アンドレ・アガシ
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:テニス選手 アンドレ・アガシ(Andre Agassi, 1970年4月29日 - )は、アメリカ・ラスベガス出身の元男子プロテニス選手。フルネームは Andre Kirk Agassi (アンドレ・カーク・アガシ)という。父親はイランからの移民者で、アルメニア系の元ボクシング選手であり、母親はイングランド系の白人である。姉のリタは往年の名テニスプレーヤーパンチョ・ゴンザレスの最晩年の妻でもある。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち、プレイスタイルはグラウンドストローカー。“世界一のリターナー”と言われる強力なリターンを最大の武器にした。ATPツアーのシングルスで男子歴代8位となる60勝、ダブルスでは1勝を挙げた。
アガシは4大大会を選手生活中にすべて制覇する「キャリア・グランドスラム」を達成した数少ない男子選手のひとりである。4大大会通算「8勝」は、ジミー・コナーズやイワン・レンドルらと並ぶ男子歴代8位タイ記録である。
注:現在の4大大会は全豪オープンと全米オープンがハードコートで、全仏オープンはクレーコート、ウィンブルドンは芝生コートで行われるが、かつては芝生とクレーしかなかった。4大大会で異なる3種類のサーフェスをすべて制したのは、アガシ、コナーズ、マッツ・ビランデル、ラファエル・ナダルとロジャー・フェデラーの5人だけである。(全米オープンのコートは、芝生・クレー・ハードと変遷。コナーズはそのすべてのサーフェスで優勝したが、グランドスラムは達成していない。またビランデルはウィンブルドン優勝こそないが1983,84年にまだ芝生で行われていた全豪を制しており、ハードになった後の全豪、全米及びクレーの全仏で優勝経験がある。)
選手経歴
アガシは4人兄弟の末っ子として生まれ、4歳からテニスを始めた。13歳の時、彼はフロリダ州ボカラトンにある「ニック・ボロテリー・テニスアカデミー」に入学した。1986年に16歳の若さでプロ転向。1988年に全仏オープンと全米オープンで初のベスト4に入り、ATPツアーでも年間6大会に優勝して、18歳で世界ランキング3位に躍進した。しかし1990年の全仏オープン決勝ではアンドレス・ゴメス(エクアドル)に、同年の全米オープン決勝ではピート・サンプラスに敗れる。翌1991年の全仏オープン決勝では、少年時代からのライバルであったジム・クーリエに敗れて2年連続の準優勝に終わった。そのため“万年準優勝男”と呼ばれた時期があった。
1992年のウィンブルドン選手権決勝でゴラン・イワニセビッチをフルセットの末に破り、宿願の4大大会初優勝を達成。その後1994年全米オープンと1995年全豪オープンでも優勝し、1996年のアトランタ五輪では決勝でスペイン代表のセルジ・ブルゲラを破って金メダルを獲得した。
それからしばらく極度の低迷に陥り、1997年末は一時世界ランキングを141位まで落としたこともある。しかし、当時のコーチであったブラッド・ギルバートのガイドにより、徐々に復調を果たす。1999年の全仏オープン決勝で、アガシはアンドレイ・メドベデフ(ウクライナ)を2セット・ダウン(先に相手に2セットを取られた状態)からの大逆転で破り、1969年のロッド・レーバー(オーストラリア)以来「30年ぶり」、史上5人目の4大大会完全制覇を達成した。この偉業で再び波に乗ったアガシは、同年の全米オープンで5年ぶり2度目の優勝を遂げ、2000年・2001年の全豪オープンで大会2連覇を決めた。
1997年4月に女優のブルック・シールズと結婚したが、わずか2年で離婚。(シールズとの婚姻期間中に世界ランキング141位まで落ちた。)その後(引退直後の)シュテフィ・グラフと交際し、2001年10月22日に再婚した。同年代のライバルたちがほとんど現役引退した後も、アガシが世界トップ10の活躍を続けてきたのは、4大大会通算「22勝」を達成したかつての名選手、グラフの内助の功が大きいとされている。
2003年の全豪オープン決勝戦でライナー・シュットラー(ドイツ)を破った後、しばらく4大大会の決勝から遠ざかっていた。全仏オープンでは2004年、2005年の2年連続で初戦敗退を喫している。2005年の全米オープンで、35歳にして3年ぶり6度目の全米決勝進出を果たしたが、第1シードのロジャー・フェデラーに 3-6, 6-2, 6-7, 1-6 で敗れて準優勝に終わった。
