臣籍降下
臣籍降下(しんせきこうか)とは、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言った。また日本国憲法施行後は国民主権主義に基づき皇籍離脱(こうせきりだつ)の語が用いられる。
目次
沿革
律令においては、4世王までは皇親となり、5世王は皇親とはならないものの王号を有し従五位下の蔭位を受け、6世王は王号を得られないものとされた(もっとも、慶雲3年(706年)2月の格で変更あり)。そのため、歴代天皇から一定の距離を経た者は臣籍に入るものとされた。
奈良時代の皇統(天皇の血筋)が断絶したことを教訓として、平安時代には安定した皇位継承のため、多くの皇子をもうけることがよく行われた。しかし、実際に皇位継承できる皇子はごく少数に限られ、平安前期から中期にかけて、皇位継承の道を閉ざされた皇族が多数発生することとなった。また、皇親の中には国家の厚遇にかこつけて問題を起こす者もいた。
これらの皇親に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちに姓を与えて臣籍降下させる皇親賜姓(こうしんしせい)が行われるようになった。特に桓武天皇は一世皇親3名[1]を含む100名余りに対して姓を与えて臣籍降下を行った[2]。嵯峨天皇も多くの子女を儲けたが、父の例に倣って多くの子女に対して皇親賜姓を行った(後述)。
また、この頃になると、皇族が就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったために、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。だが、臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を保証されたが実際には三代以降はほとんどが没落して地方に下向、そのまま土着し武士・豪族となるしかなかった。
院政期に入ると、公家における家格の形成が進み、家格秩序を崩しかねない皇親賜姓による新規の公家の創設に消極的になったことから、皇位継承の安定化(嫡流への継承維持)のために庶流の皇子は幼少の頃に出家させて法親王としての待遇を与えて子孫を遺させない方針を採るようになる。やがて皇位継承又は世襲親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮)相続と無関係の皇族は出家する慣例となり、賜姓皇族はほとんど現れなくなった。鎌倉時代以降、賜姓され明治時代まで存続した堂上家は広幡家のみであり、また嗣子の絶えた摂関家を継ぐため皇族が養子に入った例が3例ある(皇別摂家)。
明治時代に制定された旧皇室典範においては、世代経過による皇籍離脱規定は設けられず、原則的に永世皇族制を採るものとされた。しかし各宮家の男子の一部は侯爵又は伯爵の爵位を受けて臣籍降下し、華族とされた。華族令発布以降、16人が華族となっている。
日本国憲法施行後の1947年(昭和22年)10月14日に3直宮(大正天皇の皇子たる秩父宮・高松宮・三笠宮)を除く11宮家51名が皇籍離脱する。内親王1名、王10名及び女王3名については皇室典範(昭和22年法律第3号)第11条により、離脱する王の妃5名並びに直系卑属(王16名及び女王9名)及びその妃2名は皇室典範第13条により、寡妃5名は皇室典範第14条第1項により、それぞれ離脱した。この際皇籍離脱した旧皇族は菊栄親睦会を結成し、皇室との交流を続けている。
与えられる氏姓
臣籍に降下する皇族には、臣下であることを表す氏及び姓(かばね)が与えられる。
源平の氏が与えられるようになる前までは、多様な氏が与えられる。源氏は嵯峨天皇が、814年(弘仁5年)に自らの皇子3名に皇親賜姓を行い源氏を授けたことに始まる。これは「魏書」の源賀伝に出典するものである。嵯峨天皇は最終的には皇子・皇女32名を臣籍降下させ、源信・源常・源融は左大臣にまで昇り、源潔姫は人臣最初の摂政となった藤原良房の正室となった。一方、平氏は、淳和天皇の時代の825年(天長2年)に桓武天皇第5皇子葛原親王の子女(二世王に相当)に平氏を賜ったことに始まる。これは桓武天皇が築いた平安京にちなんだ氏である。
