天皇賞
天皇賞(てんのうしょう)とは、日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。第1回とされる「帝室御賞典」は1937年(昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」まで遡ると1905年(明治38年)に起源をもち[1]、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である[1]。現在は皇室から優勝賞品として楯が下賜されており、天皇賞を“盾”と通称することもある[2]。
春は京都競馬場で「天皇賞(春)」、秋は東京競馬場で「天皇賞(秋)」の表記で施行されている。記事内ではそれぞれ「天皇賞(春)」または「春の競走」、「天皇表(秋)」または「秋の競走」と表記する。
歴史
天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)5月6日に横浜競馬場で創設されたThe Emperor's Cup(エンペラーズカップテンプレート:Refnest)や、明治初期のMikado's Vaseにまで遡ることができる[3][4]。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している(後述)。エンペラーズカップはのちに「帝室御賞典」の名称で定着し、明治末期から1937年(昭和12年)まで日本各地で年に10回行われていた[3]。
一方、施行距離や競走条件は1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた「優勝内国産馬連合競走」を概ね継承している。この競走は年2回、3200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。
これらを統合して始まったのが1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典で、日本中央競馬会(JRA)ではこれを天皇賞の第1回としている[1]。「帝室御賞典」は戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中止され、終戦後の1947年(昭和22年)春に「平和賞」の名称で再開、同年秋から「天皇賞」と改称され現在に至っている[1]。
1937年(昭和12年)以来「古馬の最高峰」として位置づけられた天皇賞は長らく番組体系の中心に据えられ、旧八大競走にも含まれるなどその地位を保ち続けた[5]。1着賞金も東京優駿(日本ダービー)などとともに国内最高クラスの競走[注 1]だった。後に有馬記念やジャパンカップが創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2014年(平成26年)現在も天皇賞は、ジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金競走である[6]。
1980年代以降に進められた様々な制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内で現存する競馬の競走として最も長い歴史と伝統をもち、重要な競走の一つに位置づけられている。
- 用語の解説
- 競走条件 - 当該競走に出走できる馬の条件(クラス分けなど)を定めたもの[7]。馬齢・負担重量・施行コース・距離も含まれる場合がある(現在の競走条件は後述)。
- 馬齢 - 馬の年齢。実際の誕生日に関わらず、1月1日になると一律に1歳加算される。日本では2001年(平成13年)から国際基準に合わせた現行表記が採用され、満年齢(生まれたばかりの馬は0歳)で表記。2000年(平成12年)までは数え年(生まれたばかりの馬は1歳)で表記していた[8]。記事内の本文では年代にあわせて旧表記と現行表記を使い分けているが、「歴代優勝馬」一覧表ではすべて現行表記に揃えている。
- 負担重量(斤量) - 出走馬が背負う重量のこと。騎手の体重のほか鞍などの馬具も含まれ、出走する各馬ごとに所定の条件のもと定められる。初期の競馬では「斤(約0.6kg)」を重さの単位としていたことから、「斤量(きんりょう)」とも呼ばれる[9]。
- 古馬 - 4歳(2000年以前の馬齢表記では5歳)以上の馬をさす[10]。一般的に中央競馬の競走馬は2歳の夏から順次デビューし、同世代の馬と競いあいながら翌年(3歳時)の東京優駿(日本ダービー)をまず大目標とする。次の2歳馬がデビューする時期になると、3歳馬も年上の古馬と一緒にレースをするようになる。
- 番組(競馬番組) - 日本の競馬は当該競馬場における1開催(現在の中央競馬は原則として6日 - 12日)をひとつの単位としており、施行する競走は開催ごとに定められている。同一開催で組まれる競走の割り当てを「競馬番組(または単に番組)」と呼んでいる[7]。
起源
王政復古後、明治新政府が直面した重要な外交問題の一つは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた不平等条約の改正であった。条約改正交渉を円滑に進めたい明治政府は、鹿鳴館に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬もそのうちの一つで、政府や明治天皇は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった[11]。中でも横浜競馬場は幕末以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭も歴代のイギリス公使が務めていたテンプレート:Refnest。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に横浜競馬場へ赴いていた[11][12]テンプレート:Refnest。
イギリスでは清教徒革命後の王政復古に際して[13]、国王自ら競馬場に大競走(King's Plate、女王時代はQueen's Plate)を創設し[13][14]、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統の一つだった[14][15]。明治天皇はこの故事に倣い[15]、横浜競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設のMikado's Vaseである[3]テンプレート:Refnest。
明治30年代になると、イギリスとの条約改正を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には日英同盟も締結され、日露戦争の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、イギリス連邦で日本に近く、かつ馬産地だったオーストラリアから3700頭あまりの馬(豪サラと呼ばれる)を日本へ緊急輸出した[16]。
こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス公使のクロード・マクドナルドである[4]。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に全権大使へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した[17][4]。当時、マクドナルドは横浜競馬場の会頭に就任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『尊重の重宝』と和訳している)を賞品として、1905年(明治38年)5月6日に「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」を創設した[1][17][16][18]。以来、横浜競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり[3][16][4][17][18]、JRAでは「天皇賞の前身」としている[1]。
横浜競馬場は外国人が運営し、書類や記録もすべて英語表記だったため、“The Emperor's Cup”はときの担当者によって様々に和訳されていた。1905年(明治38年)には“皇帝陛下御賞盃”テンプレート:Refnest、1906年(明治39年)には“宮中御賞盃”と訳され[3]、1907年(明治40年)からは新聞報道でも使われた“帝室御賞典”の訳で統一されるようになった(後述)[3][17]。
帝室御賞典の拡大と統一
明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり[19][12]、代わりに皇族や親王を名代として派遣するに留まっていた[20]。これ以来、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)まで106年間行われなかった(後述)。
