エルトン・ジョン
エルトン・ハーキュリーズ・ジョン(Sir Elton Hercules John, CBE、1947年3月25日 - )は、イギリスのミュージシャン、シンガー・ソングライター。代表曲に、「僕の歌は君の歌」「クロコダイル・ロック」「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」「ダニエル」などがある。出生時の名前は、レジナルド・ケネス・ドワイト(Reginald Kenneth Dwight)。血液型 は A型。
最も売れたアーティスト一覧によると、シングルとアルバムの総売り上げは、ビージーズやローリング・ストーンズ、ピンク・フロイドを上回る約3億枚。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第38位[1]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第49位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第45位[2]。
パートナーは、カナダ人映画監督、プロデューサーのデヴィッド・ファーニッシュ。
目次
人物
1969年にソロ・デビュー。1970年の「僕の歌は君の歌」のヒット以降コンスタントに活動を続け、現在までに全世界で3億枚以上のレコード・セールスを記録した、世界で最も成功した男性ソロ・アーティストの一人である。作曲は彼自身によるものだが、作詞は1968年のデビュー以降その多くを盟友バーニー・トーピンが手がけている。芸名は、彼がソロ・デビュー前に参加したバンド、ブルーソロジーのメンバーだったエルトン・ディーン(Elton Dean、キース・ティペット・グループを経てソフト・マシーンに加入)とロング・ジョン・ボルドリー(Long John Baldry)の2人の名前から取ったものである。
1970年代前半に、人気は全盛期を迎えた。1972年の『ホンキー・シャトー』以降、『ピアニストを撃つな!』(1973年)、『黄昏のレンガ路』(1973年)、『カリブ』(1974年)、『グレイテスト・ヒッツ』(1974年)、『キャプテン・ファンタスティック』(1975年)、『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』(1975年)が7作連続全米首位を記録し、1975年には『キャプテン・ファンタスティック』で全米ビルボードのアルバムチャート史上初の初登場1位を記録するなど、この時期に彼は数多くの快挙を成し遂げている。当時、若手アーティストとしてギルバート・オサリバンをライバルとして認めた。活動休止期間を経て、トーピンと一時期決別してからは不遇の時代が続いたが、一方で1986年にはディオンヌ・ワーウィックらとのデュエット曲「愛のハーモニー」で初のグラミー賞を受賞している。1980年代後半から1990年代前半にかけては、喉の病気やアルコール、薬物依存症などに苦しみながらも、音楽活動と並行してチャリティーにも精力的に取り組むようになる。1990年代前半からは復調し、映画『ライオン・キング』のサントラなど数多くの仕事で成功した。1997年には、旧作の詩の一部を差し替え、事故死したダイアナ妃に捧げたシングル「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」が、全世界で3,700万枚以上を売り上げるシングル史上最大のヒット曲となる。この記録は、2012年現在も破られていない。1998年2月24日には長年の功績を称えられ、ポピュラー音楽の音楽家としては3人目となるナイトに叙勲された。
彼の音楽性は、しばしば同様にピアノマンの異名を持つビリー・ジョエルと比較されがちだが、メロディメーカーとしての手腕は確かなもので、様々なジャンルの音楽を貪欲に吸収し独自のものにしている。初期のプログレッシブ・ロック志向からカントリー・ミュージックへの傾倒、さらにはアメリカン・ロック、ソウル、ディスコに至るまで、その音楽性は幅広い。日本においてはバラード・シンガーとして認知されがちだが、サービス精神旺盛な生粋のロックンローラーであり、確かな技術に裏打ちされたパフォーマンスの評価は高い。過剰なまでの派手な衣装も特徴的である(着ぐるみを着用していた時期もあった)。ピアノの下に隠れての曲弾きや、クライマックスでのピアノの上によじ登ってのゴリラ踊りを行うことも多い。
両性愛者であることでも知られる。1984年にドイツ人の女性と結婚したが、4年後に離婚。2005年には男性の恋人と再婚して大きな話題を呼んだ。近年のグラミー賞授賞式では、ゲイを揶揄するリリックを歌ったエミネムとパフォーマンスして物議を醸したが、ジョンは音楽性が優れているアーティストに対して協力するのは当然と、意に介さなかった。性格は繊細さと荒々しさを併せ持ち、長年自身の容姿にコンプレックスを持っていたとされる。1970年代の前半頃から既に頭髪が薄くなりカツラを使用していたが、1990年代に植毛手術に成功。21世紀に入っては視力矯正手術にも成功し、長年愛用していた眼鏡もオークションに出した。現在は、それらを自らギャグとして披露してもいる。また、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在である。一方では、取材に対して饒舌でもあり、舌禍事件を起こすこともしばしばある。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならず、デヴィッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。また、クラブチームを保有していた時期がある。
近年ビリー・ジョエルとは、頻繁に「ピアノマン」同士のジョイント・コンサートを行っている。
鉄道にも興味があるらしくテンプレート:要出典、東京へ行く際、関西国際空港へ降り立ち、新大阪から新幹線に乗ったことがある。
カルティエの野外パーティーで急な悪天候により、得意客たちがホテルへ引き返す事態になった際、ホテルのラウンジにあったピアノでジョンが弾き語りを始めたことで険悪なムードが一変し、大変盛り上がった。それ以来カルティエは、彼に頭が上がらないという。 好きになったひとに、カルティエの腕時計をプレゼントするのは、得意のアプローチ作戦である。
来歴
生い立ち
RAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイトと妻シェイラの間に生まれた。ドワイトは、彼の母親や他の親類の女性によって育てられ、父親といた時間はわずかであった。スタンリーとシェイラはドワイトが15歳だった1962年に離婚した。母親はその後フレッド・フェアブラザーと再婚し、ドワイトは義父をダーフという愛称で呼んだ。
4歳の頃から、ドワイトはピアノを弾き始める。彼は神童であり、耳で聴いた如何なるメロディーも演奏することができ、彼のピアノ教師によると1度聴いただけのヘンデルの楽曲を完璧に弾くことができたという。11歳の頃に王立音楽院に合格し、職業としての音楽に専念するため、卒業前に学校を離れるまで6年間在学した。初期に影響を受けた人物には、ジム・リーブスなど。ピアニストとしてはヨハン・ゼバスティアン・バッハやフレデリック・ショパンの演奏を得意とした。
デビューに至るまで
1960年に、ドワイトは友人とコルヴェッツというバンドを結成。このバンドは、やがてブルーソロジーに発展する。ドワイトは、日中は音楽出版社への売り込みに走り、夜にはロンドンのホテルで単独でギグを行うか、ブルーソロジーと活動するかのどちらかであった。 1960年代半ばまでには、ブルーソロジーはアイズレー・ブラザーズ、メジャー・ランス、ドリス・トロイ及びパティ・ラベル&ブルーベルズのようなアメリカのソウルやR&Bのミュージシャンのバックバンドとしてツアーを行った。1966年には、バンドはロング・ジョン・ボルドリーのサポートミュージシャンとなり、イギリスのキャバレーをまわるツアーに参加している。
ドワイトは、リバティ・レコードのA&Rマネージャーだったレイ・ウィリアムズによって、ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に載せられた募集広告に応募する。最初の面接でウィリアムズはドワイトに、同じ広告に募集してきたバーニー・トーピンによって書かれた歌詞のストックを渡した。ドワイトは歌詞に曲をつけ、これが今日まで続くパートナーシップの始まりである。
1967年に、彼とバーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれた。トーピンと出会って半年後に、ドワイトは尊敬していたボルドリーとブルーソロジーのサックス奏者エルトン・ディーンの名にあやかり、単独捺印証書によって自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。
ジョンとトーピンのチームは、1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社。その後2年以上、ロジャー・クックやルルのような様々なアーティストに楽曲を提供した。トーピンが1時間未満で歌詞を書いてジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。すぐに何かを思いつくことができない場合は、歌詞を処分した。こうして2年間、彼らはジェイムズが歌手に提供するイージー・リスニングを書いた。
違う音楽出版社のスティーヴ・ブラウンのアドバイスにより、ジョンは彼自身が発売するレコードのために、トーピンと共により複雑な曲を書き始める。最初の作品は、ブルーソロジーのギタリスト、カリブ・クエイがプロデュースした、1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。1969年には、クエイとドラマーのロジャー・ポープ、ベーシストのトニー・マレーと共に、シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。これらは高い評価を得たにも関わらず、レコードの売り上げは芳しくなかった。しかし、スリー・ドッグ・ナイトに「レディ・サマンサ」をカバーされたことによって、にわかに注目を浴び始めることとなる。
ソロデビュー後も、スーパーで売られる最新ヒットのカバーレコードで「チャートバスターズ」として名前を隠して歌ったり、キング・クリムゾンやジェントル・ジャイアントのリード・ヴォーカリストのオーディションを受けるなどしており(共に不合格)、この時期の活動にはまだ明らかでない部分がある。
1970年代前半
1970年、プロデューサーにガス・ダッジョン、アレンジャーにポール・バックマスターを迎えて制作したセカンド・アルバム『僕の歌は君の歌(エルトン・ジョン)』がリリースされた。全米では、アルバムに先がけて発売されたシングル「僕の歌は君の歌」のトップ10ヒットにならう形で売り上げを伸ばした。ジョン・レノンをはじめとする数多くのミュージシャンが絶賛したこの曲は、彼の初期の活動における代表曲として広く知られるスタンダード・ナンバーである。
クインシー・ジョーンズが絶賛したという彼の最初のコンサート・ツアーには、元スペンサー・デイヴィス・グループのドラマーだったナイジェル・オルソンとベーシストのディー・マレーが参加した。彼らは、ジョンが『僕の歌は君の歌』からわずか半年後にリリースしたアルバム『エルトン・ジョン3』でも演奏していた。1972年からは、ギタリストのデイヴィー・ジョンストンがバックバンドに加わり、彼の活動における黄金期を支えたラインナップが完成する。同年のアルバム『ホンキー・シャトー』は、彼にとって初めての全米1位を記録した。その後、1975年の『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』まで、彼は7枚のアルバムを連続で全米1位に送り込んだ。本国のイギリスでも『ピアニストを撃つな!』が1973年度の年間チャート1位になるなど、彼の人気は世界的なものとなった。1974年には、所属していたMCA傘下にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立。以降彼のアルバムはこのレーベルから発表された。
この時期の作品の中で最も成功したとされるのが、1973年発表の2枚組『黄昏のレンガ路』である。現在もコマーシャルなどで頻繁に使用されるタイトル・ナンバーや、後にリメイクされて幾度もヒットする「風の中の灯のように(キャンドル・イン・ザ・ウィンド)」などを収録したこの作品は、現在も一般的な彼の最高傑作として評される。また、1975年発表のアルバム『キャプテン・ファンタスティック』は、全米ビルボードのアルバムチャートでは史上初となる初登場1位を記録した。1974年に発売されたベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』は、彼のアルバムとしては最も大きな商業的成功を収め、米国では歴代15位のベストセラーとなっている。シングルでは「クロコダイル・ロック」「ベニー・アンド・ザ・ジェッツ」「フィラデルフィア・フリーダム」「アイランド・ガール」の4枚の作品が1位。他のアーティストとのコラボレーションも盛んに行い、ニール・セダカとの共演「バッド・ブラッド」、ジョン・レノンとの「真夜中を突っ走れ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」なども全米1位に輝いた。また、1974年にはザ・フーによるロック・オペラを映画化した『トミー』に、ピンボールの魔術師と呼ばれる役で出演した。
1970年代後半
1976年発表のキキ・ディーとの「恋のデュエット」は、自身初の全英シングルチャート1位となっている。ハイペースでのレコード発表と並行して、極めてワーカホリックだったスケジュールでのステージ活動はジョンの精神や肉体に支障を来した。『キャプテン・ファンタスティック』の発売後に彼はオルソンとマレーを解雇し、バックバンドの布陣を変えて音楽活動に臨むが、そのような経緯で発売された『ロック・オブ・ザ・ウエスティーズ』は商業的な成功を収めながらも、評論家からは酷評されてしまう。
こういったプレッシャーから彼の心に迷いが生じたのか、アルバム『蒼い肖像』を発売すると引退を表明して、音楽活動を休止する。なお、これを境に、パートナーシップを築き上げてきたトーピンや、バックバンドとの関係も一時的に解消している。ローリング・ストーン誌で、両性愛者であることを公表したのも、同時期である。
約2年の活動休止期間を経て復帰したジョンは、1978年にアルバム『シングル・マン』を発表する。スタッフの面子を一新して制作されたこのアルバムでは、これまで全ての楽曲の作詞を手がけてきたトーピンに代わり、ゲイリー・オズボーンが新たな作詞家として起用されている。その後フィリー・ソウルの大御所、トム・ベルと共にアルバム1枚分の作品を制作するが、結果的にジョン自身の意向によってアルバムはお蔵入りとなり、一部楽曲が12インチシングルで発売されるのみとなった(後年になって全てリリースされている)。1979年にはピート・ベロッティをプロデューサーに迎え、楽曲もベロッティが手がけた異色作『恋に捧げて〜ヴィクティム・オブ・ラヴ』をリリースするが、ユーロビートを大胆に取り入れた作風は評論家には受け入れられず、セールスも芳しくなかった。一方で同年にはライブ活動を再開し、当時のソ連では初の西側ロックミュージシャンによるライブとなるモスクワ公演を行って話題となった。
1980年代
その後、ジョンはオズボーン以外にトム・ロビンソンなどを作詞家として迎え入れているものの、結果的に解消していたトーピンとの作曲コンビは、1980年のアルバム『21 at 33』を境に復活。1983年以降は、再び彼が大半の楽曲の作詞を手がけるようになっている。1981年以降は、クリス・トーマスが主にアルバムのプロデュースに携わった。ジョンとは旧知の仲であったトーマスは、『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ』や『スリーピング・ウィズ・ザ・パスト』などといった、1980年代の主要なジョンの作品において非常に大きな役割を担っている。試行錯誤を経て、再び以前のパートナーやバックバンドとともに創作活動に臨むようになった彼は、1985年の『アイス・オン・ファイアー』で再びガス・ダッジョンをプロデューサーに迎えている。
1980年代を通してのシングルでは、「リトル・ジニー」「エンプティ・ガーデン」「ブルー・アイズ」「ブルースはお好き?」「パッセンジャーズ」「サッド・ソングス」「エルトンのケンカ大作戦」「悲しみのニキタ」「愛のハーモニー」「キャンドル・イン・ザ・ウィンド'86」「ヒーリング・ハンズ」、さらには1988年の「アイ・ドント・ウォナ・ゴー・オン」はビルボード2位まで上昇し、1989年にリリースした「サクリファイス」が翌年にソロとして初の全英シングルチャート1位を記録するなど、ほぼ毎年ヒット曲を連発していたが、常に全盛期のイメージと比較され新しいヒット曲が出る度に「エルトンの復活」と称された。しかし、全盛期との違いとして、アルバム・セールスは1980年代の後半には大きく伸び悩んだ。1987年に行った長期公演では喉を悪化させてしまい、翌年に声帯の手術を行っている。以降、ヴォーカル・スタイル及び歌声は大きく変貌した。1984年に、ドイツ人のレコーディング・エンジニア、レネーテ・ブリューエルと結婚。彼女との結婚生活は様々なスキャンダルを呼びテンプレート:要出典、最終的に4年後の1988年に離婚に至った。1980年代後半は精神的にも不安定な状態が多く、過食症やアルコールの過剰摂取はよりいっそうエスカレートしていたといわれる。
この時期、エルトンはもう一枚アルバムを作る予定であったらしいが結局、その内の数曲がベスト・アルバムやシングルB面として発表されるに留まった。
1990年代
1990年、薬物とアルコール依存症、過食症の治療のため入院。更生施設への入居を経てカムバックしたジョンは、翌年のアルバム『ザ・ワン』で再び好調なセールスと高い評価を得る。なお、1980年代暮れから1990年代初めにかけて多くの友人や知人などをエイズで亡くした彼は、1992年以降シングルの全収益を自ら設立したエイズ患者救援者団体、「エルトン・ジョン・エイズ基金」に寄付するようになった。
1992年には、クリス・レアやリトル・リチャードなどをはじめとする、十数人のアーティストとのデュエットを収めたカヴァー集『デュエット・ソングス』を発表。企画盤にも拘わらず、全世界で200万枚以上のセールスを記録する大きな成功を収めた。このアルバムにプロデューサーとして参加したグレッグ・ペニーは、1995年の『メイド・イン・イングランド』では全面的にプロデュースに関わっている。
1994年には、以前にアルバム『ジャンプ・アップ(Jump Up!)』で共作した作詞家、ティム・ライスと共にディズニー映画『ライオン・キング』の音楽を担当する。この映画のサウンドトラックは全米チャート1位を記録し、最終的に30年以上に渡るキャリアの中では『グレイテスト・ヒッツ』に次ぐ商業的成功を収めたアルバムとなった。また、アニメの中では世界で最も売れたサウンドトラックとなっている。ジョンの歌唱による主題歌「愛を感じて(Can You Feel the Love Tonight)」もグラミー賞最優秀ポップ男性ボーカル賞とアカデミー歌曲賞を受賞するなど高い評価を受けた。また、この年から彼はビリー・ジョエルとジョイント・コンサート、フェイス・トゥ・フェイスを行っている。
