盧武鉉
盧 武鉉(ノ・ムヒョン) 노무현 | |||||||
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任期 | 2003年2月25日 – 2008年2月24日 | ||||||
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国務総理 | 高建 (2003-2004)* 李海瓚 (2004-2006) 韓悳洙 (2006) 代理 韓明淑 (2006-2007) 権五奎 (2007) 代理 韓悳洙 (2007-2008) | ||||||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢(旧暦8月6日) テンプレート:KOR1945、慶尚南道金海郡(現:金海市) | ||||||
死去 | テンプレート:死亡年月日と没年齢 テンプレート:Flagicon 韓国、慶尚南道梁山市 |
政党 | 統一民主党 (1988–1990) 民主党 (1990–1997) 新千年民主党 (1997–2003) ウリ党 (2003–2007) |
配偶者 | 権良淑 | 署名 | 128px |
- REDIRECT Template:朝鮮の人物
盧 武鉉(ノ・ムヒョン、노무현、1946年9月1日(旧暦8月6日)- 2009年5月23日)は、大韓民国の政治家、第16代目韓国大統領(2003年-2008年)。本貫は光州盧氏。カトリックの洗礼名を持っていて、洗礼名はユストだが、妻は仏教徒で遺骨も実家近くの仏教寺院に納められている。一部の進歩陣営では、盧武鉉を"ノチャン"と呼ぶ。妻の権良淑(クォン・ヤンスク)とのあいだに1男1女。歴代で初めての、日本統治時代を経験していない世代の大統領である。
目次
生い立ち・弁護士として
慶尚南道金海郡(現:金海市)進永邑(チニョンウプ)烽下(ポンハ)の貧しい農家に生まれる。母親は身ごもっている最中に胎夢を見たという[1]。6歳ですでに千字文を諳んじた神童であった[2]。小学校では生徒会長を務め、中学校では成績トップを争うほどだったが、貧困により1年の休学を余儀なくされている。苦しい家計を思い、一度は高校進学を諦めるが、兄の強い説得と助力で名門の釜山商高に進学した。当時商業学校からの花形コースであった銀行マンを志し、農協の就職試験を受けるも叶わず[3]、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。司法試験への挑戦を決意する[4]。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし、日雇い労働をしながら1966年11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、1971年に三級公務員の一次試験に合格。兵役をはさんで勉強を続け、1975年司法試験に合格した。司法研修院で研修を終えた後、1977年大田地方法院(裁判所)判事に就任。1978年判事を辞めて弁護士事務所を開業。租税関連の訴訟を専門としていたが、1981年に別の弁護士の代理として釜林事件の弁護を引き受けた事が転機となり、人権派弁護士として活動を始めた。
1982年の釜山アメリカ文化院放火事件では被告側弁護人を担当した。1987年には大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導し、大宇造船事件では逮捕と拘留も経験している。盧武鉉は後年、人権派弁護士への変身は覚悟や決意を要求されたものではないと語った。平凡な常識と良心、そして「拷問されて真っ黒になった学生の足の爪」を見ての憤りと怒りであったという[5]。
政界進出
1988年に統一民主党(当時)の金泳三に抜擢され、同年4月に行なわれた13代国会議員選挙で当選し、政界入りした。国会の労働委員会では、李海瓚や李相洙とともに「労働委員会三銃士」と呼ばれ、活発な活動を行った。同年、第五共和国の不正調査特別委員会の委員となり、第五共和国聴聞会における全斗煥時代の不正追及の場面がテレビ中継されたことがきっかけで、国民的スターになった。
1990年に民主党の金泳三派が盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党と合党し(三党合同)、大与党・民主自由党を結成した。盧武鉉はこれを野合として合同への参加を拒み、他の議員とともに1990年6月に改めて結成された民主党に加わり野党に残った。盧武鉉は金大中率いる新民主連合党との野党統合運動を推進し、1991年9月に統合野党としての新・民主党を発足させた。
その結果、恩師でもあった金泳三に睨まれることになり、1992年には14代国会議員選挙で落選。1995年の釜山市長選挙および翌1996年の15代国会議員選挙も落選した。1998年の補選にてようやく国会議員(ソウル市鍾路区[6]で当選。新政治国民会議)に復帰した。2000年の16代国会議員選挙でソウル・鍾路区ではなく釜山市の北・江西乙選挙区から出馬(新千年民主党)し、再度落選するが、勝てなくても立候補し続ける姿が一部の国民の共感を得て、2000年にインターネット上で盧武鉉のサポーター組織「ノサモ」(ノムヒョヌル・サランハヌン・モイム=盧武鉉を愛する集まりの意)が結成された。
2000年8月、盧武鉉は金大中政権の海洋水産部の長官に任命された。これは湖南(全羅道)を地盤とする民主党が、民主党の支持が薄い嶺南(慶尚道)出身者を次期大統領候補(のひとり)として遇しようとしたためと言われている。
大統領選挙
2002年大統領選挙に際し、新千年民主党(以下、民主党)の大統領候補の選出は、アメリカ合衆国の予備選挙制に似た国民参加選挙(国民競選)を通じて行われた。立候補登録を行ったのは、金重権、盧武鉉、鄭東泳、金槿泰、李仁済、韓和甲の各常任顧問と柳鍾根全羅北道知事の7名だった。世論調査では李仁済が優勢とされ、またハンナラ党の大統領候補李会昌による忠清圏票の独占を防げるということで、「李仁済大勢論」(李仁済以外にいない)と思われた。だが、李仁済では李会昌に勝てず、進歩主義陣営の票を取りこぼすと主張する意見もあり、それは急速に「盧武鉉代案論」として浮上した。
全国で行われた予備選挙で、盧武鉉は蔚山、光州と勝利を重ねた。嶺南と湖南で勝利したことにより、民主党候補が地域対立を越えて大統領に当選する期待を抱かせた。苦戦する李仁済は盧武鉉の思想、財産、盧武鉉の義父の左翼歴にいたるまで取り上げて批判した[7]。だが大勢を覆すに至らず、盧武鉉は勝利を重ねて「盧風」(盧武鉉旋風)を巻き起こした。そして4月27日に民主党の大統領候補に選出された。
しかし金泳三との和解を演出した「YS腕時計事件」[8]は、進歩・改革の旗手として支持者が描いていた盧武鉉のイメージを傷つけた。また、金大中の側近や親族の逮捕は民主党の大統領候補である盧武鉉への逆風となり、6月の統一地方選や8月の補選に惨敗した民主党では候補の交代や、鄭夢準との候補一本化が取り沙汰されるようになった。
このような事情から、盧武鉉は鄭夢準との候補一本化を模索した。調整の結果、二人はテレビ討論会を行い世論の支持を集めた側を統一候補として擁立する事にした。テレビ討論会は11月22日に行われ、その後の世論調査で盧武鉉は46.8%、鄭夢準は42.2%の支持率となり、盧武鉉が統一候補に決定した。そして大統領選挙戦は、事実上盧武鉉とハンナラ党の候補李会昌の一騎打ちとなった。
11月20日、在韓米軍の軍事法廷は6月に女子中学生を交通事故死させたアメリカ兵に無罪の判決を下した。これは米韓行政協定(SOFA)のもとに行われたことだったが、民主活動家たちが運動を活発化させるきっかけを与えた。労働組合や左派団体はソウルや各地の都市で繰り返しキャンドルデモを扇動し、メディアもそれを報じて反米機運を増幅した。アメリカは11月27日にハバード駐韓大使とラポート在韓米軍司令官が謝罪し、さらに大統領(当時)のジョージ・W・ブッシュの謝罪声明を発表して事態の沈静化を図ったが、デモの主催者たちはこれを欺瞞とし、デモを続けた[9]。投票日を前に発生したこの事件は、有権者の投票行動に少なくない影響を与えた(→議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件も参照)。
2002年11月27日および28日、盧武鉉と李会昌、民主労働党の權永吉ほか4名が大統領選挙の候補に登録を行い、選挙戦が正式に開始した。盧武鉉は金大中による太陽政策(包容政策)の継承、行政首都を忠清圏に移転するといった政治改革や、7%の経済成長を公約に掲げた[10]。一方、比較的親米的な李会昌は金大中政権の路線を全面的に転換することを望み、対北・対米方針の違いが、大統領選挙の主要な争点の一つとなった。
投票日前日の12月18日、鄭夢準が盧武鉉への支持を撤回するというハプニングが起きた。対北朝鮮政策の違いや、将来の大統領をめぐる盧武鉉の発言など原因であるといわれている[11]。しかし土壇場での「裏切り」はかえって盧武鉉への同情を呼び起こし、またノサモによる盧武鉉への投票の呼びかけが功を奏して、盧武鉉は約57万票差の僅差で李会昌を制し、第16代大統領の座を射止めた。なお、地方での得票率においては盧武鉉は湖南地域で軒並み90%以上を獲得する一方、大邱広域市の一部で20%を下回るなど一部地域間での差が顕著に表れた。
大統領職
就任
盧武鉉は相対的に高い国民の支持を得て大統領職に就任したが、与党の新千年民主党は国会では少数派だった。国会ではハンナラ党が過半数を占めており、選挙訴訟、人格攻撃、大統領としての適性を取り上げ、あるいは言葉尻をとらえて盧武鉉を攻撃した。さらに与党の新千年民主党では、全羅道を基盤とする金大中派と盧武鉉を中心とする主流派との間で与党内抗争が激化し、主流派が「ヨルリン・ウリ党」を結成したことによって新千年民主党は下野した。議会での基盤を大幅に損なった盧武鉉は苦境に立たされた。
与野党共に大統領選挙における不正資金疑惑が浮上した。経済運営も難航した。イラクに韓国軍を派遣したことが支持者離れを引き起こし、支持率は急落した。起死回生を図るべく、盧武鉉は国民投票による再信任を提案するが、各方面から批判を浴び撤回を余儀なくされた。盧武鉉は与野党代表と会合を行い「われわれが昨年の大統領選挙で使った不法資金の規模がハンナラ党の10分の1を超えれば、大統領職を退き、政界を引退する」と述べたが[12]、調査が進んで8分の1に迫ると、敵対的なメディアでの主観的な計算の問題としてその数字に異議を唱えた。
イラク追加派兵問題をめぐり、外交通商部と国防部の「韓米同盟派」と、大統領府・国家安全保障会議(NSC)を中心とした「自主派」が軋轢を起こした。2004年1月、盧武鉉は外交通商部幹部の失言と監督責任を理由に尹永寛外交通商部長官を更迭し[13]、後任に潘基文を任命した。
弾劾
テンプレート:Main 総選挙を控えた2004年3月9日、野党であるハンナラ党、新千年民主党は国民の理解を得られると踏んで大統領の弾劾訴追を発議した。3月12日、投票(賛成193、反対2)の結果、大統領弾劾訴追案が可決され、一時的に大統領職務を停止された。これにより、当時国務総理(首相)だった高建が大統領職務代行を務めた。
