フレディ・マーキュリー
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フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury、1946年9月5日 - 1991年11月24日)は、イギリスのミュージシャン。ロックバンド、クイーンのボーカリスト。また、ソロ歌手としても活動した。本名はファルーク・バルサラ(Farrokh Bulsara、グジャラート語: ફ્રારુક બલ્સારા))。
優れた歌唱力と独自のマイクパフォーマンスで高く評価されている。また、「ボヘミアン・ラプソディ」や「キラー・クイーン」、「バイシクル・レース」、「伝説のチャンピオン」などのヒット曲を作詞・作曲した。
1991年11月24日、HIV感染合併症によるニューモシスチス肺炎(カリニ肺炎)のため死去。45歳。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第18位[1]。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第47位[2]。
雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票では、1975年度の10位を皮切りに1976年度から3年連続で1位に輝き、1980年度にはキーボード・プレイヤーとして1位に、1981年度にはヴォーカリストとして再び1位に返り咲いている。
目次
生い立ち
マーキュリーは、当時イギリス領だった、東アフリカ・タンザニアにあるザンジバル島のストーン・タウンで生まれた。両親のBomiとJer Bulsaraは、ペルシャ系インド人であるパールシー。彼の名字のバルサラは、インド・南グジャラートの町であるバルサードに由来する。植民地のオフィスで会計係として働く彼の父親が仕事を続けるため、ザンジバルに移った。彼の妹にKashmiraがいる[3]。
マーキュリーは、インドで幼少期の大半を過ごした。7歳の頃にピアノを習い始める[4]。1954年、8歳でボンベイ(今のムンバイ)郊外の全寮制の英国式寄宿学校、セント・ペーターズ・ボーイズ・スクールに通う[5]。この頃から複数のロックバンドで活動し、ピアノとヴォーカルを担当した。ボリウッド歌手のラタ・マンゲシュカが彼のミュージカル形式に影響を与える[6]。12歳で、彼はスクールバンドの「ザ・ヘクティクス」、クリフ・リチャードやリトル・リチャードのカバー・ロックンロール・バンドを組織する[7]。当時の彼の友人は、フレディは「ラジオを聴き、その後で聴いた曲をピアノで再現する、異様な能力」を持っていたと振り返る[8]。彼はボンベイのセント・メアリーズ・スクールで教育を終えるまで、祖母や叔母とインドに住んだ[9]。
1964年、17歳のとき、ザンジバル革命が起こり、アラブ人とインド人の多数の死傷者が出た。マーキュリーとその家族は、安全上の理由でザンジバルから逃れた[10][11]。家族は、イングランドのミドルセックス州フェルサムにある小さな家へ移り住んだ。マーキュリーはウェスト・ロンドンにあるアイルワース工業学校(現在のウェスト・テムズ・カレッジ)に入り、芸術を学んだ。その後、イーリング・アートカレッジへ進み、芸術とグラフィック・デザインの修了証書を受け取る。彼は後に、クイーンでこれらの技術を用い衣装をデザインしている[5]。
卒業後、マーキュリーはバンドに参加しながら、ガールフレンドであるメアリー・オースティンとロンドンのケンジントン・マーケットで古着を販売していた。彼はさらに、ヒースロー国際空港でも職に就いた。当時の友人は、彼を「音楽に対して関心を示す、静かで内気な若者」として記憶している[12]。1969年、彼はレッケイジと改名し、バンドのアイベックスに参加する。しかし、このバンドは上手くいかず、サワー・ミルク・シーという別のバンドに加わる。しかし、このグループも、1970年前半には同様に解散した[13]。