1995年には、アルバム『メイド・イン・イングランド』を発表。ポール・バックマスターやジョージ・マーティンのアレンジによるストリングスを配したクラシカルな質感で、全英3位、全米13位のヒットとなった。1996年6月には、イタリアのモデナで『パバロッティ&フレンズ・コンサート』に出演、ルチアーノ・パバロッティと共演している(Live Like Horses)。
1997年9月、彼は自動車事故で亡くなったダイアナ元皇太子妃への追悼歌「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997」をシングル発売する。アルバム『黄昏のレンガ路』に収録されていた楽曲を、歌詞を変えてリメイクしたこの曲は全世界で3700万枚以上のセールスを記録。ビルボードのHOT 100とシングルセールスチャートで14週、カナダの公式シングルチャートで46週、その他日本をはじめとする世界各国のヒットチャートで首位を獲得し、シングルとしては史上最も多くの枚数を売り上げた。この楽曲の成功により、ジョンは1998年度のグラミー賞で最優秀男性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞している。また、カップリング曲の「ユー・ルック・トゥナイト」が収録されていたアルバム『ザ・ビッグ・ピクチャー』も、相乗効果で久々に全米・全英ともにトップ10内にランクインした。
1998年にはティム・ライスと再びタッグを組み、ヴェルディのオペラをモチーフにしたミュージカル『アイーダ』やドリームワークス配給のアニメ映画『エルドラド』のサントラ盤などを制作。この2枚のアルバムの中で、ジョンはスティングやジャネット・ジャクソン、シャナイア・トゥエイン、バックストリート・ボーイズなどといった多数の豪華な顔ぶれと共にデュエットしている。2000年には、長年バックバンドでキーボーディストとして活躍してきたガイ・バビロンをプロデューサーに迎えてインスト集を制作し、アルバート・ブルックスが主演・監督・脚本を務めた同名映画のサウンドトラック盤『ハリウッド・ミューズ』としてリリースした。
また、同年には行われたアメリカ・ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、メアリー・J・ブライジやブライアン・アダムズなどをゲストに迎えた豪華なライヴを行った。その模様は、『ワン・ナイト・オンリー』としてアルバムやDVD化されている。
近年
最近は、ミュージシャンとしての活動そのものよりも、かつて親交が深かったジョージ・マイケルやマドンナといった他の歌手への批判、中華民国のパパラッチに対する暴言など、過激な言動や奇行などが取り沙汰されることが多い。また2005年には、イギリスで同性同士の準婚関係を認めるシヴィル・パートナーシップ法の制定を機に、15年来のパートナーだったデヴィッド・ファーニッシュと男性同士で同契約を結び、事実上「結婚」したことも大きな話題を呼んだ。
なお、本業の音楽では、『ピーチツリー・ロード』、『キャプテン・アンド・ザ・キッド』と、かつてほどのペースではないにせよ、着々とオリジナル・アルバムを発表。過去に発売されたアルバムのデラックス版やリマスター盤なども再発売したほかに、2004年2月からはラスベガスのシーザーズ・パレス・ホテルにつくられたコロシアムにて3年間の契約で、セリーヌ・ディオンとの日替わりという形でレッド・ピアノという定期公演を行った。公演契約は2008年まで延長された。
2007年3月25日の60歳の誕生日にはニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデンで通算60公演目となる記念コンサート「60 in 60」を開催。その模様は、DVDとして発売されている。
2009年4月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産1億7500万ポンド(日本円で約248億円)になることがわかった。この資産は2008年の2億3500万ポンド(日本円で約333億円)から25%以上も減少していて、ラスベガスでのコンサートが終わったことや慈善事業への寄付、経済危機の影響が原因だという。[3]
2010年12月25日には、代理母が出産した男の子の親となった。子供の名前は「ザカリー・ジャクソン・リーボン・ファーニッシュ・ジョン」で、パートナーであるファーニッシュとの第1子である[4]。 ゴッドマザー(後見人)としてアメリカのポップスシンガーであるレディー・ガガを選んだ。同年、尊敬するアーティストの一人、レオン・ラッセルとの共作アルバム『ザ・ユニオン』を発表。
2011年5月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産1億9500万ポンドで7位にランクインした。[5]
2011年6月、経済誌フォーブス誌が「世界中で最も稼いでいるミュージシャン」を発表し、1億ドル(日本円で約80億円)を稼いで3位にランクインした。この収入は合計で2億ドルを売り上げた数多くのステージが大きく影響しているという[6]。
2013年には、前作と同じくプロデューサーにテンプレート:仮リンクを迎えた最新アルバム『ザ・ダイヴィング・ボード』を発表した。
関連人物
- バーニー・トーピン/Bernie Taupin
- 作詞家。デビュー以前より現在に至るまで、ほとんどの楽曲を担当する。エルトンは歌詞に合わせて曲を作るが、そのスタイルは若き彼らが同居していた頃から同じであり、「僕の歌は君の歌」は、歌詞を渡して30分で書き上げたという。エルトン曰く、最もイマジネーションが湧く作詞家。現在はアメリカ在住で、打ち合わせの後に歌詞がファックスで送られてくる。初期のアルバムには、常にエルトンと共に写真が載っている。近作『キャプテン・アンド・キッド』、『ザ・ユニオン』では久々に顔を出している。
- デイヴィー・ジョンストン/Davey Johnstone
- ギタリスト。『ホンキー・シャトー』よりのエルトン・ジョン・バンドのメンバー(レコーディングは『マッドマン』より参加)。現在は、ツアーの音楽監修も務める。マンドリンやシタールなども弾きこなす。バンド加入前、マグナ・カルタに在籍中の1970年に、バーニー・トーピンのアルバムに参加している。
- ナイジェル・オルスン/Nigel Olsson
- エルトン・ジョン・バンドのドラマー。プラスティック・ペニー、スペンサー・デイヴィス・グループを経て、デビューライブから参加。1975年に脱退(金銭問題とも言われ、この時期のシングルが「&エルトン・ジョン・バンド」名義で出されている)。その後、80年代にバンド復帰。その後も散発的にレコーディング、ライブに参加。2000年より、再び正式メンバー。高音部のコーラスを担当し、ソロミュージシャンとしても「涙のダンシング・シューズ」などのヒット曲がある。
- ディー・マレイ/Dee Murray
- エルトン・ジョン・バンドのベーシスト。スペンサー・デイヴィス・グループに在籍後、デビューライブから参加。1975年にナイジェルと脱退し、1980年代に共に復帰している。その後も散発的に活動を共にしたが、1992年1月15日、癌のため病死。
- レイ・クーパー/Ray Cooper
- 数々のミュージシャンと共演した名パーカッショニスト。1973年「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」ツアーからバンドに参加。1979年モスクワ公演、1995年来日公演などで、エルトンとの2人だけのツアーを行っている。映画制作も手がけるなど才人。
- ガス・ダッジョン/Gus Dudgeon
- 初期の黄金期を支えたプロデューサー。エルトンとの関わりは深く、1980年代に彼が窮状に陥った際は『アイス・オン・ファイヤー』のプロデューサーとして再起用している。2002年7月21日に、妻と共に交通事故死。
- クリス・トーマス/Chris Thomas
- 1980年代以降の多くの作品を手がけたプロデューサー。エルトンとは、ロイヤル・アカデミーの学友でもある。セックス・ピストルズのアルバム『勝手にしやがれ!!』のプロデューサーとしても有名。
- ポール・バックマスター/Paul Buckmaster
- アレンジャーとして『エルトン・ジョン』より参加。弦楽器により音に深みを出し、初期のエルトンのイメージを形成した。近年の作品にも参加している。デヴィッド・ボウイの楽曲『スペイス・オディティ』を共に手がけた、ガス・ダッジョンをプロデューサーに使うよう進言した。
- フレディ・マーキュリー/Freddie Mercury
- ニック・カーショウ
- アルバムやツアーに、ギタリストとして参加[7]。
- アクセル・ローズ/Axl Rose
- 1980年代末に鮮烈なデビューを飾ったアメリカのロックバンド、ガンズ・アンド・ローゼズのヴォーカリスト。前述のフレディ追悼コンサートでアクセルと『ボヘミアン・ラプソディ』を披露したり、1992年のMTVアワードではガンズの代表曲『ノーヴェンバー・レイン』をセッション。1994年、エルトンがロックの殿堂入りを果たした際、授賞式でのプレゼンターをアクセルが務めた。
- エミネム/Eminem
- レディー・ガガ/Lady Gaga
- 現代ポップミュージックのアイコンとして世界中でブレイクしているアメリカの女性シンガー。エルトンとは親友であり、ライヴでもコラボしたことがある。2010年、エルトンが同性結婚をし、第一子を授かった際、後見人をガガに任せることを発表した。
ディスコグラフィ
スタジオ録音作品
- 『エンプティ・スカイ (エルトン・ジョンの肖像)』 - Empty Sky (1969年) - 1975年に新装ジャケットで再発売されたが、CD化の際にオリジナル装丁に戻された。
- 『僕の歌は君の歌』 - Elton John (1970年)
- 『エルトン・ジョン3』 - Tumbleweed Connection (1970年)
- 『マッドマン』 - Madman Across the Water (1971年)
- 『ホンキー・シャトー』 - Honky Château (1972年)
- 『ピアニストを撃つな!』 - Don't Shoot Me, I'm Only the Piano Player (1973年)
- 『黄昏のレンガ路』 - Goodbye Yellow Brick Road (1973年)
- 『カリブ』 - Caribou (1974年)
- 『キャプテン・ファンタスティック』 - Captain Fantastic and the Brown Dirt Cowboy (1975年)
- 『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』 - Rock of the Westies (1975年)
- 『蒼い肖像』 - Blue Moves (1976年)
- 『シングル・マン』 - A Single Man (1978年)
- 『恋に捧げて〜ヴィクティム・オブ・ラヴ』 - Victim of Love (1979年)
- 『21 AT 33』 - 21 at 33 (1980年)
- 『ザ・フォックス』 - The Fox (1981年)
- 『ジャンプ・アップ』 - Jump Up! (1982年)
- 『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ』 - Too Low for Zero (1983年)
- 『ブレイキング・ハーツ』 - Breaking Hearts (1984年)
- 『アイス・オン・ファイアー』 - Ice on Fire (1985年)
- 『レザー・ジャケッツ』 - Leather Jackets (1986年)
- 『REG‐ストライクス・バック』 - Reg Strikes Back (1988年)
- 『ザ・コンプリート・トム・ベル・セッションズ』 - The Complete Thom Bell Sessions (1989年) - 1979年に発表されたものの完全版
- 『スリーピング・ウィズ・ザ・パスト』 - Sleeping with the Past (1989年)
- 『ザ・ワン』 - The One (1992年)
- 『デュエット・ソングス』 - Duets (1993年)
- 『メイド・イン・イングランド』 - Made in England (1995年)
- 『ビッグ・ピクチャー』 - The Big Picture (1997年)
- 『ソングス・フロム・ザ・ウエストコースト』 - Songs from the West Coast (2001年)
- 『ピーチ・ツリー・ロード』 - Peachtree Road (2004年)
- 『キャプテン・アンド・ザ・キッド』 - The Captain and the Kid (2006年)
- 『ザ・ユニオン』 - The Union (2010年)
- 『ザ・ダイヴィング・ボード』 - The Diving Board (2013年)
ライヴ盤
- 『ライヴ!!(17-11-70)』 - 17-11-70 (1971年) - 米題 11-17-70
- 『ヒア・アンド・ゼア〜ライブ・イン・ロンドン&N.Y.』 - Here and There (1976年)
- もともとはアナログA面(ロンドン・サイド)とB面(ニューヨーク・サイド)1枚でリリースされたアルバムがCDリミックスでリニューアルされた時2枚にまとめられた。2枚目には歴史的なジョン・レノンのゲスト出演で、一緒に演奏した「真夜中を突っ走れ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」のライヴ音源なども収録されている。
- 『エルトン・スーパー・ライヴ 〜栄光のモニュメント〜』 - Live in Australia with the Melbourne Symphony Orchestra (1987年)
- 『ワン・ナイト・オンリー〜グレイテスト・ヒッツ・ライヴ』 - One Night Only (2000年)
このほか、限定盤として、Live at The Ritz LIMITED EDITION(1999年)やLIVE AT MADISON SQUARE GARDEN(2000年)、LIVE AT MADISON SQUARE GARDEN volume2(2001年)がある。
サウンドトラック
- 『フレンズ』 - Friends (1971年)
- 『ライオン・キング/オリジナルサウンドトラック』 - The Lion King (1994年)
- 『アイーダ』 - Elton John & Tim Rice's AIDA (1999年)
- 『ハリウッド・ミューズ/オリジナルサウンドトラック』 - Original Motion Picture Soundtrack "THE MUSE" (1999年)
- 『エル・ドラド/黄金の都〜オリジナルサウンドトラック』 - The Road to El Dolado (2000年)
- 『ノミオ&ジュリエット/オリジナルサウンドトラック』 - Gnomeo & Juliet(2011年)
ベスト盤
- 『グレイテスト・ヒッツ』 - Greatest Hits (1974年)
- 『グレイテスト・ヒッツ Vol.2』 - Greatest Hits Volume II (1977年)
- 『レディ・サマンサ』 - Lady Samantha (1980年) - アルバム未収録曲集。
- 『グレイテスト・ヒッツ Vol.3』 Greatest Hits (1987年、日本未発売) - 米国ゲフィンでのベスト。
- 『トゥ・ビー・コンティニュード』To Be Continued... (1990年、日本発売の『GREAT BOX』もほぼ同内容。) - ブルーソロジー時代から'90年までの主にアメリカでのヒット曲と未発表曲集。
- 『ベリー・ベスト・オブ・エルトン・ジョン』 - The Very Best of Elton John (1990年)
- 『イエス・イッツ・ミー〜レア・トラックス』 - Rare Masters (1992年)
- 『ラヴ・ソングス』 - Love Songs (1995年) - 同タイトルの欧州版は「リトル・ジニー」や「クロエ」のシングルバージョン収録。
- 『エルトン・ジョン・グレイテスト・ヒッツ 1970-2002』 - Greatest Hits 1970-2002 (2002年)
- 『ザ・ベスト〜僕の歌は君の歌』 - Rocket Man: The Definitive Hits (2007年)
日本公演
- 1974年 Goodbye Yellow Brock Road Tour
- 2月1日,2日 日本武道館、3日,4日,5日 大阪厚生年金会館、7日 福岡市九電記念体育館、8日 広島郵便貯金ホール、9日 京都会館、10日 大阪・フェスティバルホール、11日 名古屋市公会堂、13日 東京厚生年金会館
- 1988年 ERIC CLAPTON 25th Anniversary Tour with エリック・クラプトン、マーク・ノップラー
- 10月31日 名古屋レインボーホール、11月2日 東京ドーム、4日 日本武道館、5日 大阪球場
- 2月6日 大阪城ホール、7日 福岡国際センター、9日 名古屋センチュリーホール、11日 大阪城ホール、12日,14日,15日,16日 日本武道館
- 2001年 Elton John & His Band
- 2007年 An Evening with Elton John Solo
- 11月20日,21日 日本武道館
豆知識
- 日本のオリコンにおけるエルトン・ジョンのシングルで初チャートイン曲(100位以内、以下同)は1971年の「フレンズ」。1970年の「僕の歌は君の歌」(Your Song)は発売当時はチャートインしていない。1992年に映画『エンジェル 僕の歌は君の歌』の主題歌に「僕の歌は君の歌」が起用され再発、実に発売から22年後の初チャートインとなった。オリコン上、エルトン・ジョンのシングルで最も売れたのは「キャンドル・イン・ザ・ウインド1997」を除くと「イエス、イッツ・ミー」である。
- 1994年にリリースされた「愛を感じて」"Can You Feel The Love Tonight?" はディズニー映画「ライオン・キング」の主題歌になっており、彼自身この曲で賞を受けている。
- 1998年の日本公演ではゴジラ、桜の木、ヨーダ(スター・ウォーズの登場人物)の被り物を被って登場し、被ったままで演奏、歌唱。協演したビリー・ジョエルからは色々とツッコまれた。
関連項目
脚注
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-37687720090424
- ↑ テンプレート:Cite web他
- ↑ http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-20940020110505?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ Nik Kershaw ニック・カーショウ
- ↑ [エルトン・ジョン、エミネムの薬物中毒治療をサポート www.mtvjapan.com/news/celebrity/16989]
- ↑ [エミネム、リハビリ中はエルトン・ジョンに相談していた www.mtvjapan.com/news/music/15697]