スティーヴィー・ワンダー
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スティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder, 本名:Stevland Hardaway Judkins, 1950年5月13日 - )は、アメリカのミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。歌のほか、様々な楽器を演奏するマルチ・インストゥルメンタリストであり、11歳の時にモータウンのTamlaレーベルと契約して以来、現在までモータウン一筋に活動する。30曲以上のU.S.トップ10ヒットを放ち、計22部門でグラミー賞を受賞、最も受賞回数の多い男性ソロ・シンガーである[1]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第9位[2]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第15位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第34位[3]。
目次
プロフィール
カルビン・ジャドケンスとルーラ・メイ・ハードウェイの6人の子供の内、3人目の子供として1950年、ミシガン州サギノーに生まれた。6週間の早産で生まれ、保育器内での過量酸素(未熟児網膜症)が原因で生まれてすぐに目が見えなくなる。 スティーヴィーが4才の時に、彼の母親は父親を置いて、子供とともにデトロイトに移住する。 母親は名前を旧姓に戻すと共に、その後に子供たちの苗字を彼女の親類にあやかってモーリスとした。現在でも、スティーヴィーの法律上の名前はモーリスとなっている。
幼い頃からピアノやハーモニカ、ベースを演奏していたという。 歌手としてのキャリアーは友達と一緒に歌う様になったのが最初で、スティービー&ジョンとして街角や、時にはパーティーやダンスなどのイベントでもパフォーマンスをしていた。
経歴
11歳の時、自身で作曲した「Lonely Boy」をミラクルズのロニー・ワイトの前で歌い、ワイトはスティービーと彼の母親をモータウンへのオーディションに連れて行く。社長であるベリー・ゴーディの前で歌と演奏を披露し、モータウンとの契約を獲得。彼の最初のステージネーム「リトル・スティーヴィー・ワンダー」はこの時のプロデューサーであり、また彼の多くの作品に参加したクラレンス・ポールがつけたものである。なお、この時の契約内容には、スティービーの年齢を考慮したものとして、印税収入は彼が21歳になるまで基金に蓄えられるという条項があり、それまでは週給として2ドル50セントの支払いであったとされる。[4]
こうしてモータウンに加わったスティービーは、61年に最初のレコーディングとして「Mother Thank You」を収録するが、結果として、デビューシングルはベリー・ゴーディーの手による「I Call It Pretty Music But The Old People Call It The Blues」に変更され、これが1962年の夏に発売された。結局、この曲が発表されたのは、タイトルを変えた上で、1964年になってからであった。続いて、シングル「Little Water Boy」(ヒットはしなかった)や、アルバム「The Jazz Soul of Little Stevie」と「Tribute to Uncle Ray」を発表し、こちらは小さなヒットとなった。スティービーが12歳であった1962年末、モータウン・レビューの一員として全米をツアーする。このツアーで廻ったシカゴのリーガル・シアターでの20分ほどの演奏を録音したものが、1963年の5月にアルバム「Recorded Live: The 12 Year Old Genius」としてリリースされ、これがBillboard 200で1位になる大ヒットを記録。ここから同月にシングルカットされた「Fingertips - Part 1 & 2」もBillboard Hot 100で1位の大ヒットとなる。この、13歳での1位獲得は現在でも史上最年少の記録である。また、わずか12歳でデビューしたため、ビートルズのメンバーとは年齢が離れているにもかかわらず、キャリアとしては同等の長さを誇る。
しかし、そこから一気にヒットチャート最上位の常連になったわけではなく、続く数作は必ずしも大ヒットとはならなかった。また、スティービーの成長に伴う声変わりに対して、当時のモータウンの重役たちの何人かはレコード契約の打ち切りをも検討していたとされる。[5] 1964年には、2本の映画に出演するもいずれも大したヒットにはならなかった。 そうした中、シルビア・モーイと共作した作品などを含むアルバム「アップタイト」がメジャーヒットし、シングルカットされた「Nothing's Too Good for My Baby」、「With a Child's Heart」、そしてボブ・ディランのカバーである「Blowin' in the Wind」がいずれもメジャーヒットする成功を得た。また、リトル・スティービー・ワンダーというこれまでのステージネームから"リトル"を取るようにベリー・ゴーディーに説得したのもまた、シルビア・モーイであったとされる。[6] また、同じころにスティーヴィーは自分とレーベルの他の仲間への楽曲提供のために、モータウンの作詞部門・作曲部門との契約を新たに結んだ。こうして提供された曲の1つにスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズのナンバー1ヒットである「Tears of a Clown」などがある。
