山中幸盛
テンプレート:基礎情報 武士 山中 鹿介 幸盛[1](やまなか しかのすけ ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣。実名は幸盛(ゆきもり)、幼名は甚次郎[2](じんじろう)。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦[3]を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は有名である。
目次
生涯
出自・若き日
幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲国富田庄(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を参照。)。
山中氏の家系も不明な点が多い。山中家の系図はいくつか存在するが[4]、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。
山中家は尼子氏の家老[5]であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた[6]。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち[7]、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手柄を立てた[8]。
16歳のとき、主君・尼子義久の伯耆尾高城攻めに随行し、因伯(現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った[9]。
幸盛は次男であったため、尼子の重臣である亀井氏の養子となるが[10]、後に山中家に戻り当主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。
尼子氏の滅亡
永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏の当主・毛利元就[11]は尼子氏を滅ぼすため出雲国へ進軍する[12]。毛利氏は天文24年10月(1555年)に陶晴賢を厳島の戦いで破ると[13]、弘治3年には大内氏を滅ぼし[14]、防長2国(周防国と長門国。)を新たに支配していた。また、永禄5年6月には石見国を勢力下に治め[15]、中国地方の一大勢力となっていた[16]。一方の尼子氏は、当主であった尼子晴久が永禄3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため[17]、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等[18]もあり勢力が衰えつつあった。
元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国しすると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永禄5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え[19]、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。
永禄6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城[20]へ攻撃を開始する[21]。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠点であった。
同年9月21日(1563年10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大将とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する[22]。戦いの結果は、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退却の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を担当し、追撃する吉川元春・小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退。敵の首を7つ討ち取った[23]。なお、白鹿城は同年10月中旬頃に落城している[24]。
永禄7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関[25]で戦い、幸盛もこれに参戦する[26]。このとき、日本海側からの補給拠点である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆国の拠点確保と勢力の挽回に務めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆国の重要拠点の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れ[27]、以後、伯耆国は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、月山富田城は完全に孤立化していくのである。
永禄8年4月(1565年5月)、ついに毛利軍は尼子氏の居城・月山富田城へ攻撃を開始する[28]。毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると[29]、城下の麦を刈り取って兵糧攻めの作戦をとった[30]。
同年4月17日(1565年5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う[31](第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口[32](しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退している[33]。また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取っている[34]。
永禄8年4月28日(1565年5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ[35]、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した[36]。
同年9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川将員[37]を一騎討ちで討ち取っている(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。また同月、白潟(現在の島根県松江市)に滞在していた小河内幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多数の兵を討ち取った[38]。
永禄9年5月24日(1565年6月11日)、毛利軍は再度月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出来なった[39]。
永禄9年11月21日(1566年1月1日)、城内の兵糧が欠乏し将兵の逃亡者も相次いだため[40]、これ以上戦うことが出来ないと判断した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る[41]。そして同月28日(1566年1月8日)、義久は城を明け渡し[42]、ここに戦国大名尼子氏は一時的に滅びることとなる[43]。義久ら尼子3兄弟[44]は、一部の従者[45]と共に円明寺[46]へ連行され幽閉されることとなった[47]。幸盛は随従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた[48]。その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力することとなる。
幸盛の尼子再興運動は、概ね3回に分けて見ることができる。 テンプレート:-
第一回尼子再興
尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永禄9年~永禄11年間(1566年~1568年)の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、有馬温泉で傷を癒した[49]後に順礼の姿をして東国へ赴き、武田氏(武田信玄)・長尾氏(上杉謙信)・北条氏(北条氏康)などの軍法をうかがい、越前の朝倉氏の家風を尋ね入り[50]、その後、京に上ったとされる[51]。
永禄11年(1568年)、幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・尼子勝久を還俗させると[52]、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがった。
永禄12年4月(1569年5月)、毛利元就が大友宗麟を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると[53]、挙兵の機会をうかがっていた幸盛は出雲国へ侵攻を開始する[54]。
このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった[55]。山名一門の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領国であった備後・伯耆・因幡国を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだと考えられえる[56]。もっとも、その後、毛利氏から要請を受けた織田信長によって領内を攻められ[57]、支援はままならなかったようである。
永禄12年6月23日(1569年8月6日)[58]、幸盛は丹後・但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると[59][60]、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する[61]。幸盛らがここで再興の激を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し、5日の内に3000余りの軍勢になったという[62]。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元竜が籠もる新山城(真山城)を攻略して居城とすると[63]、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった。