しかし、党利党略から大統領を弾劾し、国政を混乱させた野党に世論が反発、総選挙でのウリ党の地滑り的勝利に繋がり、これをもって事実上の信任と見なされた。5月14日には憲法裁判所により大統領弾劾訴追が棄却され、職務に復帰した。結果として、盧武鉉は政治基盤を大幅に強化し、政策を推進する体制を整えることとなった。
改革
盧武鉉は自らの政権を「参与政府」(国民が政治に参与する政府)と称し、より進歩的かつ理念的な改革を指向した。「ノサモ」などのインターネットの力を借りて政権の座に就いたこともあり、ホームページを通して積極的な情報公開を行うだけでなく、重大な政策論争に行き当たるたびに、国民に直接語りかける機会を設け、ネットを利用したポピュリズムを形成して、既存の保守勢力の抵抗を突破しようとした[14]。テンプレート:Main テンプレート:節stub
大連立論争
与党のウリ党はすべての補選で敗北を喫した。2005年4月30日の補選も例外でなく、ウリ党は6選挙区すべてで議席を獲得できず、惨敗を喫した。不人気に直面した盧武鉉は、野党ハンナラ党に権力を渡すことを含めた選挙制度改革と大連立(挙国連立)政権を提案した。国民一般の世論とかけ離れたこの提案は、国論を沸騰させた。憲法学者は違憲の疑いを指摘し、ハンナラ党は繰り返し連立政権の交渉を辞退した。与党議員の3分の2が連立政権に反対したが、盧武鉉はこの提案に執着した。
2005年9月7日、盧武鉉とハンナラ党の朴槿恵代表との単独会談が行われ、2時間30分にわたり二人は意見を交わしたが、双方は合意を見出せずに物別れに終わった[15]。大連立構想はいずれの政治派閥からも支持を得ることなく廃棄された。
レームダック
2006年5月31日に行われた統一地方選挙では、盧武鉉政権の経済無策への批判やハンナラ党代表の朴槿恵への襲撃事件も重なって、与党のウリ党は歴史的惨敗を喫した。事実上大統領および政府与党への信任選挙であったため大統領の責任論が浮上したが、「一度や二度の選挙結果に惑わされるようでは民主主義とはいえない」と述べ、与野党双方からさらに批判が巻き起こった。この選挙結果により以前から言われていた「レームダック(死に体)政権」のイメージがますます強くなってしまい、支持率は20%を切るようになった[16]。
2006年8月、盧武鉉は任期切れとなった尹永哲憲法裁判所所長の後任に、全孝淑憲法裁判所裁判官を内定した。しかし任命手続きに法的な瑕疵があったことを理由に国会が同意せず、憲法裁判所所長の座が空位となった。
2006年10月、国家情報院は386世代民主化闘士が北朝鮮と通じてスパイ活動をしたとして、民主労働党の幹部などを国家保安法違反で逮捕した。しかし、捜査の指揮を執っていた金昇圭国家情報院院長が突如辞意を表明し、その後情報機関の長としては異例にも朝鮮日報へのインタビューに応じて捜査内容を語るという事件が発生した。同月、テンプレート:仮リンク(ユン・グァンウン)国防部長官が辞任した。宥和政策に対する批判の高まりから統一部長官の李鍾奭も辞意を表明し、国連事務総長へ転出するため辞任した外交通商部長官の潘基文と合わせて、外交・安保の責任者がすべて入れ替わることとなった。
2006年11月、盧武鉉は憲法裁判所所長の指名を撤回した。盧武鉉は議場を占拠して任命同意案の採決を阻んだ国会を非難するとともに、指名撤回を「屈服」と表して、任期を終えることのできない最初の大統領にはなりたくないと述べた[17]。
2006年12月、盧武鉉は民主平和統一諮問会議の席上で、韓国の国防力に自信を示すと共に、在韓米軍基地移転や戦時作戦統制権の返還に反対する退役軍人に対し「アメリカの後ろに隠れて『兄貴、兄貴のパワーだけ信じるよ』とばかりしてはいられない。一度は度胸をみせるべきじゃないか」「自国軍隊の作戦統制さえきちんとできない軍隊を作っておいて、『私は国防長官です』、『私は参謀総長です』と威張りたいというのか」と反論した[18]。
党争
度重なる補選の敗北と次期大統領選挙を見据えて、与党ウリ党では金槿泰を中心に、かつて袂を分かった民主党との再統合を模索する動きが活発化した(統合新党論)。盧武鉉は再統合を地域主義への回帰であるとして非難し、長文の手紙を発して党員への呼びかけを行った。また次期大統領選挙の有力候補であり、進歩主義陣営結集の核と目された高建を激しく攻撃し、大統領選挙への出馬辞退に追い込んだ。
ウリ党の親盧勢力も、盧武鉉の意を受けて党を死守するとの立場を見せた。金槿泰らが党の進路を決める全党大会を前に、外部人材の受け入れを妨げるとして基幹党員制の撤廃に踏み切ると、改正手続きに不備があると仮処分を申し立て、法院はこれを認めた。ここに至り、ウリ党の現職議員が全党大会を待たずに脱党を始めた。盧武鉉は党の現状を知り、青瓦台に親盧勢力を招いて党の分裂を防ぐように方針転換を促した結果、党憲の改正は改めて議決されたが、現職議員の脱党を完全に押し留めるには至らなかった[19]。 テンプレート:節stub
内政
盧武鉉は金大中の後継者として、「左派新自由主義」路線を推進した。
経済政策
アジア通貨危機以来の新自由主義政策を継承した。
社会政策
左派が課題としてきた問題に取り組み、過去の軍事政権下における人権抑圧について検証を進めた。
朝鮮日報、東亜日報という既存の保守系メディアとは鋭く対立し、その力を殺ぐべく言論改革を唱えた。これは後に大手新聞社の発行部数を抑制し、政権に融和的な中小言論を経済的に支援する「新聞法」や、報道被害に訴訟で対抗する道を拓く「言論仲裁法」といった言論改革法の成立に結びついた。北朝鮮の工作員から反米活動の大衆化や金泳三元大統領と黄長燁元北朝鮮労働党秘書に圧力をかけることなどの指令を受けていた南北共同宣言実践連帯[20]などの親北朝鮮団体に政府補助金を支援した[21]。
首都移転計画
最大の公約である地域主義を解消するべく、極度に人口が集中するソウル一極集中を正すために首都移転計画を進めたが、2004年10月21日に憲法裁判所が「ソウルは朝鮮王朝以来の慣習的首都」として「違憲」と判断、修正を余儀なくされた[22]。
歴史認識問題
盧武鉉は歴史の見直しにも強い意欲をもって臨んだ。民主化以降の文民政権は、政権の正当性を確立するために現代史の見直しや清算を進めてきたが、盧武鉉はこれを一歩進めて日韓併合や日本統治時代の親日派、朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明を主張した。韓国国会は過去清算に関わる立法を進め、金泳三・金大中政権で成立したものを含めて13の特別法が効力を持つことになった。また、これらの法律を総括するために、植民地時代から軍事政権期にいたる全ての事案に適用して真相究明や責任の追及、補償を行うための過去史基本法(真実・和解のための過去史整理基本法)を成立させた[23]。
2006年3月20日、全斗煥元大統領ら170人の叙勲を取り消す[24]。
外交
対北朝鮮政策においては金大中の太陽政策を継承、かつさらに極端なまでに発展させ、北朝鮮に対しては徹底的な宥和路線で臨んだ。また、独自外交路線を推し進め、米韓同盟を見直しつつ、日本とは一定の距離を置いた。
日本
就任当初は歴代の大統領と同様に「未来志向」を謳い、日本と良好な関係を結ぶと期待された。初めての訪日が顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり批判を浴びたが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」[25]と主張して、訪日の重要性を強調した。日韓首脳が頻繁に会談し意見交換する必要があるとの認識から、当時の日本の首相である小泉純一郎との間でシャトル首脳会談を推進することで合意し、相互を往復して会談を重ねた。
従来から日韓双方がこれまで必要に応じて棚上げしてきた問題について、人権派弁護士として軍部独裁に反対する学生とともに歩んできた盧武鉉は文民政権の正当性を確立するために歴史の清算にこだわった。
また、セヌリ党の鄭夢準によると、盧武鉉は司令官が出席する長官会談でアメリカに日本を共通の仮想敵国に規定しようと提案し、アメリカは非常に当惑していたと語った[26][27][28]。韓国や日本では報道されていなかった。
2005年3月、盧武鉉は三一節の演説で日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求し、ついに対日強硬政策へと舵を大きく切り直した。丁度この時期は小泉首相が靖国参拝を続け、かつ国連の常任理事国入りを目指しており、韓国では反日デモが起こる等国内での反日感情が増幅していた時期であった。しかし演説への論評を求められた当時の小泉首相は、盧武鉉の発言は「国内向け」と応じて取り合わなかった[29]。両者の亀裂は決定的なものとなり、盧武鉉は「外交戦争も辞さない」というきわめて強い表現で日本への批判を続け、最終的には小泉の靖国神社参拝を理由として首脳会談を中止した。北朝鮮による拉致が明らかになることで日本の世論は小泉支持に変わっていった。盧武鉉は日韓首脳会談で靖国神社について「過去の戦争を誇り、栄光のように展示していると聞いている」と述べ、続けて「(靖国神社は)過去の戦争と戦争英雄を美化し、これを学んだ国が隣りにあり、こうした国が膨大な経済力と軍事力を持っている。(韓国など)その近隣国が過去に何度も苦しめられたことがあるならば、国民は未来を不安に思わざるを得ない」と強い懸念を示し、日韓シャトル外交も以後中止となり、盧武鉉は退任までにシャトル外交に出席しなかった。数ヵ月後には小泉は靖国参拝は「不戦の誓い」だと主張、これに対し盧大統領は「いくら小泉首相の考えを善意に解釈しようとしても韓国の国民には決して受け入れられないだろう」と言明した。
2005年4月、ドイツを訪問し日本の国連常任理事国入りに反対を表明し(一方でドイツの常任国入りは支持すると発言)更に日本をナチスドイツと同様に批判しようと共同宣言を持ちかけるもドイツ政府から猛批判・猛反発を受け相手にされなかった。ドイツ在住ユダヤ人代表団からは「ナチスドイツによるホロコーストは人類史上最大で他に例をみない反人類的な犯罪であって、これを日本の韓国統治と同一視することは、ユダヤ人虐殺の人類史的意義を不当に貶める、きわめて非国際的で悪辣な議論である」という厳しい批判を受け、ドイツのメディアからも発言また訪問それ自体が無視され、何の成果も得られなかった[30]。
2005年の8月15日の3日後の18日に親日派財産を取り戻すための汎政府機構である「親日反民族行為者財産調査委員会」 が本格発足した[31]。盧武鉉政権では日本統治時代の「親日派」の子孫を排斥弾圧する法律(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)が施行された。しかしこの法律は明らかに法の不遡及の原則に反し憲法違反である。そのためか韓国のメディアや親日派名簿のリストに載った者から批判を受けた。