臣籍降下の概念が明確ではなかった上代においては、第9代の開化天皇以降の皇別の氏族には公(きみ)の姓(かばね)が与えられていた。その後、八色の姓が制定されると、第15代の応神天皇以降の皇別の氏族には真人が与えられるようになる。事情により朝臣又は宿禰の姓(かばね)が与えられることもあった。与えられる氏が源平に固定されると姓(かばね)も朝臣に固定されるようになる。
なお、臣籍降下に際して、王の身位は当然に除かれるとは言え、名は改めないのが通常であるが、葛城王(橘諸兄)から諸兄、以仁王から以光などのように改める事例もある。
明治時代以降の臣籍降下では、生家の宮号と同じ氏を用いる例があった(山階芳麿侯爵・久邇邦久侯爵・伏見博英伯爵)。また、廃絶した又は廃絶する予定の宮家の祭祀を承継するため廃絶した宮家の宮号と同じ氏を用いる例があった(小松輝久侯爵・華頂博信侯爵・東伏見邦英伯爵)。そうではない場合は、宮家に所縁のある地名などを用いることが多かった。
1947年(昭和22年)10月14日の皇籍離脱では、全ての宮家で宮号をそのまま戸籍法上の「氏」としたため、それ以前に降下した山階家・久邇家・伏見家と戸籍法上の氏が重複することとなった。
皇籍復帰
一度臣籍に降下した後には皇族に復帰することは許されないのが原則であるが、皇籍に復帰する事例も比較的多く見られた。なお、以下の例の内、源朝臣定省の子達や源朝臣忠房の例は、臣籍として生まれながら、皇籍に移行した例である。これも広い意味での「皇籍復帰」に分類して論じられることが多い。
また、厳密な皇籍復帰に分類するのは困難であるが、白川伯王家(花山天皇子孫、源氏の家系。)は、神祇伯に就くと同時に「王」を称することが許されていた。
- 和気王(755年降下・759年復帰)
- 天武天皇曾孫。御原王子。和気王は755年に岡真人の姓を賜って降下するが、759年に淳仁天皇の甥として皇籍に復帰する。後に765年に謀反の疑いで殺害される。和気王の子達(大伴王・長岡王・名草王・山階王・采女王ら)は父の謀反に連坐して臣籍降下を命じられるが、771年に皇籍に復帰する。
- 山辺真人笠(764年降下・774年復帰)
- 厨真人厨女(769年降下・773年復帰)
- 光孝天皇子。同母弟の定省が宇多天皇として即位したことに伴い、皇籍に復帰。
- 源朝臣定省(884年降下・887年復帰)
- 源朝臣維城(887年皇籍へ)
- 当時臣籍にあった源朝臣定省(後の宇多天皇)の子。父の皇籍復帰に伴い、自身も皇族となり、後に践祚する(醍醐天皇)。
- 源朝臣斉中(887年皇籍へ)
- 臣籍にあった源朝臣定省の子。定省の皇籍復帰に伴い皇籍へ移る。
- 源朝臣斉世(887年皇籍へ)
- 臣籍にあった源朝臣定省の子。定省の皇籍復帰に伴い皇籍へ移る。
- 源朝臣兼明(932年降下・977年復帰)
- 醍醐天皇皇子。源姓を賜って臣籍降下し後に左大臣となる。ところが、977年勅命によって突如皇籍に復帰させられて中務卿に遷った。これは、皇族は大臣とならない当時の慣例に目を付けて、左大臣の地位を狙った藤原氏の陰謀と言われている。
- 醍醐天皇子。
- 源朝臣昭平(961年降下・977年復帰)
- 村上天皇子。源朝臣兼明と同時に皇籍に復帰した。村上天皇の皇子の中で唯一の臣籍であった状態の解消を図る措置とされる。
- 源朝臣惟康(1270年降下・1287年復帰)
- 源朝臣久良(1330年復帰)
- 後深草天皇孫。
- 源朝臣忠房(1319年移行)
- 藤原朝臣家教(1872年降下・1888年復帰・1888年再降下)
臣籍降下の例
皇籍復帰した例は除く。
奈良時代
- 佐為王(宿禰佐為・736年)
- 敏達天皇5世孫又は6世孫。葛城王(橘諸兄)弟。
- 敏達天皇子孫とされる。
- 天智天皇玄孫。
- 天武天皇2世王。
- 大市王(文室真人大市・752年(天平勝宝4年)9月12日)