永禄12年7月中旬[64]、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり[65]、また、城内より投降者がでる[66]など尼子方が優勢であった。
しかし、同じ頃、石見国で活動していた尼子再興軍が毛利軍に攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して同軍の救援に向う[67]。
幸盛は、この石見の毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲国内において16の城を攻略[68]。その勢力を6,000余りにまで拡大させた[69]。
また、毛利元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛[70]、三刀屋久祐などの出雲国の有力国人を相次いで味方につけると[71]、出雲国の一円を支配するまでになった[72][73]。
さらに、伯耆国においても尾高城を始め、中央の八橋城、因幡国との境にある岩倉城など、多くの主要な城を攻略[74]。また、謀略を用いて末吉城の神西元通を寝返らせたのをはじめ[75]、日野郡一帯を支配する日野衆を味方につける[76]など、伯耆国全土にも勢力を拡大していった。その他、因幡[77]・備後・備中[78]・美作国[79]においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている。
加えて永禄12年10月11日(1569年11月19日)、大内輝弘が大内家再興を目指して周防国へ攻め込み[80]、築山館跡を占領する事態が発生する[81]。こうして中国地方は再び戦火につつまれ、騒乱の地となったのである。
同月15日(1569年11月23日)、相次ぐ領内の反乱により支配体制の危機を感じた毛利元就は、反乱軍の鎮圧を優先させるため九州から軍を撤収させることを決定する[82]。
同月18日(1569年11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると[83]、同月25日頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する[84]。輝弘は富海で自刃し[85]、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結するのである(大内輝弘の乱)。反乱を鎮圧した毛利軍は、同年12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している[86]。
永禄13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため居城・吉田郡山城より大軍を率い出陣する[87]。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。
一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反乱(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲国の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため、幸盛ら尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山(現在の島根県安来市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える[88]。
同年2月14日(1570年3月20日)[89]、幸盛ら尼子再興軍は、この布部山の地で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊を防いだ後に新山城へ帰還している[90]。
戦いに勝利した毛利軍は、翌日の2月15日に月山富田城に入城し[91]、尼子再興軍の包囲から城を開放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。
同年6月(1570年7月)、布部山の敗戦により出雲の尼子再興軍の勢力は、居城である新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた[92]。7月~8月には、両城下で毛利軍による麦薙ぎが行われる[93]など危険な状態となるが、同年9月5日(1570年10月4日)、安芸国で毛利元就が重病におちいり、吉川元春を残して毛利輝元・小早川隆景らの軍が国許へ帰還する[94]と状況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返すのである。
幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠点である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆国の境にある城を次々と奪還するとともに[95]、一時、清水寺要害を攻略して[96]再び月山富田城へ迫った。
また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連携を図るため、宍道湖北部に満願寺城を建設[97]。吉川元春が籠もる毛利軍の居城・手崎城(平田城)へ攻め込む[98]など、その攻勢を強めている。
さらに、このとき、隠岐国の国人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており[99]、日本海側の制海権も取得しつつあった。幸盛ら尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大するのである。
元亀元年10年6月(1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、この状況を打開するため、直属の水軍部隊・児玉就英を出雲へ派遣させる[100]。出雲国で苦戦する毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪取しようと計画したのである。
この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、同年10月下旬頃には十神山城が[101]、同年12月には満願寺城が落城する[102]など、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していくこととなる[103]。
そして、元亀2年8月20日(1971年9月8日)頃には、最後の拠点であった新山城が落城[104]。籠城していた当主である勝久は、落城前に脱出して隠岐へ逃れている[105]。
同じ頃[106]、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられる[107]。幸盛は尾高城へ幽閉されることとなるが、その後、隙をついて脱出している[108]。
こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、第1回目の再興運動は失敗に終わるのである。 テンプレート:-
第二回尼子再興
京都に逃れた幸盛らは、織田信長に謁し、中国攻めの先方となることを誓ったとされる。尼子遺臣団は尼子氏再興の志を秘めて山名氏の軍勢と共に、山名氏に謀叛した武田高信と闘い、因幡国を転戦、甑山城での戦いにて決定的な勝利を得る(鳥取のたのも崩れ)。そして鳥取城に篭った武田高信の軍5,000を1,000の兵で攻め、攻略した[109]。もっとも、その後に鳥取城に入った山名氏が毛利氏についたため、毛利氏に鳥取城を奪われることとなった。
天正元年(1573年)12月には、再び因幡へ攻め入り、10日の間に15城[110]を攻略するなど勢力を拡大。天正2年(1574年)頃には因幡国の諸城を攻略し、織田方の浦上宗景の助力もあって若桜鬼ヶ城・私都城を確保。東因幡一円を支配し、一時的に尼子氏を再興することに成功した。
天正3年(1575年)3月、但馬の山名祐豊が、毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を締結する事件が発生する。この頃、山陰は勢力地図が頻繁に変わる時代であった。その1つの要因として、山名氏が、毛利と織田の二大勢力に翻弄されていたことにあった。かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は織田信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあったため、祐豊にとっても毛利氏と手を組むことは重要であった。
また、同年には、支援を受けていた浦上宗景が、宇喜多直家との抗争(天神山城の戦い)に敗れ居城の天神山城を奪われるなどして勢力が衰退する。こうして尼子再興軍は因幡で孤立し、毛利軍により諸城を次々と攻略されることとなる。
天正3年(1575年)10月、毛利軍の吉川元春らが亀井茲矩の籠もる私都城を攻略し、古くからの尼子遺臣であった横道兄弟・森脇久仍・牛尾大炊助らが毛利氏に降るという事態が発生した。因幡における尼子再興軍の拠点は若桜鬼ヶ城一城のみとなったが、毛利軍と織田軍の緊張が高まったことなどにより、毛利軍の撃退に成功している[111]。
しかしその後、織田軍の支援を得ることができなくなったことや[112]、因幡の毛利軍から攻撃を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月、幸盛ら尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し、因幡から撤退する。幸盛は織田信長を頼って京都へ向ったとされ、今後は織田軍のもとで尼子氏再興を目指すことになる。 テンプレート:-
第三回尼子再興
天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は、当時丹波に出動していた明智光秀の軍に加わり、但馬の八木城攻撃や、丹波の籾井城攻撃に参加する。天正5年(1577年)10月には、織田氏嫡子の織田信忠に従い松永久秀が篭城する信貴山城攻略に参加する(信貴山城の戦い)。このとき幸盛は、河内片岡城にて、松永久秀の部将の河合将監を討ち取っている。