ジャーナリストの池東旭と評論家の金完燮によると、盧武鉉がこのような強固な反日政策をしたのは、韓国社会の主流が日本統治時代に生まれた日本語世代から戦後から日韓国交正常化までに激しい反日教育を受けたハングル世代へと入れかわったため、としている。大の日本嫌いであった初代大統領の李承晩は反日教育を行ったが、朴正煕、金泳三と金大中達はそれ以前の日本統治時代の生まれで対日感情は悪くなかった。
2006年4月25日に盧武鉉は特別談話を発して、日本にこれ以上の新たな謝罪を求めないとしながらも、幾度か行われた謝罪に見合った行動を求めた[32]。
2006年7月5日には竹島(韓国名:独島)周辺の日本の排他的経済水域および領海内で、韓国船が日本の抗議を無視し海洋調査を行った。日本が海洋調査を実施しようとした際には「武力行使もありうる。国際法上合法だというならば、そんな国際法に意味はあるのか」[33]と猛反発したことから、一連の動きは露骨な対決姿勢の表れとみなされ日本との外交関係は更に悪化した。同日に北朝鮮が行ったミサイル乱射に対しても両国は連携できず、国連安保理での制裁議論に際しても日本は韓国に対する配慮を行わなかった。 また、2006年4月21日付のワシントンポストにおいて、盧武鉉政権が海上保安庁の竹島周辺海域海洋調査を阻止するために日本政府への具体的な圧力として、「島根県内の防衛庁(現防衛省)施設」に対する軍事攻撃を検討していたことが明らかとなり、仮に攻撃が行なわれたとして自衛隊との軍事的衝突はおろか国際的な非難と信用の失墜及び最悪経済制裁を受けていた可能性もあり、韓国国内からも盧武鉉政権の独断ぶりに憂慮の声が強く挙がった[34]。
2006年10月9日、小泉のあとを受けて首相に就任した安倍晋三とのあいだで約11カ月ぶりに日韓首脳会談が行われた。しかし盧武鉉は同日に北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった[35]。
2007年1月、盧武鉉が前年ハノイで行われた安倍との会談の席で、日本海呼称問題の解決のために日本海(韓国名「東海」)を、日韓どちらの名称でもなく新しく「平和の海」と呼称するよう提案し、即座に拒否されたことが報じられた。この提案は政府内の調整を経ておらず、国際社会に「東海」への改名を働きかけている韓国官民の努力を無にするものであると保守派・右派を中心に非難された[36]。
俳優・草彅剛との対談を行った時は、両国で生中継された。
アメリカ
盧武鉉は大統領選挙の前から反米主義で知られ、それは選挙戦の間も不利な条件とはならなかった。特に在韓米軍による女子中学生死亡事故と、北朝鮮に対するブッシュの強硬姿勢によって高まった反米機運が、2002年には一般的であり、盧武鉉の当選は反米路線であるが故ともされている。盧武鉉は大統領に当選する前「反米だからどうだと言うのだ?」と述べ、それは盧武鉉への支持に繋がると同時に、多くの国民に彼がアメリカとの関係に独立した一線を導くと信じさせた[37]。
しかし大統領就任後、この様な見解が負債として彼に圧し掛かった。韓国の保守派とアメリカは疑念を抱き、反共の野党ハンナラ党はたびたび盧武鉉を極左として非難した。盧武鉉はこの否定的なイメージを覆すべく、初訪米の際に「もし53年前にアメリカが韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」[38]と発言したが、アメリカからの支持は得られず、発言自体があまりにも自虐的かつ国家的自尊心を侮辱するものとして、国民に受け取られた。そしてこの「転向」はマスコミ向けのポーズをするためだけにアメリカを訪問しないと述べていた大統領選挙戦中の発言と一致せず、一層警戒されることとなった。また、アメリカ政府も3度に渡って訪米した盧武鉉を、いずれも実務訪問という外交プロトコルで扱った。盧武鉉は、元国防長官のロバート・ゲーツと会った際、「アジアで最大の安全保障上の脅威はアメリカと日本だ」と述べ、ゲーツは2014年1月に出版した回想録で、「私は彼が反米的でちょっと頭がおかしいという結論を下した」と書いている[39]。
盧武鉉がアメリカのイラク戦争を支持して軍を派兵する事を決めた時、多くの国民は裏切られたと感じた。あくまでも平和維持任務であることを説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、アメリカの支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉をアメリカの傀儡と非難した。イラクに派遣された韓国軍は3260人に及び、これは英米以外で最大の規模である。
アメリカとの関係は、北朝鮮の核危機が進むにつれ悪化した。アメリカは、韓国の宥和政策はアメリカの強硬政策と両立せず、韓国による北朝鮮への経済援助が、北朝鮮の頑なな態度を強化させて交渉のための協調を傷つける、と繰り返し主張した。
韓国が北東アジアのバランサーの役目を果たすという盧武鉉の宣言は、さらにアメリカを苛立たせた。周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築くという基本方針は、アメリカが紛争当事者になったときに韓国は中立的立場を維持する可能性があると受け取られた。国防次官補のリチャード・ローレスは露骨に不快感を示し、米韓同盟の役割に疑問を呈した[40]。
盧武鉉は親北、親露政策をとり、共産圏を擁護する発言が見られた。韓国の中央日報が2005年9月に伝えた報道によると、「朝鮮半島分断の責任はどこの国にあるか」というアンケートにおいて、アメリカ53%、日本15.8%、ロシア(ソ連)13.7%、中国8.8%という結果になっている。統一に最も友好的な国としてロシア(37.1%)が挙げられ、反面、最も敵対的な国は米国(44.7%)、日本(28.8%)などの順だった。ヘリテージ財団のピーター・ブルックス上級研究員はダグラス・マッカーサー将軍の銅像撤去論争に言及して「恩を忘れる者ほど悪いものはない。今週の『恩知らず大賞』は韓国が獲得した」と皮肉った[41]。 ダグ・ベンド米カント研究所研究員は、 「アメリカにおいて韓国は莫大な費用と犠牲を注ぐほどの 死活的な利益の対象ではない、韓米両国は友好的な決別を準備しなければならない」と述べた。[42]。そのためかアメリカでは嫌韓感情がわきあがり、韓国はアメリカの三番目の敵国と見なされた。
2006年3月、韓国はアメリカとの自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を開始すると発表した。盧武鉉の元経済政策助言者を含む多くは、政府があまりにも拙速であり韓国経済に否定的な影響を与えると懸念を表明した。そのような反対にも関わらず、盧武鉉は繰り返し自由貿易協定を支持し、それが韓国経済に良い影響を与えると主張した。
アメリカとの伝統的な関係が変化する過程で、戦時作戦統制権[43]の移譲問題が浮上した。盧武鉉はこの問題を「自主国防」という視点で捉えて積極的に推進した。アメリカは当初、韓国にその能力が整っていないと消極的だったが、盧武鉉が「作戦統制権こそ自主国防の核心、自主国防こそが主権国家の花」と政治テーマに掲げて自国のメディアに喧伝する[44]につれ、積極姿勢に転じた。これは、韓国が自国の防衛に主要な責任を持つことはアメリカにとって損とならず、北朝鮮の侵攻を抑止するために朝鮮半島に固定された在韓米軍を抽出して、他の目的に再活用し得ると意識されたことが大きいとされる。 冷却化する米韓同盟に危機感を覚えた歴代の国防長官や退役軍人などの一部が、テンプレート:仮リンク国防長官に戦時作戦統制権の返還推進を中止することを求めたが、この意見は容れられず、10月の米韓定例安保協議会(SCM)で、移譲が正式に決定した。これにより、現在まで韓国の安全保障を担保してきた米韓連合司令部は近い将来に解体され、韓国防衛における在韓米軍は副次的地位に引き下げられることとなった。
2006年9月14日(日本時間15日0時)、盧武鉉は欧州歴訪についでアメリカを訪問し、ブッシュと6回目の首脳会談を行った。冷却化する米韓関係を象徴するようにアメリカのメディアの扱いは冷淡であり、同日付のニューヨーク・タイムズ紙では「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評された[45]。また、会談後の共同文書の発表に至らず、一つの時代の終わりと、同盟構造の解体を視野に入れた「白鳥の歌」を世界に知らしめることとなったと評す者もいた[46]。
北朝鮮
北朝鮮に対しては金大中の太陽政策を引き継ぎ、関与政策と包容政策を継続している。2004年11月にはロサンゼルスで「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べ[47]、北朝鮮の主張に理解を示した。経済破綻状態にある北朝鮮を安定させるべく、肥料や米などの物質的支援、開城工業団地や金剛山観光開発といった経済的支援を行い、北朝鮮への圧力を強めるアメリカと意見の違いを見せた。
このような盧武鉉の配慮にも関わらず、北朝鮮は2006年7月5日、ミサイルを発射し、盧武鉉の立場を苦しいものとした。しかし、7月9日、政府見解として「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に大きな隔たりのある見解を発表し[48]、韓国国内からも批判を受けた(当時、着弾海域付近では韓国漁船が操業していた)。日本政府が国連安全保障理事会へ北朝鮮への制裁決議案を提出した事については強い警戒感を示し、包容政策を継続する韓国政府と、制裁論に向かう日本政府との間で明白なズレが生じた。
7月13日には第19次南北閣僚級会談が決裂。「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という恩を仇で返される言葉をもらい、宥和政策の行き詰まりを示す出来事となった。それでも8月15日の第61周年光復節では「決して容易なことではない」としながらも、北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を赦すと演説し[49]、宥和的姿勢を維持した。そして同時期に発生した北朝鮮の水害に対する援助として、米、セメント、重機などの支援を行った。
10月9日、北朝鮮は「核実験実施」を発表した。それを受けて国連安全保障理事会は2006年10月15日に制裁決議を採択した。一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、アメリカから求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている。
中国
「北東アジアバランサー論」に沿って、日本や伝統的な同盟国であるアメリカとの関係を見直しながら、中国との接近を図っている。北朝鮮の核開発問題では宥和的姿勢で協調し、また靖国神社問題や歴史教科書問題では暗黙の共闘を演じた。2006年11月には、自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を始めることで合意している。
