月4日に仁和寺から戻った孫王は、9月23日に親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子、12月9日に元服、翌年3月5日には得子の娘・姝子内親王を妃に迎えるなど、得子の全面的な支援を受けた[5]。 時を同じくして世間には近衛天皇の死は呪詛によるものという噂が流れ、呪詛したのは藤原忠実・頼長父子であると得子と藤原忠通が鳥羽法皇に讒言したため、頼長は内覧を停止されて事実上の失脚状態となった[6]

こうして皇位継承から排除され不満が募る崇徳上皇と、得子によって失脚させられた藤原忠実・頼長が結びつき、鳥羽法皇が死去した直後の保元元年(1156年)7月8日、保元の乱が勃発する。得子はすでに落飾していたが、この乱においては卓抜な戦略的手腕を見せ、重仁親王の乳母子ゆえに鳥羽法皇の遺命では名が挙げられなかった平清盛兄弟をも招致し、後白河天皇方の最終的な勝利へ導いた。

乱後は信西が国政を担ったが、得子はかねてからの念願であった自らの養子・守仁親王の即位を信西に要求し、保元3年(1158年)8月「仏と仏との評定」、すなわち信西と得子の協議により、守仁親王の即位を実現させた(二条天皇)。しかし二条天皇の即位は信西一門・二条親政派・後白河院政派の形成・対立を呼び起こし、平治の乱が勃発する原因となった。

得子は平治の乱の収束を見届けた後、永暦元年(1160年)11月23日、44歳にして白河の金剛勝院御所において死去。遺令により遺骨は高野山に納められた。この時、女人禁制である高野山ではその妥当性が問題になった。

人物

  • 近衛天皇陵の所在する安楽寿院(鳥羽院の発願)には、得子の画像が伝わっている。
  • 得子は鳥羽院の所領の多くを相続し、それは娘の八条院に引き継がれた。その所領八条院領は王家の財源として鎌倉時代を通じて政治・経済の両面で大きな影響力を持った。
  • 殺生石」伝説の主人公である白面金毛九尾の狐玉藻前」のモデルとも言われる。

皇子女

脚注

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参考文献

  • 橋本義彦 「美福門院藤原得子」『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館、1996年。


テンプレート:歴代皇后一覧
  1. 得子の母・方子は弟の源師時に「鍾愛の女子院の寵あり」と語っている(『長秋記』長承3年8月14日条)。
  2. 本朝世紀』同日条によると、待賢門院判官代・源盛行と待賢門院女房の津守嶋子夫妻が、広田社で国母皇后を呪詛し奉ったという密告があり、夫妻は土佐に配流となった。この事件は『台記』『百錬抄』の同日条にも記載があり、頼長は「一凶一吉眼前に在りとは、待賢門院の謂れか」という風評を記している。
  3. 藤原頼長の日記『台記』康治3年正月1日条には、兄・忠通が得子が「諸大夫の女」であることを理由として拝礼に出仕しなかったとして忠通の振る舞いを非難している(なお、頼長は同日に得子に拝礼している)。更に忠通の子である藤原兼実も日記『玉葉』建久6年正月1日条に、摂政である自分が七条院(藤原殖子:修理大夫藤原信隆の娘で後鳥羽天皇生母)に拝礼しなかった理由として、故殿(父・忠通)が美福門院に拝礼を行わなかった以来の習わしであるとしており、頼長の記述を裏付けている。更に兼実の別の記事では、待賢門院・美福門院・建春門院(平滋子)は摂関家と血縁が遠く、かつその出自が卑しいために摂関家にはこれらの女院に供奉する理由がなかった(文治3年7月26日条)と述べて、摂関家は国母・女院であっても「諸大夫の女」に奉仕する必要がないと述べている(山内益次郎『今鏡の周辺』和泉書院、1993年、P95-96)。
  4. 頼長は得子に対して一度も書状を送ったことがないと記すなど疎遠な関係だった(『台記』久安6年2月13日条)。忠通も前述の通り、正月の拝礼をしないなど当初は得子を軽んじる態度が見られたが、忠実・頼長との対立が激化するに伴い、義弟の伊通を通じて得子への傾斜を深めていくことになる。
  5. 保元物語』では、得子が鳥羽法皇に働きかけて雅仁親王即位に至ったと書かれている。『山槐記』永暦元年12月4日条にも藤原伊通の談話として、雅仁親王と守仁親王は得子の恩により即位したと記されている。一方、『玉葉』寿永2年8月14日条、『愚管抄』、『古事談』1-96は、雅仁即位を鳥羽法皇に進言したのは藤原忠通とする。『今鏡』では雅仁擁立を誰が主導したかについては言及がない。橋本義彦は、雅仁擁立を目指して鳥羽法皇を説得したのは、雅仁の乳母(藤原朝子)の夫で院近臣の中で主導的立場にあった信西ではないかと推測している(「保元の乱前史小考」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館、1976年)。
  6. 口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5、6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという(『台記』久寿2年8月27日条)。