織田信長の命令を受けて、羽柴秀吉が播磨国へ進軍を開始すると、尼子再興軍もその攻撃に参加することとなる。秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると、尼子勝久・幸盛ら尼子主従はそこに籠もり、備前・美作・播磨の国境の守備と美作国方面の調略を開始する。
しかし天正6年(1578年)2月、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻す事件が発生する。毛利軍はこれを機ととらえて、吉川元春・小早川隆景らが軍勢を率いて播磨に攻め込み、同年4月、上月城を包囲する。毛利軍が上月城を包囲した、という知らせを受けた秀吉は、荒木村重らとともに軍勢を率いて上月城の救援に向かうが、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、高倉山合戦で毛利軍に敗北したこともあって、兵を撤退する。
その結果、上月城は孤立無援となり、兵糧も底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、同年7月5日、尼子主従は毛利軍に降伏した(上月城の戦い)。
降伏の条件として、尼子勝久は切腹を命ぜられたが、幸盛は生け捕りとなり、備後国鞆の浦に陣取る毛利輝元の下へ護送されることとなった。しかし途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて謀殺された[113]。幸盛の死をもって尼子氏再興活動は完全に絶たれることとなった。 テンプレート:-
その後
幸盛の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。上月城陥落時、亀井茲矩率いる部隊は秀吉に従い難を逃れていたためである。尼子遺臣団の一部はこの亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始める。その後は東軍に属して関ヶ原の戦いでも前衛の部隊として参戦、徳川幕藩体制に組み込まれ、幕末を迎えた。
長男とされる山中幸元(鴻池新六)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を始めて財をなし、のちに大坂に移住して江戸時代以降の豪商鴻池財閥の始祖となった。テンプレート:要出典範囲
衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された。 テンプレート:-
出自の謎
幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。軍記史料も、生まれた場所や年など記載に相違がある。
出生の日
一般的に、出生日は天文14年8月15日(1545年9月20日)とされる。これは『太閤記』『後太平記』によって記載され[114][115]、他の軍記史料には明確な出生日の記述が見られないからである。
『名将言行録』によれば「天正6年7月2日(1578年8月5日)に34歳で死亡」と記載され[116]、逆算すると天文14年に生まれたことになり、『太閤記』『後太平記』に記載される年と一致する。
しかし、もっとも成立の古い『雲陽軍実記』では、天正6年7月13日(1578年8月16日)に39歳で死亡したと記載される[117]。これを逆算すると、生まれた年は天文9年(1540年)になる。また、『陰徳太平記』[118]、『中国兵乱記』[119]においても天正6年に39歳で死亡したとする。そのため、出生年を天文9年とする説がある。
なお、通説では、死亡した日は天正6年7月17日(1578年8月20日)とされる。これは『山中系図草案』『片寄家譜』によるものである[120]。
出生の地
出生地においても定かでない。一般には、月山富田城の麓(現在の島根県安来市広瀬町 (島根県))に生まれたとする。これは『太閤記』によって記載され[121]、現在も屋敷跡が存在する。『雲陽軍実記』『後太平記』では鰐淵寺の麓(現在の島根県出雲市別所町)に生まれたと記載される[122][123]。同じく屋敷があった地が伝えられる[124]。その他、信州(長野県)の見上城で出生した説もある[125]。 テンプレート:-
評価
- 頼山陽
- 嶽々(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰が鹿と呼ぶ、虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る[126](勇名をはせた幸盛(鹿介)は、鹿という名前であるけれども、誰が鹿と呼べようか。幸盛は戦国乱世(食うか食われるかの世界)の麒麟である)。
- 勝海舟
- ここ数百年の史上に徴するも、本統の逆舞台に臨んで、従容として事を処理したる者は殆ど皆無だ。先づ有るというならば、山中鹿介と大石良雄であろう[127](ここ数百年間の歴史を遡って見ても、本当の逆境に挑んで、慌てず落ち着いて処理した者はほとんどいない。もしいるとするなら、山中鹿介と大石良雄だろう)。
- 『陰徳太平記』
- 尼子再興軍の大将は尼子勝久であったが、軍事計略のすべては幸盛の脳裏より出たものであった。数ヵ年間、山陰山陽に武威を振るい、寡兵で大軍に勝つこと数え切れないほどであった。その武名は天下に響き渡り、樵(きこり)の子供や猟師の老人までもが日常の会話にしたほどであった。しかし、果報にも限りがあるように、天運を使い果たして意味も無く誅されたことは無残であった[129]。
- 『名将言行録』
- 幸盛の勇力は抜群であり、才智にも長けていた。当時の人は幸盛を「楠木正成より勝る」と言って褒めたたえた。そのため、七重八重に取り囲んだ敵も幸盛の姿を見ると皆退却した。また、幸盛が城に籠もると敵は和談して戦いを避けた[132]。
- 主家再興を自らの使命とし、各地をさ迷いながらも幾度の苦難を乗り越え、兵を起し戦い続けた。その道のりは厳しく、100度打ちのめされ、1000回挫折を味わうものであったが、進むことはあっても退くことはなかった。最後は志半ばで倒れてしまったが、その義勇の名は一時天下に鳴り響いた[133]。
人物・逸話
容貌
勇猛な美男子であったとされる幸盛であるが、その容貌については諸説がある。
鎧冑の姿
幸盛は三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑をした姿でよく知られる。講談や小説などにおいてもこの姿で描かれることが多い。月山富田城跡に建つ、幸盛の銅像もこの姿で作成されている。通説では、この冑は山中家に先祖代々から伝わるもので、幸盛が家を継ぐにあたって譲られたとされる。しかし『太閤記』や『雲陽軍実記』などの軍記資料によると、その冑の様相は多少異なる。
鹿介という名
幸盛の通称(字)、鹿介の命名についての逸話がある。幸盛の幼名は甚次郎といい、病弱な兄に代わって家督を継ぐときに改名して鹿介と称した。一般には、このとき譲り受けた冑に三日月の前立てと鹿の角の脇立がついていたため、冑にちなんで名前を鹿介と改めたとされる。その他には、山の中で鹿の如く走り廻る姿を見て名前を鹿介としたとする説[142]などもあるが、軍記資料に残る改名の理由は次のとおりである。
所持品
- 総長約264cm(刃長172.0cm、反り3.0cm、茎長 92.0cm)の石州大太刀(石州和貞 作)を使用していたとされ、大山祇神社へこの太刀を奉納している。現在もこの太刀は大山祇神社に展示され、観覧することができる。
武勇
「尼子十勇士」の筆頭とされる[149]。 また、尼子武将の中で特に智勇・忠義に優れた3人[150]、「尼子三勇士」(「尼子三傑」)の1人とされる[151]。
山名軍で猛将として知られた菊池音八や、高野監物、有名な品川将員との闘い、松永久秀配下の河合将監をいずれも一騎討ちで討ち取っている。
首供養を2度行っている[152][153]。首供養は、33の首級を挙げたら1回行う。つまり、34歳の生涯で66以上の首級を挙げたことになる。
幸盛は、生まれて数ヶ月で4・5歳の子供のように見え、2・3歳頃には武勇と智略が優れ遊戯も普通の子供と異なり、8歳のとき人を討った[154]。10歳の頃から弓馬・軍法を学び、13歳のときに敵を討ち取って手柄をたてた。成長するにつれ、器量は世に超え、心は強く深謀遠慮、人を賞するにあたって依怙贔屓(えこひいき)がなかった[155][153]。
16歳のある春の日、幸盛は「今日より30日以内に武勇の誉れ(戦功)を挙げたい」と三日月に祈った。ほどなくして、主君の尼子義久が山名氏の伯耆尾高城を攻め、幸盛もこれに随行する。この戦いで幸盛は、因伯(現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取り戦功を挙げる。このため幸盛は、これより一生の間、三日月を信仰したという[155][153]。
毛利軍が月山富田城を攻めた際に、幸盛が1人で毛利軍約40人と戦い、19人を討ち取り、残りの軍勢も撃退した逸話がある。永禄5年(1562年)、毛利軍は出雲へ攻め入り、尼子軍拠点の月山富田城を包囲する。幸盛が1人城下の民家で休息していると、毛利軍の兵30~40騎余が攻め寄せてきた。幸盛は民家から出ると、最初に乗り駆けてきた2人の兵を切って落とし[156]、続いて来た兵も乱戦して16・17人を討ち取った。残った兵も幸盛1人で切り立てて撃退している。撃退後、幸盛は民家の年老いた尼に「飯はないか」と言って尋ね、出された椎の葉に盛られた飯を食べ、富田月山城へ帰った[155][153]。
尼子が滅亡し、幸盛が諸国を放浪していた時の逸話がある。あるとき、幸盛が一晩の宿を借りて寺に泊まったていた際、盗賊14人が寺を襲ってきた。幸盛は謀略を用い、1人で盗賊すべてを生け捕りにしてしまった。盗賊は「今まで盗みをすること約100回、戦いも70回あまり行いましたが、このようなことは初めてです。名前を教えてください」と尋ねたが、幸盛は「何を言う、さっさと去れ」と言って[157]、名前を告げずに立ち去った[153]。