中国の推進する東北工程では高句麗を古代中国の地方政権と見なし、これを自国の歴史の一部であるとする韓国側と意見の相違がある。2004年には、中国外交部がこれまで韓国の歴史として紹介していた高句麗の記述をホームページから削除し、韓国政府がこれに抗議するという騒ぎが起こった[50]。しかしその後、両国外交部の間で「民間レベルの学術討論で解決していき、政治問題としない」という口頭の合意を交わして関係の修復を図った。この合意は2006年10月に盧武鉉が中国を訪問した際にも、胡錦涛国家主席との間で再確認された[51]。
大統領退任後と死
退任後は故郷に戻り、金海市の生家近くに新居を建設した(盧武鉉タウン)。李明博政権の不人気で、インターネット上での再評価が進んだ一方で、国庫補助金で地熱を利用した冷暖房設備を設置していたことが報道され、非難の的となった。[52]
不正献金疑惑
退任後、盧武鉉の側近・親族が相次いで逮捕された。2008年11月、盧武鉉政権の側近の一人が贈賄容疑で逮捕された。また、盧武鉉の兄盧建平が証券会社「世宗証券」の買収を韓国農協幹部に働きかけ、約20億ウォン(約1億3000万円)相当の見返りを得ていた疑惑が浮上し[53]、後に逮捕された。兄の盧建平は、逮捕されるまでは「ポンハ大君」「大先生」「慶南大統領」と呼ばれていた[54]。2004年に朴淵次泰光実業会長に対して慶尚南道知事補欠選挙に出馬したヨルリン・ウリ党候補を全面的に支援するよう要請し、8億ウォン(約5700万円)を出させた[54]。2005年の4・30補欠選挙では、5億ウォン(約3600万円)を同じように出させた[54]。2006年1月には農協による世宗証券の買収にも介入し、30億ウォン(約2億2000万円)近い裏金を自らの懐に入れたことも分かっている[54]。2009年8月25日、盧武鉉の秘書官が大統領特殊活動費を着服したことや盧武鉉の支援者から金品を受け取ったことで横領と収賄罪で懲役6年の実刑判決を受けた[55]。
さらに盧武鉉自身も捜査対象となり、2009年4月30日には韓国最高検察庁が合計600万ドル(約6億円)を超える不正資金疑惑について、包括収賄罪の容疑で本人に事情聴取を行なった[56]。盧武鉉支持派の人々は一連の捜査を李明博政権下でおきたスキャンダルに対する煙幕だとして抗議している。
死去
テンプレート:Sister その後、盧の逮捕も近いのではと思われていた矢先の同年5月23日早朝、慶尚南道の金海市郊外の烽下村にある自宅の裏山のミミズク岩と呼ばれる岩崖から投身自殺を図り、頭部を強打するなどして3時間後に死去した[57]。先の事情聴取から1ヶ月足らずの出来事であり、韓国の報道機関は一般の番組を中断して特別報道番組を組むなど、韓国内に大きな衝撃を与えた。
これに際して、盧が常用したとされるPCから自身が書いたと思われる遺書が発見され、その全文が公開されている。「非常に多くの人に面倒をかけた。(以下略)」と、上記の贈賄疑惑に関する心境が書かれていた[58]。尚、その内容については、全文公開以前の側近により一部公表されていたものとは、大きく文面が異なる部分もあった[59]。
韓国国民の56%が李明博大統領は盧武鉉前大統領の死について謝罪するべきだとしている[60]。6月3日には、学界からはソウル大学教授124名が李明博大統領に謝罪を求める宣言文を出し、中央大学校教授68人も謝罪と総辞職を求める宣言を出した[61][62]。同日、林采珍検察総長が辞表を提出することとなり、「原則と正道、節制と品格に基づいた正しい捜査、政治的不公正論争のない公正な捜査で、国民の信頼を一段階高めようとしたが、力不足だった」などとした声明も出した[63]。
葬儀
盧武鉉前大統領の死去に対する韓国社会の反響は大きく、遺体が安置された慶尚南道金海市郊外の烽下村には連日多数の弔問客が詰め掛け、死亡当日の5月23日から28日までの6日間の弔問客の数は100万人を超えた[64]。韓国の大手サイト(ネイバー、ダウム、ネート、Yahoo!、Google、MSN)では、トップのロゴを白黒に差し替え、特設ページも設けた。また、エヌシー・ソフトは5月29日の10:00から17:00(UTC+9)まで全てのゲームのサービスを一時停止とし、オンラインゴルフゲーム『スカッとゴルフ パンヤ』も白黒背景と献花に差し替えた。
一方、韓国政府は、5月24日の臨時閣議で、盧前大統領の葬儀を国葬に次ぐ格式の「国民葬」として執り行うことを決定し、国民葬の期間を23日から29日の7日間に定めた[65]。5月26日、韓国行政安全部が告別式の日時と会場を正式に発表した [66]。
告別式は、5月29日午前11時頃、ソウル中央部にある景福宮の興礼門前庭で執り行われた。盧前大統領の遺体は、同日午前5時頃、烽下村にある安置場所を出発し、ソウルの葬儀会場に移送された。告別式には、李明博大統領夫妻や金大中、金泳三の両元大統領、各界の要人、外国の使節ら約3,000人が参列した。日本からは、特派大使として福田康夫前内閣総理大臣が参列した。共同葬儀委員長は、当時の首相の韓昇洙と、盧武鉉政権下で首相だった韓明淑が務めた [67][68][69]。
告別式を終えた葬列は、徒歩でソウル広場に移動し、午後1時30分、出棺の際に路上で行なう祭祀である「路祭」が執り行われた。多くの市民が追悼に詰め掛け、警察の推計では約18万人が集まった[68][70][69]。ソウル広場を出発した葬列は、多数の市民が見守る中、ソウル駅へ向かった。午後6時5分頃、遺体が水原市に到着し、故人の遺言により火葬された。5月30日午前1時40分頃、遺骨は烽下村に戻され、烽火山にある浄土院の法堂に安置された。四十九日に、自宅の裏山に葬られた[69][71]。
その他
尊敬する人物はリンカーン、金九。リンカーンについては著書もある(後述)。趣味はヨット。大統領就任以前、スクールで学ぶために来日したこともある。ただし、ヨットはブルジョア趣味なので、韓国で公にされることはない。
盧武鉉政権には運動家出身で実務経験が少ない者が多いことを理由として(事実行政実務の経験のあったのは首相を務めた高建など極少数だった)、保守層を中心に「アマチュア政権」「NGO(非政府組織)政権」と批判する声もある。
ハンギョレ(新聞)の創刊当時の株主であり、1次、2次増資の際も出資した[72]。ハンギョレに対しては、新聞法により流通や配達の支援を行い、また政府からの事業資金の援助も行っている。ハンギョレ以外の新聞社に対しては、マスメディアの健全化を建前として攻撃的な姿勢を貫き、この影響で東亜日報元名誉会長の夫人は自殺に追い込まれた。
2003年6月6日から9日まで権良淑夫人とともに国賓として日本を訪問。この際、筑紫哲也司会のTBSテレビの特別番組に出演し、在日韓国人を含む日本の一般市民と交流を持っている。その時「在日として日本の地域社会に貢献していきたい」と述べた在日の高校生に「現地の文化や体制に適応してその社会に寄与することは非常に重要なこと」と述べた[73]。
2005年2月4日、病気で瞼が垂れ下がって目が開けにくくなる病気、眼瞼下垂の手術を行い、二重瞼になった。続いて夫人や側近の経済補佐官、後援会長も手術した。
2007年1月23日、国民向けの特別演説を行ったが、準備不足から演説の中断や読み飛ばしを引き起こした。しかも大幅な省略にも関わらず、予定した40分の放送枠を大幅に超過してしまい、後続の人気番組の開始時間を遅延させてしまった。
身長は168㎝。血液型はO型。
発言
テンプレート:雑多な内容の箇条書き 大統領就任後の発言集。
2003年
- 6月8日…(TBSのテレビ番組で対話した在日韓国人高校生に)「異国で国籍を守ることが必ずしもいいとは思わない、現地社会に適応し寄与するのは重要なこと」[74]。
2006年
- 1月25日…「韓国国民感情考慮すべき」今後も靖国参拝の中止を求めていく考え
- 1月25日…「対北圧迫・崩壊の解決策ならば韓米間に隔たり生じる」
- 1月28日…アメリカ合衆国の対北圧力に公式に警告
- 3月1日…「日本は人類の道理に従い行動し国際社会の信頼を確保すべき」
- 4月14日…「韓国人は失敗したことがない」
- 4月29日…「北の核開発は防御のためであって、先制攻撃用ではない」
- 5月3日…「日本は中国のマネをして天皇をつくったため、その下に王が必要になって琉球や韓国を王にし、自分は兄貴風を吹かしてきたが、中国を兄貴と思ってきたわれわれにはこれはとんでもないことだ」
- 5月9日…「北朝鮮に大幅な譲歩をしたい…いつどこでどのような話でも構わないので会って話をしよう」
- 5月8日…「韓国の経済人たちは無から有を創造した」
- 5月14日…「中日間で自分を守るため強い軍事力必要」
- 5月14日…ドバイの経済人との夕食懇談会の席で、ドバイの都市建設を賞賛しながら「世界中からたくさんの人が訪れる万里の長城やピラミッドも、結局は戦争による抑圧と搾取の結果として積み上げられた、他人の苦痛を担保にした不道徳な遺跡といえる」[75]
- 5月16日…アナン国際連合事務総長の前で日本を正面から批判「独島は日本が日露戦争当時に強制的に占領したもの」
- 5月18日…「相手を尊重し譲歩することで合意を実現する寛容の文化を育てるべき」
- 5月19日…「優越感と劣等感が混在している日本の行動が、北東アジア秩序に不安要因になっている」
- 5月29日…「北朝鮮が核を開発するのは、先制攻撃用ではなく防御用」
- 6月2日…「選挙に負けたのかもしれないが、私には重要なことでない」
- 6月12日…(統一地方選での責任問題に対して)「私が平常心を保つことで、国民が安心するのではないか」[76]
- 6月16日…「南北統一は連邦制よりも経済・文化から」
- 6月22日…昼食会に招いた海洋警察庁の警察官を激励して「日本が挑発できない国防力を持っている」「東海で突発事態の時に対応できる程度の戦力をそろえる」
- 6月25日…「ユギオが来ると日本の侵略思い出す」「南北関係では安全と平和が最優先」
- 7月11日…「日本の態度は、北東アジアの平和に尋常でない事態を招く可能性がある」
- 7月11日…「ミサイル発射はアメリカに譲歩を要求する政治的行為」
- 7月11日…(アメリカの金融制裁措置に対して)「偽ドルを製造した証拠を出さないで、帳簿を要求するようなもの」
- 7月11日…(北朝鮮への態度について)「アメリカは友邦なので厳しく責めることは出来ないが、日本とは対決しなければならない」[77]
- 7月13日…「親日派の財産調査は遅かったが幸いだ」[78]
- 7月15日…「アメリカが韓国を北東アジアの平和を担うポストにつけてくれれば助けとなるだろう」
- 7月19日…(米日の追加制裁の動きに対して)「過度に対応し不必要な緊張と対決局面を作り出す一部の動きは問題解決の役に立たない。」[79]
- 7月25日…「アメリカが失敗したと言ってはいけないか?」
- 8月6日…「私を無視するな、私が復活する日が来ないとも限らない」
- 8月9日…「日本だけをモデルに成長していくわけにいかない」
- 8月9日…「戦時作戦統制権の移譲時期は2009~2012年の間、今すぐでも構わない」
