長渕剛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長淵剛から転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:複数の問題 テンプレート:Infobox Musician 長渕 剛(ながぶち つよし、1956年9月7日 - )は、日本シンガーソングライター俳優詩人画家。本名は同じ。1977年の1回目のデビュー時の芸名は名の読みが(ごう)。鹿児島県日置市生まれ、鹿児島市育ち。鹿児島市立中郡小学校鹿児島市立甲南中学校鹿児島県立鹿児島南高等学校情報処理科を経て、九州産業大学芸術学部中退。妻は志穂美悦子。長女は長渕文音。長男はWA航RU。次男は長渕蓮。Office REN(オフィス・レン)所属。

概要

1977年、シングル『雨の嵐山』で歌手としてデビュー(※一般的には再デビューの1978年『巡恋歌』を本格デビューとしている)『順子』、『乾杯』、『とんぼ』、『しゃぼん玉』、『しあわせになろうよ』などのヒット曲を持ち、また、俳優としては、『親子ゲーム』、『とんぼ』、『しゃぼん玉』、『オルゴール』、『ウォータームーン』、『英二』などのドラマや映画に出演。 ソロアーティストとしてアルバム初登場一位獲得数12作品、トータル売り上げ2000万枚を突破している。

略歴

  • 1973年
    • 大学祭の前座で初めての舞台を経験。
  • 1974年
    • 友人と2人でフォークソングのグループ(T&Tグループ タケシとツヨシ)を結成し、ステージ活動を本格化させる。
  • 1975年
    • 福岡県九州産業大学へと進学。
    • 場末のバーでオリジナル曲を歌い続ける。この時はまさに地獄の環境で、毎夜のようにビール瓶や灰皿が飛び、泥酔した客や極道から「演歌やらんかい演歌!!」と罵声や蹴りを浴びつづける日々だった。ここで根性が鍛えられたと本人は述べており、後年披露するリアリティに満ちた悪漢の演技も、ここでの観察によるものである。そして、ライブハウス(照和)での活動が本格化する。
  • 1976年
  • 1977年
    • 2月25日、前年のポプコン入賞を機に、ビクター・レコードより、シングル『雨の嵐山』でデビューするもヒットせず。何故か名前の読み方を「ながぶち・ごう」に変更されていた。編曲は船山基紀によるものである。
  • 1978年
    • 巡恋歌』で15回ポプコンの入賞、10月5日東芝EMIから同曲で再デビュー。同年暮れから、南こうせつ庄野真代らとコンサート活動を本格化させる。
    • 南こうせつのオールナイトニッポン(ニッポン放送、木曜1部 1978年4月~1979年3月)内で「裸一貫ギターで勝負」のコーナーを担当する。
  • 1979年
    • 3月5日、初のオリジナルアルバム『風は南から』をリリース。
    • 7月26日、愛知県篠島での吉田拓郎のコンサート「吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島」に特別出演。「帰れコール」(長渕自身は「帰れって言うんだったらお前らが帰れ」と言っていた)を浴びながらも(吉田拓郎はそんなに言われて無かったよ、と言っていた。また、実際に「帰れコール」をしたのは一部の観客だけだったとも言われている)堂々と歌い、最終的には大きな喝采を浴びた[1]。長渕自身「あのステージがなかったら今はなかった」と話している[1]
    • 4月から9月まで、ニッポン放送オールナイトニッポン』水曜日第2部、10月から翌年9月まで、金曜日第1部の、それぞれパーソナリティを務める。
    • 11月29日、新宿厚生年金会館でワンマンコンサート開催。チケットは発売3時間でソールドアウト。
  • 1980年
    • 6月5日、元々アルバム『逆流』の収録曲であった『順子』が、ファンからの熱い要望によりシングルカット。同年8月にはオリコンのチャート1位に。この曲の大ヒットにより、一躍トップシンガーの仲間入りを果たす。
    • 10月、『ナウ・ジェネレーション/長渕剛のアピール26』(TBSラジオ)、『長渕剛のひたすら60分』(ニッポン放送)のラジオパーソナリティを務める。またこの他、当時山梨鐐平などが結成していたグループ「Do!」とのジョイントバンド「チョコレッツ」を結成し、翌1981年まで活動していた。
  • 1981年
    • 3月23日、徳島県・徳島文化センターより、全国ツアー『LIVE'81』(全49ヵ所)をスタート。このツアーより初めてバックバンド(リズム隊を含めた)をつけたり、初のピアノによる弾き語りや、アコースティックギターだけではなく、バンジョーやエレキギターを持つなど、新たな試みが数々と披露された。