品川大膳との一騎討ちについては、史料により異同がある。尼子側の記述『雲陽軍実記』や『太閤記』では、品川は弓を使って鹿介を攻撃しようとしたが、尼子氏の武将に弓を用いて邪魔をされ失敗し、鹿介と品川は接近戦を行い、一進一退の攻防の末に鹿介が品川を見事に討ち取ったと記されている。毛利側の資料『陰徳太平記』では、品川が優勢に勝負を進め、鹿介は追い詰められたが僚友の秋上宗信の助力で勝ったと記されている。史料によって異同があり事実は不明であるが、参考として史料の成立としては『雲陽軍実記』の方が『陰徳太平記』より100年前後古く、『太閤記』は『陰徳太平記』より数十年早く執筆されている。なお、それぞれの史書は、その成立上の経緯もあり、歴史上の事実とは異なる部分も多く、一次資料としての信憑性については、各項目を参照のこと(詳細は「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」を参照)。
武辺への助言・判断
明智光秀の家臣であった野々口丹波が、幸盛に一騎討ちについて尋ねた逸話がある。野々口は「自分は一騎討ちを3度行い首級をあげましたが、その時の様子は良く分からず朦朧としたものです。しかし世の中には、たった1度の戦いで詳細に覚えている者もいます。その人は生まれつき勇気があるのでしょうか」と幸盛に尋ねた。幸盛はたいへん感心し、「あなたは正直な人だ。言葉を飾り、嘘をついて名をあげようとする人が多い世の中にあってはめずらしい人だ。自分も4~5個の首級をあげたときは、あなたと同じだった。7~8個のときに夜が明けたようになり、10個の首をとることには、敵の内冑を突いた場所までよく見え、子供の遊びのように杖で討ち倒すことができた。あなたも経験を重ねれば、自分の言ったことが分かるだろう」と答えた[152][153]。
明智光秀の家臣であった野々口彦助(野々口丹波と同一人物か?)が、幸盛に功名をあげる方法を尋ねた逸話がある。幸盛は「合戦の前には必ず目が見えなくなるものだ。よく心得ておかれよ」と言ったが、彦助は最初それほどのこととも思わなかった。しかし、朝霧がなびいて物の色も区別がつかない戦場に立ったとき、彦助は幸盛が教えたことを思い出した。「ここで目が見えないのは私が気おくれしているからだろう」心を静めるため目をふさぎ、そして目を開くと、心もさわやかに目もはっきり見えたので、みごと敵の首を取って功名をあげたとされる[158]。
若武者が将来勇敢な武士になれるかどうか、幸盛が判断する逸話がある。ある日、初陣を終えた2人の若者が幸盛にそれぞれ話しかけた。ひとりは「敵に向かうと震えが生じて、しっかり敵を見ることもできず、討ち取った敵がどんな鎧であったかも覚えていません」と話した。別のひとりは「自分はそうではありません。敵がどんな鎧を着て、どんな馬に乗り、組み合った場所など鮮明に覚えています」と話した。2人が帰った後、幸盛は傍の人にこう語った。「最初に話した若武者は、立派で勇敢な武士になるだろう。後に話した若武者は、はなはだ心もとない。もしかしたら、他人のあげた敵の首を拾い取って自分の手柄としたのではないだろうか。さもなくば、次の戦で討たれてしまうだろう」はたして後日、その言葉のとおりとなった[159]。
心遣い
隠岐為清らが美保関で反乱を起こした際(美保関の合戦)、幸盛らはこれを制圧するため攻めるが、為清に反撃され窮地に追い込まれる。その後、横道兄弟(横道高光、横道高宗)、松田誠保らが救援に駆けつけ奮戦、結果、為清を捕縛しこの戦いに勝利した。この時尼子勝久は幸盛らに遠慮して、横道らに感状を出すことを差し控えていた。しかし幸盛は「この合戦で彼らの加勢がなければ、自分の一命はなかったことでしょう。緒戦に敗れた我々に遠慮することはありません。賞罰は明らかにし、政道に依怙贔屓 (えこひいき)があってはなりません」と勝久を諫め、早々に感状を渡すよう言上した。勝久はこれを喜び、すぐに横道らに感状を渡したとされる[160][161][153]。
明智光秀の家臣であった野々口丹波が、幸盛を我が家へ招待するときの逸話がある。野々口が幸盛を我が家へ招待した後に、光秀からも「風呂を炊いたから家に来ないか」と招待があった。野々口の家はあばら家であったが、幸盛は「野々口と先約があるので、いけません」と笑って光秀に答えた。光秀もまた笑って、「幸盛をこれで招待してやれ」と野々口に言い、雁1羽と鮭1尾を授けた[152][153]。
幸盛から配下の遠藤勘介に宛てた書状が残っている。捕らえられ、阿井の渡しで殺害されるまでの間に書かれた、幸盛の最後の書状とされる。「永々牢を遂げられ、殊に当城籠城の段、比類無く候。向後において、いささかも忘却有るまじく候。然れば、何くへなりとも、御奉公あるべく候 恐々謹言」[162](「長い間の牢人生活を終えられ、特にこの前の籠城戦(上月城の戦い)では、比類の無い戦いぶりでした。このことは今後一生忘れません。これからは何処へでも奉公されますように、恐れながら謹んで申し上げます」)。
その他
幸盛の母、山中なみはたいへんな賢母であったとされる[163]。幸盛の父は若くして亡くなったため、なみ1人の手で幸盛は育てられた。稼ぎ手がいなかったため家は貧しく、衣服を買うお金に困るほどであった。そのため、自ら畑で麻を育て、その麻で幸盛に服を作っていたが、自分はぼろぼろな服を着て生活していた。また、同じように貧しい子供がいれば、服を与え、宿泊させ、食事をふるまった。世話になった子供らは皆これに感心し、大きくなってから幸盛に協力するようになったとされる[155][164][153]。
山中なみの教育についての逸話がある。なみは幸盛に対し「そなたに従う人々と苦楽を共にしなさい。戦いに敗れたときに仲間を見殺しにしたり、また手柄を独り占めにするようなことをしてはいけません。」と言って教えた。幸盛も常にその言葉を忘れず、教えに従ったとされる[155][153]。
毛利軍の将、神西元通を寝返らせ仲間にしたときの逸話がある。幸盛が尼子勝久を擁して出雲へ攻め入ったとき、元通は伯耆の末石城の城番をしていた[165]。尼子時代に元通と旧交のあった幸盛は、元通を味方にしたいと考え、まずその心情を探ろうと計画する。幸盛は元通に禅僧を遣わすと、今の心情を扇に書くようお願いする[166]。元道は「ふるから小野の 元柏(もとがしわ)」とだけ記し禅僧に渡すと、幸盛にこの扇を届けるよう伝える。届いた扇を見た幸盛は「これは『いそのかみ ふるから小野の 元柏 元の心は わすられなくに』[167]という古歌の一節だ。元通も尼子のことが忘れられないだろう」と考え、再び禅僧を元道へ遣わし、尼子に味方するようお願いする。はたして元通はお目付け役の中原善左衛門を切り、尼子再興軍に味方することとなった。なお、元通はその後上月城落城まで付き従い、尼子勝久と共に切腹し自害している[168][169][153]。
敵軍に敗れ捕虜となった幸盛が、厠から逃げ出す逸話がある。尼子氏滅亡後、幸盛は、尼子家再興を目指し出雲で戦いを繰り広げていたが、敗れて末吉城で降伏することとなる。その後、尾高城へ幽閉されることとなった幸盛は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通い[170]、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すこと[171]に成功したという[172][173]。
天正6年7月(1578年8月)、幸盛の籠もっていた上月城は毛利軍に攻められ、援軍の羽柴秀吉軍が撤退したこともあり、毛利氏に降伏することになる。幸盛は降伏に際し、勝久の助命を再三にわたり毛利軍の吉川元春・小早川隆景に申し立てたが、両将は「勝久が切腹しなければ、城内の者を悉く皆殺しにする」と言って許さなかった。万策尽きた幸盛は、勝久に向かい涙を流しながら「 このたびは殿の命を救うため再三にわたって申し立てしましたが、元春・隆景は承知しませんでした。この上は、力なく武運も尽きたと思って御自害ください。自分もお供するのは当然ですが、特に敵の吉川元春は憎い仇なので、偽って降参し近くに寄ったとき刺し違え、当家多年の鬱憤を晴らすつもりです。命を惜しみ不義の降人と思われるのは口惜しいですが、すぐに三途の川で追いつき、その時こそ忠義に嘘偽りのないことをお示しします」と申し立てた。それに対し、勝久は「自分は、普通なら法衣を纏い抖藪行脚(とそうあんぎゃ)をして生涯を終える身なのに[174]、一時的とはいえ尼子家の大将として数万の軍勢を率いることができた。わずかな期間であったが良い夢を見させてもらった。今ここに自害するに及んで何の恨みがあるだろうか。ましてや、自分が死ぬことで部下の命が助かるならば、むしろ大将としては幸いなことだ。また、元春と刺し違えて仇をとることはたいへん立派なことだが、元春は智勇に優れておりそのような機会は訪れないだろう。それよりは、生き長がらえ、別の尼子庶子を探し出し、その者を大将として助け、尼子の再興を目指して欲しい」と言って幸盛に別れを告げた[175]。
墓所
- 阿井の渡しの墓(岡山県高梁市落合町阿部)
- 幸盛は、備中松山に在陣する毛利輝元へ送られる途中、阿井の渡しで殺害される。正徳3年(1713年)10月、幸盛の死を哀れみ、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、この地に墓石を建立した。碑文に次のように記載される。「尼子十勇、儕輩絶倫、不得伸志、無遭干時、忠肝義膽、爰樹爰封、殊勲偉績、千載流芳。前田時棟謹銘」。
- 観泉寺境内の墓(岡山県高梁市落合町阿部)
- 幸盛の遺体は、曹洞宗観泉寺の住職、珊牛和尚がその遺体を引き取り、石金堂(清講堂)に埋葬されたと伝える。寺内には幸盛の位牌も安置されている。戒名は「幸盛院鹿山中的居士」。また、明治35年には、第14世金地祖英師が新たに墓石を建設した。戒名も追贈され「幸盛院殿鹿山中的大居士」となる 。
- 大徳寺玉林院内の墓(京都府京都市北区紫野大徳寺町)
- 寛保3年(1743年)5月22日、幸盛の子孫である大坂の商人、鴻池家当主をはじめ18名によって建立された。 鴻池家は先祖の菩提を弔うために、江戸時代中期の寛保年代に、玉院林の中に位牌堂を創建した。この位牌堂は「南明庵」と称され、幸盛の位牌もそこに安置されている。この南明庵の向かいの墓所に幸盛の墓がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十四にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也、子孫一宗、鴻池十八人相與に謀り、樹石を紫野玉林禅院に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 寛保三年歳舎癸亥五月廿二日 現住比丘大龍宗丈誌す」。
- 本満寺実泉院内の墓(京都府京都市上京区寺町)
