ミハイル・ゴルバチョフ
ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ Михаил Сергеевич Горбачёв ノーベル賞受賞者 | |||||
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任期 | 1985年3月11日 – 1991年12月25日 | ||||
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任期 | 1990年3月15日 – 1991年12月25日 | ||||
副大統領 | ゲンナジー・ヤナーエフ | ||||
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任期 | 1989年5月25日 – 1990年3月15日 | ||||
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任期 | 1988年10月1日 – 1989年5月25日 | ||||
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任期 | 1985年3月11日 – 1991年8月24日 | ||||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 テンプレート:SSR1923・ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、スタヴロポリ地方、プリヴォリノエ村 | ||||
政党 | ソビエト連邦共産党 (1950年 - 1991年) ロシア社会民主党 (2001年 - 2004年) 社会民主同盟 (2007年 - ) ロシア独立民主党(2008年9月 - ) |
配偶者 | ライサ・ゴルバチョワ (旧姓チタレンコ) |
署名 | 128px |
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ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(テンプレート:Lang-ru(ミハイール・スィルギェーイェヴィチュ・ガルバチョーフ), ラテン文字表記:Mikhail Sergeevich Gorbachev, 1931年3月2日 - )は、ソビエト連邦の政治家で、8代目にして、同国最後の最高指導者。
1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任し、ソ連国内では東欧の社会主義諸国民主化の契機となったペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)などの大改革を断行し、政治・経済・文化など多岐にわたる分野で合理化・民主化を推し進めた。しかし、ソ連国内の噴出する民族主義を抑えることができず、保守派と改革派に国内の政治勢力が分立するなか、1991年の「ソ連8月クーデター」を招来、新連邦条約締結に失敗した。結果として、ソ連共産党の一党独裁体制とソ連邦そのものを終結・崩壊へと導くこととなった。
外交面ではそれまで40年以上続いていた冷戦を、マルタ会談にて、就任して僅か5年目で終結させて軍縮を進めるなど、世界平和に多大に貢献した。1990年、ソ連で最初で最後となる大統領に就任し、同年にはノーベル平和賞を受賞した。日本を含む西側諸国では絶大な人気を誇り、ゴルビーの愛称で親しまれたものの、ロシア国内ではアメリカと並ぶ二強国であったソ連を崩壊させたことから評価が分かれている。
目次
来歴・人物
生い立ち
1931年3月2日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のスタヴロポリ地方プリヴォリノエ村にて、コルホーズ(農業集団化政策)の農民の子として生まれる。幼年時代、ヨシフ・スターリンの大粛清に遭遇する。このとき、祖父アンドレイがサボタージュの嫌疑で投獄された。父セルゲイ・アンドレーヴィチ・ゴルバチョフは、農業技術者で第二次世界大戦に従軍した。1944年の夏の終わりに父が戦死したとの通知がもたらされたことで一家は悲嘆にくれたが、三日後に本人から「無事息災」と手紙が届いた。1941年に独ソ戦が始まると、スタヴロポリ地方はナチス・ドイツ軍の占領を経験している。