1906年(明治39年)に日本人による本格的な競馬倶楽部として東京競馬会が創設された[20]際、責任者だった子爵の加納久宜は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診した。しかし開催10日前になって、賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された[21][20]。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した[3][20]。
明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった[3][22]。横浜・東京に続いて阪神へも年2回の下賜が認められた[3][22]ほか、馬産地の福島・札幌・函館・小倉へも年1回の下賜が認められた[3][22]。
全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は各競馬倶楽部が独自の競走条件で施行していたため、施行距離も斤量(負担重量)などの条件もまちまち[18]で、競走名と天皇から御賞典が下賜される点以外に統一性はなかった[23]。
一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された[24]。賞金は1着3000円、2着でも1500円で、当時日本国内の最高賞金レースだった(当時、帝室御賞典の1着馬には賞品が授与されるだけで、賞金はなかった)。距離は2マイル(約3200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬倶楽部で行われた優勝戦の上位馬に限られていた[24]。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、後に年2回施行になった[24]。
昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した日本競馬会に統合され、一本化されることになった[3][24][1]。日本競馬会は1937年(昭和12年)に各地の競馬倶楽部を統合し、年10回施行していた帝室御賞典は春に阪神競馬場(旧鳴尾競馬場)、秋に東京競馬場で年2回施行することとなった[1][3][24]。年2回施行に改められてから初の競走は1937年(昭和12年)秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている[1][3][24]。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでいて、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である[24]。また、帝室御賞典は古馬にとって最高峰の競走として位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳馬[注 2]の競走とは明確に線引きされた[1][3][24][18]。
こうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の種牡馬を選別するための最高の能力検査でもあった[25]。また、天皇を頂点とした旧帝国時代の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとっても生涯の名誉となった[26][18]。
戦争の影響と天皇賞のはじまり
日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時中も、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた(後述)。だが、やがて戦局が悪化すると馬主にも多くの戦死者がでるようになり、競走馬の所有権問題が浮上した[27]。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券(勝馬投票券)の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は農商省賞典四歳(現:皐月賞)や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「能力検定競走」として競馬を行った[27]。帝室御賞典も1944年(昭和19年)春は施行場を京都競馬場に移し、皇室からの賞品下賜も辞退[27]し「能力検定競走」として非公開で行われた[1]が、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走も行われなくなった[28]。
終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された[29]。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点ではGHQによる皇室への処分等が確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた[29]。既に御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「平和賞」に変更して施行した[29][3]。
1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「天皇賞」に改めて施行された[30][3]。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典に遡り、「第16回天皇賞」とされた[3][注 3]。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬(農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ[31]。
現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方もある[32]。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている[30]。
国内古馬戦の最高峰
帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた[3]。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになっていて[33]、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走すれば概ね負担重量が60kg後半から70kg後半にまで跳ね上がった(現在中央競馬の平地競走では、60kg以上の負担重量で出走する例が極めて少なくなっている)。よって、馬にかかる負担を考慮すれば出走可能な競走は大きく限定されることになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年(昭和55年)まで「勝ち抜き制」があり、一度天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬は、以降の天皇賞(帝室御賞典)に出走することができなかった[33]。これは当時、天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬が再度出走して敗れるようなことがあれば、優勝馬の威厳を下げてしまうとされた[34]考え方に基いており、天皇賞(帝室御賞典)を勝つほどの優れた競走馬は、優勝馬としての威厳を保ちつつ早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた[33][注 4]。
多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる[注 5]。そのうえ、斤量も更に増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(昭和12年、第1回)から1955年(昭和30年、第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。
新たな目標を求めて
1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場に有馬記念が創設された[注 6]。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった[35]。