- 宝暦14年(1764年)5月22日、幸盛の子孫である山中永辰と山中一信によって建立された。幸盛の墓は本堂脇の墓所中央に位置し、周囲に山中一族の墓碑がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十(四)にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也。子(孫)山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日 当山丗七世日視誌す」。
- 金戒光明寺金光院内の墓(京都府京都市左京区黒谷町 )
- 金光院の奥の墓所中央、文殊堂へ通じる石段の登り口に、幸盛の五輪塔が建立されている。傍には、亀井茲矩と茲矩の妻(幸盛の養女)の2基の五輪塔がある。幸盛の五輪塔には、次の銘文が刻まれる。「潤林院殿太誉淨了大禅定門 、天正六年七月十七日」。
- 幸盛寺内の墓(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)
- 元は明照山持西寺と称し、宝徳年中(1449年 - 1452年)に凝阿上人によって開かれた寺である。場所も今の場所でなく、鹿野西北山麓にあった。文禄元年(1592年)、鹿野城主であった亀井矩茲が、幸盛の菩提を弔うため、明照山持西寺の住職照誉に命じて寺を現在の場所に移し、名も鹿野山幸盛寺と改称し建設した。慶長13年(1608年)には、矩茲によって、備中の遭難地より幸盛の遺骨の数片が集められ、境内に幸盛の墓が建設されている。墓碑銘には次のように記載される。「天正十一癸未七月二日 為幸盛寺殿潤琳淨了居士 沙門蓮社照誉上人建之」。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛寺殿潤淋淨了居士」。
- 巌倉寺内の供養塔(島根県安来市広瀬町富田)
- 慶長7年(1602年)7月、堀尾吉晴の夫人(奥方)が幸盛の忠義を讃え、巌倉寺の境内に建立した。一時、第2次世界大戦中に食糧増産のあおりをうけ、甘藷(さつまいも)畑になり、境内の世代墓の片隅に移転されていた。寺内には幸盛の位牌も安置される。位牌の裏には次のように記載される。「天正六年戊寅七月十七日 於備中阿部渡為毛利氏討死 寛永二十年癸未二月 當山二十二世観譽建之」。戒名は「幸盛寺殿潤林淨了居士」。
- 静観寺山門前の首塚(広島県福山市鞆町後地)
- 備中松山城で毛利輝元の首実験を受けた幸盛の首は、ここの地に送られたとされる。当時、毛利氏に身を寄せていた足利義昭はこの地に滞在していたので、その首実検に供するためである。石碑は自然石をそのまま利用して刻文はなく、近くに「山中鹿之助首塚」の標石がある。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛院殿大譽淨了大居士 」。
- 徳雲寺境内の首塚(広島県庄原市東城町菅)
- 幸盛の首は、鞆の浦に送られ埋葬されたが、非業の死を遂げた彼を憐れむ尼子の残党の手により夜陰に紛れ密かに首を掘り出して、尼子勝久が幼少時に過した徳雲寺へと運び本堂の裏山へ手厚く埋葬し供養したという。石碑は自然石をそのまま利用して刻文はなく、後に「山中鹿之助幸盛公首塚」の標石がある。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛院鹿山的中居士 」。
- 浄教寺内の供養塔(広島県広島市西区草津本町)
- 昭和52年(1977年)7月、幸盛の子孫である山中豊子が400回忌の追善菩提の為に、浄教寺の境内に供養碑を建立した。幸盛の供養碑銘には次のように刻まれる。「四百年忌、昭和五十二年七月十七日、幸盛院殿鹿山中的大居士、天正六年七月十七日歿、俗名山中鹿之介幸盛、行年三十四歳、如意観泉寺前住珊牛和尚授与、幸盛院殿大誉淨了」。
- 末吉城跡の供養塔(鳥取県大山町末吉)
- 地元では古くから幸盛の供養塔と伝えられている。2000年(平成12年)10月以前までは同集落内の個人宅の庭先にあったが諸事情により現在の国道9号線の交差点横(この場所は末吉城の城門跡と伝えられる)に移動した。供養碑は五輪塔であり刻文はなく、近くに「山中鹿之介の供養塔」の標柱がある。
- 忠山砦跡の供養塔(島根県松江市美保関町)
- 幸盛の供養碑は忠山山頂の片隅にあり、石碑が建立された年代は不明であるが、小さな茶色い長方形の幸盛の供養碑銘には次のように刻まれる。「南無妙法蓮華経 山中鹿之助一族供養塔」。
系譜
- 父:山中満幸(三河守)
- 母:なみ(浪子)立原綱重の娘
- 祖父:山中貞幸
- 叔父:立原久綱
- 叔父:山中信直
- 正室:千明(高松院)亀井秀綱の長女
- 長男:山中幸元
- 次男:山中幸範
- 養女:時子(栄壽院、英樹院)(亀井茲矩室)
- 亀井秀綱の二女
- 次女:八重姫(盛江)(吉和義兼室)
- 末裔:鴻池善右衛門
- 末裔:山中豊子
脚注
参考文献
- 山口県文書館 編修『萩藩閥閲禄 第一巻~第四巻、別巻、遺漏』(マツノ書店 1995年)
- 三坂圭治 校注『戦国期 毛利氏史料撰 』(マツノ書店 1987年) 中に『桂岌圓覚書』『老翁物語』を含む)
- 米原正義 校注『戦国期 中国史料撰』(マツノ書店 1987年) 中に『二宮佐渡覚書』『森脇覚書』を含む)
- 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第六巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
- 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第七巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
- 香川景継『陰徳太平記 全6冊』米原正義 校注(東洋書院、1980年) ISBN 4-88594-252-7
- 河本隆政『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』勝田勝年 校注(新人物往来社 1978年)
- 河本隆政『新雲陽軍実記-戦国ロマン広瀬町シリーズ6』(ハーベスト出版、1973年) ISBN 978-4-938184-10-0
- 小瀬甫庵『太閤記-新日本古典文学大系60』檜谷昭彦・江本裕 校注(岩波書店 1996年) ISBN 4-00-240060-3
- 土肥経平『新釈 備前軍記』柴田一 編著(山陽新聞社 1986年) ISBN 4-88197-598-6
- 著者不明(中国兵乱記:中島元行)『 新釈 備中兵乱記(中に中国兵乱記を含む)』加原耕作 編著(山陽新聞社 1987年) ISBN 4-88197-517-X
- 湯浅常山 原著『戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻一~七』大津雄一・田口寛 訳注(勉誠出版 2010年) ISBN 978-4-585-05441-2
- 湯浅常山 原著『続 戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻八~十五』大津雄一・田口寛 訳注(勉誠出版 2011年) ISBN 978-4-585-05442-9
- 岡谷繁実『名将言行録(一)〔全8冊〕』(岩波書店 1943年) ISBN 4-00-331731-9
- 熊沢猪太郎『武将感状記-智・仁・勇 逸話集』真鍋元之 訳・編(緑樹出版 1991年)
- 根岸鎮衛『耳嚢(上)〔全3冊〕』長谷川強 校注(岩波書店〈岩波文庫〉、1991年) ISBN 4-00-302611-X
- 勝海舟『氷川清話』江藤淳・松浦玲 編(講談社 2000年) ISBN 4-06-159463-X
- 広瀬町教育委員会 編集『尼子氏関係資料調査報告書』(広瀬町教育委員会 2003年)
- 広瀬町教育委員会 編集『出雲尼子史料集(上巻)(下巻)』(広瀬町教育委員会 2003年)
- 島根縣学務部島根縣史料編纂掛『島根縣史 六』(島根県 1927年)
- 島根県古代文化センター『戦国大名尼子氏の伝えた古文書-佐々木文書-』(島根県古代文化センター 1999年)
- 鳥取県公立文書館 県史編さん室『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県 2010年)
- 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年) ISBN 4-404-01648-4
- 妹尾豊三郎『山中鹿介幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ4』(ハーベスト出版、1971年) ISBN 978-4-938184-07-0
- 妹尾豊三郎『詩文に表れた月山と幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ9』(ハーベスト出版、1976年) ISBN 978-4-938184-11-7
- 依田武勝『山中鹿之助-歴史新発掘-川中島合戦の落し子の生涯』(叢文社 2010年) ISBN 978-4-7947-0648-5
関連作品
小説
- 池波正太郎『英雄にっぽん 小説山中鹿之介』(文藝春秋・1971年、のち集英社文庫・2002年、角川文庫・1974年)
- 中山義秀『山中鹿之介』(徳間文庫・1988年)
- 童門冬二『小説 山中鹿介』(日刊工業新聞社・1997年、のち学陽書房人物文庫『山中鹿介』改題・2009年) 学陽書房:ISBN 978-4-313-75249-8
- 高橋直樹『山中鹿之介』(文藝春秋・1997年、のち文春文庫・2000年) 文藝春秋:ISBN 4-16-317310-2
- 星亮一『山中鹿之介 毛利に挑んだ不屈の武将』(PHP文庫、1997年)
- 南原幹雄『名将 山中鹿之助』(角川書店、2007年) ISBN 978-4-04-163355-7
- 太田忠久『三日月の影』(ハーベスト出版、1991年) ISBN 4-938184-02-8
- 東郷隆『戦国名刀伝』(文春文庫、2003年) ISBN 4-16-746110-2
- 後藤竜二『尼子十勇士伝-赤い旋風篇』(新日本出版社、2010年) ISBN 978-4-406-05379-2
- 乾緑郎『鬼と三日月-山中鹿之介、参る!』(朝日新聞出版 2013年)ISBN 978-4-02-251086-0
絵本
- 文:鹿介を子どもたちに伝える会 絵:玉井詞『山中鹿介-やまなかしかのすけ』(ハーベスト出版 1998年) ISBN 4-938184-17-6
漫画
ゲーム
関連項目