- 天武天皇2世王。
- 塩焼王(氷上真人塩焼・757年)
平安時代
- 常(源朝臣常・814年)
- 嵯峨天皇皇子。左大臣。
- 弘(源朝臣弘・814年)
- 嵯峨天皇皇子。大納言。
- 業平(在原朝臣業平)
- 明(源朝臣明)
- 嵯峨天皇皇子。参議。
- 桓武天皇孫。大納言。
- 定(源朝臣定・828年)
- 嵯峨天皇皇子。大納言。
- 生(源朝臣生)
- 嵯峨天皇皇子。参議。
- 融(源朝臣融)
- 嵯峨天皇第12皇子。左大臣。融流嵯峨源氏となる。
- 勤(源朝臣勤)
- 嵯峨天皇皇子。参議。
- 天武天皇子孫。高階氏の祖。
- 多(源朝臣多・835年)
- 冷(源朝臣冷)
- 仁明天皇皇子。参議、左衛門督。
- 光(源朝臣光)
- 仁明天皇皇子。右大臣。
- 能有王(源朝臣能有)
- 文徳天皇第1皇子。右大臣。
- 坂井王(貞観4年(862年))
- 天武天皇子孫。
- 興基王(源朝臣興基・元慶4年(880年))
- 仁明天皇孫。人康親王子。参議。
- 興範王(源朝臣興範・元慶6年(882年))
- 仁明天皇孫。
- 忠相王(源朝臣忠相・元慶6年(882年))
- 仁明天皇曾孫。
- 敏相王(源朝臣敏相・元慶6年(882年))
- 仁明天皇曾孫。
- 宜子女王(源朝臣宜子・元慶6年(882年))
- 仁明天皇曾孫。
- 興扶王(源朝臣興扶・元慶6年(882年))
- 仁明天皇孫。
- 貞恒王(源朝臣貞恒)
- 光孝天皇孫。大納言。
- 高望王(平朝臣高望・889年か)
- 清蔭王(源朝臣清蔭)
- 陽成天皇皇子。大納言。
- 兼忠王(源朝臣兼忠)
- 清和天皇孫。参議。
- 経基王(源朝臣経基)
- 経生王(源朝臣経生)
- 清和天皇孫。
- 高明王(源朝臣高明・920年)
- 自明王(源朝臣自明)
- 醍醐天皇皇子。参議。
- 庶明王(源朝臣庶明)
- 英明王(源朝臣英明)
- 宇多天皇孫。斉世親王子。左中将。
- 兼明王(源朝臣兼明)
- 雅信王(源朝臣雅信・936年)
- 重信王(源朝臣重信)
- 宇多天皇孫。敦実親王子。左大臣。
- 博雅王(源朝臣博雅)
- 重光王(源朝臣重光)
- 保光王(源朝臣保光)
- 醍醐天皇孫。代明親王子。中納言。
- 延光王(源朝臣延光)
- 醍醐天皇孫。代明親王子。権大納言。
- 遠光王(源朝臣遠光)
- 醍醐天皇孫。代明親王子。
- 忠清王(源朝臣忠清)
- 醍醐天皇孫。有明親王子。参議。
- 正清王(源朝臣正清)
- 泰清王(源朝臣泰清)
- 醍醐天皇孫。有明親王子。左京大夫、従三位。
- 兼盛王(平朝臣兼盛・950年)
- 光孝天皇子孫。
- 昭平王(源朝臣昭平)
- 憲定王(源朝臣憲定)
- 村上天皇孫。為平親王子。従三位。右兵衛督。
- 頼定王(源朝臣頼定)
- 成信王(源朝臣成信)
- 資定王(源朝臣師房・1020年12月26日)
- 延信王(源朝臣延信・1024年)
- 有仁王(源朝臣有仁・1119年)
- 以仁王(源朝臣以光・1180年)
鎌倉時代
- 彦仁王(源朝臣彦仁・1294年(永仁2年))
室町時代
- 善成王(源朝臣善成・1356年(延文元年))
江戸時代
- 忠幸王(源朝臣忠幸)
明治時代
下記2例以外にも、臣籍にあった北白川宮能久親王庶子2名が、明治30年(1897年)7月1日に華族に列している(二荒芳之伯爵と上野正雄伯爵)が、当初から臣籍にあったので「臣籍降下」には当らない。またこの時代以降はいわゆる源氏には含まれない。
大正時代
- 芳麿王(山階芳麿・大正9年(1920年)7月24日)
- 邦久王(久邇邦久・大正12年(1923年)12月7日)
- 博信王(華頂博信・大正15年(1926年)12月7日)
- 伏見宮博恭王第3男子。明治38年(1905年)5月22日生まれ。20歳で海軍少尉の時に臣籍降下し華頂侯爵家を創設する(華頂宮の祭祀を承継する)。大正15年12月13日に閑院宮載仁親王第5女子の華子女王と婚姻する。
昭和初期
- 藤麿王(筑波藤麿・昭和3年(1928年)7月20日)