天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった[35]。有馬記念創設から2013年(平成25年)までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。
一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった[36]。1952年(昭和27年)にアメリカで創設された「ワシントンDC国際」がその代表格である[37][38]。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった[36]。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再出走が認められていなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬も現れた[36]。
有馬記念創設以降、1981年(昭和56年)までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭いる。そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで凱旋門賞に挑んだ[38]。しかしこれらの中から目標を達することができた馬はおらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった[38]。
ジャパンカップの創設
天皇賞を勝つほどの一流馬が外国で全く勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした[39]。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった[39]。
1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである[39][40]。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された[41]。
帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた[42]。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した[43]。第1回ジャパンカップでは、直前の天皇賞(秋)をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった[44]。
国際化と天皇賞(秋)の距離短縮
ジャパンカップの創設以前より、世界の各国からは外国籍の馬主が日本のレースに所有馬を出走させられなかったり、外国馬に対する出走制限を設けていたことなど、日本の競馬界に対する閉鎖性が指摘されるようになっていた。これらの指摘をうけ、日本中央競馬会はジャパンカップの創設以来「競馬の国際化」を視野に入れた多角的な活動を展開するようになった[45]。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合をも意味していた。
日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会は様々な施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「グレード制」もそのひとつである。当初のグレード制は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米でつくられた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった[46]。その後様々な開放策を実施した結果、2005年(平成17年)には天皇賞が春・秋ともに国際競走となり、外国調教馬の出走が可能になった[1]。さらに、2007年(平成19年)からは格付けの互換性も認められるようになった[47]。
そんな中、1983年(昭和58年)11月に日本中央競馬会は昭和59年度の競馬番組について、グレード制の導入(前述)などの大幅改革を発表[48]。この中に、天皇賞(秋)の施行距離を芝2000メートルに短縮することが盛り込まれていた。レースの性格を大きく変えることになるこの変更に対し、伝統的な3200メートルの距離を尊重する意見や東京競馬場(芝2000メートル)のコース形態に対する問題点を指摘する意見[注 7]テンプレート:Refnest、また第1回ジャパンカップで日本勢が外国勢に大敗したことを踏まえ、スタミナよりもスピードの強化を重視する意見など賛否両論があったものの、1984年(昭和59年)より天皇賞(秋)は施行距離が2000メートルに短縮された[1]。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格をもつようになった[1]。
競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した降着制度は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入された[48]が、この年の天皇賞(秋)で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、当該馬が圧倒的な単勝1番人気に推されていたことも相まって大きな話題になった[49]。
帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から廃止され、過去の優勝馬も再出走が可能になった[1]ほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(騙馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった[1]。また、1971年(昭和46年)から認められていなかった外国産馬の出走も2000年(平成12年)より可能になった[1]。
1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回)以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきた天皇賞だったが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳馬も出走が可能になった[1]。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった[50]。これにより様々なタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点の一つ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2014年(平成26年)現在もジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額の1着賞金が設定されている(後述)[6]。
国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉[1]」とされている。
御賞典と天皇楯
前述のとおり、天皇賞のルーツとなるMikado's VaseやThe Emperor's Cupなどでは、明治天皇から賞品が下賜されていた。これらは通常、貴金属としても美術品・工芸品としても価値が高いものであると同時に、「天皇から下賜された」という事実は金銭では贖えない栄誉を担うものだった。
明治天皇と御賞典(賞品)
明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を台覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や黄八丈、白絽の反物、白羽二重、美術品、工芸品などである[51]テンプレート:Refnest。
横浜競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。例えばロシア皇太子の名を冠した“Cesarewitch Giftという競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった[52]。横浜競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある[53]。1900年(明治33年)にはロシア全権公使ローゼン男爵がMirror号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている[53]。ほかにも上野へ「金象眼銅製馬」を下賜した記録がある[54]。なお、皇室以外からでも、横浜競馬の神奈川賞杯競走で神奈川県令が「青銅製酒杯」を賞賜している[55]。