戦後、14歳でコンバインの運転手として働く(夏のみ働いたというのが有力)一方、成績は優秀で上級学校で銀メダルを授与された。18歳で労働記章を授与される機会に恵まれ、1950年、19歳のときにスタヴロポリ市当局の推薦でモスクワ大学法学部に入学した。同大学にて、のちの妻となる哲学科の学生ライサ・マクシーモヴナ・チタレンコと出会う。5年間の大学生活中、ゴルバチョフはストロミンカ学生宿舎で生活するが、その間にチェコスロバキアから留学していたズデネク・ムリナーシと出会う。ムリナーシは、のちの「プラハの春」の推進者の一人となり、その後のゴルバチョフに大きな影響を与えた。ゴルバチョフとライサは1953年9月に結婚し、大学卒業と同時にスタヴロポリに移住する。1957年に娘のイリーナ(ru:Вирганская, Ирина Михайловна)を儲けている。大学卒業後、ゴルバチョフはソ連検察庁の国家試験を受験する。いったんは内定を受けたが結局不採用となり、故郷のスタヴロポリに戻って地元のコムソモール活動に従事する。
権力の掌握
1955年にスタヴロポリ市コムソモール第一書記、1962年にスタヴロポリ地方コムソモール第一書記、1966年にスタヴロポリ市党第一書記、1968年にスタヴロポリ地方党第二書記を経て、1970年にスタヴロポリ地方党第一書記に就任し、1971年には40歳の若さで党中央委員に選出される。この間、スタヴロポリ農業大学の通信課程で学び、1967年に科学的農業経済学者の資格を得ている。ゴルバチョフがスタヴロポリ地方の党官僚として階梯を登り始めた時期は、ニキータ・フルシチョフの非スターリン化が実施された時期であり、ゴルバチョフにも影響を与えたとされる。この間、スタヴロポリ地方第一書記経験者のミハイル・スースロフや、同郷のユーリ・アンドロポフの知遇を得たほか、同格の地方共産党の指導者であったボリス・エリツィンやエドゥアルド・シェワルナゼらと交流を持つに至る。
1978年、急死したフョードル・クラコフの後任として農業担当書記になる。1979年、政治局入りして政治局員候補となり、1980年、最年少の政治局員となる。レオニード・ブレジネフの死後、アンドロポフが書記長に就任すると、ゴルバチョフは、No.2に当たるイデオロギー担当書記に引き立てられた。アンドロポフの死後に書記長となったコンスタンティン・チェルネンコは病弱であったため、ゴルバチョフは「第二書記」としてチェルネンコを補佐し、次第に改革派としてその名が知られるようになる。
1983年、カナダを訪問し、首相(当時)のピエール・トルドーと会談。この時に駐カナダ大使で、のちにゴルバチョフ政権のNo.2としてペレストロイカを牽引するアレクサンドル・ヤコブレフと面識を持つ。さらにイギリスを訪問し、首相(当時)のマーガレット・サッチャーから「彼となら一緒に仕事ができます」と高い評価を受ける。
書記長就任
1985年3月、チェルネンコの死去を受けて、ソ連共産党書記長に就任する。高齢の指導者が続いたあとでもあり、若い指導者への期待の大きさはプラウダ紙でのゴルバチョフの写真が死去したチェルネンコより大きかったことにも表れていた。ゴルバチョフの有力なライバルとしては、レニングラード党第一書記のグリゴリー・ロマノフがいた。しかし、ロマノフは代わりにモスクワ党第一書記のヴィクトル・グリシンを推薦するが、外務大臣のアンドレイ・グロムイコらの推薦を得たゴルバチョフが勝利した。推薦演説をしたグロムイコは「諸君、この人物は笑顔はすばらしいが、鉄の歯を持っている」と語った。
ゴルバチョフは書記長就任後、「鉄の歯」にふさわしい人事刷新を矢継ぎ早に行う。自身の後任の「第二書記」にはエゴール・リガチョフを当て、政治局員兼イデオロギー担当書記に加え、「第二書記」に必須の最高会議連邦会議外交委員長に選出した。対抗していたグリシンとロマノフ、老齢の首相ニコライ・チーホノフを解任し、共産党中央委員会書記のニコライ・ルイシコフ(経済担当)を当てた。グロムイコを最高会議幹部会議長(国家元首)にし、新たな外相には、グルジア党第一書記だったエドゥアルド・シェワルナゼを抜擢して内外を驚かせた。
その他経済閣僚では、ゴスプラン(国家計画委員会)議長ニコライ・バイバコフを解任。後任にニコライ・タルイジンを任命した。軍部や地方の共産党幹部も大幅に入れ替えられ、若返った。
書記長就任当時のソ連指導部(1985年4月23日)
氏名 | 役職・担当 | 民族 | |
政治局員: | ミハイル・ゴルバチョフ | 書記長 | ロシア |
ゲイダル・アリエフ | 第一副首相 | アゼルバイジャン | |
ヴィタリー・ウォロトニコフ | ロシア共和国閣僚会議議長(首相) | ロシア | |
ヴィクトル・グリシン | モスクワ市党第一書記 | ロシア | |
アンドレイ・グロムイコ | 外相・第一副首相 | 白ロシア | |
ディンムハメッド・クナーエフ | カザフ党第一書記 | カザフ | |
エゴール・リガチョフ | 党書記・中央委党組織・党活動部長 | ロシア | |
グリゴリー・ロマノフ | 党書記 | ロシア | |
ニコライ・ルイシコフ | 党書記・中央委経済部長 | ロシア | |