- 萩麿王(鹿島萩麿・昭和3年(1928年)7月20日)
- 茂麿王(葛城茂麿・昭和4年(1929年)12月24日)
- 邦英王(東伏見邦英・昭和6年(1931年)4月4日)
- 博英王(伏見博英・昭和11年(1936年)4月1日)
- 正彦王(音羽正彦・昭和11年(1936年)4月1日)
- 彰常王(粟田彰常・昭和15年(1940年)10月25日)
- 家彦王(宇治家彦・昭和17年(1942年)10月5日)
- 徳彦王(龍田徳彦・昭和18年(1943年)6月7日)
昭和22年10月14日の皇籍離脱
※ この時から“臣籍降下”ではなく“皇籍離脱”と呼称される。
1947年10月13日の皇室会議の議により、天皇家と秩父・高松・三笠の直宮家を除く傍系11宮家が皇籍を離脱した。当時の首相・片山哲と宮内府次長・加藤進は、「終戦直後から既に皇族の数人が皇籍を離脱する意向を持っており、さらに新憲法施行前には11宮家のほとんどが皇族の列を離れる意思を表明したことから、新憲法公布後に制定された新皇室典範に基づき、正式に決定した」という旨の証言を残している[3]。
しかし、新皇室典範がGHQの占領下で制定されたものであることや、1946年5月にGHQによる『皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令』が発せられていることなどから、背後にGHQの強い圧力があったことは否定出来ず、寛仁親王も近年「皇籍離脱はGHQによる皇族弱体化のための措置であった」という見解を示している[4]。さらに、片山らの証言とは異なり、皇籍離脱に強く反発した皇族も少なくなかったと言う[5]。
また、当問題に関する重臣会議の席上で、鈴木貫太郎が「皇統が絶えることになったらどうであろうか」と質問したのに対し、加藤が「かつての皇族の中に社会的に尊敬される人がおり、それを国民が認めるならその人が皇位についてはどうでしょうか」と将来的な皇籍復帰を示唆する内容の発言をしたという記録も残っている[6][7]。
竹田宮恒徳王の孫・竹田恒泰は著書『語られなかった皇族たちの真実』の中で、11宮家が占領政策で皇籍離脱を止む無くされた経緯を述べ、さらに男系継承の重要性を強調した上で、上記(鈴木・加藤)のやり取りを踏まえ「皇室の存在意義を守り抜くために、旧皇族の男系男子は皇籍復帰の覚悟を持つべきだ」と主張している[6][7]。
伏見宮
伏見宮は当主以下4名が皇籍離脱する。
- 伏見宮博明王(伏見博明)
- 博義王妃朝子(伏見朝子)
- 光子女王(伏見光子)
- 博義王の第1女子。
- 章子女王(伏見章子)
- 博義王の第2女子。
山階宮
山階宮は当主1名のみ皇籍離脱する。
- 山階宮武彦王(山階武彦)
- 3代当主。昭和62年(1987年)に死去し、山階家は断絶する(山階旧侯爵家を除く)。
賀陽宮
賀陽宮からは当主以下8名が皇籍離脱する。
- 賀陽宮恒憲王(賀陽恒憲)
- 第2代当主
- 治憲王(賀陽治憲)
- 章憲王(賀陽章憲)
- 恒憲王第3男子。
- 文憲王(賀陽文憲)
- 恒憲王第4男子。
- 宗憲王(賀陽宗憲)
- 恒憲王第5男子。味の素に勤務した。
- 健憲王(賀陽健憲)
- 恒憲王第6男子。
久邇宮
久邇宮からは当主以下10名が皇籍離脱する。宮家中最多の離脱人数である。皇后(香淳皇后)の実家であったが、皇籍離脱の例外とはならなかった。
- 久邇宮朝融王(久邇朝融)
- 久邇宮第3代当主。
- 邦昭王(久邇邦昭)
- 朝融王第1皇子。海軍兵学校在学中(第77期)に終戦を迎える。
- 朝建王(久邇朝建)
- 朝融王第2皇子。
- 朝宏王(久邇朝宏)
- 朝融王第3皇子。
- 邦彦王妃俔子(久邇俔子)
- 久邇宮邦彦王妃。
- 多嘉王妃静子(久邇静子)
- 多嘉王妃。
- 朝子女王(久邇朝子)
- 朝融王第2女子。
- 通子女王(久邇通子)
- 朝融王第3女子。
- 英子女王(久邇英子)
- 朝融王第4女子。
- 典子女王(久邇典子)
- 朝融王第5女子。
梨本宮
梨本宮からは当主とその妃の2名が皇籍離脱する。