- 8月10日…「アメリカの言うとおりに、韓国大統領が“はい、はい”というのを韓国国民は望んでいるだろうか」
- 8月13日…「私が何を間違ったのか分からない」[80]
- 8月13日…「個人的にブッシュ大統領は、私のことが好きだ」[81]
- 8月13日…「アメリカが北朝鮮を見る視覚は文明が野蛮を見る視覚のよう」[82]
- 8月15日…「米軍の統制権行使は違憲」[83]
- 8月27日…(保守系メディアが大統領を批判することに対し)「メディアを先進国水準にすべく今頭を悩ませている」[84]
- 8月29日…「(就任後)3年半になったが私の記憶には世の中が騒がしかったという記憶しか残っていない」[85]
- 9月26日…(2つの人工衛星の成功に際して)「地球を征服したような快感がある」[86]
- 9月28日…「6カ国協議は、アメリカの金融制裁が原因で中断している」
- 10月9日…(太陽政策に対して)「見直さなければならない」(のちに撤回)
- 10月10日…(北朝鮮による核実験に対して)「こんな小さな問題」[87]
- 11月20日…(北朝鮮による南侵に対し)「われわれはかつて植民地支配を受け、その後内戦まで行うという波乱の道を歩んできた」[88]
- 12月7日… 「北朝鮮が負け戦を仕掛けるはずはない」[89]
- 12月22日…(軍関係者の統制権委譲への反発に対し)「電話機も車も船もうまく作れるのに、なぜ作戦統制権だけ行使できないのか」[90]
- 12月22日… 「最近、わたしは妻と2日に1度は口げんかをする。妻が新聞を読めと言うんだ」[91]
- 12月22日…「(高首相起用は)むしろ私と盧政権に参加した人が仲間外れになるような体制になった」[92]
- 12月24日…「(徴兵制度に対して)人間を腐らせる」[93]
2007年
- 1月3日…「(自分に対する)国民の評価は良くあってほしいという気持ちがあった。難しいことだと思っていたが、昨年中に完全に放棄してしまった」[94]
- 1月4日…「侮辱するのか。言葉を選べ」(李龍得韓国労総委員長に)[95]
- 1月11日…「憲法改正に必要ならば離党も検討」[96]
- 2月28日…「北朝鮮が攻撃を受けてもいないのに、核兵器を先制使用すると考えるのは精神病患者だけ」[97]
- 2月28日…「税金が高いなら、安いところに引っ越せばよい」[98]
- 3月1日…「韓国は歴史的に他国に害を及ぼしたことない」[99]
- 3月2日…「62年ぶりに作戦統制権が韓国軍の手に戻るのは韓国軍が地道に実力を向上させてきた結果であり、韓国軍の地位を立て直すこと」[100]
- 3月13日…「利益にならないFTAは締結しない」[101]
- 3月13日…「失敗はしたが政策は遂行した大統領として記憶してもらえないか」[102]
- 3月14日…「何よりも歴史的真実を尊重し、これを支える実践が重要だ」[103]
- 3月20日…「離党しようが入党しようがいつも通りの信念をもって行うべきで、選挙を控え党内選挙で不利だからと離党するのは、基本的に民主主義の原則にそぐわない」[104]
- 3月25日…「北朝鮮をわたしたちの敵とし、その心痛にいつまで耐えようというのか」「朝鮮戦争は国民たちには忘れることのできない出来事だが、昔のことにこだわるあまり開くべき未来への道を閉ざそうというのでは損害を被るだけ」「北朝鮮に厳しく対処していないと言うが、この程度の支援は必ずしなければならないもの。それは未来に対する投資だ」[105]
- 4月15日…「日本が前向きに解決すると信じて争点化しないようにしてきたが、期待は外れた」[106]
- 4月15日…「日本がこれまで示してきた過去の歴史に対する反省の意をそのまま受け入れるとしても、これに相応する実践が伴わなければ真剣さを疑われることになる」[107]
- 4月15日…「北東アジアの平和・安保のメカニズムを新たに作るためにアメリカの役割が強調されなければならない」[108]
- 4月17日…「なぜ政治的負担がほとんどないこの時期にかたくなに憲法改正を拒み、実質的に多くの負担が予想される時期に持ち越そうとするのか、まったく理解ができない」「わたしは韓国社会の公論が政治を殺していると考える」[109]
- 4月19日…「成熟した民主主義のためには寛容と責任の政治が必要だ」「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)以来数百年にわたる挫折の歴史を乗り越え、民衆が初めて勝ち取った勝利の歴史だ」[110]
- 4月29日…「(留保の決定は)大変残念なことであり、今でも憲法改正を支持している人、支持世論作りに努力してくれた人に面目ない」「わたしはこうして整理をつけることも、立派な妥協の政治だと考えている」「政治は死にゆこうとしている。この問題をめぐる政界の態度を見ていると、大義などはなく、ただ政略と打算だけだった」[111]
- 5月2日…「なぜ『ハンナラ党の惨敗』といわれるのか。むしろ開かれたウリ党の実質的な敗北とも言える面が見過ごされているのではないか」[112]
- 5月15日…「国と民族の未来に向け大きな一歩を踏み出す歴史的な事件」[113]
- 5月17日…「忍耐強く着実に信頼を築いてきた結果。歴史が再び平和に向け大きな歩みを踏み出す重要な契機となるだろう」[114]
- 5月18日…「今でも政治に地域主義が残っていることは隠せない事実」「光州市民が5年前に嶺南(慶尚道)出身の自分を大統領に選ぶという立派な決断をした」[115]
- 5月24日…「和合と共生を実践してきた仏教界が先進韓国作りに中心的な役割を果たすものと信じている」[116]
- 5月25日…「世宗大王時代の15世紀前半、世界で約50の科学発明があった。韓国が22、中国が3、日本が1~2だった。国力がどの時代よりも強く、北東アジアの平和が維持できた」[117]
- 5月25日…「いまだに北東アジアでは軍備競争(の現実)があり、われわれも傍観しているわけにはいかない」[118]
- 5月25日…「本当にこんな良い船が我が国に必要なのか、つくづく考えてみた」「我が国はいつまでも北朝鮮といがみ合ってばかりいるべきではないのでは」[119]
- 5月29日…「何か事件が起こるとスケープゴートを要求する風土が心配だ。事が起きるたびに辞任していたら、誰がやりとげられるのか」[120]
- 5月29日…「メディアが法外な特権を主張し続けるならば、政府としても原理原則通りにする用意がある」[121]
- 5月30日…「南北は統一に向かうまで、競争や対決を乗り越え手を差し伸べ、寛大に耐えてお互い譲歩しながら協力し続ける必要がある」[122]
- 5月31日…「北朝鮮に対し包容政策を行っているが、北朝鮮に要求すべきことは要求する必要がある」[123]
- 6月2日…「7%の経済成長を叫ぶ人々が、無理な浮揚策を用いて経済危機でも招くのではないかと不安」「まともな人にどんな注射をして何の薬を飲ませようとするのか、不安にはならないか」「ぱっとしない政権がもたつこうとも、大きな危機さえなければ韓国経済はうまく回っていくだろう」[124]
- 6月2日…「趙己淑先生も一度討論してみたいと思われるでしょう。わたしもそうなんですが、これを憲法のやつが邪魔するんです」「精神状態がまともな人が、いったい大運河の話(李明博候補の公約を指す)など真に受けるだろうか」[125]
- 6月2日…「(自身のこれまでの歩みは)全部本に書いてあるので、そこから盗用するのだろう」「列車フェリー計画など(自身の政策である)物流ハブに比べれば、何の意味も持たない」[126]
- 6月2日…「自分には人を見る目がなかったのではないか…」「(民主労働党を指して)創造的な政策立案能力に欠ける」「百歩譲ってほかの(与党圏の)候補者らとは過去の縁もあるが、孫鶴圭氏がなぜ与党圏なのか。これは政府に対する侮辱」「(自分自身を指して)課長級大統領のときもあったが、世界的大統領だと思う。国民参加政府の国家発展戦略は、21世紀型国家戦略の模範」「強者が主導するとおりに従えば、すべてが良くなるという考えが基本にある。保守も連帯するが、ひそかに癒着する」[127]
- 6月2日…「(ハンナラ党政権が誕生する可能性について)いったいどんなことが起こるのか、考えただけで恐ろしい」[128]
- 6月2日…「(李明博氏の全国大運河構想について)まともな者がそんなことには投資するものか」「(朴槿恵氏を指して)韓国の指導者が独裁者の娘などといわれては困る」[129]
- 6月3日…「なぜ良心に欠けた報道が続くのか。記者室がある日本は報道の自由度ランキングで51位、同じくアメリカは53位なのに対して、参与政府は31位だという事実を、何故報道しないのか」[130]
- 6月4日…「アジアがともに反映していくためにはお互いの多様性を尊重し、これを受け入れるという開放的な姿勢が必要」[131]
- 6月5日…「大統領の政治活動を禁じる国は世界中どこにもない」「総体的・総括的に政府をそしり、盧武鉉政権が国を台無しにしたと発言するから、ハンナラ党が政権を取ればどうなのかと批判した」[132]
- 6月6日…「親日派の反民族行為の真相を明らかにして歴史の正義を正し、先に旅立った人々の恨みをはらすことにも最善を尽くす」「子どもたちが国と民族に献身することを当然で誇らしいことと考えるよう導いていかなければならない」「自らを守れる力をつけ、独裁がよみがえることは想像もできないほどの、世界から認められる民主人権国家になった」[133]
- 6月9日…「(盧大統領の演説内容に対し中央選挙管理委員会が公職選挙法第9条に定められた公務員中立義務条項違反と決定したことについて)どこまでが選挙運動で、どこまでが選挙中立、政治中立なのか。あいまいな構成要件は違憲だ」「(大統領は政治活動を行っても構わない、大統領の政治活動は例外とすると)公務員法でそのように定めておきながら、選挙には中立であるよう求めている」「政治に中立でないが選挙には中立になれる方法がどこにあるのか」「攻撃してくる人やその人の道徳的信頼性、論理的信頼性、政策力の信頼性を攻撃するのは当然のことだ」「(中央選挙管理委員会が選挙中立義務違反を決定した根拠となる法制度について)世界に類がない偽善的な制度」[134]
- 6月10日…「6月民主抗争は韓国の民主化実現における決定的な契機となった」「保守勢力に勝つという名分で地域主義を復活させたり機会主義を許してはならない」「反独裁の民主化闘争の時代は終わり、これからは保守勢力を民主的競争の相手として認め正々堂々と競争するべきで、対話と妥協、承服の民主主義を発展していかなければならない」[135]
- 6月16日…「わたしは国民が望むことを公約し、約束を守っている。歴代のどの政権、世界のどの政府と比較しても堂々と示せる成果がある」「(経済危機論に対して)経済の失敗や民生破たん、総体的な危機という主張こそが悪意のある中傷、謀略だ。10年前に韓国の経済を台無しにした人々の謀略だ」[136]