    • 8月、当時アイドル歌手だった石野真子と結婚。ニッポン放送オールナイトニッポン』で意気投合したことがきっかけとなり結婚した。ハワイでの結婚式の仲人は、自ら恩師とする吉田拓郎浅田美代子夫妻(当時)だった。
    • 9月25日、『コンサートツアー'81~'82』(全90ヵ所)が、沖縄県・那覇市民会館よりスタート、翌年の6月まで続くロングツアー。
  • 1982年
    • 6月6日、『コンサートツアー'81~'82』のファイナルを、日比谷野外音楽堂で『SUPER LIVE IN HIBIYA』として開催。自身初の野外公演でもあり、この模様は日本テレビの「ザ・ライブ」にて6月20日、27日の2週に分けて放送された。
    • 7月28日、8月4日、『青春は手品師』(アルバム『時代は僕らに雨を降らしてる』に収録)が、ドラマ『王貞治物語』(TBS系列)の主題歌になる。珍しい阿久悠の作詞によるもの。ドラマには長渕本人もちらっと出演している(貞治の父親役)。
    • 10月12日、『コンサートツアー'82~'83時代は僕らに雨を降らしてる』(全45ヵ所)がスタート。このツアー中の11月29日に初の日本武道館公演、翌年の2月21日のファイナルも再びこの会場で行われた。
  • 1983年
    • 石野真子と離婚[2]
    • 7月25日、埼玉県所沢市の西武ライオンズ球場にて『SUPER LIVE 西武球場』を開催。2万人の観客を集め、雨の中でのコンサートとなった。
    • 8月25日、『SUPER LIVE 西武球場』が公演からわずか一ヵ月後、2枚組のライブアルバム『SUPER LIVE IN 西武球場』としてリリースされる。同時に『LIVE'83 JUST HEAVY GAUGE』ツアー(全47ヵ所)がスタート。
    • 8月26日、初の主演テレビドラマ『家族ゲーム』(TBS系列)が放映開始、俳優としても本格的に活動を始める。同番組の主題歌であるシングル『GOOD-BYE青春』をリリ-ス。
    • ドラマ『青が散る』(TBS系列)の挿入歌『人間(ひと)の駱駝(らくだ)』(歌:大塚ガリバー)の作曲を手掛ける(編曲:瀬尾一三)。因みに作詞は、秋元康宮本輝の両名。但し、現在ではこの楽曲の収録が為されたLPは入手が相当困難である。
  • 1984年
    • 3月15日~4月9日にかけて、全国10ヵ所にて3年ぶりの弾き語りコンサートを、ファンクラブ『TSUYOSHI CLUB』結成記念イベントとして開催。
    • 4月20日、主演したテレビドラマ『家族ゲームII』(TBS系列)放映開始。
    • 10月11日から翌年3月まで、TBSラジオスーパーギャング』木曜日のパーソナリティを務める。
  • 1985年
    • 3月30日に発売されたシングル『久しぶりに俺は泣いたんだ』に伴い、自身初のプロモーションビデオを制作。
    • 4月5日、主演したテレビドラマ『家族ゲームスペシャル』(TBS系列)放映。
    • 8月26日、『HUNGRY』ツアーをスタートさせるも、翌年1月の日本武道館での公演を最後に、過労によりダウン。一時は重度の状態に陥り、予定されていた残りのコンサートがすべて公演中止となる。
  • 1986年
    • 6月7日、主演したテレビドラマ『親子ゲーム』(TBS系列)が放映開始。志穂美悦子と、ラーメン店を営む恋人同士役をつとめる。
    • 10月22日、ギター弾き語りアルバム『STAY DREAM』リリース。11月11日には大阪城ホールより『LIVE'86~'87 STAY DREAM』(全11ヵ所)がスタート。このツアーはアルバムのテーマと同様、ギター1本で歌うスタイルで、またアリーナ級や体育館等の会場ではセンターステージを組んで行われた。
    • 12月20日、出演した映画『男はつらいよ 幸福の青い鳥』が劇場公開。志穂美悦子と再び恋人同士役で共演し仲を深めた。
  • 1987年
    • 2月25日、『LIVE'86~'87 STAY DREAM』の追加公演が、ツアー初日の会場でもある大阪城ホールにて『LAST CRIME』と題して開催された。
    • 4月10日、主演したテレビドラマ『親子ジグザグ』(TBS系列)が放映開始。
    • 8月5日、アルバム『LICENSE』をリリース。同年末の第29回日本レコード大賞にてアルバム大賞を獲得。
    • 8月28日、ゲスト出演したテレビドラマ『スタンドバイミー きまぐれ白書』(TBS系列)放映。
    • 9月、テレビドラマ『親子ゲーム』映画『男はつらいよ』での共演を切っ掛けに、志穂美悦子と再婚し、志穂美は芸能界を引退した。
  • 1988年
    • 2月5日、8年越しのシングル『乾杯』をリリース、ミリオンセラーとなる。