ミハイル・ソロメンツェフ | 党統制委員会議長 | ロシア | |
ニコライ・チーホノフ | ソ連閣僚会議議長(首相) | ロシア | |
ヴィクトル・チェブリコフ | ソ連国家保安委員会(KGB)議長 | ロシア | |
ウラジーミル・シチェルビツキー | ウクライナ党第一書記 | ウクライナ | |
政治局員候補: | ピョートル・デミチェフ | 文化相 | ロシア |
ウラジーミル・ドルギフ | 党書記 | ロシア | |
ワシリー・クズネツォフ | 最高会議幹部会第一副議長 | ロシア | |
ボリス・ポノマリョフ | 党書記・中央委国際部長 | ロシア | |
セルゲイ・ソコロフ | 国防相 | ロシア | |
エドワルド・シェワルナゼ | グルジア党第一書記 | グルジア | |
書記: | ミハイル・ゴルバチョフ | 書記長 | ロシア |
グリゴリー・ロマノフ | 軍需産業担当 | ロシア | |
ウラジーミル・ドルギフ | 重工業担当 | ロシア | |
ボリス・ポノマリョフ | 国際共産主義運動担当・中央委国際部長 | ロシア | |
ニコライ・ルイシコフ | 中央委経済部長 | ロシア | |
エゴール・リガチョフ | 中央委党組織・党活動部長 | ロシア | |
ミハイル・ジミャーニン | 文化・教育・マスコミ担当 | ロシア | |
イワン・カピトノフ | 軽工業担当 | ロシア | |
コンスタンチン・ルサコフ | 中央委社会主義国党連絡部長 | ロシア | |
ヴィクトル・ニコノフ | 農業担当 | ロシア |
就任1周年時のソ連指導部(1986年3月6日)
氏名 | 役職・担当 | 民族 | |
政治局員: | ミハイル・ゴルバチョフ | 書記長 | ロシア |
ゲイダル・アリエフ | 第一副首相 | アゼルバイジャン | |
ヴィタリー・ウォロトニコフ | ロシア共和国閣僚会議議長(首相) | ロシア | |
アンドレイ・グロムイコ | 最高会議幹部会議長 | 白ロシア | |
レフ・ザイコフ | 党書記 | ロシア | |
ディンムハメッド・クナーエフ | カザフ党第一書記 | カザフ | |
エゴール・リガチョフ | 党書記・最高会議連邦会議外交委員長 | ロシア | |
ニコライ・ルイシコフ | ソ連閣僚会議議長(首相) | ロシア | |
ミハイル・ソロメンツェフ | 党統制委員会議長 | ロシア | |
ヴィクトル・チェブリコフ | ソ連国家保安委員会(KGB)議長 | ロシア | |
エドゥアルド・シェワルナゼ | 外相 | グルジア | |
ウラジーミル・シチェルビツキー | ウクライナ党第一書記 | ウクライナ | |
政治局員候補: | ピョートル・デミチェフ | 文化相 | ロシア |
ウラジーミル・ドルギフ | 党書記 | ロシア | |
ボリス・エリツィン | モスクワ市党第一書記 | ロシア | |
ニコライ・スリュニコフ | 白ロシア党第一書記 | 白ロシア | |
セルゲイ・ソコロフ | 国防相 | ロシア | |
ユーリ・ソロヴィヨフ | レニングラード党第一書記 | ロシア | |
ニコライ・タルイジン | 国家計画委員会議長 | ロシア | |
書記: | ミハイル・ゴルバチョフ | 書記長 | ロシア |
エゴール・リガチョフ | イデオロギー・人事担当、最高会議連邦会議外交委員長 | ロシア | |
レフ・ザイコフ | 重工業・軍事工業担当 | ロシア | |
ウラジーミル・ドルギフ | 燃料・エネルギー担当 | ロシア | |
アレクサンドラ・ビリュコワ | 軽工業・消費生活担当 | ロシア | |
アナトリー・ドブルイニン | 国際共産主義運動担当・中央委国際部長 | ロシア | |
ミハイル・ジミャーニン | 文化担当 | ロシア | |
ヴァジム・メドヴェージェフ | 中央委社会主義諸国党連絡部長 | ロシア | |
ヴィクトル・ニコノフ | 農業担当 | ロシア | |
ゲオルギー・ラズモフスキー | 中央委組織・党活動部長 | ロシア | |
アレクサンドル・ヤコブレフ | 中央委宣伝部長 | ロシア |
ペレストロイカ
本人の南ロシアなまり(アクセントの位置が微妙に違う)に加え、「Процесс пошел(プロツェース・パショール,プロセスは始まった=改革が始まった)」という言葉を多用、正規的なロシア語表現ならば「Процесс начался(プロツェース・ナチャルシャー)」の方がしっくりくるのだが、多少の違和感を覚えるこの語感にはむしろモスクワの間で流行。次第に行き詰まる改革に合わせるかのように「自分の思い通りとは違う方向へ物事が進んでいる状態」の意味を含んで使われるようにもなった。