- 6月22日…「朝鮮半島平和定着のためには何より朝鮮半島の非核化を早期に実現すべきだ」「半世紀にわたる休戦体制を平和体制に転換させ、米朝、日朝間の国交正常化を促進させていく必要がある」「北東アジアの未来のために解決すべきもう1つの課題は韓日中の歴史問題だ。何よりもまず、日本の認識と姿勢が変わらなければならない。過去を心から反省し、これまでの謝罪を実践することで、2度と過去のようなことを繰り返さないという意志を明示する必要がある」[137]
- 6月22日…「(済州道海軍基地の建設問題について)平和の島になぜ軍事基地が必要かという人もいるが、非武装平和は未来の理想であり、武装なくして平和を守ることはできない」[138]
- 6月25日…「絶えず相手を警戒し敵対する感情をあおっては信頼を築くことはできず、和解と協力の対話も実現できない」「われわれは朝鮮戦争が残したつらい教訓と参戦兵士たちの犠牲を記憶にとどめた上で、未来に向けて過去を克服し敵対感を解きほぐす努力をしている」「(北朝鮮核問題について)平和の道に確実に足を踏み入れた。南北共同声明につながる6カ国協議合意は、核問題の解決を超え、朝鮮半島平和体制と北東アジアの多者間安全保障体制の構築にもつながる重要な道しるべとなる」「いつまでもアメリカに依存するわけにはいかない」[139]
- 6月26日…「小川にいる人はいつもガキ大将ばかりではない。小川から時々竜が出たり鯉が出たりできるようにコースを設定する」「低所得層に入学の機会を与えることはともに生きていく我々の社会の道徳的価値」「貧乏で大学に入れずに貧乏が代々続く悪循環を阻まなければならない」[140]
- 6月27日…「平和の島、済州がユネスコの世界自然遺産に登録されたことを、全国民とともにうれしく思い、済州道民のみなさんにも格別なお祝いのメッセージを捧げたい」[141]
- 6月…(ハンギョレ新聞とのインタビューで、南北首脳会談の可能性について)「前任の社長が発行した手形を後任の社長が決済すると考えればいい。わたしの残りの任期が2カ月だろうが、3カ月だろうが、(北朝鮮に)出掛けて判を押して合意すれば、後任(の大統領)も拒否できない」[142]
- 7月1日…「北朝鮮は平昌を支持しており、2014年にはかなり安定した南北関係の土台の上で大会を開催することができる」「平昌開催までの過程で南北間がさまざまな協力を実現し、平和と協力の五輪精神が南北間にも広がれば、朝鮮半島平和の雰囲気がかなりの速度で促進できる。それがひいては北東アジアと世界平和の機会となり、全世界、人類に肯定的な平和のメッセージを与えることになる」「わたしは必ず大会開催に成功するという国民との約束を、オリンピック委員たちに伝えるためにここへ来た」[143]
- 7月2日…「2014年なら南北(韓国・北朝鮮)関係がかなり安定した基盤の上で大会を挙行できるだろう」「平昌が誘致に成功すれば(南北)同時入場だけでなく、単一チームで出場できるはず」「韓国は分断国家だが、マカオのバンコ・デルタ・アジア(BDA)問題が解決し、北朝鮮とアメリカが北朝鮮核問題を解決しようという強い意志を持っている」「平和と協力のオリンピック精神が南北間に充満すれば、韓半島の平和ムードを促進することになるだろう」[144]
- 7月2日…「オリンピックは韓国の発展や市民意識の成長に大きく寄与しており、五輪開催に対する韓国人の要望は非常に強い」[145]
- 7月5日…「(平昌のオリンピック招致失敗について)勇気のある人は、敗北の中でも新しい希望の芽を見いだす。敗北はあっても韓国は決して敗北しない」「すべての競争には敗北があり、賢明な人は敗北から新しい知恵を得る」「敗北ムードに長くとどまらないのが良い。早く忘れよう」[146]
- 7月11日…「われわれは北朝鮮が合理的に見えないときも、忍耐をもち北朝鮮を尊重することで少しずつ互いの信頼を築きつつある」[147]
- 7月17日…「憲法改正論議が幅広く進行されるのであれば、内閣制も多様な代案の中の1つとして、検討する価値がある」[148]
- 7月18日…「(平昌のオリンピック招致について)成功しなかった瞬間、激しい非難を覚悟していたが、誰も私を非難する人はいないようだ。国民の意識がこういうことを寛容に理解し激励するレベルになったためではないかと思う」「どんなことでも結果が出なければいろいろと非難を受けるものだが、今回はそういう言葉がない」「私の関心はいつも、成功して勝った人よりも、成功できなかった人に大きく傾いている」「何も上手くやっていないのに、なぜ失敗した人たちを青瓦台に招待して昼食会を開くのかと考えないでほしい」[149]
- 7月18日…「(江原道平昌郡の冬季オリンピック招致再挑戦に関して)江原道民とスポーツ界はもちろん、全国民の意向と力量を集め決定すべきだ」[150]
- 7月19日…「何かとある度に感情的対応へ向う軽薄な相互主義では、同問題を解決できない」「包容政策を受け入れ、実践しなければならない」「軍事的信頼醸成と共に経済協力を拡大し、南北(韓国・北朝鮮)連携を通じた北方経済時代を開いて行くべき」「北方経済時代が開けばベトナムの特需や中東の特需とは比べられない跳躍の機会が来るだろう」「今後ハンナラ党や候補らが一言投げかける形で適当に世論に便乗した後、後ほどになって有耶無耶にし、ひっくり返してしまうような公約ではなく、激しい討論を経て党論を集め、その党論に基づいた包容政策を公約として掲げる、といった手続きを取ることを期待したい」[151]
- 7月24日…「真実和解委員会の勧告は司法府の権威を尊重しながら再審の道を開こうというもの」[152]
- 7月24日…(ターリバーンによる韓国人拉致について)「今はうかつに楽観する時でもなければ、そうかといって結果を先に悲観する時でもない」[153]
- 8月8日…「1回だけの成果というよりは、次の政府の役に立つよう南北首脳会談の制度化と定例化の基盤を作り、南北関係の進展はもちろん、北朝鮮と国際社会の関係改善を支援することも重要」[154]
年譜
- 1946年
- 9月1日(陰暦で8月6日)、慶尚南道金海市進永邑にて父・盧判石、母・李順禮の三男として生まれる。本貫は光州盧氏。
- 1966年、釜山商業高校卒。
- 1968年~1971年、陸軍で兵役に就く。乙支部隊(第12師団)で小銃長。上兵で除隊。
- 1973年
- 1月、権良淑と結婚。
- 1975年、司法試験合格(17期)。
- 1977年、大田地方法院判事。
- 1978年、弁護士開業。
- 1981年、釜林事件の弁護を担当。
- 1983年、来日。琵琶湖での日韓親善ヨットレースに参加。
- 1984年、公害問題研究所理事。
- 1987年
- 1988年
- 1992年
- 3月、第14代総選挙で落選(釜山東選挙区、民主党)。
- 1995年
- 6月、釜山市長選で落選。
- 1996年
- 1998年
- 7月、補欠選挙で当選(ソウル鍾路選挙区、新政治国民会議)。
- 2000年
- 4月13日、第16代総選挙で落選(釜山北・江西乙選挙区、新千年民主党)。
- 8月~2001年3月、海洋水産部長官。
- 2001年
- 新千年民主党常任顧問、最高委員。
- 2002年
- 4月27日、ソウル市の党内予備選(最終)で一位となり、盧武鉉が正式に新千年民主党の大統領候補に指名される。
- 12月19日、第16代大統領に当選(新千年民主党)。
- 2003年
- 2月25日、第16代大統領に就任。
- 6月6日~9日、国賓として日本を訪問。
- 9月、新千年民主党を離党。
- 2004年
- 2005年
- 2007年
- 2月28日、ヨルリン・ウリ党を離党。
- 2008年
- 2月24日、大統領を退任。
- 11月21日、側近3人衆の1人チョン・ファサムが盧武鉉が大統領在任中の収賄で逮捕[155]。
- 2009年
著書
- 『人が暮らす世の中』(1989年)
- 『おーい、ちょっと助けてくれよ-盧武鉉の告白エッセー』(1994年、自伝的エッセー)
- 『盧武鉉が見たリンカーン』(2001年、盧武鉉が尊敬するリンカーンに託して自らの政見を語ったものだが、政治的書物としての評価は高い)
- 『盧武鉉・常識または希望』(2002年、邦訳は『韓国の希望 盧武鉉の夢』〔現代書館〕)
- 『盧武鉉のリーダーシップ論』(2002年、邦訳は『私は韓国を変える』〔朝日新聞社〕)
- 『新しい風、政治、働き手』(1989年、共著)
- 『明日を準備する今日』(1996年、共著)
参考文献
- 盧武鉉編著 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、青柳純一監訳、現代書館、2003年。
- 山本健太郎 『韓国における政党の大統領候補者選出過程-2002年の新千年民主党の「国民参加」党内選挙を中心に-』、『レファレンス』No.630、36-43頁、国立国会図書館、2003年7月。
- 石川雅重・嚴泰浩 『大韓民国の第16代大統領選挙』、『CLAIR REPORT』NUMBER 244、財団法人自治体国際化協会、2003年6月16日。
- 坂眞 『韓国が世界に誇る ノ・ムヒョン大統領の狂乱発言録』 飛鳥新社、2007年1月。
- 木村幹 『韓国現代史 大統領たちの栄光と蹉跌』 中公新書、 2008年
脚注
関連項目
- 対日外交戦争
- 青瓦台
- 韓国国家安全保障会議
- 親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法
- 日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法
- 盧武鉉遊び
- 国民参与党 - 盧武鉉支持者が「盧武鉉精神の継承」を謳って2010年に立ち上げた政党
- 反日
- 国粋主義者
関連人物
外部リンク
- ↑ http://www.chosunonline.com/article/20040507000062
- ↑ http://www.chosunonline.com/article/20040507000062
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、115-116頁及び134頁。盧武鉉が貧しさ故に高卒で社会に出たこと、就職に失敗して独学で弁護士の道を志すようになったことは、盧武鉉の政治家人生における一種の稀少価値となった。
- ↑ 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、122頁。
- ↑ この補選は1996年の国会議員選挙で同区から当選した李明博(ハンナラ党)がこの年に行なわれたソウル特別市の市長選挙に出馬するため、議員辞職したことに伴って実施されたが、選挙法違反の裁判で有罪判決が言い渡されたため、李明博はハンナラ党の市長候補を決定するための予備選挙からの撤退を余儀なくされた。
- ↑ 盧武鉉の義父は朝鮮戦争中に北朝鮮側に立って労働党昌原郡党副委員長などを歴任し、反動分子の調査と虐殺に加担したとされる。『「盧大統領の義父はパルチザン」発言が無罪に』、朝鮮日報、2004年10月27日。また、このような李仁済の指摘に対し、盧武鉉は「ならば愛する妻を捨てろというのか」「どうしてそれが問題になるのか」と反論した。