1970年に、モータウンから自作のプロデュース権を獲得し、音楽出版会社「タウラス・プロダクション」を設立。自身の新たな音楽を模索していたある時、ロバート・マーゴレフとマルコム・セシルの2人のエンジニアによるユニット「トントズ・エクスパンディング・ヘッド・バンド」のアルバム『ゼロ・タイム』に使われていた、当時開発されたばかりのモーグ・シンセサイザーに感銘を受ける。以後、スティーヴィーはシンセサイザーを駆使し、殆どの楽器を自分で演奏してアルバムを作るスタイルを確立してゆく。
1973年、従兄弟の運転する車に同乗した際に交通事故に遭う。この事故の後遺症で一時味覚と嗅覚を失うが、その後のリハビリが功を奏し、ほぼ完全に回復。この体験により慈善活動や平和活動に目覚め、後の1980年代には南アフリカのアパルトヘイト政策に反対する歌、公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師を讃える歌を発表する。日本の全盲の中学生との交流がきっかけで仙台市立加茂中学校を訪問し、歌ったこともある。
1974年の第16回グラミー賞で、自身初の受賞を果たす(シングル「迷信」が最優秀男性R&Bボーカル賞と最優秀R&B楽曲賞、「サンシャイン」が最優秀男性ポップ・ボーカル賞、アルバム『インナーヴィジョンズ』が最優秀アルバム賞をそれぞれ受賞)。翌1975年2月のグラミー賞授賞式では、最優秀アルバム賞受賞後のスピーチで、この賞を前年に亡くなったデューク・エリントンに捧げると発言した。
1976年には、2枚組のオリジナル・アルバム『キー・オブ・ライフ (Songs in the Key of Life) 』をリリース。このアルバムは、当時全米アルバムチャート14週1位となる大ヒットになり、この年のグラミー賞の最優秀アルバム賞も受賞した。
1984年の映画「ウーマン・イン・レッド(The Woman in Red)」のサウンドトラックに用いられた「心の愛(I Just Called to Say I Love You)」は、米英で大ヒットするとともにアカデミー歌曲賞、ゴールデングローブ賞を受賞した。
1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分でリードボーカルをとった。
才能
ステージでは主にピアノやフェンダー・ローズ、クラビネットなどのキーボードをプレイしながら歌うことが多いが、他にもドラム、ハーモニカ、シンセベースなどもプレイするマルチプレイヤーとして有名。
彼の非凡な音楽センスは、物心つく前から目が見えない代わりに神が与えたと称される。様々なジャンルを違和感無く自身の音楽に消化してしまうことから、異ジャンルのミュージシャンから尊敬の眼差しを受けている。また、視覚障害や音楽的素養などの共通点があることから、しばしばレイ・チャールズと比較される。
また、特に70年代において、新しい楽器の導入にも貪欲さを示しており、上記の様にそのころに徐々に一般化し始めたモーグ・シンセサイザーなどをいち早く導入した代表的な人物であると共に、トーキング・モジュレーターも同様にいち早く取り入れて大々的に使用している。後者は後のザップ/ロジャー・トラウトマン等に影響を与えたとされる。
政治活動にも積極的に参加し、2000年のゴア対ブッシュのアメリカ大統領選ではフロリダ州にかけつけ民主党のゴアを支援。2008年の大統領選でも、オバマの強力なサポーターとして党大会などに参加した。オバマ大統領の就任式のイベントでも何度もステージに立ち、代表曲を披露した。
作品
テンプレート:Main 多作家として知られるが、作品の質に厳しいことでも有名で、今までお蔵入りした曲は数千曲にのぼるという。アルバム制作の際は、収録予定の曲数のほぼ10倍を作曲すると言われており、1976年発表の『キー・オブ・ライフ』の収録曲は、1974年から1976年までに作曲された約1,000曲の中から選ばれた。
スキャンダル
スティーヴィーと交際して別れた女性が「一生交際するとの約束を反故にされた上に、性病に感染した」として日本円にして約39億円の慰謝料を求める裁判を起こした。スティーヴィー側も破局後に女性がワンダーの家具等の資産を勝手に持ち出したとして訴訟合戦となり泥沼化した。
スティーヴィー・ワンダーが影響を受けたアーティスト
スティーヴィーは自身が尊敬するアーティストとしてデューク・エリントンとナット・キング・コールを挙げている。
共演したミュージシャン
- マイケル・ジャクソン 「We Are The World」、「Get It」、「Just Good Friends」
