後朱雀天皇
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後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。
系譜
一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄後一条天皇の皇太弟。
系図
略歴
後一条天皇の即位に伴い皇太子となった敦明親王が、寛仁元年(1017年)自ら皇太子を辞退したため、その後を受けて皇太子となる。同5年(1021年)道長の六女で叔母にあたる嬉子が東宮妃として入内、万寿2年(1025年)に待望の第一王子親仁(後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は産後の肥立ちが悪く2日後に急逝した。その後道長の孫で従姉妹の禎子内親王が入内し第二王子尊仁(後三条天皇)始め一男二女を出産、それとは対照的に兄後一条がついに皇子の誕生を見ぬまま崩御したため、その後を受けて即位した。
即位後は関白藤原頼通が養女嫄子を入内させて中宮に立てたのを始め、その弟藤原教通が娘生子を、同じく藤原頼宗が娘延子を相次いで入内させたが、いずれも皇子を出産することはなかった。その間皇后禎子内親王とその皇子尊仁親王は関白らに冷遇されていたが、後朱雀天皇が里内裏東三条第において病に倒れて譲位を決断した際、皇后を支援していた藤原能信の働きで尊仁親王を次期皇太子にするよう遺詔を発したと言われる。病(肩の悪性腫瘍)により寛徳2年1月16日(1045年2月5日)譲位。その2日後に出家、同日崩御。享年37。
后妃・皇子女
- 皇后:禎子内親王(1013-1094) - 三条天皇第三皇女
- 中宮:藤原嫄子(1016-1039) - 敦康親王女、関白藤原頼通養女
- 東宮妃(贈皇太后):藤原嬉子(1007-1025) - 摂政藤原道長六女
- 第一皇子:親仁親王(後冷泉天皇)(1025-1068)
- 女御:藤原生子(1014-1068) - 内大臣藤原教通長女
- 女御:藤原延子(1016-1095) - 権大納言藤原頼宗次女、脩子内親王養女
- 第五皇女:正子内親王(押小路斎院)(1045-1114)
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府京都市右京区竜安寺朱山の龍安寺内にある圓乘寺陵(円乗寺陵、えんじょうじのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。