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- ↑ 鹿介が正しい。自筆状にそのように自署している。鹿之助や鹿之介などは間違って広まった名前である((永禄12年)10月1日 富兵部大夫 宛て 尼子氏家臣連署奉書「富家文書」ほか)。
- ↑ 『太閤記』では山中甚次郎(巻十九 山中鹿助伝)。『陰徳太平記』では池田甚次郎(巻第五十六 山中鹿の助最後の事)。『後太平記』では山川甚次郎(巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事)
- ↑ ありとあらゆる苦難のこと。七難と八苦。「七難」は7種の災難で経典により内容が異なる。『法華経』では、火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難。『薬師経』では、人衆疾病難・他国侵逼難・自界叛逆難・星宿変怪難・日月薄蝕難・非時風雨難・過時不雨難。『仁王経』では、日月失度難・星宿失度難・災火難・雨水難・悪風難・亢陽難・悪賊難。「八苦」は人生上の8種の苦難のこと。生・老・病・死の4苦に愛別離(あいべつり)・怨憎会(おんぞうえ)・求不得(ぐふとく)・五陰盛(ごんじょう)を加えたもの(広辞苑より)。
- ↑ 『尼子盛衰人物記』p309 個人所蔵。『山中鹿介幸盛-戦国ロマン広瀬シリーズ4-』p104 個人所蔵。『島根縣史 六-守護地頭時代』 大正15年6月30日 島根県内務部島根縣史編纂掛 島根県など。
- ↑ 『佐々木文書』「尼子家分限牒」によれば中老。ただし、尼子家分限牒は江戸時代に製作され、その信憑性については諸説ある。
- ↑ 『陰徳太平記』巻第五十六「山中鹿の助最後の事」 尼子家十人の家老に列すと雖も、食地も微小に座敷の次第も末也し、然に幸盛父は幼少にして離れ、一人の母に養育せられて成長す。
- ↑ 『後太平記』巻第四十「山中鹿之助品川狼介勝負之事」 八歳にして敵を射ちしかば
- ↑ 『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」 十歳の比より弓を習ひ、軍法を執心し、武勇の道を専とせしが、十三歳の比、手柄なる太刀打をし能首捕てけり。
- ↑ 『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」 菊池音八と渡し合わせ、暫し相戦ひしが、終に菊池を討て首をさし上げたり。此菊池は因伯二州にをひて隠れなき勇者なりき。
- ↑ 幸盛は一時期、亀井性を名乗っていたため亀井家の養子であったとされる(元亀2年3月11日 松田兵部丞宛て 亀井鹿介幸盛・立原源太兵衛尉久綱 尼子勝久袖判奉行人連署奉書「鴻池家旧蔵文書」)ほか。
- ↑ 実際の毛利氏の当主は、元就の長男・隆元であったが、実権は元就が掌握していたとされる。
- ↑ 永禄5年7月29日 心東堂 宛て 三吉隆亮書状写「閲覧録遺漏 浄泉寺文書」。
- ↑ 天文24年10月20日 井上又右衛門 宛て 小早川隆景感状「閥閲録11」ほか。厳島の戦いが行われたのは、天文24年10月1日。
- ↑ 「・・・、仍内藤(内藤隆世)被討果由、誠太慶此事候、屋形(大内義長)御事茂一途之事御整肝要候、・・・」(弘治3年4月3日 阿曾沼少輔十郎 宛て 毛利隆元書状「閥閲録35」ほか。)。「一、長州且山之儀落去候而、内藤弾正忠(内藤隆世)頸夜前到来候、屋形(大内義長)之儀茂今明日中可有到来候、・・・」(弘治3年5月9日 刑部大輔・兒玉若狭守 宛て 毛利元就書状「閥閲録84」)。弘治3年4月2日に内藤隆世が、続いて4月3日に大内義長が死亡した説が有力(『新裁軍記』より。)。これによって大内氏は実質滅亡した。
- ↑ (永禄5年)6月23日 川尻浦齋藤源左衛門 所持 毛利元就 ・同隆元連署書状写「閥閲録遺漏4-1」
- ↑ 安芸国、備後国、備中国、周防国、長門国、石見国、伯耆国、美作国、出雲国に渡る勢力となっていた。
- ↑ 『佐々木文書』尼子義久家臣人数帳「佐々木文書二三七」。
- ↑ 永禄4年、毛利氏による石見国への侵攻に際し、幕府から毛利氏(・大友氏)との和睦の斡旋を受けていた義久は((永禄)4年4月10日 大館伊予守・進士美作守 宛て 足利義藤御内書「佐々木文書235」ほか。)、積極的に毛利軍と戦うことをしなかった(毛利氏は朝廷の斡旋に従わなかった)。その結果、石見の尼子方の国人は見捨てられた格好となり、滅亡又は毛利方へ味方する者が続出した。そして、この情勢を見た他国の尼子方の国人も次々と毛利方へ鞍替えした。
- ↑ (永禄5年12月) 兼重彌三郎 宛て 毛利元就書状写「閲覧録52」ほか。
- ↑ 『雲陽軍実記』第三巻「富田勢出張先鋒争ひ 並びに白鹿の麓合戦、尼子方敗北の事」 尼子籏下にて 、禄の第一は白鹿、第二は三沢、第三は三刀屋、第四は赤穴、第五は牛尾、第六高瀬、第七神西、第八熊野、第九真木、第十大西なり。
- ↑ 永禄6年8月20日 棚守左近衛将監 宛て 毛利元就書状「厳島野坂文書」ほか。小白鹿ほか、丸(曲輪)、小屋(根小屋・武家屋敷)がすべて落とされ、残すところ本丸のみであることが記載されている。
- ↑ 『雲陽軍実記』第三巻「富田勢出張先鋒争ひ 並びに白鹿の麓合戦、尼子方敗北の事」永禄6年9月21日。牛尾三河守は軍の備えとして9月23日に出陣した。
- ↑ 『後太平記』巻第三十六「出雲国馬潟原合戦之事」。 『中国兵乱記』では、撃退は4度、敵の首は5つ(『中国兵乱記』一の巻「毛利元就が雲州へ攻め入った事」)。
- ↑ 永禄6年10月17日 棚守左近衛将監 返報 吉川元春巻数并供米返事「厳島野坂文書」。 『二宮佐渡覚書』では、永禄6年10月29日(1563年11月14日)に落城(『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」)。
- ↑ 『雲陽軍実記』では三保関(現在の美保関町)。『陰徳太平記』では弓の浜(現在の弓ヶ浜)。
- ↑ 幸盛は第2陣に控える。『雲陽軍実記』『陰徳太平記』。
- ↑ 『雲陽軍実記』第三巻「杉原播磨守盛重と山中、立原、秋上等三保関軍のこと」。『陰徳太平記』巻三十七「杉の原盛重伯州泉山の城に入る 付 弓の浜合戦之事」及び「泉山合戦之事」。
- ↑ 永禄8年6月14日 村山四郎大夫 宛て 乃美隆興書状写「毛利氏四代実録考証論断」ほか。
- ↑ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。『二宮佐渡覚書』では星上山でなく京羅木山と記載。
- ↑ 永禄8年5月2日 児玉若狭入道 宛て 毛利元就書状写「閲覧録84」ほか。
- ↑ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。『雲陽軍実記』では、4月18日。4月17日は凶日なので、1日伸ばした。
- ↑ 月山富田城への3つの進入口の1つ。塩谷口は南側に位置する。他は、北側の菅谷口(すがたにぐち)と西側の御子守口(おこもりぐち)。
- ↑ 『雲陽軍実記』第三巻「富田惣攻め三所合戦 並びに毛利勢、荒隈帰陣の事」。『陰徳太平記』巻三十八「富田城下三箇所合戦之事」。
- ↑ 『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」 甚次郎は衆を離れ進み出、高野監物と鑓を合せ、終に高野を討てけり。(永禄7年の春と記す。年の間違いか又は違う戦いか)
- ↑ 永禄8年5月9日 井上又右衛門尉 宛て 毛利元就・同輝元連署感状写「閲覧録11」ほか。
- ↑ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。永禄8年5月3日に荒隈城へ入った。
- ↑ 品川大膳(しながわだいぜん)あるいは棫木狼之介(たらぎおおかみのすけ)ともいう。
- ↑ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。『陰徳太平記』では、船陰に隠れていた幸綱に、幸盛は膝口をしたたかに切られ負傷している。(『陰徳太平記』巻三十九「富田所々付け城 並 山中鹿助夜討事」)。
- ↑ 永禄9年5月28日 原田長左衛門尉 宛て 平賀広相感状写「平賀共昌集録旧記」ほか。毛利軍が、月山富田城の「七曲」まで攻めていたことが分かる。
- ↑ 永禄9年6月28日 児玉若狭入道 宛て 毛利元就書状写「閥閲禄84」。近頃(永禄9年6月頃)、尼子に従う者が50人100人と逃げ出してきていると記している。
- ↑ 永禄9年11月21日 毛利元就他3名連著血判状写「佐々木家旧蔵文書」「閲覧録29」。
- ↑ 開城時、義久らに従う尼子家家臣は、わずか134名しかいなかった(「佐々木文書237」永禄9年11月28日下城、相届供仕衆中)。
- ↑ 永禄9年11月28日 冷泉四郎 御返報 小早川隆景書状「冷泉家文書」「閥閲禄102」。
- ↑ 尼子三郎四郎義久、尼子八郎四郎秀久、尼子九郎四郎倫久の3人。
- ↑ 義久へは、宇山右京亮・立原備前守・本田豊前守・同与二郎・大西十兵へ(大西十兵衛)・牧彦右衛門・力石兵庫・津野森四郎二郎・福頼四郎右衛門・本田太郎左衛門・真野甚四郎・高尾惣五郎・正覚寺(大塚助五郎)の21名。倫久へは、多賀勘兵へ(多賀勘兵衛・佐藤助三郎・重蔵坊・山崎惣左衛門の5名。秀久へは、松浦治部丞・松井助右衛門・他9名(宇山被官・矢田五郎左衛門・作野助四郎・立原被官・河上助四郎・小者之聟・本田被官・広江彦五郎・中間源右衛門)。(『二宮佐渡覚書』「尼子三兄弟御供の衆」)。
- ↑ 広島県安芸高田市向原町長田にあった。現在は屋敷跡が残る。
- ↑ 『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」 永禄9年12月14日に円明寺に到着した。
- ↑ 『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」。『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。
- ↑ 『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」。
- ↑ 『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」。
- ↑ 『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」。その他の軍記資料でも京に上ったとする。
- ↑ 『桂岌圓覚書』 尼子勝久、京都東福寺出家にて居られ候つるを人躰に取立て。
- ↑ (永禄12年)4月28日 赤名右京亮 宛て 毛利輝元書状「閥閲録37」。元就が出陣したのは4月26日。
- ↑ 元亀2年4月5日 吉川元春起請文「三沢文書」。