    • 6月19日、コンサート会場として、初めて東京ドーム(BIG-EGG)に進出。
    • 10月7日、主演したテレビドラマ『とんぼ』(TBS系列)放映開始。
    • 10月26日、同ドラマのタイトル曲となる『とんぼ』をリリース、ミリオンセラーを記録する。
    • 12月3日、出演したテレビドラマ『うさぎの休日』(NHK)放映。
  • 1989年
    • 3月11日、主演した映画『オルゴール』が劇場公開開始。
    • 3月25日、アルバム『昭和』リリース。ミリオンセラーとなる。
    • 12月23日、主演した映画『ウォータームーン』が劇場公開開始。
  • 1990年
    • 12月31日、NHK紅白歌合戦に初出場を果たし、第1部の最後にドイツベルリンから生中継で『いつかの少年』『親知らず』『乾杯』の3曲を歌った[3]。全てタイトル・歌詞のテロップが示され長渕の終了後、予定通り20時55分からニュース、21時から第2部が開始されたが、長渕が出演する際にNHKのスタッフを批判していたため、「予定外の曲を披露」「長渕の暴挙により時間が押して、大物歌手の出番がカットされた」「NHKへの出入り禁止」など、様々な報道が当時された[4]。その後NHKには、1991年3月の日本ゴールドディスク大賞で「ベスト5アーティスト賞」を受賞し[5]、同年末「プライム10 音楽達人倶楽部」にそれぞれ出演している[6]
  • 1991年
    • 10月10日、主演したテレビドラマ『しゃぼん玉』(フジテレビ系列)が放映開始。「週刊ザテレビジョン11月15日号ではイメージが合わないことを理由に、レモンの使用を拒否した[7]
    • 10月25日、シングル『しゃぼん玉』リリース。ミリオンセラーとなる。
    • 12月14日、本格海外レコーディングアルバム『JAPAN』リリース。
  • 1992年
    • 『西新宿の親父の唄』(アルバム『JEEP』収録)が、『北の国から-'92巣立ち』の挿入歌となる。
    • 東京ドームでのセンターステージライブに関して、本人は「あまり覚えていない」と語った。65,000人の熱気のど真ん中で、あまりにインパクトがあったとのこと。また「東京ドームという場所は、本来ライブをやるべき場所じゃない(音響面で最悪、自分の声が数秒後跳ね返ってくる)。ドームでライブをやる必要性がある時はやるけど」と語っている。
  • 1993年
    • 9月22日、シングル『RUN』リリース。ミリオンセラーとなる。
    • 10月15日、主演したテレビドラマ『RUN』(TBS系列)が放映開始。同ドラマの打ち上げパーティー終了後にADに暴力を振るってしまう[8]
    • 11月1日、アルバム『Captain of the Ship』がリリースされるが、この頃楽曲の歌詞盗作疑惑が持ち上がったが、本人が謝罪した。詩人・相田みつをに関連したもの。
  • 1994年
    • 9月9日、『Captain of the Ship』ツアーをスタートさせるも、溶連菌感染症による体調不良により僅か3公演しか出来ず、残りの日程はすべて公演中止となった[8]
    • 9月23日、桑田佳祐がリリースしたアルバム『孤独の太陽』に収録された楽曲「すべての歌に懺悔しな!!」の歌詞の内容を巡り、作詞・作曲した桑田と一触即発の関係に陥る。事の詳細に関してはすべての歌に懺悔しな!!による論争も参照。また、女優の国生さゆりとの不倫報道が大きく報じられる。
    • 10月4月、シングル『人間』をリリース。
    • 12月1日、ベスト・アルバム『いつかの少年』リリース。
  • 1995年
    • 1月24日、大麻取締法違反で逮捕されるが、2月3日に処分保留のまま釈放。3月16日に起訴猶予処分となる。
    • 12月26日、自身3度目となる【東京ドーム】にてライブを行う。
  • 1996年
    • 1月1日、再起後の最初のアルバム『家族』リリース。東芝EMI所属として、最後になるオリジナルアルバムである。
  • 1997年
  • 1998年
    • 鹿児島県の演歌歌手、日高正人シングル『想い人』発売。日高の歌に感動した長渕が83年に書き下ろしていた曲で、日高の病気が原因で半分お蔵入りとなっていた曲。
  • 1999年
    • 5月1日、主演した映画『英二』が劇場公開開始。
  • 2000年
  • 2001年
    • 6月27日、8年ぶりのロサンジェルスレコーディングアルバム『』リリース。金髪&肉体改造で新たな長渕スタイルが出来上がる。
  • 2002年
    • 5月9日、アフガン抗争に向けて発した反戦歌『静かなるアフガン』リリース。しかし事実上の放送禁止。NHKを始めとするテレビ局や各種メディアには採り上げられることが少なく、予想よりも話題にならず。それでも「指きりげんまん」以来のベスト20位入り。