- プリンス 「So What Fuss」(プリンスがギターで参加)
- ポール・マッカートニー 「Ebony and Ivory」、「What's That You're Doing?」
- エルトン・ジョン 「I Guess That's Why They Call It The Blues」(ハーモニカを担当)、「愛のハーモニー」
- クインシー・ジョーンズ「The Dude」(キーボードを担当)
- スティング 「Brand New Day」(ハーモニカを担当)
- ルチアーノ・パヴァロッティ「Peace Wanted Just be Free」
- ジェームス・テイラー 「Don't Be Sad 'Cause Your Sun Is Down」、「Little More Time With You」
- チャカ・カーン「I Feel For You」(ハーモニカを担当)
- ユーリズミックス「There Must Be an Angel」(ハーモニカを担当)
- ミニー・リパートン「Perfect Angel」(演奏サポートとアルバム・プロデュースを担当)
- シリータ (前夫人) 「If You Really Love Me」
- ディジー・ガレスピー「Do I Do」
- セルジオ・メンデス 「Berimbau/Consolação」
- アンドレア・ボチェッリ 「Canzoni Stonate」
- 中島みゆき 「つめたい別れ」(ハーモニカを担当)、「あたいの夏休み」(シンセサイザーを担当)
- テイク6 「O Thou That Tellest Good Tidings to Zion」、「I'm New」
- ラウル・ミドン 「Expressions Of Love」(ハーモニカを担当)
- ジャヴァン 「Samurai」(ハーモニカを担当)
- プリファブ・スプラウト 「Nightingales」(ハーモニカを担当)
- ジェフ・ベック 「Lookin' for another pure love」
- ザ・ビーチ・ボーイズ 「I Do Love You」
日本公演
- 3月31日,4月1日 日本武道館
- 10月28日 福岡国際センター、29日 愛知県体育館、31日,11月1日,2日 フェスティバルホール、4日,5日 日本武道館、6日 横浜文化体育館、8日 宮城県スポーツセンター、9日 郡山市総合体育館
- 10月23日,24日,25日 大阪城ホール、27日 福岡国際センター、29日,30日,31日 国立代々木競技場第一体育館、11月2日,3日 後楽園球場、5日 仙台市体育館、7日,8日 道立産業共進会場
- 4月12日 福岡国際センター、13日 広島サンプラザ、15日,16日,17日 大阪城ホール、19日,20日 名古屋レインボーホール、21日 静岡草薙体育館、23日,24日 横浜スタジアム、25日,26日,27日 日本武道館、29日 仙台市体育館
- 12月13日,15日,16日 大阪城ホール、19日 名古屋レインボーホール、23日,24日 東京ドーム
- 9月18日 横浜アリーナ、18日,19日,20日 日本武道館、21日 横田基地、23日 マリンメッセ福岡、24日 大阪城ホール、25日 名古屋レインボーホール、27日 石川産業展示館、29日 盛岡岩手産業センター
- 8月27日,28日 東京国際フォーラムホールA
- 12月27日,28日 さいたまスーパーアリーナ、30日 マリンメッセ福岡
- 1月4日 名古屋レインボーホール、6日,7日 大阪城ホール
- 8月7日 大阪・舞洲アリーナ、8月8日 千葉マリンスタジアム
日本のCMにおけるスティービーの楽曲使用
ホンダ・ロゴとキリン・午後の紅茶のCMにイズント・シー・ラブリー(Isn't She Lovely)、auとトヨタ・ノアのCMに愛するデューク(Sir Duke)、オンワード・23区のCMにオーヴァージョイド(Overjoyed)、TDKのCMに心の愛(I Just Called to Say I Love You)とパートタイム・ラヴァー(Part-Time Lover)、キリン・FIREのCMにフィール・ザ・ファイア(To Feel the Fire)、トヨタ・カムリと三菱UFJフィナンシャルグループのCMにステイ・ゴールド(Stay Gold)などが使われた。
関連項目
脚注
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- ↑ Bob Gulla (2008). Icons of R&B and Soul. Greenwood Publishing Group. p. 313.
- ↑ Tenley Williams (1 Jan 2002). Stevie Wonder. Infobase Publishing. p. 30.
- ↑ Tenley Williams (1 Jan 2002). Stevie Wonder. Infobase Publishing. p. 30.
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