藤原璋子

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藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、康和3年(1101年) - 久安元年8月22日1145年9月10日))は、平安後期の国母鳥羽天皇中宮で、崇徳後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。

系譜

閑院流藤原氏の出身。父は正二位行権大納言藤原公実、母は左中弁藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母・光子太政大臣実行三条家祖)は異母兄、権中納言通季西園寺家祖)、左大臣実能徳大寺家祖)、大炊御門経実室・公子二条天皇の外祖母)らは同母兄姉。

略歴

七歳にして父を失い、時の治天白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われた。長じて摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がったが、璋子の素行に噂があったため忠通の父・忠実は固辞し、白河院の不興を買った。

永久5年(1117年)12月13日、白河院を代父として、父方の従弟・鳥羽天皇に入内、4日後には女御の宣旨を蒙った。1ヶ月ばかり経った翌元永元年(1118年)正月26日、立后され中宮を号す。翌2年(1119年)5月28日、第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)を出産。その後、賀茂斎院禧子内親王や、通仁親王君仁親王を産むが、この両親王は生来障害児であった。統子内親王(上西門院)の年子として、大治2年(1127年)9月11日、第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)を出産し、2年後には末子・本仁親王(後の覚性法親王)も生まれた。保安4年(1123年)正月28日、白河院は5歳になった顕仁に践祚させ、璋子も翌天治元年(1124年)11月24日に院号を宣下されて待賢門院と称した。

このように璋子は鳥羽帝との間に五男二女を儲け、熊野詣にも同行しているが、それは白河院の在世中であればこそだったという。本仁親王の生まれた年、大治4年(1129年)7月7日、「幼主三代の政を執」った白河院が77歳で崩御し、これを機にして璋子の人生は暗転する。鳥羽上皇が治天を継承し廷臣を統率、後ろ盾を持たぬ幼帝・崇徳は孤立した。鳥羽院は白河院によって関白を罷免され逼塞していた藤原忠実を起用し、その娘の泰子(高陽院)を皇后に立てたばかりでなく、璋子に代わって側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛したのである。保延5年(1139年)8月17日、鳥羽院は得子が産んだ生後三ヶ月の第八皇子・体仁親王を立太子させ、2年後の永治元年(1141年)12月7日、崇徳帝に譲位を迫り、体仁を即位させた(近衛天皇)。

ところが、近衛天皇即位・得子の皇后冊立と相前後して得子を標的にしたと考えられる呪詛事件(日吉社呪詛事件・広田社巫呪詛事件)が相次いで発覚し、璋子が裏で糸を引いているという風説が流されるようになる。また、このころから崇徳院は白河院の胤だとする風説が囁かれるようになる(これは『古事談』のみに見られる記述であり、真偽は不明)。こうして権勢を失った璋子は、翌康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾。3年後、久安元年(1145年)8月22日、長兄・実行の三条高倉第にて崩御した。鳥羽院は三条高倉第に駆けつけて璋子を看取り、臨終の際は磬(けい、読経の時に打ち鳴らす仏具)を打ちながら大声で泣き叫んだという(『台記』同日条)。

没後10年目の久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が17歳で崩御し、図らずも璋子の生んだ四宮・雅仁親王が天皇に指名された(後白河天皇)。朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し保元の乱が勃発した。

備考

  • 京都市右京区花園扇野町に現存する法金剛院は、平安前期、右大臣清原夏野の山荘だったものを死後に双丘寺とし、天安2年(858年)、文徳天皇の勅願によって天安寺が建立されたが、その後は荒廃し、大治5年(1130年)になって璋子が復興したものである。璋子はここで晩年を過ごし、今も、法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵に眠る。絶代の美貌を謳われ、信仰心も深かった璋子を慕い、法金剛院を訪れる人々の中には、かの歌僧・西行もいたという。
  • 璋子に仕えて出家の供をした待賢門院堀河は、『百人一首』に歌を採られるなど、歌人として名高い。

関連書籍

  • 角田文衛『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄』朝日選書、1985年 ISBN 4022593814
  • 安永明子『待賢門院璋子-保元の乱前夜』日本図書刊行会、1999年 ISBN 4823104838
  • 渡辺淳一『天上紅蓮』文藝春秋、2011年 ISBN 4163805001


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