    • 6月26日、自身の選曲によるベスト・アルバム『BEST~風~』、『BEST~空~』各2枚組リリース。
  • 2003年
    • 4月、ニッポン放送『オールナイトニッポンフライデー・長渕剛今夜もバリサン』放送開始。9月までパーソナリティを務める。
    • 5月1日、シングル『しあわせになろうよ』リリース。
    • 空手道団体の極真会館から分派した、新極真会の発足に際し、同会の会歌『新極真会の歌』(編曲は瀬尾一三と共同)を特別に製作する。因みに同年10月5日東京体育館で開催された、「第8回全世界空手道選手権大会」の入場者にのみ、同歌のCDが配布されており、店頭販売はされていない。
    • 5月14日、長渕剛通算19枚目となるアルバム『Keep On Fighting』が発売され、男性アーティスト初のオリジナルフルアルバム首位通算10作目獲得をした。
    • 12月31日、13年ぶりにNHK紅白歌合戦に出場する。森進一に楽曲提供した『狼たちの遠吠え』では、歌う森のバックで長渕がコーラス&ギターセッションで参加し、話題になった。
  • 2004年
    • 4月28日、初のトリビュート・アルバム『Hey ANIKI!』がリリース。
    • 8月21日、鹿児島県の桜島特設ステージで、全国から約7万5千人の観衆を集めてのオールナイトコンサートを敢行し、大成功を収めた。このコンサート会場で売られていたオフィシャルミネラルウォーターは地元企業の商品であった。2006年3月19日には、コンサート会場跡地に記念碑が建てられる。記念碑名は「叫びの肖像」。ちなみに、コンサート会場であった桜島からの音は海を越えた鹿児島市でも聞き取れたという。
    • 11月14日、ファンクラブ特別イベント「Thank You LIVE 2004」をスタート。
    • 12月1日、シングル『金色のライオン』リリース。京セラ携帯電話のテーマソングとなる。CM曲に長渕の曲が採用されたのは1988年の明治チョコバーBODY(『STAY DREAM』)、1991年のキリンラガービール(『乾杯』)等がある。
  • 2005年
    • 8月24日、東映『男たちの大和/YAMATO』の主題歌として書き下ろした『CLOSE YOUR EYES』リリース。自身の主演映画作品以外での主題歌使用はこれが初めて(テレビドラマでは以前に「逆流」「友よ」「指きりげんまん」等あり)。また、カップリングの『YAMATO』と合わせて、両A面シングルとなっている。両A面シングルは『順子/涙のセレナーデ』以来2度目である。
  • 2006年
ファイル:Tsuyoshi Nagabuchi monument in Sakurajima 140102.JPG
鹿児島・桜島に建立されたモニュメント
    • 2月8日、東芝EMIより東芝所属時代のオリジナルアルバムが「24bitリマスタリングアルバムシリーズ」として再発売。
    • 2月21日、立正中学校・高等学校100周年記念ライブ。東京都品川区の立正中学校・高等学校の創立100周年記念式典で長渕が熱唱。バンドメンバーも勢揃いして、約2時間におよぶステージで全14曲を演奏。初めはあっけにとられてじっと見つめるだけだった生徒も、遠慮がちに座ったまま見ていた生徒達も、そして先生も、いつのまにかライブに引きこまれ、会場全体が熱気と感性で溢れかえった。会場には『俺達の兄貴、長渕剛』という巨大な旗も掲げられた。このライブ終了後、長渕は『若い純粋な反応がとても新鮮だった。彼等の真っ直ぐなエネルギーに負けないように俺も頑張らないとね』と笑顔を見せた。
    • 3月8日、東芝EMIより東芝所属時代のベスト&ライブアルバムが「24bitリマスタリングアルバムシリーズ」として再発売。
    • 3月19日、「桜島オールナイトコンサート」を記念したモニュメントが建立され、除幕式に参加。
    • 4月23日、作品にも度々登場し、長渕音楽の原点とも言える父・邦治(くにはる)が他界。享年77。
    • 6月29日、鹿児島中央駅アミュ広場でゲリラライブ。来場は約7000人程。ライブ状況はエフエム鹿児島MUSIC POWER STATION feel the μzic DA!!』で生放送された。
    • 7月1日、霧島市で新極真空手新保道場開きにてライブ。
    • 7月2日、南日本放送ラジオの第二スタジオでスタジオライブ、観客は抽選で選ばれた約50人。司会はMBCタレントスマイリー園田、ゲストミュージシャンはMC般若で公開生放送された。
    • 7月14日、『長渕剛3daysドキュメント』放映-南日本放送TV『Mixx
