藤原頼長
藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。兄の関白・藤原忠通と対立し、父・藤原忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色はじめ当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。
生涯
摂関家の才子
幼名は菖蒲若(あやわか)。大治5年(1130年)、藤原敦光が持参した複数の名字の中から中御門宗忠が「御堂(道長)宇治殿(頼通)御名字なり」という理由で選び、「頼長」と命名された(『中右記』正月3日条)。元服して正五位下に叙せられ侍従・近衛少将・伊予権守に任官。同年、右近衛権中将。天承元年(1131年)に従三位。翌年参議を経ずに権中納言に昇進。長承2年(1133年)には8歳年上の徳大寺実能の娘・幸子を娶った。長承3年(1134年)、権大納言となる。また、姉の泰子(高陽院)が鳥羽上皇の皇后に冊立されると皇后宮大夫を兼ねる。保延2年(1136年)には内大臣、右近衛大将を兼ねる。保延5年(1139年)、東宮傅となり左近衛大将を兼任する。久安5年(1149年)、左大臣に進む。
多子・呈子の入内競争
白河上皇の院政下で逼塞していた摂関家は、鳥羽院政が開始されると頼長の異母姉・泰子が鳥羽上皇の皇后となり息を吹き返した。忠通は後継者に恵まれなかったため、天治2年(1125年)に頼長を養子に迎えた[1]。しかし康治2年(1143年)に実子・基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになる。
久安6年(1150年)正月4日、近衛天皇は元服の式を挙げ、同月10日に頼長の養女・多子が入内、19日に女御となる。しかし2月になると忠通は藤原伊通の娘・呈子を養女に迎え、鳥羽法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上する(『台記』2月12日条)。呈子は美福門院の養女であり、忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられる[2]。鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不可能となった。
9月26日、立腹した忠実は摂関家の正邸・東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶した。さらに翌仁平元年(1151年)正月3日、忠実は忠通に譲渡していた藤原師実・藤原師通の日記正本を没収し、これも頼長に与えた(『台記』久安7年正月3日条)。また忠通の同母姉・泰子(高陽院)までもが異母弟・頼長の後ろ盾となり、所有する摂関家の拠点のひとつ土御門殿を頼長に譲った。しかし鳥羽法皇は先の入内問題と同じように曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留めたまま頼長に内覧の宣旨を下す。ここに兄弟で関白と内覧が並立するという異常事態となった。
忠通の息子慈円の著作『愚管抄』の記すところによると、かつて忠通に息子として育てられた恩を忘れられない頼長は、宮中で忠通に出会った際に丁重に会釈する等礼を尽くすことで関係改善の糸口を探ったが、頑なな態度の父と兄の前に(周囲の同情は集めたものの)失敗に終わっている。
執政と孤立
執政の座についた頼長は意欲に燃え、学術の再興[3]、弛緩した政治の刷新を目指した。その信条は聖徳太子の十七条憲法により天下を撥乱反正[4]することにあった(『台記』康治2年10月22日条)。勢力を強めていた奥州藤原氏の藤原基衡にも、自身の荘園の年貢増徴を要求して、仁平3年(1153年)に妥結した。しかし律令や儒教の論理を重視して、実際の慣例を無視する頼長の政治は周囲の理解を得られず、院近臣である中・下級貴族の反発を招き孤立していった。また、近衛天皇も頼長をあからさまに嫌うようになった[5]。
その後、頼長は周囲と衝突を繰り返す問題児の態をなす。即ち、仁平元年(1151年)9月、家人に命じて鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊するという事件、仁平2年(1152年)仁和寺境内に検非違使を送り込み僧侶と騒擾、仁平3年(1153年)5月、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を強引に追捕しようとしての流血事件、同年6月に上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縄する騒ぎ、などである。これらの一連の出来事は、頼長自身の綱紀粛正の意味もあったが、かえって、寺社勢力とも対立を深め、仁平4年(1154年)4月、延暦寺の僧たちによる満山呪詛を生じせしめた[6]。こうして、頼長は対立勢力を勢いづけ、ひいては徐々に法皇からの信頼を失っていくことになる。
久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が崩御した。後継天皇を決める王者議定に参加したのは久我雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子・守仁王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁王はまだ年少であり、存命する父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王の乳母の夫である信西の策動があったと推測される。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、内覧を停止されて事実上の失脚状態となっていた。口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという(『台記』久寿2年8月27日条)[7]。忠実は頼長を謹慎させ連絡役である高陽院を通じて法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が薨去したことでその望みを絶たれた。
保元の乱
テンプレート:Main 保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が崩御すると事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、京中の武士の動きを停止する措置が取られ(『兵範記』7月5日条)、法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。氏長者が謀反人とされるのは前代未聞で、摂関家の家司・平信範はその日記『兵範記』に「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆の念を記している(『兵範記』7月8日条)。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
謀反人の烙印を押された頼長は挙兵の正当性を得るため、崇徳上皇を担ぐことを決意する。上皇方の拠点となった白河北殿には貴族では上皇の側近・藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為義・平忠正などが集結するが、その戦力は摂関家の私兵集団に限定され、甚だ弱小で劣勢は明白だった。軍議で源為朝は高松殿への夜襲を献策したが、頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。
天皇方は「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員し、11日未明白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、戦いは数に勝る天皇方の勝利に終わった。上皇方が総崩れとなる中、頼長は家司の藤原成隆に抱えられ騎馬で御所から脱出するが、源重貞の放った矢が頸部に刺さり重傷を負った。出血による衰弱に苦しみながら、12日嵐山方面、13日には舟で大井川(現桂川)を渡り巨椋池を経て木津へと逃亡を続ける。最後の望みとして奈良に逃れていた忠実に対面を望むが、これを拒まれ、14日失意のうちに死亡した。享年37[8][9]。遺骸は奈良の般若野に埋葬されたが、信西の命によって暴かれ、検視されるという恥辱を受ける羽目となる[10]。
頼長の死後、長男の師長・次男の兼長・三男の隆長・四男の範長はみな配流となり、師長を除く3名はそれぞれの配所にて死去した[11]。唯一生き残って都に戻ることが出来た師長は、後に太政大臣にまで昇進するものの、今度は平清盛によって再び配流される波乱の生涯を送っている。
保元の乱が終結してしばらくの間は、頼長は罪人として扱われた。頼長を罪人とする朝廷の認識は、頼長の子の師長が帰京を許され後白河院の側近になっても変わることはなかった。しかし21年を経た安元3年(1177年)、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった天地驚愕の大事件が都で連発するに及んで、朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。同年8月3日、怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の当初の追号「讃岐院」を「崇徳院」に改め、頼長には正一位・太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。
人物
少年の頃は忠実の命に従わず馬にまたがって山野を駆け巡ったが、落馬して一命を失うほどの目に遭い、心を入れ替えて学問に励むようになったという(『台記』康治元年12月30日条)。膨大な和漢の書を読んだ。甥にあたる慈円は『愚管抄』で「日本一の大学生[12](だいがくしょう)、和漢の才(ざえ)に富む」とその学識の高さを賞賛している。康治元年(1142年)10月の大嘗祭のときは、御禊の調査を徹夜で行い、終了後は10日間かけて膨大な式典の記録を書き残しており、事務的な能力にも優れていた。儒学を好み、誰しもが認める博識[13]だったが、意外にも文学を不得手としており、「和歌の道に堪えず」と公言して漢詩も得意ではなかったという。
頼長の苛烈で他人に厳しい性格は、「腹黒く、よろずにきわどき人」とも評され、「悪左府」の異名で有名だが、この「悪」も現代でいう「悪い」という意味ではなく、むしろ性質・能力・行動などが他に抜きん出て優れているのを畏怖した表現である。[14]。ただし私的報復の記録も多く、太政官の官人を殺害した犯人が恩赦で釈放されたことを怒り、秦公春に命じてこれを暗殺させ「天に代わって之を誅するなり」と自らの日記に明記することもあるほどだった(『台記』久安元年12月17日条)。
私生活では男色を好んだことがその日記『台記』に記された数多くの出来事から窺える。東野治之や五味文彦の研究でその詳細が明らかにされ、男色相手としては随身の秦公春・秦兼任のほか、公家では藤原忠雅・藤原為通・藤原公能・藤原隆季・藤原家明・藤原成親・源成雅の名が特定されている。五味はこのうち4名までが院近臣として権勢を誇った藤原家成の親族であることを指摘している。
官歴
※日付=旧暦
- 保安元年(1120年)5月:誕生
- 大治5年(1130年)
- 大治6年(1131年)
- 長承元年(1132年)
- 長承2年(1133年)正月2日:従二位
- 長承3年(1134年)
- 長承4年(1135年)2月8日:右近衛大将を兼任
- 保延2年(1136年)
- 12月9日:内大臣
- 12月13日:右近衛大将如元
- 保延5年(1139年)
- 8月17日:東宮傅を兼任(皇太子・体仁親王)
- 12月16日:左近衛大将を兼任
- 保延6年(1140年)(21歳)
- 2月22日:左近衛大将を辞任
- 永治元年(1141年)12月7日:東宮傅を辞任(近衛天皇即位)
- 久安3年(1147年)3月29日:橘氏是定を兼帯
- 久安4年(1148年)
- 12月14日:養母の死により服解
- 12月28日:復任
- 久安5年(1149年)7月28日:左大臣。従一位
- 久安6年(1150年)9月26日::藤氏長者を兼帯
- 久安7年(1151年)
- 正月16日:内覧宣下
- 正月24日:随身兵仗を賜る
- 仁平3年(1153年)4月11日:兵仗の辞退を上表
- 久寿元年(1154年)12月25日:随身兵仗を元の如く賜る
- 久寿2年(1155年)
- 4月27日:左大臣・内覧・兵仗の辞退を上表
- 5月2日:兵仗の辞退を上表
- 5月10日:左大臣の辞退を上表
- 7月24日:内覧停止
- 久寿3年(1156年)
- 2月2日:左大臣留任の宣旨
- 改元して保元元年7月10日:宇治より新院御所(白河北殿)に参る
- 7月11日:合戦で流矢が頸にあたる
- 7月14日:逃亡先の奈良坂で死亡
- 治承元年(1177年)8月3日:正一位・太政大臣を追贈
系譜
補注
参考文献
主題にした作品
- 「流矢」、「秋の日影」 - 田山花袋 (『定本花袋全集 27巻』収録、臨川書店)
- 歴史秘話ヒストリア - 2011年放映の第63回で「“悪の華”は平安京の夜に開く〜キケンな貴公子、藤原頼長〜」として取り上げられ、歌舞伎の女形・市川春猿が演じた[1]。
登場する作品
- ↑ 「大殿の若君、摂政殿の御子と成し給う」(『中右記目録』天治2年4月13日条)。保延2年(1136年)の内大臣任命の宣命でも、忠通の「長男」として遇されている(『台記』12月9日条)。
- ↑ 『台記』2月11日条には「大相国張本と為す。或いは曰く、美福門院張本と為す。法皇またこれを許し、詐って大相をもって張本と為す」とある。
- ↑ 頼長は儒教教育の場として大学寮の再興に務めたが、その一方で大学寮の築垣を修造した藤原憲孝を成功によって文章生に合格させたり(『台記』仁平4年6月20日条)、自らが推挙する菅原登宣のために給料生の試験を行い、菅原登宣と藤原光範の2名だけが合格したのを受けて落第者には今後の望みを絶つよう書状を送ったりして(『本朝世紀』6月3日条・『宇槐記抄』仁平3年6月8日・21日条)、学界への勢力拡大も図っている。
- ↑ 世の乱れを治め、正しい世の中に戻すという意味で、出典は『春秋公羊伝』哀公14年である。
- ↑ 仁平2年(1152年)、近衛天皇の方違行幸において、輿から降りる天皇の裾を頼長が取ろうとしたところ、天皇は拒絶して自ら裾を取って降りた。頼長はこの天皇の態度を「自分を憎んでいるためであり、関白の讒言によるのだろう」と記している(『宇槐記抄』10月1日条)。
- ↑ 元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』NHKブックス1017p・48~49
- ↑ これは忠通と美福門院の仕組んだ讒訴の可能性が高い。そもそも5〜6年前に何者かが像の目に釘を打つという異常な行為を目撃しておきながら、それをこの時まで誰にも報告しないでいたのはいかにも不自然である。
- ↑ 頼長の負傷については、主要な武将に戦死者がいないことから不慮の突発事とする説(河内祥輔)、新手の軍勢が投入され放火戦術まで採られていることから激しい戦闘を裏付けるものとする説(元木泰雄)がある。
- ↑ 興福寺の僧・玄顕による朝廷への申告では、母方の叔父で興福寺にいた千覚の房に担ぎ込まれ死去したという。
- ↑ 元木泰雄 前掲書p・121
- ↑ 一般には兼長が長男、師長が次男とみなされているが、実際には師長の方が3か月早く誕生し、また頼長も師長・兼長・隆長を競わせて後継者を定める意向を示していることから、大手前大学非常勤講師で古代史が専門の樋口健太郎は、出生順に師長を長男とするのが正しいと説いている(樋口健太郎「藤原師長論」(『中世摂関家の家と権力』(校倉書房、2011年)所収、原論文は2005年)。
- ↑ ここで言う「学生」は、現代における学生とは異なり、学者という意味である。
- ↑ 白河・鳥羽両院の近臣で博学多才を謳われた信西も「閣下(頼長)の才、千古に恥ぢず。漢朝に訪ぬるにまた比類少なし。既にして我が朝中古の先達を超ゆ」(『台記』天養2年6月7日条)と激賞している。
- ↑ 「悪僧」「悪党」の項も参照されたい。