1970年4月、マーキュリーは、ギタリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラーが所属するバンド、スマイルに加わる。他のメンバーや最初の経営者に関わらず、マーキュリーはバンドの新しい名として「クイーン」を選んだ。彼は後に、バンド名について「私は確かにゲイだと気づいていた。しかし、それは単なる一面だ」と語っている[14]。同時期、彼は名字のバルサラをマーキュリーに変更した[15]。
活動
クイーンに参加の当初からしばらくは、同じくメンバーのロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営した。また、クイーンがデビューする直前にラリー・ルレックスという名義でソロ・シングルを発売している。
作曲者
「ボヘミアン・ラプソディ」「輝ける7つの海」「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「懐かしのラヴァー・ボーイ」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」「愛という名の欲望」「プレイ・ザ・ゲーム」と、グレイテスト・ヒッツに収録されている17曲のうち、10曲はマーキュリーが作曲している[16]。1980年リリースの『ザ・ゲーム』まではクイーンの代表曲の多くを作曲した。その後の個人名義での作曲は、過去の焼き直し的な曲もあり、曲数もほかのメンバーとの比率の面で初期と比較して少なくなっていった。
彼の作曲の大きな特徴は、ロカビリー、プログレッシブ・ロック、ヘヴィメタル、ゴスペル、ディスコを含む、広いジャンルで作曲していることである。1986年のインタビューでは、「私は再び同じ事をするのを嫌っている。音楽、映画、演劇において、今何が起こっているのかを確かめ、それら全てを取り入れることが好きなんだ」と説明している[17]。多くのシンガーソングライターと比較しても、マーキュリーはいろいろな音楽を組み合わせて作曲する傾向があった。
ライブパフォーマー
マーキュリーはライブパフォーマンスで有名であり、世界中の競技場でライブを行った。彼は観客からの多くの参加をときどき喚起し、ハイレベルなショーを見せていた。「スペクテイター」の作者は、彼は「難題、ショックから出たパフォーマーであり、自分自身の様々な度を越えたバージョンで観客を魅了させている」と述べている[18]。フレディ・マーキュリー追悼コンサートに参加し、クイーンと共にアンダー・プレッシャーをレコーディングしたデヴィッド・ボウイは、マーキュリーのパフォーマンスについて、「数ある多くのロックパフォーマンスの中でも、フレディは他よりもさらによい物を行った。もちろん、私はいつもタイツを着た彼に感心していた。私は昔コンサートで彼と会ったが、彼は明確に、手のひらの中に観客を抱くことができる人だった」と賞賛している[19]。クイーンのギタリスト、ブライアン・メイは、マーキュリーについて「スタジアムの最も離れた後ろの人まで、彼と繋がっているように感じた」と書いている[20]。
マーキュリーがクイーンと行った最も有名なパフォーマンスの1つに、1985年のライヴエイドがあり、スタジアム全体の72,000人の観客が、パフォーマンスに合わせて叩いたり、歌ったり、揺れたりした。イベントでのクイーンのパフォーマンスは、それ以来ロックの歴史で最も良いライブパフォーマンスであると投票されている。その結果、「世界で最も偉大な演奏」と呼ばれたテレビ番組で放映された[21][22]。批評家の1人は、2005年にライヴエイドを調査していた際に、「偉大なロックのフロントマンのリストをまとめ、ミック・ジャガーやロバート・プラントなどをトップとして賞する人々は、罪深い恐ろしい見落としをしている。フレディは、ライブ・エイドのパフォーマンスで証明されたように、他の誰よりも疑いなく最も素晴らしい」[23]。
マーキュリーの活動中、彼はクイーンと共に世界中で概算700ものコンサートを行った。クイーンのコンサートの有名な特徴は、大規模で複雑なことだった[17]。彼は以前「我々はロックンロールのセシル・B・デミルであり、いつもより大きく、より良い事をしたいと考えている」と説明していた[17]。クイーンは、1981年のサンパウロ、エスタジオ・ド・モルンビーでコンサートを行い、観客数の世界記録を破った[24]。1986年に、クイーンが鉄のカーテンの後ろのブダペストで、80,000人の観客を前に行ったパフォーマンスは、東欧で今まで行われた最大級のロックコンサートの1つとなっている[25]。マーキュリーは、クイーンとの最後のコンサートを1986年8月9日にイングランドのネブワース公園で行い、300,000ほどの多くの観客を呼び込んだ[26]。