    • 7月22日、7月2日公開放送で未放送のアンコール部分を南日本放送ラジオで特集して放送。
    • 8月30日、山本寛斎がプロデュースする『日本元気プロジェクト KANSAI SUPER SHOW「太陽の船」』のイベントテーマソング『太陽の船』を手がけることが発表され、同曲が公開された。
    • 10月9日、10月16日放送の『くりぃむナントカ』「第2回長渕ファン王決定戦」に出演。六本木のカラオケBOXにて、観客3人(上田晋也ワッキー大八木淳史)の前で2時間半12曲のライブを行う。あまりの迫力にくりぃむしちゅーの2人やワッキーはもちろん、もともとファンという程ではなかった大木優紀アナウンサーも感動して涙を流し、改めてその圧倒的な存在感を見せつけることとなった。バラエティ番組に出るのは『おしゃれカンケイ』以来のことだが、この出演は第1回「長渕ファン王決定戦」のスペシャルを再放送を観て心を動かされた本人からの「最後に(俺が)出たら面白いだろう」という要望によるもの。有田の似てないモノマネに爆笑するなど収録を楽しんでいた。この圧倒的なライブパフォーマンスは視聴者に強烈な印象を与え、翌週のオリコンランキングに、長渕のベスト・アルバムなど数作品が再浮上した。
  • 2007年
    • 4月27日関西テレビ放送制作、フジテレビジョン系列(FNS)で放送の『さんまのまんま』で、明石家さんまと対談。過去にさんまとは「明石家さんまのオールナイトニッポン」で対談を行ったことがあり、放送でもその点について触れていた。「ラーメンは吸うのか噛むのか」などで言い合う珍妙なトークを行い、最後は2人で『とんぼ』をデュエット。ハーモニカ(TOMBO・メジャーボーイ)をさんまにプレゼント。ただしギター弾き語りは行われず、『とんぼ』は国吉良一(因みにさんまの『真っ赤なウソ』の編曲者でもある)のキーボード演奏に拠る物であった。
    • 5月4日、幕張メッセで行われた「どきどきフリーマーケット」のステージにゲスト出演し、「Come on Stand up!」をはじめ、自身の曲のライブを行った。その模様はBAY-FMを通じて公開されていたが、オンエア後もライブは継続され、フリーマーケット終了30分前まで続いた(これは、観覧していたファンの度重なるアンコールに答えた本人の力が大きい)。
    • 5月16日、4年ぶりのオリジナルアルバム「Come on Stand up!」リリース。全12曲新曲(桜島DVDに収録されていたものの未CD化だった「夕焼けの歌」を含む)、先行シングルなしという昨今の音楽業界の常識からすれば型破りなアルバムにも関わらず、オリコン初登場4位。
    • 6月6日~7月11日、自身初となる女性限定ライブ「Lady's Night2007-Acoustic-」ツアー。
    • 9月7日~12月9日まで自身2年ぶりとなるツアー「2007 ARENA TOUR 〜Come on Stand up!〜」ツアーが行われた。
    • 10月12日より放送開始の、TBS系列テレビドラマ「歌姫」の主題歌に、長渕による作詞作曲『青春 SEISYuN』が起用された。歌を歌うのはTOKIOで、TOKIOにとっては中島みゆき甲斐よしひろに続く大物歌手による楽曲提供となった。
  • 2008年
    • 5月14日、21日、過去に発表された楽曲の中からラブソングを中心にリマスタリング、セルフカバー、リミックスを施して選曲したベスト・アルバム「LOVE」、「SONGS」を発売。
  • 2009年
  • 2010年
    • 6月9日、デビュー30周年記念として、プレミアムBOXセット『30th Anniversary BOX from TSUYOSHI NAGABUCHI PREMIUM』(DVD3枚組、CD3枚組)をリリース。初週2.1万枚を売り上げ、2010年6月21日付オリコン週間DVDランキング総合第1位となった。価格は3万1500円と高額ながら、それまでの総合首位を記録していた『ザ・ビートルズ・アンソロジー(初回生産特別価格盤)』を抜くミュージックDVD作品最高額総合首位記録となり、更に最高額首位の『機動戦士ガンダムDVD-BOX2(最終巻)』と同額の歴代タイ記録となる[9]
    • 8月14日、スペシャルドラマ『歸國』に俳優として出演。本格的な俳優復帰は、1999年に主演した映画『英二』以来で、11年ぶりとなり、ドラマ出演は1997年に主演した『ボディーガード』以来で、13年ぶりとなった。
  • 2011年
  • 2012年
    • 8月12日に福島県郡山市民文化センターで行われた全国ツアー「RUN FOR TOMORROW」の福島公演では、「止めてくれ 原発を止めてくれ 今すぐ」と絶叫するように歌った[10]

