黒田慶樹
テンプレート:Infobox 人物 黒田 慶樹(くろだ よしき、1965年(昭和40年)4月17日 - )は、日本の地方公務員。東京都都市整備局市街地整備部担当課長(東京都都市づくり公社派遣(総務部総務課長))。妻は今上天皇の第一皇女・清子内親王(現黒田清子)であり、慶樹は今上天皇の女婿にあたる。
学習院大学法学部卒業。学位は法学士(学習院大学)。黒田家は、親戚筋に元華族・皇族につながる人がいるが、黒田慶樹自身の流れの中には、元華族出身者はいない。
略歴
出生から学生時代まで
1965年4月17日に、トヨタ自動車に勤務する父・黒田慶次郎と、母・寿美子の長男として生まれた。弟が一人いる。
1972年4月に学習院初等科に入学する。礼宮文仁親王(後の秋篠宮)とは初等科時代からの学友であり、高等科時代は写真部・地理研究会、大学時代は自然文化研究会でも行動をともにした。大学時代のサークル仲間には、川嶋紀子もいた。在学中の1986年に、父の黒田慶次郎と死別する。1988年3月に、学習院大学法学部を卒業する。
東京都庁職員として
三井銀行(現在の三井住友銀行)に入行したが1996年、31歳のとき退職する。翌年より、東京都庁に勤務する。東京都の都市計画局総務部総務課の勤務を経て、結婚した2005年時点では東京都都市整備局市街地建築部建設業課建設業指導係の次席(係長級)を務めていた。
都市整備局総務部総務課係長を経て、2009年に管理職選考に合格して、翌年の2010年4月に建設局公園緑地部管理課課長補佐に昇任する。2012年4月に建設局第五建設事務所の用地課長に昇任した。2013年4月からは都市整備局市街地整備部担当課長(東京都都市づくり公社総務部総務課長として派遣)。
結婚
大学卒業後も秋篠宮家とは交流があり、秋篠宮邸での友人・知人の集まり「さんまの会」にも招かれていた。2003年1月、この集まりの中で、顔見知りであった紀宮清子内親王と再会[1]。2年余りかけて交際を深めた。秋篠宮自身が後に記者会見で、「最初二人が会うきっかけを作ったのは私でありますし、それから、二人が会ったうちの何回か、場所を提供したのも事実であります」等と逸話を語った[2]。交際に際しては、連絡手段に電子メールや手紙を用い、特に手紙は秋篠宮が双方に届けたと言う[3]。
2004年11月、清子内親王との婚約内定が報道され、一躍話題の人となる。同月9日にも婚約内定発表の予定だったが、中越地震に配慮し延期。高松宮妃喜久子の逝去により再延期され、同年12月30日に、宮内庁より正式発表された。翌2005年3月19日の納采の儀(婚約)、10月5日の告期の儀を経て、11月15日に日比谷の帝国ホテルで結婚式と披露宴が行なわれた。披露宴には天皇・皇后を始めとする皇族、親族、知人らの他、「上司」である東京都知事石原慎太郎も出席した。
清子内親王は結婚に伴い、翌16日に皇統譜より除籍され一民間人の黒田清子となった。結婚後、慶樹も清子夫人に同伴し、皇室の内輪の集まりに出席することがある。
人物
天皇の皇女の結婚相手としては、皇族・華族出身者でない史上初の人物である。
1990年6月、文仁親王と川嶋紀子が結婚。このとき慶樹らも親しい友人として取材を受ける[4]。
趣味はカメラと自動車[5]。カメラはアンティークを好み[5]、イギリス車を愛する[5]。
発言から
- 「それ相応の通信手段を用いまして…」
- - 清子内親王との連絡方法について
- 11月14日、婚約報道の際、自宅前での取材に対し
- 「ご自分の考えをしっかりとお持ちになりながら、ゆったりと他人を許容することのできる寛さを持っておられるところや、物事に誠実でいらっしゃるというところ」
- - 清子内親王の感じる慶樹の魅力について
- 「宮さまには、これからの生活の多くが新しいことで、ご不安をお感じになることも多くおありかと存じますけれども、私といたしましては、できる限りのことをさせていただきたいと存じております」
- - 内親王と結婚する心境について
- 以上、2004年12月30日・婚約内定に際する記者会見より
系譜
黒田家
- 祖父・慶太郎
- 祖父・黒田慶太郎は明治15年(1882年)2月、現在の大阪府堺市に黒田吉三郎の長男として生まれ、東京高等商業学校(現一橋大学)に学び、卒業後は三井物産に入社。上海の日系紡績会社、上海紡織(シャンボウ)の代表取締役会長をつとめた。慶太郎には二男六女があり、長男・慶一郎は秋月家から妻をむかえ、長女・徳子は税所家に嫁いだ[8]。秋月家、税所家ともに武家の流れをくむ旧華族(子爵家)である[8]。慶一郎はトヨタ自動車販売の常務を経て日本ケミカル工業会長となった[8]。
- 父・慶次郎、母・寿美子、弟
- 父・黒田慶次郎は初等科から学習院に学び、政経学部を卒業後トヨタ自動車に勤務[8]。東京・神田の呉服問屋のひとり娘寿美子との間に二児をもうけるが慶樹が大学3年のとき、ガンに倒れた[8]。一学年下の弟は結婚して妻の姓を名乗っている[9]。
- 評価
- 慶樹は清子内親王と結婚した。ジャーナリストの友納尚子によれば、「黒田さんは、いわゆる名家の出身でもなければ、飛びぬけた資産家でもない[9]。サラリーマン家庭に育ち、自身も東京都庁に勤める地方公務員[9]。父親を早くに亡くし、結婚後は母親との同居が前提[9] ― 。こうしたごく庶民的な条件をもって、黒田さんに白羽の矢が立ったとは考えにくい[9]。結局は、ご学友として秋篠宮の信頼が厚いという、その人柄によるところが大きいのではないか[9]。」という。
- なお、江戸時代の大名家で華族の黒田氏(近江源氏・筑前福岡藩主、旧侯爵)や、黒田清隆を祖とする黒田家(旧伯爵)などとは無関係である。
脚注
外部リンク
th:โยชิกิ คุโรดะ- ↑ 平成16年12月30日・婚約内定に際する記者会見より
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 2004年11月15日 朝日新聞「紀宮さまと黒田さん、メールで愛育む 秋篠宮さまが仲介」
- ↑ アサヒグラフ 1990年7月臨時増刊号「おめでとう礼宮さま紀子さん、爽やかロイヤルカップル」の記事『学友座談会』に慶樹も参加している
- ↑ 5.0 5.1 5.2 『文藝春秋』(2005年、新年特別号)100頁
- ↑ 2005年11月15日 読売新聞「「新居祝いのお酒楽しみ」黒田さんの親友・原 幸一さん」
- ↑ 2004年11月15日 中日スポーツ「幼なじみ「クロちゃん」「サーヤ」」※アーカイブ
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 『文藝春秋』(2005年、新年特別号)98頁
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 『文藝春秋』(2005年、新年特別号)99頁