書記長就任から8か月後の1985年11月、スイス・ジュネーヴにて、アメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガン(当時)と米ソ首脳会談を行う。この会談で核軍縮交渉の加速、相互訪問などを骨子とする共同声明を発表した。1986年4月、ゴルバチョフはロシア語で「建て直し」「再建」を意味するペレストロイカを提唱し、本格的なソビエト体制の改革に着手する。4月に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故を契機に、情報公開(グラスノスチ)を推進する。当初レーガンや西側の保守派は、ゴルバチョフの意図はアンドロポフが指向したような従来の社会主義の修正、あるいは社会的規律の引き締めに過ぎず、西側に対する軍事的脅威はかえって増大されると危惧する警戒・懐疑論を持っていたが、ペレストロイカの進展とともに打ち消される事になった。
経済改革では、社会主義による計画経済・統制経済に対して、個人営業や協同組合(コーポラティヴ)の公認化を端緒として、急進的な経済改革を志向するようになり、1987年8月に国営企業法を制定した。ペレストロイカは、次第に単なる経済体制の改革・立て直しに留まらず、ソ連の硬直化した体制・制度全体の抜本的改革・革命へ移行し、それに伴い、政治改革、ソ連の歴史の見直しへと進行していった。その中で、自らが電話でその解放を伝えたアンドレイ・サハロフをはじめとするソ連国内の反体制派(異論派)が政治的自由を獲得し、スターリン時代の大粛清の犠牲者に対する名誉回復が進められた。ゴルバチョフは自身をソ連崩壊のその日まで「共産主義者」と規定していたが、「多元主義(プルーラリズム)」「新思考」「欧州共通の家」といった新たな価値によって国内政治及び外交政策において大胆な転換を実行していった。
1986年7月、ゴルバチョフはウラジオストク演説でアフガニスタン撤退と中ソ関係改善を表明した。10月にはアイスランド・レイキャヴィークにおいて米ソ首脳会談が行われた。アメリカ大統領のレーガンが掲げていた戦略防衛構想(SDI)が障壁となって署名はなされなかったが、戦略核兵力の5割削減、中距離核戦力(Intermediate-range Nuclear Forces、INF)の全廃について基本的な合意は成立していた。このことが、1987年12月に成立する中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)につながっていく。
1988年9月、ゴルバチョフは最高会議幹部会議長に就任して国家元首となる。12月、最高会議を改組し、人民代議員大会を設置。この頃より守旧派に接近を余儀なくされる。求心力の低下したゴルバチョフは1990年3月、複数政党制と強力な大統領制を導入した。3月15日、人民代議員大会においてゴルバチョフは大統領に選出されたが、国民からの直接選挙ではなく、人民代議員大会で選出されたことは、ゴルバチョフの権力基盤を弱める要因となった[1]。副大統領にはシェワルナゼを候補に考えていたが、シェワルナゼは「独裁が迫っている」と守旧派に対する危機を訴えて、1990年12月に外務大臣を辞任して世界中を震撼させた。ゴルバチョフは政治局員のゲンナジー・ヤナーエフを副大統領に指名した。一方人格面での問題を糾弾され、リガチョフとの争いに敗れてモスクワ市共産党第一書記や政治局員候補から解任されたボリス・エリツィンが人民代議員として復活し、さらに1990年にはロシア共和国の大統領となり、さらにソ連共産党から離党を宣言して、党外改革派の代表としてゴルバチョフの地位を脅かすようになっていく。
国内政策での保守派への妥協にもかかわらず、ゴルバチョフ政権によるソ連外交の政策転換は明確な形で続けられた。従来の制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)による強圧的な東ヨーロッパ諸国への影響力行使とは大きく異なり、ハンガリー事件やプラハの春で起こったソ連軍による民主化運動の弾圧はもう起こらないことを示した。結局、1989年をピークとする一連の東欧革命をもたらし、1990年には東ドイツの西ドイツへの統合(ドイツ再統一)まで実現することになった。ゴルバチョフはベルリンの壁崩壊前に当時の東ドイツの最高指導者エーリッヒ・ホーネッカーに対して国内改革の遅れに警告を発する一方、壁崩壊後に急浮上した西ドイツによる東ドイツの吸収合併論やそれに伴う旧東ドイツ領土へのNATO軍(アメリカ軍)の展開には反対したが、西ドイツの首相ヘルムート・コールが示した巨額の対ソ経済支援を受け入れることで、ドイツ再統一に承認を与えた。