音楽

テンプレート:独自研究 シンガーソングライターとしての道を歩むきっかけとなったのは、高校時代に生で観覧した吉田拓郎のコンサートであった。これを境に吉田拓郎、更には加川良や友部正人といった、当時売れっ子だったフォークシンガーの歌に傾倒していくことになる。大学進学後は洋楽も聴くが、基本的には1960~70年代の、日本のフォークシンガーからの影響を強く受けている様である。

デビュー当初は痩身で長髪のフォークシンガーというイメージで、長渕のデビュー当時はすでにフォークブームが過ぎた後であったため「遅れてきたフォーク青年」と呼ばれたりもした。透明な声と繊細なラブソング、フィンガーピッキングによるアコースティック・ギターで、今とは違いかなり透き通った発声で歌っていたが、自分自身の作りたい楽曲のイメージとの乖離に悩まされ、1980年代の半ばから発声方法を変え、ロック色が強くなりサウンドにも現れたが、1980年代後半からは原点であるアコースティックに戻り、歌を披露する際には必ずガムを噛みながら歌っていた時期もあった。ボブ・ディランの歌声への憧憬から、焼酎ルゴールの原液で何度もうがいをし、歌手の命でもある喉を焼き切った。しかし、それでも簡単には声質は変わらなかった。長いライブ活動を続けていくうちに、透き通った声は消えうせ、しわがれた声へと変わる歌唱法と楽曲のスタイルが培われた。そうした荒療治や歌唱法により、喉にポリープが出来ていることをインタビューで告白している。しかし、ポリープを除去すると声質が変わると医師に宣告され、声質を変えたくない長渕は、悩んだ末そのポリープを除去せぬまま今の声質を保っていると語っている。

使用ギターはレコーディングではギブソン製(J-45、J-200等)、ライブではタカミネ製(NTP-012、TDP-512、TDP-515-6等)のエレアコを主に使用する。エレクトリックギターは楽曲によってはライブでたまに使用する。「アコースティックギターは弾くものじゃなく、叩くもの」という持論を持っている。「叩く」といってもそれはあくまで「ギターを弾く力強さ」を「叩く」と表現しているのであって、例えばニール・ヤングの影響が見られる奏法の「家族」、ライブバージョンの「逆流」や「シリアス」等で、ギターの弦を弾(はじ)いた直後に、手の平の腹部分でブリッジ付近を叩くように弾く奏法のことを言っているわけではない。スタジオ録音作品はもちろんだが、ライブではいっそう、力強いピッキングでかきむしるような激しいコードストロークが聴ける。使用ハーモニカ(ブルースハープ)はTOMBOの「メジャーボーイ」。現在一般的なハーモニカホルダーの形(テンホールズハーモニカ専用で、ハーモニカをセットする部分が狭くなっている)は彼が考案したものとのこと。「特許をとっておけば良かった」とテンプレート:要出典範囲

人物

警察官の父親と母親の次男として生を受けた。姉がいる2人姉弟。兄もいたが乳児期に病死している。子供のころのあだ名は「レオン」。出生後まもなくインフルエンザで生死の境をさまよっていた。幼い頃は体が非常に弱く、よく喘息発作を起こし、病院通いが欠かせなかった。音楽が楽しみで、同郷の吉田拓郎加川良友部正人遠藤賢司等のフォークソングを好んで聴いていた。中学3年の正月に3000円のガット・ギターを購入し、鉄弦を張り思いのままに好みの楽曲をコピーしていた。鹿児島南高校の情報処理学部の2期生として入学し、伊集院町から1時間近くかけて通っていた。最初のうちは成績も良かったが、徐々に落ちていき、卒業するころには、下から数えた方が早い成績まで落ちたという。上京後、初めて住んだ場所は、世田谷区の新代田のアパートである(このことは、自身も後に楽曲の中で歌詞にしている)。

1981年8月、石野真子と結婚。結婚式はハワイの教会で、仲人は吉田拓郎と浅田美代子夫妻(当時)だった。1978年当時、福岡県北九州市のライブハウスに飛び入りで現れた際、ステージのMCで、「俺は将来、石野真子を嫁さんにする」と発言していたが、様々な見解の相違を表面化させ、長渕のDVが決定的理由で1983年5月に離婚[2]

1987年8月29日に『親子ゲーム』(1986年)、『男はつらいよ 幸福の青い鳥』(1987年)で共演した志穂美悦子と再婚[11]。『親子ゲーム』の撮影中に志穂美が左手小指の付け根を骨折し、病院に向かう志穂美に長渕が付き添ったことが馴れ初めだった[11]。入籍のみで済ますつもりだった長渕だが、初婚である志穂美は「芸能人としてでなく、普通の人としてひっそり式を挙げたい」という希望から、9月17日に志穂美の師匠・千葉真一が修行した寺の近くにある奈良県天川村天河大弁財天社にて、双方の両親と親しい知人のみ出席して挙式[11]。志穂美は長渕の強い意向で芸能界を引退し、「クセのある男なので専業主婦したい」とこれ以降は芸能活動を行っていない[11]1988年3月17日に長女・長渕文音女優)を授かったのを皮切りに、長男・WA航RUヒップホップミュージシャン)、次男・長渕蓮レーシングドライバー)の2男1女を授かった。結婚後、妊娠中の志穂美にもDVを振るっていたことが週刊誌に取り沙汰されたが[2]、出産後は極真空手の経験者だった志穂美がある程度やり返す様になり、敵わないと悟った長渕は空手道を稽古するようになった[12]。2008年にも長渕は事務所スタッフに暴行を働き、彼らが辞めている[2]