- 梨本宮守正王(梨本守正)
- 第2代当主。離脱3年後に死去する。
- 守正王妃伊都子(梨本伊都子)
- 守正王妃。鍋島直大侯爵女子。
朝香宮
朝香宮からは当主以下の3王、1王妃、2女王が皇籍離脱する。
- 朝香宮鳩彦王(朝香鳩彦)
- 初代当主。久邇宮朝彦親王第8皇子。
- 孚彦王(朝香孚彦)
- 鳩彦王第1皇子。終戦時は陸軍中佐。
- 誠彦王(朝香誠彦)
- 孚彦王第1皇子。
- 孚彦王妃千賀子(朝香千賀子)
- 孚彦王妃。
- 富久子女王(朝香富久子)
- 孚彦王第1女子。
- 美乃子女王(朝香美乃子)
- 孚彦王第2女子。
東久邇宮
東久邇宮からは当主以下7名が皇籍離脱する。聡子内親王は明治天皇の、成子内親王は昭和天皇の1世の皇女であったが、皇籍離脱の対象となった。
- 聡子内親王(東久邇聡子)
- 稔彦王妃。明治天皇第9皇女。
- 成子内親王(東久邇成子)
- 盛厚王妃。昭和天皇第1皇女。
- 東久邇宮稔彦王(東久邇稔彦)
- 盛厚王(東久邇盛厚)
- 東久邇宮嗣子。
- 俊彦王(多羅間俊彦)
- 稔彦王第4男子。在サンパウロ日本国総領事館総領事・多羅間鉄輔の未亡人キヌの養子となった。
- 信彦王(東久邇信彦)
- 盛厚王第1男子。
- 文子女王(東久邇文子)
- 盛厚王第1女子。
北白川宮
北白川宮からは当主以下4名が皇籍離脱する。
- 成久王妃房子内親王(北白川房子)
- 3代当主の成久王妃。明治天皇第7皇女。
- 北白川宮道久王(北白川道久)
- 永久王妃祥子(北白川祥子)
- 4代当主の永久王妃。
- 肇子女王(北白川肇子)
- 故永久王第1女子。
竹田宮
竹田宮からは当主以下6名が皇籍離脱する。
- 竹田宮恒徳王(竹田恒徳)
- 恒徳王妃光子(竹田光子)
- 恒徳王妃。三条公輝公爵次女。
- 恒正王(竹田恒正)
- 恒徳王第1男子。
- 恒治王(竹田恒治)
- 恒徳王第2男子。
- 素子女王(竹田素子)
- 恒徳王第1女子。
- 紀子女王(竹田紀子)
- 恒徳王第2女子。
閑院宮
閑院宮からは当主とその妃の2名が皇籍離脱する。閑院家は昭和63年に断絶となる。
- 閑院宮春仁王(閑院純仁)
- 閑院宮第7代当主。閑院宮載仁親王第2皇子。
- 春仁王妃直子(閑院直子)
東伏見宮
東伏見宮からは親王妃1名が皇籍離脱する。
- 依仁親王妃周子(東伏見周子)
- 東伏見宮依仁親王妃。昭和30年(1955年)に死去する。
養子による臣籍降下
皇族は臣籍降下に際して、新たに一家を創設するのが通例であるが、臣下の養子(猶子)となる形で臣籍に降下する例もあった。明治22年皇室典範には、規定がなくむしろ禁止されていたと解されるが、明治40年増補第2条により、王は、華族の家督相続人となることが認められるようになった。もっとも、明治皇室典範の下で、王が華族の家督相続人となった事例はない。
- 石津王(757年)
- 藤原朝臣嫄子(1037年)
- 光子女王(1724年)
- 藤原朝臣信尋(近衛信尋・1605年)
- 藤原朝臣兼遠(一条昭良・1609年)
- 藤原朝臣輔平(鷹司輔平・1743年)
- 藤原朝臣公潔(西園寺公潔)
- 藤原朝臣家教(渋谷家教・明治5年)
- 渋谷家養子となり、その後皇籍復帰し、再度臣籍降下する。詳細は#皇籍復帰。
臣籍降嫁(婚姻による皇籍離脱)
律令制度の下では、内親王・女王は非皇族と婚姻しても、皇族の身分を保持したままであることが通例であったが、旧皇室典範では臣籍降嫁、皇室典範では皇籍を離脱することが定められる。
旧皇室典範下では以下の32名が臣籍降嫁している。
- 安喜子女王(池田安喜子・1890年)
- 絢子女王(竹内絢子・1892年)
- 素子女王(仙石素子・1893年)
- 栄子女王(東園栄子・1899年)
- 禎子女王(山内禎子・1901年)
- 純子女王(織田純子・1901年)
- 貞子女王(有馬貞子・1903年)
- 滿子女王(甘露寺滿子・1904年)
- 篶子女王(壬生篶子・1906年)
- 實枝子女王(徳川實枝子・1908年)
- 武子女王(保科武子・1911年)