- ↑ 『盧候補がYSを12年ぶりに訪問』、朝鮮日報、2002年4月30日。
- ↑ 『全国で「中学生追悼」のキャンドルデモ』、朝鮮日報、2002年12月15日。
- ↑ 李会昌が6%の経済成長を公約に掲げたため、対抗して7%という数字を出したといわれている。『7%成長公約を「腹が立って」出したとは』、朝鮮日報、2004年11月5日。
- ↑ 『鄭夢準氏、盧候補の支持を撤回』、朝鮮日報、2002年12月18日。
- ↑ 『盧大統領「不法資金がハンナラ党の10分1超えれば辞任」』、朝鮮日報、2003年12月14日。
- ↑ 『盧大統領と尹前長官、出会いから別れまで』、朝鮮日報、2004年1月15日。
- ↑ 金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』小針進・羅京訳、柘植書房新社、2008年、346-347頁。ISBN 978-4-8068-0574-8。
- ↑ 『盧大統領・朴槿惠代表会談、合意なく終了』、朝鮮日報、2005年9月8日。
- ↑ 2006年10月24日に韓国社会世論研究所が行った調査では12.9%まで下落している。『盧大統領、今の支持率では核問題への対応困難』、朝鮮日報、2006年10月28日。
- ↑ 『大統領任期発言:その内容とは』、朝鮮日報、2006年11月29日
- ↑ 『「私は正気」盧大統領、演壇叩いて70分「決意に満ちた発言」』、中央日報、2006年12月22日
- ↑ 基幹党員制とは全党大会の1カ月前を基準に、6カ月以上党費を納めた「基幹党員」にのみ、党内選挙権と非選挙権を認めるもの。外部人材の登用が難しくしていると問題視されていた。ウリ党中央委員会は、金槿泰らが率いる非常対策委員会に党憲・党規改訂権を与えていたが、法院はこれを無効とする仮処分を決定した。
- テンプレート:Ko icon『ヨルリン・ウリ(党)結局割れるか』、ハンギョレ、2007年1月19日。
- テンプレート:Ko icon『与党参政連(参加政治実践連帯)「基幹党員制」苦心』、ハンギョレ、2007年1月27日。
- 『盧大統領が驚いた韓首相の報告の中身とは』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2007年1月26日。
- 『新党派の一部「脱党論議は引き続き」』、東亜日報、2007年1月30日。
- ↑ 「実践連帯、北朝鮮の指令で活動していた」 中央日報 2008.10.01
- ↑ 「利敵団体」の嫌疑の「実践連帯」に国民の税金を出した盧武鉉政権 現代コリア 2008.10.28
- ↑ 後に規模を縮小した行政首都移転計画となった。
- ↑ 文京洙 『韓国現代史』、岩波書店、2005年、208頁-217頁。
- ↑ 今日の歴史(3月20日) 聯合ニュース 2009/03/20
- ↑ 『「韓日、過去の足かせから自由になるべき」』、朝鮮日報、2003年6月6日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ [1]J-CAST News2012,7.3.「韓国・盧武鉉政権が日本を「仮想敵国」に 05年当時、米に仰天提案していた」記事
- ↑ 中央日報 2012-7-2「韓国与党議員「盧武鉉政権、日本を仮想敵国に…米国に提案」
- ↑ 『韓日首脳の衝突 発端は小泉首相の「国内向け」発言』、朝鮮日報、2005年3月18日。
- ↑ 井沢元彦・呉善花『やっかいな隣人 韓国の正体』(2006)pp.67-71
- ↑ 清算されなければならない日帝残滓 ソース:大邱日報(韓国語)(2006-08-25 17:07)
- ↑ 『韓日関係についての大統領特別談話文』、駐日韓国大使館、2006年4月25日。
- ↑ 『【海洋調査】盧大統領「第二の侵略行為だ」』、朝鮮日報、2006年4月19日
- ↑ 無論これは大韓民国憲法で定められている第1章「総則」の第5条「大韓民国は国際平和の維持に努力し、侵略戦争を否認する」に違反する。
- ↑ 『盧大統領 歴史認識にこだわり』、毎日新聞、2006年10月10日。
- ↑ 『「平和の海」発言:韓国政府内で事前協議はあったのか』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2007年1月9日。
- ↑ 2002年9月11日の講演における発言。新千年民主党の大統領候補であった盧武鉉は、韓国の大統領候補者が行ってきたアメリカ訪問を拒否し、「アメリカに行ったことがない、ということは反米主義者を意味するのか。もしそうなら、反米主義者でもいいのではないか」と語った。劉敏鎬 『反米と親米との間-盧武鉉新大統領』、独立行政法人経済産業研究所、2003年1月20日。
- ↑ 2003年5月12日、コリアソサイアティー主催の夕食会における発言。『【韓米首脳会談】盧大統領の対北観変わったか』、朝鮮日報、2003年5月15日。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ ローレスは盧武鉉のバランサー発言を受けて駐米韓国大使館を訪れ、「北東アジアのバランサー論は韓米同盟と両立できない概念だ。もし同盟を変えたければいつでも言ってくれ。希望通りにする」と発言したという。『ローレス米国防部次官補「韓米同盟変えたい時はいつでも言ってくれ」』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2005年6月10日。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ [2]
- ↑ 作戦統制権とは作戦計画や作戦命令に明示されている任務を遂行する為に、司令部と部隊を組織し、その部隊を使用する権限。アメリカが、朝鮮半島有事の際の統制権を握っている。作戦統制権は主権に関わる指揮権とは異なり兵站・行政・規律・内部組織・部隊訓練に関する権限は含まない。詳しくは等 雄一郎他 『国連安保理決議に基づく多国籍軍の「指揮権」規定とその実態』、『調査と情報』第453号、4頁、国立国会図書館、2004年8月2日、を参照のこと。
- 韓国は朝鮮戦争中に、韓国初代大統領の李承晩が当時の元帥ダグラス・マッカーサーに「韓国陸海空軍に対する指揮権移譲に関する書簡」を送り(1950年7月15日)、作戦指揮権(全ての指揮権)を在韓米軍(国連軍)に移譲した。そしてそれは米韓相互防衛条約(1954年)で作戦統制権に改められた。平時作戦統制権は1994年12月に韓国政府に移譲されたが、戦時においては現在もなお米韓連合軍司令官(在韓米軍司令官)が行使することとなっている。
- 本来であれば国防を果たすためにどのような手段を採るか、(作戦統制権の)単独行使と共同行使のどちらが戦力を効率的に運用できるかという議論なのだが、韓国では上記のような歴史的経緯から「失われた国権の回復」という政治課題となっている。事実、金泳三政権下での平時作戦統制権の移譲においても「返還」という言葉が使われた。『戦時作戦統制権返還の主な争点に関するQ&A』、駐日大韓民国大使館、2006年8月12日。
- ↑ 『盧武鉉大統領、聯合ニュースとの特別会見(1)戦時作戦統制権』、駐日大韓民国大使館、2006年8月9日。
- ↑ David E. Sanger, "U.S. to Roll Out Tepid Welcome For President Of South Korea", The New York Times, Sep 14th, 2006. 日本とアメリカは太平洋を隔てて同一の立場であるという暗喩が込められている。
- ↑ Sung-Yoon Lee, "Korea-US: Swan song for an alliance", Asia Times, Sep 16th, 2006.
- ↑ 『盧大統領の米国批判性演説 各界で影響を懸念』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2004年11月14日。「ロサンゼルス発言」と言われることもある。
- ↑ テンプレート:Ko icon『安保独裁時代の亡霊から脱しよう』、青瓦台広報主席室、2006年7月9日。
- ↑ 『盧大統領「北朝鮮の過誤…長い目で許そう」』、東亜日報、2006年8月16日。
- ↑ 『ネットから「高句麗」を消した狭小な中国』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2004年7月9日。
- ↑ 『高句麗史問題、韓中が「思慮深い措置」で合意』、聯合ニュース、2006年10月13日。
- ↑ 盧大統領、退任後の私邸に国庫補助金で冷暖房設備設置 朝鮮日報、2007年10月13日。
- ↑ 盧武鉉前大統領の実兄に不正疑惑、週末にも事情聴取へ読売新聞
- ↑ 54.0 54.1 54.2 54.3 社説 田舎者といわれた盧前大統領の兄の真の姿 朝鮮日報 2009/03/26 閲覧
- ↑ 盧武鉉氏側近に懲役6年 特殊活動費を着服 産経ニュース 2009.8.25
- ↑ 『朝日新聞』2009年5月1日、東京版朝刊、11頁。
- ↑ 『盧前大統領は私邸裏山の岩から投身、警察会見』 聯合ニュース、2009年5月23日
- ↑ 『<盧前大統領逝去>遺書全文』聯合ニュース、2009年5月23日
- ↑ 『盧前大統領の遺書、一部公表』 朝鮮日報、2009年5月23日
- ↑ More than half of Koreans believe President Lee must apologize for Roh’s death Hankyoreh Jun.1,2009
- ↑ 盧前大統領死去:ソウル大教授124人、政府に謝罪要求 朝鮮日報 2009/06/04付 閲覧
- ↑ 【盧前大統領逝去】ソウル大教授、李明博政府に謝罪を要求 中央日報 2009.06.04
- ↑ [3] 中央日報 2009.06.04
- ↑ 水沼啓子 「【盧前大統領死亡】自宅がある村への弔問客100万人を突破」 産経新聞2009年5月29日付. 2009年6月15日閲覧.
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- ↑ 「【盧前大統領自殺】国民葬は29日開催で正式決定」 産経新聞2009年5月26日付. 2009年6月14日閲覧.
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- ↑ 68.0 68.1 水沼啓子 「盧前大統領の国民葬に約18万人の市民が参列 ソウル」 産経新聞2009年5月29日付. 2009年6月14日閲覧.
- ↑ 69.0 69.1 69.2 「「安らかにお眠りください」盧前大統領国民葬に2500人参列」 東亜日報2009年5月30日付. 2009年6月21日閲覧.
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- ↑ 「【盧前大統領逝去】火葬後、午前1時40分ごろ烽下村に到着」 中央日報2009年5月30日付. 2009年6月20日閲覧.