- ↑ 『陰徳太平記』によれば、但馬国の垣屋播磨守を頼ったとする(『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」)。
- ↑ 『西国の戦国合戦-戦争の日本史-』P180(山本浩樹 著 吉川弘文館2007年)。
- ↑ (永禄12年)8月19日 毛利元就ほか13名 宛て 日乗朝山書状安「益田家文書二八」。当時、毛利氏と織田氏は友好的な関係であった。毛利氏は、京都に送り込んだ使僧の朝山日乗を通じて信長に合力を要請。「雲伯因三ヶ国合力」として、織田軍の木下藤吉(木下秀吉)、坂井右近(坂井政尚)が2万の兵で但馬に攻め込み、生野銀山、子盗、垣屋などの城を攻略している。また、「備作両国御合力」として、木下助右衛門尉、同左衛門尉(木下祐久)らが2万の兵で播磨に攻め込み、増井、寺蔵院などの城を攻略。その後、備前に進んで天神山城に攻め込む予定であることが記されている。
- ↑ 『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」。
- ↑ 永禄12年9月15日 日御碕検校 宛て 尼子氏家臣連署奉書「日御碕神社文書」。「丹州(丹後国)」から船数百艘に乗って島根半島に上陸したことなどが記載されている。同日、同人に宛てた尼子勝久の寄進状には「但馬国」と記載されており、他の資料の関係から「但州(但馬国)」の誤りではないかとの指摘もある。
- ↑ 『雲陽軍実記』『陰徳太平記』によれば、但馬国から海賊・奈佐日本之介の手を借りて隠岐国へ渡り、隠岐の国人・隠岐為清の協力を得て島根半島に上陸したとする。(『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」)。(『雲陽軍実記』第四巻「尼子勝久雲州へ攻め入り、並びに旧交馳け集まり敵城を攻め落とす事」)。
- ↑ 永禄12年9月15日 日御碕検校 宛て 尼子勝久寄進状「日御碕神社文書」。「但馬国」から島根半島に上陸し、忠山に入ったことが記載されている。
- ↑ 『雲陽軍実記』第四巻「尼子勝久雲州へ攻め入り、並びに旧交馳け集まり敵城を攻め落とす事」。『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」。
- ↑ 『森脇覚書』「九州御陣之事」。
- ↑ 永禄12年7月19日 野村信濃入道 宛て 毛利元就書状「閥閲録123」ほか。
- ↑ 『桂岌圓覚書』冨田の城に天野隆重籠り居られ、兵粮これ無く候て難儀に及び候。
- ↑ 永禄12年9月27日 加儀太郎右衛門尉 宛て 天野隆重書状「閥閲録160」ほか。月山富田城内の馬来、河本、湯原氏らが尼子軍に投降したことが記させれている。
- ↑ 『雲陽軍実記」第四巻「所々尼子方蜂起 並びに富田合戦の事」。
- ↑ 『雲陽軍実記』第四巻「秋上伊織介富田敗北 並びに山中鹿之助異見の事」。『陰徳太平記』では、15城(『陰徳太平記』巻四十三「諸国毛利家に背く 付 立花の城明け渡す事」)。
- ↑ 『雲陽軍実記』第四巻「秋上伊織介富田敗北 並びに山中鹿之助異見の事」。『陰徳太平記』でも同数(『陰徳太平記』巻四十三「諸国毛利家に背く 付 立花の城明け渡す事」)。
- ↑ 永禄12年8月12日 米原平内兵衛尉 宛て 尼子勝久書状「松原家文書」。綱寛は、以前より尼子方から誘いを受けており、大友宗麟の勧めもあって(永禄12年5月17日 米原平内兵衛尉 宛て 大友宗麟書状「松原家文書」)尼子方へ寝返った。
- ↑ 『太閤記』巻十九「元就群難之事」。毛利方についていた三沢為清、三刀屋久祐、高瀬備前守、米原綱寛が、幸盛の誘いにより尼子方についたことが記されている。後に、三沢為清と三刀屋久祐は毛利につく。
- ↑ 永禄12年7月25日 新藤就勝 宛て 天野隆重書状「竹矢家文書」。出雲国内の在々所々の者が、残すことなく雲伯諸牢人(尼子再興軍)に従ったことが記されている。
- ↑ 『桂岌圓覚書』山中鹿之介、其外雲伯諸牢人、雲州へ乱入り仕り候。雲州一国存分に任せ候。
- ↑ 永禄13年3月3日 湯原平次 宛て 吉川元春書状写「閥閲録115」。永禄13年3月頃に、八橋城、岩倉城といった伯耆の中部~東部にかけての毛利の城が尼子再興軍の攻撃を受けて落城の危機に追い込まれていることが分かる。ほどなく両城は落城。
- ↑ 『雲陽軍実記』第五巻「神西三郎左衛門再び尼子方一味の事」ほか。
- ↑ 永禄12年7月27日 某興幸感状「米井家文書」。永禄12年9月10日 某興幸感状「米井家文書」。日野山名・日野・進・原氏などの日野衆が、毛利氏を離反して尼子再興軍を支援。以後、日野衆は、尼子再興軍が上月城の戦いで滅ぶまで、一貫して支え続けていく。
- ↑ 元亀2年5月15日 山田出雲守 宛て 吉川元春書状写「山田家古文書」。毛利方の山田重直が、尼子方の因幡国の荒神山城(現在の鳥取市鹿野町河内)を攻撃したことが記されている。
- ↑ 永禄13年3月14日 進平次郎 宛て 日野土佐守秀清・進玄蕃充允幸経 連署書状「閥閲録130」。永禄13年4月4日 某興幸 感状「米井家文書」。元亀2年3月19日 某興幸 感状「米井家文書」。元亀2年5月9日 原又太郎 宛て 尼子勝久感状「米井家文書」。永禄13年3月~元亀2年5月にかけて、尼子方の日野衆と毛利方の宮氏が備中・備後の国境付近で戦っていたことが分かる。
- ↑ 永禄(1)2年7月21日 足立十兵衛尉 宛て 香川美作守光景・蔵田与三右衛門尉元貞連署起請文写「香川家文書」ほか。雲州牢人(尼子再興軍)が、美作国の高田城を攻めたことが記されている。
- ↑ (永禄12年)10月28日 立花勤番 各御中御陣所 宛て 吉弘左近太夫鑑理書状写「無尽集」。大内輝弘が海を渡って秋穂(現在の山口県山口市秋穂)に上陸し、山口に攻め込んだことが記載されている。
- ↑ (永禄12年)11月18日 野村信濃入道 宛て 小早川隆景書状「閥閲録123」。大内輝弘が山口の築山に籠もったことが記載されている。
- ↑ 元亀4年10月2日 井上又右衛門尉 宛て 小早川隆景書状「閥閲録11の2」。
- ↑ (永禄12年)10月28日 立花勤番 各御中御陣所 宛て 吉弘左近太夫鑑理書状写「無尽集」。
- ↑ 永禄12年10月25日 舟越淡路守 宛て 毛利輝元書状「閥閲録159」。10月24日には周防の白松北南・岐波・床波(いずれも山口県宇部市)の軍を討ち果たし、今日(25日)には長門の有穂(秋穂)の軍を掃討するだろうと記されている。
- ↑ 寛永12年1月11日 新屋山三郎 宛て 毛利秀就加冠状 「閥閲録85」。永禄12年10月25日に、大内輝弘が防州富海の茶臼山で切腹したことが記されている。
- ↑ 『桂岌圓覚書』元就様、輝元様、霜月廿三日長府を御立ち成され、吉田へ御帰陣成され、御両殿様諸勢残り無く御打納め候。
- ↑ (永禄13年)1月5日 毛利輝元 宛て 吉川元春自筆書状「毛利家文書」。
- ↑ 1月28日には多久和城(島根県雲南市三刀屋町多久和)を毛利軍が攻め落としており((永禄)13年2月1日 南湘院 南方宮内少輔 宛て 毛利元秋書状写「閥閲録47」ほか)、この布部山の地を抜けると月山富田城はすぐそこである。
- ↑ (永禄13年)2月18日 赤名右京亮 宛て 毛利元就書状写「閥閲録37」ほか。
- ↑ 『雲陽軍実記』第五巻「毛利大勢攻め上り多久和城明渡し 並びに布部大合戦の事」。
- ↑ 『桂岌圓覚書』其日は元の御陣に御打納め成され、次の日、十五日富田へ御座成され候。
- ↑ (元亀元年)6月8日 堀立壱岐守 宛て 吉川元春書状写「堀立家証文写」。出雲においては、尼子方の残っている城は新山城と高瀬城のみであり、その城下で放火を行ったことなどが記されている。
- ↑ (元亀元年)7月29日 棚守左近衛将監 宛て 小早川隆景書状「切り紙、厳島野坂文書」。(元亀元年)8月26日 乃美兵部丞 宛て 毛利元就書状写「閥閲録11」ほか。
- ↑ (元亀元年)9月5日 渡辺左衛門太夫ほか3名 宛て 毛利輝元・小早川隆景連署書状写「閥閲録55」。
- ↑ (元亀元年)9月25日 湯原右京進 宛て 毛利輝元・毛利元就・小早川隆景連署書状写「閥閲録115」ほか。
- ↑ (元亀元年)10月14日 国司雅楽允 宛て 毛利元就書状写「閥閲録55」。10月8日に、清水山に籠もる尼子軍を毛利軍が攻撃し、戦功を挙げているのが記載されている。
- ↑ (元亀元年)10月25日 名井豊前守ほか5名 宛て 毛利輝元・毛利元就連署書状「知新集」所収文書(「閥閲録124」)。
- ↑ (元亀元年)10月15日 岡又十郎 宛て 吉川元春・口羽通良連署書状「折紙、岡家文書」ほか。10月15日には、吉川元春が籠もる手崎城へ尼子軍が攻め込み、毛利軍が防戦に努めていたことが分かる。
- ↑ 永禄13年9月29日 隠岐弾正左衛門尉 宛て 尼子勝久宛行状写「国代考証」所収文書。
- ↑ (元亀元年)10月6日 児玉与八 宛て 毛利元就書状写「閥閲録100」。
- ↑ (元亀元年)11月1日 児玉与八 宛て 毛利輝元・毛利元就連署書状写「閥閲録100」。
- ↑ (元亀元年)12月12日 末国左馬助 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録128」。
- ↑ 高瀬城は元亀2年3月19日に落城((元亀2年3月22日)国司雅楽允ほか2名 宛て 毛利輝元・毛利元就連署書状写「閥閲録55」)、伯耆の岩倉城は元亀2年5月14日に落城((元亀2年5月15日)山田出雲守 宛て 吉川元春書状写「山田家古文書」)など。
- ↑ (元亀2年)8月24日 野村信濃守 宛て 毛利輝元書状「野村家文書」。同じ頃、伯耆における尼子再興軍の最後の拠点・八橋城が落城している((元亀2年)8月27日 山田出雲守 宛て 吉川元春書状「山田家文書」)。
- ↑ (元亀3年)6月20日 牧兵庫助 宛て 志賀鑑信書状「切紙、石見牧家文書」。
- ↑ (元亀2年)8月20日 湯原右京進 宛て 毛利元秋書状写「閥閲録115」。8月20日頃までに末吉城は落城。
- ↑ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最終の事」。末石と申城に、山中鹿介罷居り候。
- ↑ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最終の事」。尾高城に幽閉されたことと、鹿介が脱出したことなどが記載されている。
- ↑ 『太閤記』巻十九 鹿助度量広く武勇にかさ有る事 より。
- ↑ 『雲陽軍実記』は15城。『陰徳太平記』によれば13城と記載。
- ↑ このとき山陽側において、浦上宗景が織田信長と手を組んで反毛利の動きを見せていた。吉川元春は、その対策を協議するため、郡山城へ一時帰国する必要があった。元春は、若桜鬼ヶ城の周辺に付城を多数築いて因幡を離れている。
- ↑ 信長は元春に書面で、幸盛を庇護しない旨を伝えている。この処置は、本願寺などの諸勢力との闘いが続く中での、毛利氏との軋轢を一時的に軽減するための政治的な目的があったとされる。
- ↑ 諸説によれば、幸盛がなおも生き延びて、尼子氏を必ずや再興するという執念を胸中に抱いていたため、これを生かしておくと危険と見た吉川元春が先手を打ち、殺害させたと言われている。
- ↑ 『[太閤記]]』巻十九「山中鹿助伝」。
- ↑ 『後太平記』巻第四十「山中鹿之助品川狼介勝負之事」。ただし、巻第四十二 「山中鹿之助被誅事」には、天正6年(1578年)に39歳で死亡したと記載され、年齢があわない。
- ↑ 『名将言行録』巻三「山中幸盛」。天正六年七月二日、害に遭ふ。年三十四。
- ↑ 『雲陽軍実記』第五巻「木下藤吉郎秀吉、播州上月城加勢 並びに尼子勝久、氏久生害の事」。
- ↑ 『陰徳太平記』巻第五十六巻 「山中鹿の助最後の事」
- ↑ 『中国兵乱記』四の巻 「山中鹿之助が誅せられた事」
- ↑ 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年)P118。また『山中家譜草案』は、享年37歳と記載されるとする。
- ↑ 『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」。雲州富田之庄に於て出生。
- ↑ 『雲陽軍実記』第五巻「山中鹿之助漂泊、社寺宝物押領 並びに因伯度々合戦の事」。鰐淵寺の麓は鹿之助出生の地にて、即ち山中屋敷とてありける処なれば。
- ↑ 『後太平記』巻第四十「山中鹿之助品川狼介勝負之事」。雲州鰐淵山の麓、武蔵坊弁慶が育ちたる屋敷に生まれ。
- ↑ 現在は、会社の資材置き場となっている。
- ↑ 依田武勝『山中鹿之助-歴史新発掘-川中島合戦の落し子の生涯』(叢文社 2010年)P169。
- ↑ 「山中幸盛」と題する七言絶句(漢詩)より。「山陰の麒麟児」と呼ばれるゆえんとされる。(原文)「存孤杵臼何忘趙 乞救包胥暫託秦 嶽々驍名誰喚鹿 虎狼世界見麒麟」
- ↑ 『氷川清話』第七章 世人百態より。
- ↑ 明治26年(1893年)12月29日、議会解散の前日に、当時の自由党総理(党首)であった板垣退助は以下のように話を続け、解散に屈してはならないと党員を激励した。「彼は常に七難八苦に遭わしめ給えと、三日月を拝したということであります。又彼の述懐に、憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん ということを申しております。彼の三日月を拝したというのは、如何なる意を以て拝したのであるかということは、出雲の人に就いて聞きましても分りませんが、私自ら解釈したつもりで居りまする。彼の満月となります時は必ず欠くるものである。彼の三日月の微々として雲間に光る処が、其不満なる有様、是れ士志の同感をなす処であるということでありまする」。米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年)P149。
- ↑ 『陰徳太平記』巻第五十六 山中鹿の助最後の事 より。
- ↑ 元和元年(1615年)、賀陽郡刑部郷経山城主であった中島大炊助元行が、自己の体験した合戦とその功績を子孫に残すため著したもの。
- ↑ 『中国兵乱記』四の巻 山中鹿之助が誅せられた事 より。
- ↑ 『名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「幸盛、勇力群を絶し、才智兼備せり。時人幸盛を稱して、楠木正成にも勝りしなんど言へり。去ればにや、七重八重取囲みたる敵も、幸盛の印を出だせば、皆悉退却れり。幸盛だに籠れば、和談して無事を為すと曰ふ」
- ↑ 『名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「幸盛流離顛沛の身を以って兵を起し、主家を興復する事を己が任と為し、崎嶇間關、百挫千折すと雖も進むことあって、退くことなし。竟に志業成らずして死すと雖も、一時義勇の名天下を震動せり」
- ↑ 『雲陽軍実記』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より。「其の骨柄五尺余りと見えて、中肉、色白く、風俗美しき男」
- ↑ 『太閤記』巻十九 山中鹿助伝 より。「尋常の児童には面がはりし、眼ざし一廉有て手足太ふ逞しく、おさなわざも大さはやかに、ふてきにも有りし」
- ↑ 『名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「幸盛鬚髯甚だ壯なり。其の鬚莖を以て窓紙を鑽すに穿つこと鍼の如し」
- ↑ 『太閤記』巻十九 山中鹿助伝 より。「十六歳の春、甲の立物に半月をしたりける」
- ↑ 『名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「十六歳の春冑の立物に半月をしたりける」
- ↑ 『雲陽軍実記』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より。「赤糸縅しの鎧に男鹿の五鎖懸けたる角を銀にて卓物したる甲を着・・・」
- ↑ 『陰徳太平記』巻三十九 山中鹿の助品川狼の助合戦之事 より。「赤糸縅しの鎧に小男鹿の五鎖打たる角を、銀にて泥みて卓物とし・・・」
- ↑ 『名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「鹿双角長六尺なるを冑額に挿めり」
- ↑ 依田武勝 著『山中鹿之助-歴史新発掘-川中島合戦の落し子の生涯』P177より。根拠となる資料の詳細は不明。
- ↑ 『太閤記』巻十九 山中鹿助伝 より。「長月比、夜番のつれづれに、秋宅甚介と寺本半四郎に氏姓に因みて名をかへてんやと有りしかば、尤も宜しからんとて、山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助とぞ名乗ける」
- ↑ 『名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「幸盛の兄を甚太郎と曰ふ、常に鹿双角長六尺なるを冑額に挿めり。後に之を幸盛に與(与)ふ、幸盛身體壯大冑して陣に臨むに、人其巍然たるを見て輙ち恐れ服す、依て鹿之助と稱す」
- ↑ 鎌倉時代中期の京の刀工「来国行」作の太刀。
- ↑ 『桂岌圓覚書』 誰々見候ても常の刀にあらず候。あらみ国行を鹿介持ちたる由内々取沙汰候。
- ↑ 『老翁物語』より。『桂岌圓覚書』の内容に加え、幸盛が頸にかけた袋の中に「大海のつぼ(茶入れ)」を持っていたこと、及びこれら太刀と茶入れは毛利輝元に献上され「荒身国行の太刀」については輝元が所持したことが記載されている。『陰徳太平記』(巻五十六「山中鹿の助最後の事」)・『後太平記』(巻第四十二「山中鹿之助被誅事」)にも同様の内容が記載。後に輝元から豊臣秀吉に献上されたとされる。
- ↑ 『享保名物帳』 下巻 「宗近、國近、國俊、國次、長谷部、信國、了戒、當麻、包永、貞宗の部」。
- ↑ 『名将言行録』によれば、尼子十勇士とは、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した、勇力の優れた10人の人物と記載する。その中でも幸盛を第一とした。
- ↑ 山中鹿介、立原源太兵衛、熊谷新右衛門の3人。
- ↑ 『雲陽軍実記』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より。
- ↑ 152.0 152.1 152.2 『武将感状記』巻の四「山中鹿之助の述懐」。
- ↑ 153.00 153.01 153.02 153.03 153.04 153.05 153.06 153.07 153.08 153.09 153.10 『名将言行録』巻之三 山中幸盛より。
- ↑ 『太閤記』には記載がない。
- ↑ 155.0 155.1 155.2 155.3 155.4 『太閤記』巻十九 山中鹿助伝 より。
- ↑ 幸盛が最初の兵を切って落とすと、次の兵は馬から降り立ち、3尺5寸の太刀を抜いて向かってきた。幸盛は「やさしのおのこや(けなげな奴だ)」と言って、おがみぎりに切ると、相手は微塵になって谷底へ転がり落ちていった。
- ↑ 神仏がご覧になっている前で殺生は良くないと思い、寺の住職と相談して盗賊は解放することにしていた。
- ↑ 『常山紀談』巻十一による
- ↑ 『耳嚢』巻一による。
- ↑ 『陰徳太平記』より。
- ↑ 『雲陽軍実記』より。
- ↑ (原文)「永々被遂牢、殊当城籠城之段無比類候、於向後聊忘却有間敷候、然者何へ成共可有御奉公候 恐々謹言 七月八日 幸盛(花押) 〆進藤勘介殿 山鹿」
- ↑ 崔元暉、呂栄公の母にも劣らないと記載される。
- ↑ 『陰徳太平記』巻五十六 山中鹿の助最後の事 より。
- ↑ 元通は以前尼子家に使えていたたが、1564年(永禄6年)の月山富田城の戦いのときに降伏して、以後毛利氏に従っていた。
- ↑ 禅僧は「幸盛殿と元通殿は現在敵味方に分かれていますが、幸盛殿は元通殿と旧交忘れがたく、貴殿をなにかと心配しておられます。貴殿がご健在であることをお伝えしますので、この扇に何か一筆お書きください。持ち帰って幸盛殿に見せれば安心なさるでしょう」と言って元通へお願いした。
- ↑ 意味は「古い枯れた幹ばかりの野に 古くからある柏 その柏のように 以前からの気持ちを忘れてはいません」。古今和歌集 巻第十七 雑歌上886 題知らず よみ人知らず
- ↑ 『雲陽軍実記』第五巻 神西三郎左衛門再び尼子方一味の事 より。
- ↑ 『陰徳太平記』巻四十三 神西三郎左衛門志を変する事 より。
- ↑ 『雲陽軍実記』では昼夜70~80回。『陰徳太平記』では一晩に170~180回厠に通ったと記載。
- ↑ 『雲陽軍実記』では、厠の透垣(板と板、または竹と竹との間を少し透かしてつくる垣根)を乗り越え、底樋(ため池などの底の水を取水する樋)の水門を抜けて逃げたと記載。『陰徳太平記』では、 厠の樋を游り(くくり)て逃げ出したと記載。
- ↑ 『雲陽軍実記』 第五巻 「毛利元就公病死、山中鹿之助偽りて降参、並びに勝久公隠州落ちの事」。
- ↑ 『陰徳太平記』 巻第四十八 「山中鹿の助出奔 付り 尼子勝久走於隠州に逃之事」。
- ↑ 勝久は当初、京都の東福寺の僧であった。
- ↑ 『陰徳太平記』巻五十六 上月城没落 付 勝久自害の事 より。