- 茂子女王(黒田茂子・1914年)
- 由紀子女王(町尻由紀子・1915年)
- 擴子女王(二荒擴子・1915年)
- 恭子女王(安藤恭子・1915年)
- 恭子女王(浅野恭子・1918年)
- 方子女王(李方子・1920年)
- 安子女王(浅野安子・1920年)
- 智子女王(大谷智子・1924年)
- 信子女王(三条西信子・1924年)
- 敦子女王(清棲敦子・1926年)
- 規子女王(広橋規子・1926年)
- 華子女王(華頂華子・1926年)
- 紀久子女王(鍋島紀久子・1931年)
- 美年子女王(立花美年子・1933年)
- 禮子女王(佐野禮子・1934年)
- 佐和子女王(東園佐和子・1935年)
- 恭仁子女王(二条恭仁子・1939年)
- 多惠子女王(徳川多恵子・1941年)
- 湛子女王(大給湛子・1941年)
- 美智子女王(徳大寺美智子・1943年)
- 正子女王(龍田正子・1945年)
現皇室典範の下では現在までに下記の内親王が婚姻に伴い皇籍を離脱している。
- 孝宮和子内親王(鷹司和子・1950年)
- 順宮厚子内親王(池田厚子・1952年)
- 清宮貴子内親王(島津貴子・1960年)
- 甯子内親王(近衛甯子・1966年)
- 容子内親王(千容子・1983年)
- 紀宮清子内親王(黒田清子・2005年)
脚注
- ↑ 異母弟(光仁天皇皇子)の広根諸勝と自己の皇子である長岡岡成・良峯安世。いずれも生母の身分が低く、皇位継承の可能性が乏しかった。
- ↑ 藤木邦彦「皇親賜姓」『平安時代史事典』角川書店、1994年、P822。
- ↑ 首相官邸ホームページ「昭和22年10月の皇籍離脱について」
- ↑ 『文藝春秋』2006年2月号
- ↑ 閑院純仁『私の自叙伝』閑院純仁自伝刊行会、1966年
- ↑ 6.0 6.1 竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』小学館、2005年
- ↑ 7.0 7.1 朝日新聞 2005年11月19日付朝刊38面
- ↑ 『官報』第2249号、明治23年12月25日
- ↑ 『官報』第2851号、明治25年12月27日
- ↑ 『官報』第3116号、明治26年11月16日
- ↑ 『官報』第4873号、明治32年9月27日
- ↑ 『官報』号外、明治34年4月6日
- ↑ 『官報』号外、明治34年11月27日
- ↑ 『官報』号外、明治36年2月6日
- ↑ 『官報』号外、明治37年11月14日
- ↑ 『官報』号外、明治39年10月28日
- ↑ 『官報』号外、明治41年11月8日
- ↑ 『官報』号外、明治44年4月17日
- ↑ 『官報』第443号、大正3年1月22日
- ↑ 『官報』第822号、大正4年5月1日
- ↑ 『官報』第891号、大正4年7月21日
- ↑ 『官報』第928号、大正4年9月4日
- ↑ 『官報』第1746号、大正7年5月30日
- ↑ 『官報』第2320号、大正9年4月29日
- ↑ 『官報』第2483号、大正9年11月10日
- ↑ 『官報』第3507号、大正13年5月5日
- ↑ 『官報』第3691号、大正13年12月10日
- ↑ 『官報』第4254号、大正15年10月28日
- ↑ 『官報』第4284号、大正15年12月3日
- ↑ 『官報』第4293号、大正15年12月14日
- ↑ 『官報』第1308号、昭和6年5月13日
- ↑ 『官報』第1813号、昭和8年1月18日
- ↑ 『官報』第2168号、昭和9年3月27日
- ↑ 『官報』第2402号、昭和10年1月8日
- ↑ 『官報』第3672号、昭和14年4月5日
- ↑ 『官報』第4279号、昭和16年4月15日
- ↑ 『官報』第4451号、昭和16年11月8日
- ↑ 『官報』第5090号、昭和19年1月4日
- ↑ 『官報』第5480号、昭和20年4月24日
関連項目
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