初期のライヴでは主にザンドラ・ローズがデザインした衣装を着用。1970年代後半のライヴでは、レザースーツやタイツが多く使われ、上半身を露出したタイプのものが多い。1980年代に入るとTシャツ、タンクトップなどのシンプルな衣装になった。
楽器奏者
インドの若い少年だった頃、マーキュリーは9歳までピアノを習っていた。後のロンドン在住時には、ギターも学んだ。彼の好きだった音楽の多くはギターが中心だった:彼が当時気に入っていたアーティストに、ザ・フー、ビートルズ、ジミ・ヘンドリクス、デヴィッド・ボウイ、レッド・ツェッペリンがいた。彼は多くの場合、両方の楽器に関して謙虚であり、1980年代初頭以降、クイーンとソロ活動の両方で、キーボード奏者を招いていた。最も顕著なことに、彼はフレッド・マンデル(ピンク・フロイド、エルトン・ジョン、スーパートランプで働いたカナダ人ミュージシャン)の最初のソロプロジェクトに協力した。また、1985年からは、スタジオでマイク・モランと、コンサートでスパイク・エドニーと協力し、残りのキーボードをほとんど担当している。
マーキュリーは、「キラー・クイーン」、「ボヘミアン・ラプソディ」、「懐かしのラヴァー・ボーイ」、「伝説のチャンピオン」、「愛にすべてを」、「ドント・ストップ・ミー・ナウ」など、クイーンの代表曲のほとんどのピアノを弾いている。彼はコンサート・グランドピアノを使用し、時折、ハープシコードのような、他の鍵盤楽器も使っている。1980年代からは、スタジオで頻繁にシンセサイザーを使うようになった。クイーンのギタリスト、ブライアン・メイは、マーキュリーは、彼のピアノの能力に感銘を受けるのではなく、舞台の上を歩き回って観客を楽しませたかったため、楽器を演奏していた時間が少なくなっていたと主張している[27]。彼は、ギター用に多くの曲も書いたが、ギターは基本的な技術しか持っていなかった。「オウガ・バトル」、「愛という名の欲望」のような曲は、ギターで構成されており、後の方では、ステージとスタジオの両方で、マーキュリーが演奏するアコースティック・ギターが特徴となることもあった[28]。
クイーンのライヴ・スタジオにおいては、シンセサイザー、タンバリン、リズムギター、ハープシコード、チェレスタ、アコースティック・ギター、オルガン、カウベル、パーカッション、シンセベース、マラカスなどにクレジットされている。
ソロ活動
個人名義でのソロアルバムは実質的に1枚しか発表されておらず、後述の『Mr.バッド・ガイ』(1985年リリース)のみである。発売時の日本ではクイーンの人気は1970年代ほどではなく、シングル「アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」がノエビア化粧品のCMに使われたものの、全盛期のクイーンのアルバムほどの売り上げではなかった。またCBSからのリリースであったせいか(クイーンはEMI)、死後もしばらくは廃盤になっていた(現在、『Mr.バッド・ガイ』単体はソニーの運営するダウンロードサイトmoraで全曲一括購入が可能)。
他にオペラ歌手のモンセラート・カバリェとコラボーレートして、アルバム『バルセロナ』を発表している。
その後、レーベルの垣根を越えた形で、シングル、未発表音源、リミックスなどを集めた編集アルバムなどがリリースされているが、唯一のオリジナル・ソロ・アルバムは現在でも単体では手に入りにくい。
非公式ではあるが、ジャクソンズとミック・ジャガーのヒット曲「ステイト・オブ・ショック」はフレディが歌ったバージョンも録音されている。また同時期に行ったセッションのなかにはソロアルバム『Mr.バッド・ガイ』に収録された「There Must Be More To Life Than This/生命の証」をマイケル・ジャクソンと共に歌うバージョンとマイケル・ジャクソンがソロで歌うヴァージョンが音源として残っている。