冷戦の終結・東欧革命によってソ連は東ヨーロッパでの覇権を失い、各国からの撤退を強いられた軍部や生産縮小を強いられた軍産複合体の中にはゴルバチョフやシェワルナゼへの反感が強まり、新思考外交を「売国的」「土下座外交」と批判して、共産党内の保守派と接近した。共産党内でも、ソ連国家における党の指導性が放棄される事に警戒感が強まり、従来は改革派、あるいは中間派と見なされていたヤナーエフなども保守派としてゴルバチョフを圧迫するようになり、これが既述したシェワルナゼの突然の辞任につながった。ゴルバチョフ自身も、1991年2月にリトアニアの首都ヴィリニュスで発生したリトアニア独立(回復)派に対するソ連軍・治安警察による武力弾圧を承認した。
また、極東においてもウラジオストク演説以後に緊張緩和が進み、1989年5月に中華人民共和国を訪問して長年の中ソ対立に終止符を打った。これは六四天安門事件に続く学生たちの民主化運動が高揚する中で行われた。1991年4月には日本も訪れ、首相の海部俊樹(当時)と平和条約締結や北方領土帰属等の問題を討議したが、合意には達しなかった。
8月クーデター
1991年、ゴルバチョフは再び舵を改革派の側に切る。ロシアのエリツィン、カザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフの2人と会談し、新連邦条約を8月20日に調印する運びとなった。ところが8月19日、クリミア半島テンプレート:仮リンクの大統領別荘に滞在していたゴルバチョフは、KGB議長のウラジーミル・クリュチコフ、ゲンナジー・ヤナーエフ、そしてソ連の首相でもあったヴァレンチン・パヴロフらの「国家非常事態委員会」を名のる守旧派が起こしたクーデターによって、妻とともに別荘に軟禁された。
ゴルバチョフが軟禁された際、当然ながら外部との連絡は絶たれ、いつ「用済み」として殺されるか分からない状況であったが、偶然別荘にあった日本製のラジオがニュースの電波を拾うことができたため、モスクワにてエリツィン、市民、軍部がクーデター首謀者側に抵抗していることを知り、救出される希望を捨てなかったという。
なお、上記のように国民や軍部の支持を得られなかっただけでなく、国際社会からも大きな反発を受けたために、結果的にクーデターそのものは失敗に終わり、8月22日にクーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者たちはいずれもゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼が失墜。これにより連邦政府自身の求心力も低下を余儀なくされた。 テンプレート:Main
ソ連共産党解体とソ連崩壊
詳細はソ連崩壊を参照。
8月23日にゴルバチョフはロシア議会で今後のソビエト連邦と党に関する政見演説を行うが、議員たちはゴルバチョフの演説に耳を傾けることはなかった。同時に、ロシア共和国のエリツィンはソ連共産党の活動停止の大統領令に署名する。
翌8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任する。資産を凍結し、ソ連共産党中央委員会の自主解散を要求し、エストニアとラトビアの独立を承認した。クーデターからおよそ10日後の8月29日、ソ連議会がパブロフの不信任案を可決、ソ連最高会議はソ連共産党の活動全面停止を決定した。
同年末には、この時点でゴルバチョフの政治的ライバルであったエリツィンがロシア共和国のソ連邦からの脱退を進めたことによりソ連は崩壊。12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任、最初で最後の大統領となった。
ソ連崩壊後
ソ連崩壊を不本意な形で迎えたゴルバチョフにとって、年金生活入りすることは論外であった。1991年12月より、国際社会経済・政治研究基金(通称、ゴルバチョフ基金またはゴルバチョフ財団)を設立、自ら会長に就任した。また、環境問題に主な活動を移し、グリーンクロスインターナショナルの会長として国際環境保護運動に積極的に参画した。政治活動として1996年のロシア大統領選挙に立候補したが、得票率は0.5%で落選した。その後、ピザハットのCMに出演するなど、政治以外の活動も開始する。
1999年9月20日、妻のライサを白血病で失う[2]。最愛の妻を失って悲嘆に暮れる姿はロシア国民から広く同情を集めた。
2001年11月、ロシア社会民主党党首に就任したが、2004年5月22日には同職の辞職を発表、事実上の政界引退となった。なお、ロシア社会民主党はロシア最高裁から解散命令が出され、ゴルバチョフは不快感を表明した。
2006年11月には右頚動脈に異常が認められ、ドイツのミュンヘンの病院に入院、11月21日に手術を受け、経過は良好であると発表された。