1995年1月24日大麻取締法違反で逮捕され、国生さゆり不倫していたことも明るみになり[8]、国生には記者会見で「薬物に対する(国生の)身の潔白と、長渕との関係も志穂美を交えて話し合い、関係を清算した」と発表されるなど歌手生命の危機に陥るも、志穂美の内助の功を得て、復帰。

愛犬はホワイト・スイス・シェパードの「レオ」「アエラ」とトイプードル「チビ」。愛犬を歌った曲もある。メールを打つときは絵文字も多用している。ジープを好み、その後ハマー H2を購入する。その時の取材で「H1は鉄が走っている感じ、あれは軍用車。H2はオシャレに乗れていい」と語っていたが、桜島のコンサートを機にH1を購入。1999年頃、自宅の近所にマンションが建設された際、自宅前にある道の車の往来が急に増え、さらに自分の子供がトラックに轢かれかけ「子供飛び出し注意」の巨大な看板(電飾、キャスター付)を自宅前に設置する。

に弱く一切飲まず、このことを語っている楽曲もいくつか存在する。以前喫煙者であったが、50代に差しかかってから筋トレ禁煙・肉体改造を成功させ、今までの生活習慣などを規則正しくした。

極真空手緑健児やプロボクサーの戸高秀樹プロ野球福岡ソフトバンクホークスゼネラルマネージャーを務める王貞治や元プロ野球選手の清原和博東京ヤクルトスワローズ岩村明憲、元F1レーサーの佐藤琢磨ラグビー大八木淳史K-1山本"KID"徳郁、元Jリーガー呂比須ワグナー、元横綱若乃花、元横綱朝青龍と交流し、芸能ジャーナリストの井上公造とは、大学時代の同じバイト仲間であり(井上は西南学院大学卒業)長渕が東京へ上京する時に井上が幹事で送別会を行っており、現在も交友がある。

自身の詩画展を開き、その収益金の一部を阪神・淡路大震災で家を失った子供達等の為に寄付した。鹿児島県関連の九州新幹線開業キャンペーンの風は南からの書体をデザインしている。その書体は、現在かごしま県民交流センターに展示している。

作品

テンプレート:Main

シングル

アルバム

公演

形態 タイトル 公演規模・会場・セットリスト 収録作品
1979年 コンサートツアー テンプレート:Larger -
1980年 - 1981年 コンサートツアー テンプレート:Larger アルバム『長渕剛LIVE
1981年 コンサートツアー テンプレート:Larger -
コンサートツアー テンプレート:Larger -
1982年 コンサートツアー テンプレート:Larger -
1982年 - 1983年 コンサートツアー テンプレート:Larger -
1983年 単発コンサート テンプレート:Larger アルバム『SUPER LIVE IN 西武球場』
ビデオ『SUPER LIVE IN 西武球場』
1983年 - 1984年 コンサートツアー テンプレート:Larger -
1984年 単発コンサート テンプレート:Larger -
1984年 - 1985年 コンサートツアー テンプレート:Larger -
1985年 コンサートツアー テンプレート:Larger ビデオ『HUNGRY TOUR 1986.1.22 THE 4DAYS LIVE』
ビデオ『明日へ向かって 1985-1986 長渕剛の記憶』
1986年 - 1987年 コンサートツアー テンプレート:Larger -
1987年 コンサートツアー テンプレート:Larger ビデオ『LICENSE』
1988年 コンサートツアー テンプレート:Larger シングル「とんぼ」B面
シングル「激愛」B面
1989年 コンサートツアー テンプレート:Larger アルバム『長渕剛LIVE'89』
1990年 - 1991年 コンサートツアー テンプレート:Larger ビデオ『カラス LIVE from '90 - '91 JEEP TOUR』
1992年 コンサートツアー テンプレート:Larger シングル「巡恋歌'92」カップリング
ビデオ『LIVE'92 "JAPAN" IN TOKYO DOME』
アルバム『いつかの少年』
1993年 コンサートツアー テンプレート:Larger シングル「RUN」カップリング
ビデオ『白の情景』
アルバム『いつかの少年』
1994年 コンサートツアー テンプレート:Larger ビデオ『LIVE "Captain of the Ship"』
1995年 コンサートツアー テンプレート:Larger シングル「傷まみれの青春」カップリング
ビデオ『LIVE "いつかの少年"』
アルバム『LIVE COMPLETE '95〜96』
1996年 コンサートツアー テンプレート:Larger アルバム『LIVE COMPLETE '95〜96』
1997年 - 1998年 コンサートツアー テンプレート:Larger ビデオ『LIVE'97-'98 "ひまわり"』
シングル「指切りげんまん」カップリング
シングル「猿一匹、唄えば侍」カップリング
1998年 - 1999年 コンサートツアー テンプレート:Larger シングル「涙のセレナーデ」カップリング
2000年 単発コンサート テンプレート:Larger ビデオ『LIVE ONLY 2×2 an unplugged』
2001年 コンサートツアー テンプレート:Larger DVD『JAPAN TOUR LIVE 2001-2002 "空/SORA"』
2002年 コンサートツアー テンプレート:Larger DVD『JAPAN TOUR LIVE 2001-2002 "空/SORA"』
単発コンサート テンプレート:Larger DVD『9.7 in 横浜スタジアム LIVE 2002』