デザイナー
前述の通り、イーリング・カレッジでグラフィック・デザインを学んだフレディは、初期の自筆バイオグラフィーで以前の職業の欄にイラストレイターと書き記している。ただし、仕事としてイラストを描いていたという記録は確認できていない。
2011年9月16日、イギリスdaily televisionのフレディー65才の誕生日記念放送にて、母親のJer Bulsaraと 妹のKash Cookeが出演し、本人が描いた衣装デザインスケッチと製作した実物の衣装を披露した。当時人気のジミ・ヘンドリックスの衣装をまねて縫製し、着飾った写真と衣装も大切に保管されており公開された。
クイーンのファーストアルバムの裏ジャケットには、のちに『オペラ座の夜』の表ジャケットとして知られる、真ん中に図案化したアルファベットのQの文字を配し、一番上に白鳥、その下にブライアン・メイの誕生星座である蟹、Qの両側にはロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンの星座である獅子を配し、自身の乙女座から妖精も加えたロゴ・マークをデザインした。 その後、このロゴ・マークは同じデザインで三枚のアルバムまで裏ジャケットに描かれ、『オペラ座の夜』、『華麗なるレース』では若干デザインを変更した形でジャケットを飾っている。次作『世界に捧ぐ』ではレコード盤の真ん中のレーベルのスペースに描かれた。これらのデザイン変更においてフレディ自身がその都度描き起こしたかどうかは定かではない。
アルバムジャケットのコンセプトという観点では、単独でクレジットされているものに『ホット・スペース』のジャケットがある。しかしながら『世界に捧ぐ』のジャケットのようにロジャーがイラストを見つけてきたというようなエピソードが残っている事例を除けば、グループの一員としてフレディの意見が反映されていることは想像に難くない。
私生活
1970年代初期から、ブライアン・メイの紹介によって知り合ったメアリー・オースティンと交際、1970年代中頃までウェスト・ケンジントンで共に生活するも、フレディがエレクトラ・レコードの重役のアメリカ人と浮気したため破局。その後も二人は友人としての付き合いを続けた。1980年代前半、オーストリアの女優バーバラ・バレンタインと交際していたが、その後破局。
1984年より、ジム・ハットンと交際を始め、それ以後、死に至るまで約7年の間付き合う。ジムはその穏やかな性格と純粋な人柄でフレディを温かく見守り、フレディが死を迎える最後の時まで看病に奔走し、付き添った。そのためジムはフレディの最後で最高の恋人だったと語られることも多い。特にジムが、フレディによると思われるジム自身のHIV感染を、フレディに知られぬよう最後まで口外しなかったことは有名。ジムは2010年1月1日に死去した。
公に明かす事はなかったが、フレディは両性愛者であったと思われる。前述のように私生活では女性とも男性とも恋愛関係を持ち、また、多くの老若男女を招いて乱交パーティーをたびたび行っていたようである。また、1979年頃よりバスハウス(男同士の恋愛のための発展場・バー・サウナ・ディスコを兼ねた複合施設)にも足を運んでいたという。
また、インドで育ったという過去をロックのイメージに合わないからか、隠したがっていたようである。インド出身とからかうととても嫌そうにしていたと友人が語っている。またロジャーによると、メンバー内でもその話は避けていたという。[29]
親日家であり、来日公演時以外にも1986年秋にお忍びで来日し、骨董品などを買い求めて行った。伊万里焼コレクターであり、ロンドンの自宅には日本庭園を設けていた。また、新宿二丁目には行き着けのバーがあったという[30]。日本語にも通じており、来日公演時のMCの半分は日本語だった。アルバム『バルセロナ』に収録されている「La Japonaise」の歌詞の大部分は日本語で書かれている。
猫
彼は愛猫家としても有名。ロンドン・ケンジントンの自宅、ドイツ・ミュンヘンの別宅で数匹の猫を飼っていた。 アルバム『イニュエンドゥ』収録の「デライラ」は、かれが特に溺愛した飼い猫の「ディライラ」のために作られた曲。歌詞は猫へのメッセージで構成されており、曲中に猫の鳴き声(の真似)が聞こえる。晩年は猫をプリントしたシャツを着用する写真が多く、イニュエンドゥのPVでも見られる彼のイラストや、「輝ける日々」のPVの彼の衣装(上記、猫プリントシャツ)にも猫が描かれている。
批判
HIV
マーキュリーは数年間、自身のHIVの容態を公に発表しなかった。彼のおかれた状況や闘病に関して以前に話すことにより、エイズの意識に彼がより貢献できたと示唆されている[31][32]。
他の論争
クイーンは、アパルトヘイトが行われていた南アフリカのホームランド、ボプタツワナのエンターテイメント施設、サン・シティでライブを行い、1987年の国連によるカルチャー・ボイコットを破ったとして、多く批判された。これらのライブの結果、クイーンはボイコットを破ったアーティストとして国連のリスト(他に、ロッド・スチュワート、ステイタス・クオーも含まれる)に載ることとなり、NMEのような雑誌からも広く批判された。これに対し、ブライアン・メイは「バンドは政治ではない。俺たちの音楽を聴きたい人のためなら、どこでも演奏する」と反発した。クイーンは、その得た収益の一部を、聴覚・視覚障害者のための学校へ寄付した[23]。
マーキュリーが60歳になっていたであろう誕生日の大規模な祝賀を取り消すことをイスラム動員・宣伝 (?, Islamic Mobilization and Propagation) と呼ばれる機関がザンジバルの政府文化庁に請願し、2006年8月より論争が続いた。この組織は、マーキュリーが本当のザンジバル人ではなかったこと、シャリーアに反し、彼がゲイであったことなど、計画された祝賀会に対していくつか苦情を出した。組織は、「ザンジバルとマーキュリーを結びつけることは、イスラムの土地である私たちの島の価値を下げる」と主張した[33]。この祝賀計画は取り止められた。
病気と死
彼のパートナー、ジム・ハットンによれば、マーキュリーは1987年のイースター直後にエイズと診断された[34]。このとき、マーキュリーはHIVが陰性かどうかテスト結果を質問している[35]。本人は対外的には噂を否定していたものの、英国のマスメディアは1990年頃より、マーキュリーのやせた外観、クイーンのツアーへの不参加などから、エイズに感染しているのではないかと盛んに報じた[36]。マーキュリーが生前最後にステージに立ったのは、1990年2月18日にドミニオン劇場で行われたブリット・アワードの授賞式であった[37][38]。
日刊タブロイド新聞ザ・サンは、彼が重病だと主張する記事を掲載し、何人ものカメラマンがマーキュリーの様子を撮影しに奔走した。1990年11月には、「これは公式だ。フレディは重病である」として一面にマーキュリーのやつれた写真が掲載された[39]。しかし、マーキュリー本人や同僚・友人などは、1991年4月29日にやせたマーキュリーの写真が掲載された後も、絶えず噂を否定していた[40]。
マーキュリーの死後、ブライアン・メイは、彼がクイーンの他のメンバーに対し、早い時期に真実を知らせていたと、1993年のインタビューで証言している[41]。1991年5月の、輝ける日々のミュージック・ビデオは彼が生前最後に出演した映像作品であるが、その写真からは見る影もなくやせ衰えたマーキュリーの様子が窺える[42]。
1991年6月、クイーンとの仕事を終えた後、マーキュリーはケンジントンの自宅に戻った。死期が近づくにつれ、マーキュリーの視力は衰え始めた。容体は急速に悪化し、終いにはベッドから出られなくなった[43]。
1991年11月24日夜に、マーキュリーはケンジントンの自宅で死去した。45歳という若さだった[44]。死因は、エイズによる気管支肺炎である[45]。彼の死を伝える報道は、11月25日の午前までに、新聞とテレビによって報じられた[46]。フレディの遺言により、遺体は遺族により火葬され散骨された。その場所は明らかにされていないが、一説によれば、彼の自宅の庭に埋められているともされているテンプレート:要出典。
フレディの死にともない、クイーンは活動を休止した。1992年4月20日には残されたクイーンのメンバーが中心となり、イギリス・ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートが行われた。また、「バルセロナ」[47]を歌う予定だった同年夏のバルセロナオリンピック開会式では、ホセ・カレーラスがフレディの代わりを務めた。
死後、生前に残した遺言にしたがってクイーンでもっとも売れた曲である「ボヘミアン・ラプソディ」の印税がエイズ基金「テレンス・ヒギンズ・トラスト」に寄付された。また、それを受けて再発されたシングルCDはイギリス史上初の同一曲2度の1位を獲得した。
2006年10月21日には、ドキュメンタリー映画「フレディ・マーキュリー~人生と歌を愛した男」が公開された。この映画はDVDとして発売されている。
死後、FMA(Freddie Mercury Association、フレディ・マーキュリー基金)というHIV感染症に関する治療費の寄付を募る団体がつくられたが、2008年12月末日にて活動を休止した。なお、FMAは日本独自で活動していた団体である。
他に、フレディ・マーキュリー追悼コンサート(The Freddie Mercury Tribute Concert for AIDS Awareness)の収益を元に立ち上げられた財団、マーキュリー・フェニックス・トラスト(The Mercury Phoenix Trust)は、現在でも活動している。
遺産・影響
続いた人気
マーキュリーの死が、クイーンの人気をさらに高めたともいわれている。1980年代に、クイーンが遅れて人気となったアメリカでは、彼の死後の1992年に、アルバム販売数が劇的に増えた[48]。1992年には、アメリカの批評家の一人が「冷笑家が『死去したスター』と呼ぶ効果が出た。クイーンは復活している途中だ」と語った[49]。また、「ボヘミアン・ラプソディ」が使用された映画「ウェインズ・ワールド」は、1992年に発表された。アメリカレコード協会によると、クイーンのアルバムは、アメリカで3450万枚売れ、これらのうちのおよそ半分は、マーキュリーが1991年に死去してから売られている[50]。
クイーンの現在までの世界中の記録的な売り上げは、3億枚と高く見積もられている[51]。イギリスでは、クイーンは全英アルバムチャートにおいて、最も多くの週に登場しており、ビートルズをしのいでいる[52]。また、クイーンの「グレイテスト・ヒッツ」は、イギリスの今までで最も売れたアルバムである[53]。彼の「伝説のチャンピオン」と「ボヘミアン・ラプソディ」の2曲は、ソニー・エリクソンとギネス・ワールド・レコーズにより、それぞれ最も偉大な歌として主要投票で投票されている[54][55]。この昔の投票は、世界のお気に入りの歌を決定する試みであり、ギネスの投票はイギリスで行われた。2007年10月、「ボヘミアン・ラプソディ」のビデオは雑誌・Qの読者により、今までで最も良いものとして投票された[56]。ポピュラーな音楽の歴史で最も偉大な歌手の1人として評価されるマーキュリーは、MTVの最も良い歌声22において、マライア・キャリーに次いで2番目に多く投票された[57]。さらに、2009年1月には、デジタルラジオ局・プラネット・ロックにおいても、ロックで最も良い歌声の投票で、ロバート・プラントに次いで2位となった[58]。2009年5月の雑誌・クラシック・ロックの投票では、マーキュリーが最も偉大なロック歌手であることが認められた[59]。2011年には、雑誌・NME読者の投票で、マイケル・ジャクソンに次いで今までで最も偉大な歌手と評された[60]。2011年、「ローリング・ストーン」の読者は、マーキュリーを「史上最高のリードボーカリスト」で2位とした[61]。
死後に発表されたクイーンのアルバム
1995年11月、クイーンは、フレディ・マーキュリーが1991年から録音し、リリースされていない最後の曲を収録したアルバム「メイド・イン・ヘヴン」をリリースした。これには、残ったメンバーによるソロ活動の曲を前年から再加工したバージョンも加えられている[62]。アルバムのカバーには、彼が最後に作曲しレコーディングしたマウンテン・スタジオのある、スイス、モントルーのジュネーブ湖を見下ろすフレディ・マーキュリー像が描かれている[62]。アルバムジャケットには、「フレディ・マーキュリーの不滅の精神に捧げる」と記載されている[62]。
ソロアルバム
- Mr.バッド・ガイ(1985)
- アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ラヴ・ユーの初出アルバム。
- バルセロナ (en) (1988) スペインの世界的なオペラ歌手モンセラート・カバリェとのコラボレーション。
- ベスト・オブ・フレディ・マーキュリー(上記2作をまとめ、ボーナス・ディスクを加えた品)
- リミキシーズ(1993)
- フレディ・マーキュリー・コレクション 1973~2000(2000)
2006年8月30日には、既発の曲を含め、それらをリミックスした曲も追加収録したCD「ヴェリー・ベスト・オブ・フレディ・マーキュリー」がリリースされた。
関連アーティスト
影響を受けたアーティスト
初期の自筆のバイオグラフィによれば、ジミ・ヘンドリックス、ビートルズおよびジョン・レノン、ロバート・プラント、ライザ・ミネリなどの名前を、好きなアーティスト、影響を受けたアーティストに挙げており、またクラシックの作曲家(パガニーニ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、オペラ曲)などの名前を挙げることもあった。
- エルヴィス・プレスリー
- 世界で最も成功したソロ・シンガー。フレディがヴォーカリストとして彼を尊敬しており、「プレスリーはスーパースター」と語っている。フレディが制作した楽曲や衣装などからもプレスリーの影響が窺え、特にフレディ作の楽曲「愛という名の欲望」は、プレスリーの音楽性を意識していると思われる。
- ロバート・プラント
- クイーンと同じく、イギリスを代表するロックバンド、レッド・ツェッペリンのヴォーカリストで、フレディと親交が深かった。また、フレディが尊敬するシンガーでもあり、初期のクイーンはレッド・ツェッペリンの影響を大きく受けている。フレディが死去した際もプラントは追悼コンサートに駆け付け、クイーンの楽曲「イニュエンドゥ」を披露した。
交友のあったアーティスト
- ライザ・ミネリ
- アメリカの女優で歌手。フレディが尊敬していたアーティストの1人であり、クイーンと交友もあった。「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」では、トリに「伝説のチャンピオン」を歌い上げ、スタジアムを盛り上げた。
- クリフ・リチャード
- イギリスを代表する大御所歌手であり、1987年にリチャード主演のミュージカル「タイム」の特別チャリティー公演にフレディがゲスト参加した。1986年に開演したこのミュージカルのアルバムでは元々フレディがテーマソングの「タイム」と「イン・マイ・ディフェンス」を歌っている。ライヴでは、「エブリワン・オブ・ミー」と「イン・マイ・ディフェンス」を披露しており、現在も一部の音源が残っている。一般的には、フレディの最後のステージは前年の「マジック・ツアー」であると認識されているが、実際の最後のパフォーマンスは大御所リチャードとの共演であった。ちなみに「タイム」は現在「ウィ・ウィル・ロック・ユー」がロングラン公演されているドミニオン・シアターで上演されていた。
- モンセラート・カバリェ
- スペインを代表するオペラ歌手で、フレディが彼女のファンだった。1988年、フレディの熱烈なアプローチにより、フレディのソロ・アルバム『バルセロナ』で完全共演を果たした。1992年のバルセロナオリンピックのオープニングで2人が楽曲「バルセロナ」デュエットする予定だったが、前年にフレディが急死したため、ホセ・カレーラスが代役を務めた。
楽曲を使用している作品
- CM
脚注・出典
関連項目
- ブライアン・メイ - クイーンのギタリスト
外部リンク
- Official Freddie Mercury site (Lover of Life Singer of Songs)
- テンプレート:MySpace (EMIオフィシャルページ)
- テンプレート:Discogs artist
- フレディ・マーキュリー - Allmusic
- テンプレート:Last.fm
- テンプレート:IMDB name
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