アンドレ・アガシは2006年6月24日に会見を開き、同年の全米オープン終了後に現役引退する意向を表明した。最後のウィンブルドンでは、3回戦で第2シードのラファエル・ナダルに 6-7, 2-6, 4-6 で完敗した。そして、現役最後の大会となった全米オープンがやってくる。アガシは1回戦でルーマニアのアンドレイ・パベル、2回戦でキプロスのマルコス・バグダティスを破ったが、2006年9月3日の3回戦でドイツの予選勝者ベンヤミン・ベッカーに 5-7, 7-6, 4-6, 5-7 で敗れ、21年間の現役生活に終止符を打った。
アガシのATPツアー初優勝は1987年11月のブラジル・イタパリカ大会で、最後の優勝は2005年7月のアメリカ・ロサンゼルス大会であった。4大大会通算224勝(53敗)は、ジミー・コナーズ(233勝)に次いで歴代2位記録となった。
プレースタイル
テンプレート:独自研究 アガシは若い頃から、ライジング打法を用いた積極的に攻めるテニスを得意としたが、ともすると強引にエースを狙いすぎる傾向があり、自分のリズムを崩してしまうこともたびたびであった。キャリアの後半はライジング打法をカウンターとして用い、非常に安定したテニスを繰り広げてきた。
引退後
グラフと2人の子供(長男Jaden Gil、長女Jaz Elle)と共にネバダ州ラスベガスに在住。カリフォルニア州サンフランシスコ周辺にも2300万ドルで購入した豪邸がある。
2001年、「アンドレ・アガシ・チャリティ基金」を設立。定期的に主催するチャリティイベント Grand Slam for Children にはスティービー・ワンダー、ロッド・スチュワート、ビリー・ジョエル、デュラン・デュラン、マライア・キャリー、アッシャーなど非常に豪華なミュージシャンが参加し、これまでに6000万ドル以上の寄付金を集めている。
2009年11月9日に出版された自叙伝「Open」の中で、1990年の頃の鬣の様な長髪はカツラで、ブルック・シールズの説得により1994年末にスキンヘッドにしたと告白。また、1997年には覚醒剤であるメタンフェタミンを服用していたという[1]。
2011年7月に国際テニス殿堂入りを果たした。
4大大会優勝
- 全豪オープン:4勝(1995年、2000年&2001年、2003年)
- 全仏オープン:1勝(1999年) [この優勝で4大大会完全制覇を達成]〔準優勝2度:1990年&1991年〕
- ウィンブルドン:1勝(1992年)〔準優勝1度:1999年〕
- 全米オープン:2勝(1994年、1999年)〔準優勝4度:1990年、1995年、2002年、2005年〕
年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
---|---|---|---|
1992年 | ウィンブルドン | テンプレート:Flagicon ゴラン・イワニセビッチ | 6-7, 6-4, 6-4, 1-6, 6-4 |
1994年 | 全米オープン | テンプレート:Flagicon ミヒャエル・シュティヒ | 6-1, 7-6, 7-5 |
1995年 | 全豪オープン | テンプレート:Flagicon ピート・サンプラス | 4-6, 6-1, 7-6, 6-4 |
1999年 | 全仏オープン | テンプレート:Flagicon アンドレイ・メドベデフ | 1-6, 2-6, 6-4, 6-3, 6-4 |
1999年 | 全米オープン | テンプレート:Flagicon トッド・マーティン | 6-4, 6-7, 6-7, 6-3, 6-2 |
2000年 | 全豪オープン | テンプレート:Flagicon エフゲニー・カフェルニコフ | 3-6, 6-3, 6-2, 6-4 |
2001年 | 全豪オープン | テンプレート:Flagicon アルノー・クレマン | 6-4, 6-2, 6-2 |
2003年 | 全豪オープン | テンプレート:Flagicon ライナー・シュットラー | 6-2, 6-2, 6-1 |
テンプレート:テニスグランドスラム大会男子シングルス優勝記録
脚注
外部リンク
- テンプレート:ATP
- テンプレート:Davis Cup
- テンプレート:ITF
- ATP LEGEND ATPツアーサイト内に新設された伝説的名選手の紹介。国際テニス殿堂評伝執筆者バド・コリンズによる詳しい紹介記事。