藤原宗忠
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藤原 宗忠(ふじわら の むねただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣。別名、中御門宗忠。
日記『中右記』を残した。名称の由来は中御門右大臣の日記から。 音楽の才があり、管弦や笙をよくした。また催馬楽にも秀でた。音律に関する著書『韻花集』『白律韻』があったとされるが現存しない。和歌は『続古今和歌集』『玉葉和歌集』に入集。
史的立場
摂関政治から院政への過渡期の公卿として、その時代の動きや自身の身辺での出来事、また、重要な人物との接触や、その活動についての自身の意見や評価を日記として残し、その時代をつかむ上で重要な史料を後世に提供した重要人物である。
源義家の活動やその評価などは当時の人々の感想として貴重。特に、摂関家の内紛や院政に対する批判や批評を行い、源氏の内紛、平家の台頭に関しても貴重な史料を残している人物で、その日記、『中右記』は平安時代後期の趨勢を知る上で貴重な史料。
官歴等
- 康平5年(1062年)誕生
- 承保元年(1074年)11月23日:従五位下[1]
- 承暦2年(1078年)1月20日:侍従
- 承暦5年(1081年)1月12日:昇殿
- 永保2年(1082年)1月5日:従五位上
- 永保3年(1083年)2月21日:右近衛少将
- 応徳3年(1086年)1月5日:正五位下
- 応徳4年(1087年)1月:兼美作介。8月:左近衛少将
- 寛治2年(1088年)1月5日:従四位下、侍従
- 寛治4年(1090年)1月5日:従四位上
- 寛治6年(1092年)1月5日:正四位下。1月:兼讃岐介
- 寛治8年(1094年)6月13日:右中弁
- 嘉保3年(1096年)4月21日:修理左宮城使
- 永長2年(1097年)4月29日:兼内蔵頭
- 承徳2年(1098年)1月27日:左中弁に任官。12月17日:右大弁兼蔵人頭任官、修理左宮城使を辞任
- 康和元年(1099年)12月14日:兼参議に任官。内蔵頭、蔵人頭を辞任
- 康和2年(1100年)1月28日:備前権守を兼職。5月21日:従三位
- 康和4年(1102年)1月5日:正三位
- 康和6年(1104年)1月28日:兼備前権守から兼伊予権守に転任
- 嘉承元年(1106年)12月27日:権中納言に任官。右大弁を辞任。
- 嘉承2年(1107年)1月26日:従二位
- 天仁2年(1109年)9月6日:正二位
- 保安3年(1122年)12月17日権大納言
- 天承元年(1131年)12月22日:内大臣
- 保延2年(1136年)12月9日:右大臣
- 保延4年(1138年)1月5日:従一位
- 永治元年(1141年)死去。享年79
系譜
脚注
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