ディジー・ガレスピー

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ディジー・ガレスピーDizzy Gillespie (本名:ジョン・バークス・ガレスピー John Birks Gillespie), 1917年10月21日 - 1993年1月6日)は、アフリカ系アメリカ人ジャズミュージシャン。トランペット奏者でバンドリーダー、コンポーザー。

アルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーと共に、モダン・ジャズの原型となるスタイル「ビバップ」を築いた功労者の一人としてジャズの歴史上で讃えられ、ラテン・ジャズを推進させたアーティストとしても知られる。

ベルが上に突き出たトランペットを、頬をいっぱいにふくらませ、高らかなトーンで豪快かつテクニカルに演奏するスタイルは人気を博した。だみ声でのスキャットを得意とする個性的なジャズ歌手でもある。

経歴

1917年10月21日、アメリカサウスカロライナ州チーローに生まれる。レンガ職人だがアマチュアミュージシャンでもあった父親の影響で音楽に親しみ、14歳からトロンボーンを演奏するようになったがすぐにトランペットに転じた。

一家がフィラデルフィアに転居した後、18歳の頃からローカルバンドでプロの演奏家として活動するようになる。スイング・ジャズ時代の名トランペッターであるロイ・エルドリッジ(Roy Eldridge 1911年-1989年)に影響を受けたプレイで才能を伸長した。

1937年にはそのエルドリッジの後任者としてテディ・ヒルのバンドに入団したが、既存のスタイルに飽き足りないガレスピーは変わった演奏の試みを繰り返し、また奇矯な振る舞いが目立ったことから同僚とは度々いさかいを起こした。その後、1939年にはエンターテイナーとして知られるキャブ・キャロウェイ(Cab Calloway 1907年-1994年)のバンドに参加したが、ここでもリーダーのキャブと喧嘩を起こしたあげくキャブに怪我を負わせる刃傷沙汰となって1941年に退団した。

テディ・ヒル楽団での同僚であるドラマーのケニー・クラーク(Kenny Clarke 1914年-1985年)は、やはり従来にない前衛的なスタイルの演奏法を研究しており、ガレスピーとも意気投合した。彼らは従来のスイングジャズをビッグバンドのサイドメンとして限られた枠内の表現で演奏することに満足していなかった。

ガレスピーは1940年頃から、余暇のジャムセッションにおいてケニー・クラークやギタリストのチャーリー・クリスチャン(Charlie Christian 1916年-1942年)、ピアニストのセロニアス・モンクらと共に、リズムを重視し、より自由なアドリブを追求した新しいスタイルのジャズを探求するようになる。これこそがモダン・ジャズの礎となるビバップの萌芽であった。彼らのたまり場であったニューヨークのクラブ「ミントンズ・プレイハウス」における1941年のジャムセッションの私家録音(『ミントンズ・ハウスのチャーリー・クリスチャン』というタイトルでレコード化されている)は、その黎明期における貴重な記録である。

ガレスピーは更に天才的なサックス奏者のチャーリー・パーカーとも知り合って、当時全盛期のスイングスタイルよりも格段に進んだアバンギャルドなジャズを開拓していった。二人は1940年代前半にはピアニストのアール・ハインズ(Earl Hines 1905年-1983年)のビッグバンドで活動するかたわら音楽的研鑽を続けた。1944年にハインズ楽団の実力派美声歌手であるビリー・エクスタイン(Billy Eckstine 1914年-1993年)が独立してビッグバンドを立ち上げると、ガレスピーをはじめとする若手の前衛派ミュージシャンが大挙参加し、ここにモダン・ジャズが形を為したのであった。

そして1945年からガレスピーは盛んなソロ活動を開始し、パーカーと共にジャズシーンの中心に躍り出た。ガレスピーとパーカーによる1945年のいわゆる「ミュージクラフト・セッション」における録音は、モダン・ジャズ初期の歴史的演奏として後世まで評価されている。

1946年以降何度もビッグ・バンドを組織。中でも1947年から1950年まで存続した第2次ビッグ・バンドには、編曲者ウォルター・ギル・フラーやコンガ奏者のチャノ・ポソを迎え、ラテン(アフロ・キューバン)のリズムをビバップに取り入れたラテン・ジャズアフロ・キューバン・ジャズ)を勃興させた。また新人を抜擢して、数多くデビューさせる達人として知られ、彼のビッグバンドからは、後年大成する優れたミュージシャンが多数輩出され、トランペッターだったクインシー・ジョーンズやピアニストのラロ・シフリンなどが、彼のオーケストラやコンボから巣立っていき、この事がもきっかけの一つとなりモダン・ジャズの発展にも大きく寄与することになった。

作曲家としては1940年代以来「チュニジアの夜」「ビバップ」「ブルー・ン・ブギー」「ソルト・ピーナッツ」「マンテカ」「ウディン・ユー」「アンソロポロジー」など、膨大な数のナンバーを作曲し、これらは後世まで演奏されるジャズ・スタンダード曲となった。1942年に作曲された「チュニジアの夜」はビバップのイコンとも言うべき曲になり、1945年作曲の「ビバップ」は音楽ジャンル名のビバップの語源となったとも言われている。

ミュージシャンとしての最盛期は1950年代までだったが、繰り返しビッグ・バンドを組織して海外公演を行い、モダン・ジャズ界の長老として晩年まで長く音楽活動を続けた。1993年に膵臓癌で亡くなった。

2010年10月21日、ガレスピーの誕生日を記念して、Googleのホームページのロゴが特別バージョンとなった(画像)。

曲がったトランペット

途中から折れ曲がってベルが宙を向いたトランペットはガレスピーのトレードマークであったが、彼がこのようなトランペットを使うようになったのはビバップ期よりもだいぶ遅れた1950年代中期のことである。

1954年、パーティの席での痴話喧嘩で転んだ客が、スタンドに置いてあったディジーのトランペットの上に尻餅をついてしまい、ベルが上向きに折れ曲がった。不機嫌になったディジーだが試しに吹いてみると音がまともに出る上、普通のトランペットよりもプレイヤー自身の耳に音が届きやすくなったことに気付いた。気をよくしたディジーは、楽器メーカーに特注して「曲がったトランペット」を作らせ、愛用するようになった。

彼はその勢いで大儲けを狙い、「曲がったトランペット」の新案特許出願に動いたが、100年以上も前に同じような出願がされていたことがわかり、落胆したという。

最晩年に使用していたトランペットは、管体部内を流れるエアの流れをスムーズにする為に、ウォーターバルブ(管内に溜まった水分を排出するバルブ)が廃される工夫がなされていた。この上向きのベルに憧れるプレイヤーも多く、日野皓正はディジーほど曲がってはいないが、ベルが上向きになっているトランペットを使用している(頬を膨らませるスタイルも彼に倣っている)。これはアップベルという。

キャラクター

若い頃にはしばしば刃傷沙汰の喧嘩を起こしたこともあった暴れん坊であったり、人種差別運動の闘士でもあり、アメリカ大統領選挙に名乗りをあげるなど政治活動を行っていた。その一方、絶えず茶目っ気があり、ライブステージではコメディアン的な仕草や洒落たファッションで聴衆に大いにアピールした。"Dizzy"(くらくらする)という通称もこのキャラクターに由来するものとされる(または、当時としては超絶技巧派の奏者でもあった事から、「目も眩むほどのテクニック」から呼ばれるようになったとも言われている)。ディジーの「ヒップ」さがいかに強烈であったかは、彼が身に付けた黒縁眼鏡や帽子などが「バップ眼鏡」「バップ帽」とまで言われたことからも推察できる。その活躍が大衆にもビバップを普及させることに寄与した反面、時に悪のりの域にまで及ぶ様にも目に映る悪ふざけぶりは、アメリカではスタンダップコメディアンの常套手段なのだが、頭の固い、例えば日本のジャズマニアなどから彼が過小評価される原因にもなっている。

一方、仕事に対する態度はきわめて真剣で、遅刻や無断欠勤の多かったチャーリー・パーカーとしばしば衝突した。後進の指導にも厳格で、生涯にわたって親分肌の性格を貫いた。私生活では敬虔なバハーイー教徒で、生涯節制に努めていた。そのため、多くのビバップ期のジャズマンが麻薬や過度の飲酒・喫煙による不健康な生活で早世した中では、例外的に長生きした。

トランペットを吹く時に巨大に膨らむガレスピーの頬は特異体質によるもので、「ガレスピーズ・パウチズ(テンプレート:Lang-en[1]」という医学用語にまでなっている。この頬に対する医学的研究のための検査に、ガレスピーは自ら協力した。尚、日野皓正はガレスピーが自分のアイドルだったことから、意図的に頬を膨らませて演奏するようになった。

共演者

脚注

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外部リンク

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参考文献

  • 『トゥ・ビー・オア・ノット……トゥ・バップ:メモワール』ディジー・ガレスピー、ウィルモット・アルフレッド・フレイザー
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