大宮市

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大宮市(おおみやし)は、1940年から2001年まで、埼玉県南部に存在していた都市行政)。東京都特別区部への通勤率は26.7%、浦和市への通勤率は5.5%(いずれも平成12年国勢調査)。旧北足立郡

2001年5月1日に、平成の大合併により浦和市与野市合併し、さいたま市の一部となった。2003年4月1日、同市の政令指定都市移行により、旧市域は大宮区西区北区見沼区、ならびにごくわずかながら中央区の新都心に該当する箇所は中央区の5つの行政区に分割された。

現在でも旧大宮市域を旧大宮大宮地区と呼称する。

概要

氷川神社門前町中山道宿場町として発達した。また、関東地方有数の交通の要衝である。 今では交通の要衝となっているが、大宮宿は、中山道の宿場町としては比較的小規模で、かつ明治維新以後衰退していたこともあり、日本鉄道による鉄道敷設当時の戸数は243戸であった。そのため当初は駅が設置されず、浦和駅から上尾駅まではノンストップであった。しかし、町の衰退を阻止するために駅の建設は住民からも強く要望され、高崎線との分岐点に大宮駅が置かれた。(詳しくは後述) 国鉄大宮工場をはじめとする工場の所在地として発展し、県下随一の商業都市となった。そのため財政的にも恵まれており、合併前の1980年代、および90年代は、戸田市和光市と並ぶ県内でも数少ない地方交付税不交付団体で、その中でも、人口40万人クラスの自治体でありながら地方交付税なしで発展を続ける大宮市は、都市計画のモデルケースとなっていた。戦後、人口が急増したことから、駅周辺も区画整理され再開発が進んだが、西口が主で、東口は現在に至っても再開発が進んでいない。また、西口も国道17号よりも西はすぐに低層の住宅地が広がり、高層マンションが林立することはなかった。県庁所在地である旧浦和は古くから住宅が密集し、大規模な開発をする用地がなく、商都とはなりえなかった。しかし、閑静な文教都市高級住宅地などとして大宮とは別の発展をしている。さいたま市は文教・住宅都市としての浦和と商業都市としての大宮という二つの大都市を抱えている。

なお「大宮」という地名は、中世より武蔵国一宮とも称されるようになった氷川神社門前町として栄えたことに由来する。 東西に広い形をなしており、「鳥が翼を広げたようだ」と称されたこともある。

地理

関東平野上に位置する。西の川越市との境界線に荒川が流れる。

歴史

古代に武蔵国一宮である氷川神社が建立され、その門前町となる。

江戸時代中山道大宮宿が置かれる。大宮宿は当初、本村、北原、甚之丞新田、右衛門八分、新宿中町、新宿下町、吉敷新田の7村からなっていたが、後年は宮町、大門町、仲町、下町、吉敷町で構成された。江戸から近い割には大きな宿場で、紀州藩鷹場本陣も置かれていた。

明治維新後、廃藩置県による大宮県設置によって一時的に県庁が置かれるも、すぐに浦和へ移転した(県名も後に浦和県に改称)。さらに、1883年には日本鉄道(後の国鉄、現・JR東日本)によって現在の東北本線高崎線の一部区間である上野駅熊谷駅間に鉄道が開通したが、大宮に駅は設けられなかったことで大宮宿周辺は町勢衰退の危機に直面することになった。白井助七(後の大宮町長、旧大宮市名誉市民、さいたま市名誉市民)ら地元有志は町のこれ以上の衰退を危惧して、土地の提供を提示して駅の誘致運動を始めた。その努力が実り、1885年に大宮駅が開業した。白井の尽力・功績を記念して、大宮区内の山丸公園には蒸気機関車と記念碑が、大宮ソニックシティ前の鐘塚公園には胸像が置かれている。

大宮駅開業後、大宮駅の北側には日本鉄道業務部汽車課材料工場(現・大宮総合車両センター)が、南側には大宮操車場が設置され、また、東北本線、高崎線という日本の重要幹線の分岐駅ということもあり、大宮は駅を中心に「鉄道の街」として栄えることになった。

大正時代には、関東大震災により、大宮に東京からの盆栽業者が多く移住するようになり、現在の盆栽村が形成された。昭和に入ると省線電車(現・京浜東北線)が延伸開業するなど、さらに交通網が整備されると、東京への所要時間も大幅に短縮されるようになり、東京の衛星都市としても人口が増加するようになる。そして1940年には市制を施行した(県内では川越熊谷川口浦和に次ぐ5番目の市制施行)。

戦後、大宮は交通の要衝という地の利を生かし、県内随一の商業都市として繁栄するようになる。また、東京のベッドタウンとしての役割をより一層強め、1950年には約10万人だった人口は2000年には約45万人に急増した。

1982年には東北上越新幹線が、1983年にはニューシャトル、1985年には埼京線がそれぞれ開業するなど、大宮駅はますます拠点性を高め、国内有数のターミナル駅となる。また、新幹線の開業に合わせ、大宮駅西口が再開発されるようになり、大宮ソニックシティJACK大宮などが建設された。これらの建設によって大宮駅西口は経済・商業地域として急成長を遂げ、現在も多くの人々で賑わいを見せている。

1982年の東北・上越新幹線の開業と前後する頃、大宮市では、地域に根差している鉄道文化を継承し、発展させたいと考え、当時東京都千代田区にあった交通博物館の誘致をしようという構想を持った。2000年には、市制施行60周年の記念事業として交通博物館の誘致を正式に決め、鉄道博物館整備基金として約20億円(合併後にさらに5億円を積み増した)を積み立てた。この基金は合併後のさいたま市にも引き継がれた。この誘致活動は後に実を結び、2004年には大宮に鉄道博物館を建設することが正式に決定した。さいたま市では鉄道博物館建設に際し、建設費の一部に整備していた約25億円の基金を充当し、2007年10月14日に鉄道博物館の開館が実現した。


行政

歴代市長

氏名 就任 退任 期・備考
笠原眞作 1940年11月3日 1941年1月20日 市長職務管掌者
埼玉県地方課長として埼玉県より派遣
今井五六 1941年1月20日 1944年5月2日 1期
2 戸田由美 1944年5月30日 1945年3月17日 1期
3 加藤睦之介 1945年5月26日 1946年3月12日 1期
4 今井五六 1946年6月14日 1946年11月12日 1期(2期目)
5 津川辰政 1947年4月8日 1951年4月7日 1期・当代以降は公選制により選出
6 1951年4月8日 1955年5月1日 2期
7 清水虎尾 1955年5月2日 1959年5月1日 1期
8 秦明友 1959年5月2日 1963年5月1日 1期
9 1963年5月2日 1967年5月1日 2期
10 1967年5月2日
1969年12月21日
1969年11月23日
1971年5月1日
3期
11 1971年5月2日 1975年5月1日 4期
12 1975年5月2日 1978年6月24日 5期
13 馬橋隆二 1978年8月6日 1982年8月5日 1期
14 1982年8月6日 1986年8月5日 2期
15 1986年8月6日 1990年8月5日 3期
16 新藤享弘 1990年8月6日 1994年8月5日 1期
17 1994年8月6日 1998年8月5日 2期
18 1998年8月6日 2001年4月30日 3期、合併によるさいたま市の設置に伴い失職

経済

商業

本社を置く主な企業

姉妹都市・提携都市

国内

海外

地域

健康

  • 平均年齢:39.6歳(男=38.8歳、女=40.5歳) (2001年1月1日現在)

医療

  • 大宮市市民医院(さいたま市設置後、さいたま市立市民医院大宮と名称変更し2004年3月に閉鎖)
  • 大宮市医師会市民病院(さいたま市設置後、さいたま市民医療センター開院に伴い2009年2月に閉鎖)
  • さいたま市民医療センター(さいたま市設置後に開院)
  • 大宮広域救急医療センター(大宮市・伊奈町の共同運営 さいたま市設置後に閉鎖)

主な学校

小学校

市立
  • 大宮市立大宮小学校
  • 大宮市立東小学校
  • 大宮市立大宮南小学校
  • 大宮市立大宮北小学校
  • 大宮市立桜木小学校
  • 大宮市立三橋小学校
  • 大宮市立大成小学校
  • 大宮市立東大成小学校
  • 大宮市立日進小学校
  • 大宮市立日進北小学校
  • 大宮市立宮原小学校
  • 大宮市立植竹小学校
  • 大宮市立大砂土小学校
  • 大宮市立大砂土東小学校
  • 大宮市立見沼小学校
  • 大宮市立指扇小学校
  • 大宮市立馬宮東小学校
  • 大宮市立馬宮西小学校

中学校

市立

私立

高等学校

市立
県立
私立

大学

交通

鉄道路線

道路

高速道路

一般国道

都道府県道

観光

観光地
祭事
  • 大宮薪能(毎年5月開催)
  • 大湯祭(俗称-十日市、毎年12月10日)

氷川神社では11月30日から12月10日まで前齋が行われ、19時30分からかがり火が焚かれる。この火にあたると無病息災・火防の御利益があると伝わる。

大宮市出身の有名人

脚注

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関連項目

外部リンク

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