- ↑ 『盧大統領、ハンギョレ新聞に「発展基金」寄託へ』、朝鮮日報、2005年6月29日。
- ↑ 『韓国・盧武鉉大統領 本音で直接対話』、東京放送、2003年。
- ↑ 『韓国・盧武鉉大統領 本音で直接対話 topic#4』、東京放送、2003年。日本の一部ネット上では、この際に「韓国戦争から逃げた連中が祖国統一を口にするのはおかしな話だ。日本には弾は飛んでこないだろう。僑胞にそんなことを言う資格などない。」 「私は僑胞の連中を信用などしていない。徴兵の義務を負わないくせに韓国人を名乗り日本の選挙権を求める。馬鹿げていないか。つまりは、いいとこどりではないか。私たちが苦しい思いをしていた頃、僑胞の連中は私たちよりいい暮らしを日本でしていたのだ。僑胞は僑胞だ。韓国人ではない。」 とも発言したとされているが、そのような事実はない。
- ↑ 『盧大統領、UAEとエネルギー備蓄事業で合意』、朝鮮日報、2006年5月15日。
- ↑ 『盧大統領「私が平常心を保つことで国民が安心」』、朝鮮日報、2006年6月12日。
- ↑ 『盧大統領「日本とは対決しなければならない」』、朝鮮日報、2006年7月17日。
- ↑ 『盧大統領「親日派の財産調査は遅かったが幸いだ」』、聯合ニュース、2006年7月13日。
- ↑ 『【ミサイル発射】盧大統領、米日の追加制裁に反対』、朝鮮日報、2006年7月20日。
- ↑ 『盧大統領「私が何を間違ったのか分からない」』、中央日報、2006年8月18日。
- ↑ 『盧大統領、「人々は私の言うことを聞かないようだ」』、東亜日報、2006年8月19日。
- ↑ テンプレート:Ko icon『作統権、対北平和対処にも必要』、ハンギョレ、2006年8月19日。
- ↑ 『盧大統領「米軍の統制権行使は違憲」』、朝鮮日報、2006年8月16日。
- ↑ 『【社説】退任しても「政治とメディア」はあきらめないという盧大統領』、朝鮮日報、2006年11月4日。
- ↑ 『盧大統領「騒がしかったという記憶だけ」』、中央日報、2006年8月30日。
- ↑ 『盧武鉉大統領「衛星打ち上げで地球征服した気分」』、聯合ニュース、2006年9月26日。
- ↑ 『【社説】北核実験が「小さな問題」という盧大統領』、中央日報、2006年10月11日。
- ↑ 『【社説】「韓国戦争は内戦だった」と言う盧武鉉大統領』、朝鮮日報、2006年11月22日。
- ↑ 『【社説】「北朝鮮が負け戦を仕掛けるはずはない」 という盧大統領』、朝鮮日報、2006年12月8日。
- ↑ 『統制権:「恥を知るべきだ」盧大統領、国防OBらを非難』、朝鮮日報、2006年12月22日。
- ↑ 『盧武鉉大統領夫妻、最近不仲の原因は…』、朝鮮日報、2006年12月22日。
- ↑ 『盧大統領「高建氏の総理起用は失敗だった」』、朝鮮日報、2006年12月22日。
- ↑ 『盧大統領「軍隊に行けば人間が腐る」』、朝鮮日報、2006年12月24日。
- ↑ テンプレート:Ko icon『盧大統領「国民の評価は去年完全にあきらめた』、ノーカットニュース、2007年1月3日。
- ↑ テンプレート:Ko icon『盧「公開席上で侮辱を与えるのか。言葉を選べ』、ビュースエンニュース、2007年1月6日。
- ↑ 『盧武鉉大統領「憲法改正に必要ならば離党も検討」』、聯合ニュース、2007年1月11日。
- ↑ 『盧大統領「北の核先制使用を信じるのは精神病患者だけ」』、朝鮮日報、2007年2月28日。
- ↑ 『盧大統領「税金が高いなら、安いところに引っ越せばよい」』、朝鮮日報、2007年2月28日。
- ↑ 『盧大統領「韓国は歴史的に他国に害を及ぼしたことない」』、朝鮮日報、2007年2月28日。
- ↑ 『「作戦統制権移譲は軍の地位立て直し」盧大統領』、聯合ニュース、2007年3月2日。
- ↑ 『盧大統領「利益にならないFTAは締結しない」』、聯合ニュース、2007年3月13日。
- ↑ 『「失敗はしたが政策は遂行」盧大統領が自己評価』、聯合ニュース、2007年3月13日。
- ↑ 『盧武鉉大統領「韓日の歴史的事実尊重し実践を」』、聯合ニュース、2007年3月14日。
- ↑ 『「選挙のための離党は民主主義に反する」盧大統領』、聯合ニュース、2007年3月20日。
- ↑ 『盧大統領「親北朝鮮・親米国が韓国に必要」』、聯合ニュース、2007年3月26日。
- ↑ 『従軍慰安婦問題:「日本に強く失望」 韓国大統領、対応を改めて批判』、毎日新聞、2007年4月16日。
- ↑ 『盧大統領、日本に過去の歴史反省と実践求める』、WOW! Korea、2007年4月16日。
- ↑ 『「北東アジアで米国の役割強調されなければ」盧大統領雑誌寄稿』、WOW! Korea、2007年4月16日。
- ↑ 『盧大統領「改憲合意だけでもかなりの成果」』、聯合ニュース、2007年4月17日。
- ↑ 『民主主義には寛容と責任が必要、盧武鉉大統領』、聯合ニュース、2007年4月19日。
- ↑ 『盧大統領「憲法改正留保、勢力不足の悲哀実感」』、聯合ニュース、2007年4月29日。
- ↑ 『盧大統領「再補欠選挙の実質的敗者はウリ党」』、聯合ニュース、2007年5月2日。
- ↑ 『列車の試運転は歴史的な事件、盧武鉉大統領』、聯合ニュース、2007年5月15日。
- ↑ 『列車試運転は平和に向けた大きな1歩、盧大統領』、聯合ニュース、2007年5月17日。
- ↑ 『「地域主義に後退する兆しある」盧武鉉大統領』、聯合ニュース、2007年5月18日。
- ↑ 『盧大統領「先進韓国に仏教界の役割が重要」』、聯合ニュース、2007年5月24日。
- ↑ 『韓国のイージス艦進水 世界で5番目の保有国に』、朝日新聞、2007年5月25日。
- ↑ 『韓国初のイージス艦進水 日本や中国を意識か』、産経新聞、2007年5月25日。
- ↑ 『盧大統領の「本当に必要な船だろか?」発言が論難』、文化日報、2007年5月26日。
- ↑ 『李警察庁長を交代させる意思なし、盧武鉉大統領』、聯合ニュース、2007年5月29日。
- ↑ 『盧大統領「会見室改革、討論求めるなら応じる」』、聯合ニュース、2007年5月29日。
- ↑ 『南北は譲歩しながら協力を続けるべき、盧大統領』、聯合ニュース、2007年5月30日。
- ↑ 『「包容政策でも要求すべきことは要求」盧大統領』、聯合ニュース、2007年5月31日。
- ↑ 『盧大統領が反論、「まともな経済がなぜ破たんか」』、聯合ニュース、2007年6月2日。
- ↑ 『【社説】自称「世界的な大統領」の独演会を見て(上)』、朝鮮日報、2007年6月4日。
- ↑ 『【社説】自称「世界的な大統領」の独演会を見て(下)』、朝鮮日報、2007年6月4日。
- ↑ 『盧大統領独演会:李明博・朴槿恵氏らを名指しで批判』、朝鮮日報、2007年6月4日。
- ↑ 『盧大統領独演会:半年で180度変わった対ハンナラ党発言』、朝鮮日報、2007年6月5日。
- ↑ 『「指導者が独裁者の娘では困る」発言 盧大統領を告発』、産経新聞、2007年6月6日。
- ↑ 『記者室統廃合:盧大統領「報道の自由度は韓>米日」』、朝鮮日報、2007年6月3日。
- ↑ 『「アジアの共同繁栄に向け多様性を尊重」盧大統領』、聯合ニュース、2007年6月4日。
- ↑ 『「大統領の政治活動を禁じる国はない」盧武鉉大統領』、聯合ニュース、2007年6月5日。
- ↑ 『盧大統領が戦死者追悼、遺体発掘事業も継続方針』、聯合ニュース、2007年6月6日。
- ↑ 『盧大統領「あいまいな選挙中立要件は違憲」』、聯合ニュース、2007年6月9日。
- ↑ 『6月民主抗争20周年、政府レベルで初の記念式』、聯合ニュース、2007年6月10日。
- ↑ 『「公約守っている」盧大統領が国政運営成果を強調』、聯合ニュース、2007年6月17日。
- ↑ 『盧大統領「米朝・日朝国交正常化促進すべき」』、WOW! Korea、2007年6月22日。
- ↑ 『盧大統領「武装なき平和ない」、済州海軍基地問題で』、聯合ニュース、2007年6月23日。
- ↑ 『南北信頼に向け相手認め包容すべき、盧大統領』、WOW! Korea、2007年6月25日。
- ↑ 『盧大統領「小川から竜出すコース」意味は良いが…』、WOW! Korea、2007年6月27日。
- ↑ 『自然遺産登録に沸く済州、盧大統領も祝賀メッセージ』、WOW! Korea、2007年6月27日。
- ↑ 『【社説】南北首脳会談、いったい何のために行うのか(上)』、朝鮮日報、2007年8月9日。
- ↑ 『盧大統領「平昌五輪は朝鮮半島、北東ア平和を促進」』、WOW! Korea、2007年7月2日。
- ↑ 『盧大統領「平昌誘致なら南北単一チーム構成」』、WOW! Korea、2007年7月2日。
- ↑ 『盧大統領、グアテマラで深夜まで得票活動展開』、WOW! Korea、2007年7月3日。
- ↑ 『盧大統領「時々敗北しても韓国は決して敗北しない」』、WOW! Korea、2007年7月6日。
- ↑ 『盧大統領とIAEA事務局長、核問題で緊密協力へ』、聯合ニュース、2007年7月11日。
- ↑ 『盧大統領が憲法改正検討を提案「内閣制も価値ある」』、聯合ニュース、2007年7月17日。
- ↑ 『盧大統領 「平昌の落選、非難受ける覚悟していた」』、WOW! Korea、2007年7月18日。
- ↑ 『「五輪招致再挑戦は国民の意向で決定」盧大統領』、聯合ニュース、2007年7月18日。
- ↑ 『盧大統領「軽薄な相互主義では北核解決できず」』、WOW! Korea、2007年7月19日。
- ↑ 『盧大統領「真実委勧告の履行、国会の承認を得るべき」』、WOW! Korea、2007年7月24日。
- ↑ 『盧大統領、拉致事件に「楽観も悲観もする時でない」』、WOW! Korea、2007年7月24日。
- ↑ 『盧武鉉大統領「南北首脳会談、定例化の基盤に」 聯合ニュース 2007年8月8日。
- ↑ 収賄:盧前大統領の側近、電撃逮捕 朝鮮日報 2008/11/23
- ↑ 権良淑氏の検察調査、前職大統領夫人では史上2人目 YONHAP NEWS、2009年4月13日
- ↑ 政界ロビー:盧前大統領「妻の借金は自然債務」 検察の調べに対し、学説上のみの珍説を主張朝鮮日報 2009/05/06