出演

*は主題歌を歌った。

主演は太字

テレビドラマ

映画

ラジオ

CM

  • 日清カップヌードル(ナレーション) (1986年)
  • 明治製菓、チョコバー「BODY」 (1988年)
  • 京セラ、携帯電話「A1403K」 (2004年)
  • 競輪、「KEIRINグランプリ2014岸和田」 (2014年)
  • 新宮霊園 福岡県新宮町にある霊園。メジャーデビュー前に「霊園ソング」を製作。「遂に自分にもCMソングの依頼が来た」と喜び、本人はコカコーラや酒のCMだったら良いなと思っていたところ、「お墓」のCMソングだと聞いて驚いたと、コンサートのMCで語っている。初期(1979年頃)のころは静止画(かつてローカルCMでよく見られた紙芝居方式のCM)でノーテロップであったが、後年バイクで新宮霊園へドライブするCMが制作され「歌:長渕剛」のテロップが入るようになった。また「歌:永淵剛」のテロップが入ったバージョンもある。現在のテロップ及び同霊園のHP内にある霊園ソングのページは、当時の芸名である“永渕剛”名義となっている。なお、本人は一切出演していない。テンプレート:要出典

音楽

書籍

著書

  • 『俺らの旅はハイウェイ』八曜社、1981年、ISBN 4827000573
  • 長渕剛、面谷誠二『君はギターの弦を切ったことがあるか』八曜社、1984年、ISBN 4827000778
  • 『長渕剛詩集』ヤマハ音楽振興会、1988年、ISBN 463616637X
  • 『前略、人間様。:長渕剛詩画集』新潮社、2001年、ISBN 4101184313
  • 『情熱:長渕剛詩画集』角川書店、2004年、ISBN 4048537660

写真集

  • 長渕剛 文、広瀬飛一 撮影『「人間」:あなたに会えてよかった』小学館、1992年、ISBN 4093634254

題材とした書籍

  • 富沢一誠『あいつの本音:長渕剛から永井龍雲まで13人』旺文社、1981年、ISBN 4010641541
  • 黒土三男『とんぼ』双葉社、1989年、ISBN 4-575-23043-X
  • 矢吹光『長渕剛vs桑田佳祐』三一書房、1995年、ISBN 4-380-95222-3
  • 高山文彦『いのちの器』双葉社、1995年、ISBN 9784575152326
  • 寺尾陽子『生きててよかった:移植を拒否して心臓病とたたかう27歳の勇気の記録』リヨン社、1995年、ISBN 9784576951478

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

注釈

テンプレート:Reflist

出典

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク


テンプレート:長渕剛
  1. 1.0 1.1 しゃべくり007』、日本テレビ、2013年3月18日放送(Techinsight » 【エンタがビタミン】「帰れって言う、お前らが帰れ!」長渕剛が伝説の“帰れコール”について真相語る。)。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 「“行列”自筆画800万円落札者は長渕剛の関係者だった 暴力・セクハラでスタッフが逃げ出す」『週刊文春』 2008年12月18日号(12月11日発売)。
  3. NHKアーカイブス 「第41回NHK紅白歌合戦 1990年12月31日放送
  4. テンプレート:Cite book
  5. 第5回日本ゴールドディスク大賞 1991年3月
  6. NHKアーカイブス 「プライム10 音楽達人倶楽部」 1991年12月13日放送
  7. 「[3号連続企画第1弾]歴代表紙コレクション・1」『週刊ザテレビジョン』2011年10月7日号。
  8. 8.0 8.1 8.2 テンプレート:Cite journal
  9. オリコンDVD & BDランク、長渕剛が最高額でビートルズ超えサーチナ 2010年6月16日
  10. テンプレート:Cite web
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 テンプレート:Cite journal
  12. kamipro, 2010年, 147, p.67


引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注釈"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません