信西

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信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日1160年1月23日))は、平安時代末期の貴族学者僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下少納言

経歴

通憲(信西)の家系は曽祖父・藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父の藤原季綱大学頭であった。ところが、天永3年(1112年)に父・実兼が蔵人所で急死したため、7歳の通憲は縁戚であった高階経敏養子となる[1]

高階氏院近臣摂関家の家司として活動し、諸国の受領を歴任するなど経済的にも裕福だった。通憲は高階氏の庇護の下で学業に励み、父祖譲りの才幹を磨き上げていった。保安2年(1121年)頃には、高階重仲(養父・経敏とははとこの関係)の女を妻としている[2]。 通憲は鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成と同年代で親しい関係にあり、家成を介して平忠盛清盛父子とも交流があったとされる[3]

通憲の官位の初見は天治元年(1124年)の中宮少進中宮藤原璋子)であり(『永昌記』天治元年4月23日(1124年6月7日)条)、同年11月の璋子の院号宣下に伴い待賢門院蔵人に補された。璋子の子である崇徳天皇六位蔵人も務めたが、大治2年(1127年)に叙爵して、蔵人の任を解かれた。この年、2人目の妻である藤原朝子が、鳥羽上皇の第4皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母に選ばれている[4]

散位となった通憲は、長承2年(1133年)頃から鳥羽上皇の北面に伺候するようになり、当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に院殿上人、院判官代とその地位を上昇させていった。その後日向に任命されるとともに、『法曹類林』の編纂も行っている。

通憲の願いは曽祖父・祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士式部大輔)に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みでは、高階氏の戸籍に入ってしまった通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていた。また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は勧修寺流藤原氏が独占していた。

出家

これに失望した通憲は、無力感から出家を考えるようになった。通憲の遁世の噂を耳にした藤原頼長は通憲に「その才を以って顕官に居らず、すでに以って遁世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」と書状を送った(『台記』康治2年8月5日1143年9月15日)条)。数日後、通憲と頼長は対面して世の不条理を嘆き、通憲は「臣、運の拙きを以って一職を帯せず、すでに以って遁世せんとす。人、定めておもへらく、才の高きを以って、天、之を亡す。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、廃することなかれ」と告げ、頼長は「ただ敢えて命を忘れず」と涙を流した(『台記』康治2年8月11日(1143年9月21日)条)。

鳥羽上皇は出家を思い止まらせようと康治2年(1143年)に正五位下、翌天養元年(1144年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、更に息子・俊憲に文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年7月22日8月22日)に出家して信西と名乗った。

出家をしても信西は俗界から離れる気はなく、「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ(出家して墨染めの衣に着替えても、それは名ばかりのことで心まで染めるつもりはない)」(『月詣和歌集』)とその心境を歌に詠んでいる。鳥羽法皇の政治顧問だった葉室顕頼久安4年(1148年)に死去すると、顕頼の子が若年だったことからその地位を奪取することに成功し、『本朝世紀』編纂の下命を受けるなど、その信任を確固なものとしていった。

保元の乱

テンプレート:Main そのような中で久寿2年(1155年)に近衛天皇が崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれる。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁親王はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。

突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王を養育していた信西の策動があったと推測される[5]保元元年(1156年)7月、鳥羽法皇が崩御すると信西はその葬儀を取り仕切り、直後の保元の乱では対立勢力である崇徳上皇・藤原頼長を挙兵に追い込み、源義朝の夜襲の献策を積極採用して後白河天皇方に勝利をもたらした。

乱後、信西は薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑を復活させて、源為義らの武士を処断した。また、摂関家の弱体化と天皇親政を進め、保元新制を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行うなど、絶大な権力を振るう。また、大内裏の再建や相撲節会の復活なども信西の手腕によるところが大きかった。

この政策を行なう上で、信西は自分の息子たちを要職に就けた。そのことが旧来の院近臣や貴族の反感を買った。また、強引な政治の刷新は反発を招いた。一方、保元3年(1158年)8月には鳥羽法皇が本来の皇位継承者であるとした二条天皇が即位する。この皇位継承は「仏と仏との評定」、すなわち美福門院と信西の協議で行われた。この二条天皇の即位に伴い、信西も天皇の側近に自分の子を送り込むが、今度はそのことが天皇側近の反感を招き、院近臣、天皇側近双方に「反信西」の動きが生じるようになった。

平治の乱

テンプレート:Main やがて院政派の藤原信頼、親政派の大炊御門経宗葉室惟方らは政治路線の違いを抱えながらも、信西打倒に向けて動き出すことになる[6]。信頼は源義朝を配下に治め、二条天皇に近い源光保も味方につけ、軍事的な力を有するようになっていく。その中にあって最大の軍事貴族である平清盛は信西、信頼双方と婚姻関係を結んで中立的立場にあり、親政派、院政派とも距離を置いていた。

平治元年(1159年)12月、清盛が熊野詣に出かけ都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は院御所の三条殿を襲撃する[7]

信西は事前に危機を察知して山城国の田原に避難していたが、三条殿襲撃の知らせを聞くと追手からの逃亡を諦め、藤原師光らの郎党に命じて自らを地中に埋めさせて自害した。行方を捜索していた光保は死体を地中から掘り起こし、首を切って京に戻った。なお、この信西の死については、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、追手に発見され掘り返された際に自ら首を突いて自害したという説もあり、『平治物語』諸本の中には、掘り起こした時には目が動き息もしていたと記すものもある。『平治物語絵巻』の信西巻によると、首は西の獄門の棟木にさらされた。また、信西の息子たちも信頼の命令によって配流されることになった[8]

学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られた。『今鏡』でもその才能を絶賛する一方で、陰陽道の家の出でもないのに天文に通じたがために災いを受けたのだと評されている。

系譜

主な著作

脚注

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関連項目

  • 尊卑分脈』の通憲傍注に「長門守高階経敏、子と為して姓を改む。他家に入るに依りて儒業を遂げず、儒官を経ず」とある。
  • 長男の俊憲は仁安2年(1167年)に46歳で死去しているので(『山槐記』仁安2年4月10日(1167年4月30日)条)、保安3年(1122年)生まれである。
  • 角田文衛『平安の春』講談社学術文庫、平成11年(1999年)。
  • この両者の婚姻の時期は特定されていない。
  • ただし、山田邦和は当時(後白河即位以前)の信西には皇位を動かすだけの政治力は無かったとして、雅仁親王擁立は関白藤原忠通の策動とする(山田邦和「保元の乱の関白忠通」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』所収 思文閣出版、2009年)。
  • 『平治物語』によると、後白河から信頼の大将就任を諮問された信西は先例を挙げて諫止するとともに、玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇を題材とした『長恨歌』の絵巻を作成し、信頼を寵臣でありながら反乱を起こした安禄山になぞらえて、その危険性を悟らせようとした。この絵巻は『玉葉建久2年11月5日1191年11月23日)条に記されており、実在が確認できる。絵巻を見た九条兼実は「この図、君の心を悟らせんがため、かねて信頼の乱を察して画き彰はす所なり。当時の規模、後代の美談なる者なり。末代の才子、誰か信西に比せんや。褒むべく、感ずべきのみ」と最大級の賛辞を呈している。
  • ただし、河内祥輔は信西襲撃の際、信西一族以外の院近臣のほとんどが信頼方についていることや信西一族への処分が信頼処刑後もすぐに解除されなかったことから、後白河上皇が「仏と仏との評定」に基づいて二条天皇親政への移行を進める信西を排除するために信頼らに信西を討たせたと解する(河内祥輔『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館、2002年)P110-136)。
  • 信西の息子達は流刑の宣告を受けた。流刑地への護送は、二条親政派と手を結んだ平清盛によって信頼ら後白河院政派が一掃された後に行われた。その後、二条親政派の経宗と惟方が失脚すると、帰京を許されている。
  • テンプレート:Cite web朝日日本歴史人物事典の解説より。