2007年にはフランスの高級バッグメーカーのルイ・ヴィトン社の広告に登場した際には、脇にアレクサンドル・リトビネンコ毒殺事件を特集している雑誌記事が映っており、ウラジーミル・プーチン政権を暗に批判しているとの憶測が出ている。しかし2007年10月20日、2007年ロシア下院選挙を目前に社会民主同盟(社会民主連合)を創立し、結成大会で議長に選出される。就任演説で「議会は一党のほぼ支配下にある。左派の理念も自由主義も取り込んだ幅広いものとするべきだ」と現状を批判し、政界復帰の意欲を見せたものの、同選挙ではプーチン政権与党の統一ロシアへの投票を呼びかけた[3][4]。
ゴルバチョフはプーチンについて、「ロシアに(ソ連崩壊後の)安定と経済的繁栄をもたらした」「強いソ連(ロシア)を復活させた」として評価している[5]。しかしプーチンが党首を務める統一ロシアについては、2009年に入ってAP通信のインタビューで「官僚の党」と述べ、更に「それはソビエト連邦共産党の最悪の形だ」と批判している[6]。
2011年ロシア下院選挙の不正疑惑や2012年ロシア大統領選挙の事前審査でグリゴリー・ヤヴリンスキーらが立候補を制限されたことなどを受けて、プーチン政権批判を強める。2012年1月28日「専制」を排除し政治改革を実現するための国民投票実施を提唱する論文を発表したとインタファクス通信は報道した[7]。
2008年に勃発した南オセチア紛争については、8月14日にCNNの番組「ラリー・キング・ライブ」に出演した際、「ロシアの軍事介入は南オセチア・ツヒンバリの惨状への対応であるため、ロシアとグルジアの衝突を招いた責任はグルジアにある」と発言した。また、西側のマスコミに対しては、「ツヒンバリの惨状について最初しか映し出さず、ロシアのみに紛争の責任を負わせようとしている」と批判した。また、アメリカが推し進めている東欧ミサイル防衛構想を批判し、「再び冷戦を繰り返さないようにしよう」と述べている。
民主系新聞の「ノーバヤ・ガゼータ」の大株主となっているほか、世界ノーベル平和賞受賞者サミットの公式スポンサーであるイタリアの自動車メーカーのランチアのテレビCMに、元・ポーランド大統領レフ・ヴァウェンサやミャンマーの非暴力民主化活動家であるアウンサンスーチー、イングリッド・ベタンクールなどとともに出演した。
新党結成
2008年9月、ゴルバチョフは、アレクサンドル・レベデフ(en:Alexander Lebedev)とともにロシア独立民主党という新党を結成したことを発表し[8]、2009年5月には、活動がまもなく開始されることも発表した[9]。その際に多数の支持者がいることも述べた。これは2001年のロシア社会民主党結成および社会民主同盟以来、ゴルバチョフの3度目の政党結成の試みである[10]。
評価
ゴルバチョフに対する評価は二分している。前述したように現役当時から西側諸国では絶大な支持がある。西ドイツの首都・ボンに訪問した時など「ゴルビー! ゴルビー!!」と、冷戦当時に西ドイツを訪問したアメリカのジョン・F・ケネディ以来の熱狂的な支持があった。米タイム誌の特集「20世紀の重要人物100人」に、ロシアの政治家からはウラジーミル・レーニンとゴルバチョフのみが選ばれている。
一方のロシアでは、就任当初を除いて在任中から不人気でありつづけた。風貌と語り口から典型的な南ロシア出身者とみなされたことが、エリツィンの人気を一層引き立てる結果になった。ソ連崩壊後のロシアでは、経済・軍事などあらゆる面でアメリカとの国力差が広がったため、「“偉大で強い”古き良き時代(スターリン・ブレジネフ時代のこと)であったソ連を崩壊させた」、「アメリカに魂を売った売国奴」という意見も多い。
また、ゴルバチョフが政権初期に飲酒制限政策(酒類供給量の制限や販売時間の制限等)を展開したことで、酒好きで知られるロシア人から更なる反感を買うこととなった。
逸話
マスメディアへの露出
ドイツのヴィム・ヴェンダース監督の映画『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』に本人役で出演した。ピーターと狼(プロコフィエフ作曲)のCDでは、元アメリカ大統領のビル・クリントンらとともにナレーションで出演しており、第46回グラミー賞で最優秀子供向け朗読アルバム賞に選ばれた。
イギリスのテクノグループシェイメンのアルバムに『In Gorbachev We Trust』(1989年)があり、ジャケットにゴルバチョフの肖像画が使われている。
前述の通り、ルイ・ヴィトンの2007年秋の広告にカトリーヌ・ドヌーブやアンドレ・アガシ、シュテフィ・グラフ夫妻と出演している。撮影はベルリンの壁の前で行われたが、これはゴルバチョフのリクエストによるもの。出演料は自身が設立した環境保護団体と、アメリカの元副大統領アル・ゴアの地球温暖化防止事業に寄付されたという[11]。
ゲームでの登場
1991年4月12日に当人の名を冠したファミリーコンピュータ用ゲームソフト『ゴルビーのパイプライン大作戦』が徳間書店より発売された。また、セガの携帯ゲーム機ゲームギア用ソフトで『がんばれゴルビー!』というタイトルがある。ゲーム内容は主人公のゴルビーを操作し、工場内で警備員の目を盗んで食料などの物資を貧しい民衆に送り届けるというもの。 また、同年のカプコンのビデオゲーム『ストリートファイターII』シリーズの登場キャラクターであるザンギエフのエンディングにて「ゴロバチョフ」という名前で登場しており、同じモスクワ大学のレスリング部の先輩であり、レスリングによる国際交流を勤める役として登場した(ただし、作中では本名は一切登場せず「大統領」と呼ばれるのみ。現実のソ連崩壊後は「親愛なる(あるいは「偉大なる」)同志」に変更されている)。
ゴルバチョフと日本
妻との初めてのデートは日本のコーラスグループ、ロイヤルナイツのコンサートであったと五木寛之に語っている[12]。また、初来日の際、鯉のぼりを見て非常に驚いたというエピソードがある。書記長・ソ連大統領時代の1991年3月には日露(日ソ)会談のため来日、首相の海部俊樹(当時)や元外務大臣の安倍晋太郎と会談を行っている。この時同伴したライサ夫人の銀座での買い物シーンがテレビを通じて報道され、ソ連国内で「国民が経済不調で苦しんでいるのに」と不評を買った。
政界引退後は各種団体やマスコミなどの招きで頻繁に来日し、そのつどテレビ番組などに出演しているほか、地方都市にまで足を伸ばし、講演会なども催している。2003年11月には日本大学より名誉博士号を授与され、同年及び2005年5月の二度に渡り日本大学にて講演を行った。2005年6月に来日した折には、徹子の部屋に出演(同年7月5日放送)。また同年12月に再び来日し、12月24日放送の日本テレビ『世界一受けたい授業』に出演。同番組内の講義の中で「日本には毎年何回も来ており、正確な来日回数は自分も分からない」と述べている。同番組で、2003年に勃発したイラク戦争の際には、一般乗客として山手線に乗車中であり、ニュースを聞いて初めて知ったと述べている(番組ではアメリカ軍のイラクへの侵攻を、「政治的な大きな誤り」と批判した)。当時の総理大臣小泉純一郎の長男小泉孝太郎が同席しており、第44回衆議院議員総選挙(郵政解散)を高く評価した。
このほか来日こそしていないものの、24時間テレビのCMに出演しメッセージを送っている。2014年3月28日の「笑っていいとも」(金曜日最後の放送分)の「テレフォンショッキング」で黒柳徹子が出演した際は、ゴルバチョフ財団名義で花を贈っている。
2009年12月にも来日し、鳩山由紀夫と会談した。また創価学会名誉会長・池田大作とも対談した(対談内容は潮出版社発行の雑誌『潮』に全文掲載)。また明治大学で学生との対話集会を催し、その模様が同月及び2010年1月に「ゴルバチョフ 若者たちとの対話」としてNHK衛星第1にて放送された。さらに『世界一受けたい授業』に再び講師として出演、同番組の2010年新春スペシャルの収録に参加した(2010年1月2日放送)。
2010年2月にも再び来日し、関西テレビ・フジテレビ系番組『SMAP×SMAP』の「BISTRO SMAP」のゲストとして出演、ソ連時代の自分の周囲の出来事を中居正広に語っていた。
演説集を出版するなど、読売新聞とは関係が深く、日本テレビの番組に多く出演しているのもその繋がりである。池田大作とは以前より来日時には毎回面会している。逆に池田がロシアを訪問する際にも面会し、ほぼ毎回対談しており、面会・対談の様子は『潮』や聖教新聞社発行の写真雑誌『グラフSGI』等に掲載されている。
栄誉
- 労働記章受章(1949年)
- ノーベル平和賞受賞(1990年)
- 日本大学名誉博士(2003年)
- 明治大学名誉博士(2009年)
- 聖徒アンドレイ・ペルボズバンニー勲章(2011年)
著書
- 『ペレストロイカ』 田中直毅訳、講談社、1987年
- 『ゴルバチョフ演説集』 、読売新聞社、同外報部訳、1991年
- 『世界を震撼させた三日間』 福田素子訳、徳間書店、1991年(ソ連8月クーデターの回想記)
- 『ゴルバチョフの発言――ペレストロイカの軌跡』 、講談社、1991年
- 『ゴルバチョフ回想録』(上・下)、工藤精一郎・鈴木康雄訳、新潮社、1996年
- 『二十世紀の精神の教訓』(上・下) 潮出版社、1996年(池田大作との対話、文庫化に際し上・中・下巻に分冊)
- 『ゴルバチョフ演説・論文集』(1-4)、ソ連内外政策研究会訳、国際文化出版社
- 『ゴルバチョフと池田大作』 中澤孝之 角川書店 2004年
脚注
外部リンク
- ゴルバチョフ財団 テンプレート:Ru icon テンプレート:En icon
- マルクス主義百科事典 テンプレート:En icon
- グリーンクロスインターナショナル テンプレート:En icon
- "Out in the Cold" (ガーディアン紙2005年3月8日号のインタビュー) テンプレート:En icon
- TIMEが選ぶ20世紀の100人: ミハイル・ゴルバチョフ テンプレート:En icon
- プロフィール (CNN冷戦特集より) テンプレート:En icon
- ゴルバチョフの経歴、発言とゴルバチョフに対する賛辞 (Write Spiritより) テンプレート:En icon
- "My Ambition was to Liquidate Communism" (Revolutionary Democracyへの寄稿記事) テンプレート:En icon
- Project Syndicateへの寄稿記事 テンプレート:En icon
- "Commanding Heights: Mikhail Gorbachev" (2001年4月の米放送局公共放送サービスによるインタビュー) テンプレート:En icon
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
コンスタンティン・チェルネンコ
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ソビエト連邦最高指導者
1985年 - 1991年
|style="width:30%"|次代:
ボリス・エリツィン
ロシア連邦大統領
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
アンドレイ・グロムイコ
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ソビエト連邦最高会議幹部会議長
1988年 - 1989年
|style="width:30%"|次代:
廃止
最高会議議長へ移行
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
設置
最高会議幹部会議長より移行
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ソビエト連邦最高会議議長
1989年 - 1990年
|style="width:30%"|次代:
アナトリー・ルキヤノフ
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
設置
大統領制の導入
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ソビエト連邦大統領
初代: 1990年 - 1991年
|style="width:30%"|次代:
廃止
ソビエト連邦の崩壊
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
コンスタンティン・チェルネンコ
|style="width:40%; text-align:center"|ソビエト連邦共産党書記長
1985年 - 1991年
|style="width:30%"|次代:
ウラジーミル・イワシコ
代行
テンプレート:S-ach
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
創設
|style="width:40%; text-align:center"|ロナルド・レーガン自由賞
1992年
|style="width:30%"|次代:
コリン・パウエル
- 転送 Template:End
テンプレート:ノーベル平和賞受賞者 (1976年-2000年)
- ↑ 塩川伸明「ペレストロイカの時代」(和田春樹編『ロシア史』〈新版世界各国史22〉、山川出版社、2002年)。
- ↑ Raisa Gorbachyova's Biography on the Gorbachyov Foundation website
- ↑ "Gorbachev endorses Putin in election and says Russia is serious partner of West", Times, November 29, 2007.
- ↑ 大野正美「ゴルバチョフ氏、冷めぬ改革熱」『朝日新聞』2007年10月22日。
- ↑ 小林和男 『狐と狸と大統領―ロシアを見る目』 日本放送出版協会、2008年、65頁。
- ↑ http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7927920.stm
- ↑ テンプレート:Ja icon テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 「ゴルバチョフ元大統領、ヴィトンの「顔」に 今秋の広告で」 asahi.net、2007年8月28日。
- ↑ この話は2006年7月17日放送のNHKのラジオ番組で五木自身が披露している。