天皇賞のルーツとされるThe Emperor's Cupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った日本レース倶楽部では“尊重の重宝”と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に池上競馬場で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1尺)、深さが約15センチ(5寸)の大銀鉢で、三本の脚がつき、菊花の文様が高彫されていたと伝わる[20]。以後も菊花御紋付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された[56]。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装(モーニングか国民服、軍服でも可)で臨むこととされていた[57]テンプレート:Refnestテンプレート:Refnest。
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1888年の横浜(根岸)競馬場メインスタンドと御下賜賞品のブロンズ花瓶
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1899年5月9日に明治天皇から下賜された白銀花瓶(菊花御紋付銀製花盛器)
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1908年の帝室御賞典で日本レースクラブに下賜された御紋付花盛器(横浜競馬場メインスタンド)
天皇楯
楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いたチャールズ2世は王政復古が成って戴冠すると、ニューマーケット競馬場を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town Plate、もしくはNewmarket Town Plate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身も騎手として優勝したことがある[58]。この競走は「King's Plate(女王の場合はQueen's Plate。Royal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である[58]テンプレート:Refnest。
明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した第一次世界大戦の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)には7月に盧溝橋事件、8月に上海事変が相次いで起きた。
その直後である1937年(昭和12年)9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とする、という通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった(前述)。そして皇室は、帝室御賞典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることとなる[59]。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の3200メートルに改められた[59]。
大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、日中戦争へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が戦争を始め、日本に対しても「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内では様々な物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯も同年春から優勝楯に改められた[56]。
新しい優勝楯の作成にあたり、宮内省は東京高等工芸学校教授の畑正吉にデザインを依頼[56]。これをもとに鋳物師の持田増次郎が金物を製作し、金メッキを施した2寸(約6センチ)もある菊の紋章と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「天皇楯」)となった[56][29]。この天皇楯が天皇賞を「盾」と通称する由縁である。
天皇楯の下賜も1944年(昭和19年)春の「能力検定競走」で下賜を辞退したことにより中断し、秋には帝室御賞典も中止となった。
戦後の天皇賞
戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した(前述)。その後、1947年(昭和22年)秋に予定していた“第2回平和賞”の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まった[29]が、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった[29]。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞テンプレート:Refnest」として施行された[29]。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている[1]。
現在でも優勝馬主は表彰式で天皇楯を受け取る際、白手袋を着用することが慣例になっている。
賞金
現在(春は第149回、秋は第148回)は春・秋ともに1着賞金が1億3200万円で、以下2着5300万円、3着3300万円、4着2000万円、5着1320万円[7][60]。
1937年(昭和12年)に帝室御賞典が年2回施行に集約されて以来、天皇賞は日本国内で有数の高額賞金競走である。優勝馬の馬主に与えられる御賞典(優勝杯、優勝楯)の金銭的価値を一切考慮に入れないとしても、長い間、1着賞金の額は中央競馬で行われる競走の中でも上位を保ち続けた。2014年(平成26年)現在も、日本国内で施行する競馬の競走としてはジャパンカップの2億5000万円、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の2億円に次いで高額な1着賞金が設定されている[6]テンプレート:Refnest。
- 用語の解説
- 付加賞 - 中央競馬のみにある制度で、特別登録料の総額を1着から3着までの馬に対し、7:2:1の割合で配分した賞金[61]。通常の入着賞金には含めない。
- 特別登録料 - 特別競走・重賞競走に出走するための事前エントリーである「特別登録(通常はレース1週間前の日曜日。GIや3歳クラシックではさらに早まる場合がある[7])」の際に徴収され、料額は競馬法で300万円以下と定められている[61]。中央競馬ではこの特別登録を経て、最終エントリーとなる「出馬投票(後述)」を行うことで出走申込手続きが完了する。
- 主要な高額賞金競走における1着賞金の変遷
- 表中の項目はJRAデータファイルより作成(1955年から2014年まで)。
- いずれも1着賞金のみ(付加賞・褒賞金など1着賞金に含めないものは除く)の比較。単位:万円
年 | 天皇賞 (帝室御賞典) |
東京優駿 | 有馬記念 | ジャパン カップ |
備考 |
---|---|---|---|---|---|
1937 | (1.0) | 1.0 | - | - | 天皇賞の賞金は副賞。本賞は御賞典(優勝杯) |
1938 | (1.5) | - | - | 4・5着にも賞金を出すようになる | |
1941 | - | - | 天皇賞の本賞が楯になる | ||
1954 | - | - | 天皇賞の副賞が本賞金に含まれるようになる | ||
1955 | 150 | 200 | - | - | |
1956 | 150 | 200 | 200 | - | 中山グランプリ(現・有馬記念)創設 |
1957 | 200 | 200 | 200 | - | 3競走が最高額で並ぶ |
1959 | 200 | 300 | 200 | - | 再び東京優駿が単独最高額に |
1960 | 300 | 500 | 300 | - | |
1965 | 800 | 1000 | 800 | - | |
1970 | 2000 | 2300 | 2000 | - | |
1973 | 3400 | 3600 | 3400 | - | |
1974 | 4000 | 4000 | 4000 | - | 3競走が最高額で並ぶ |
1975 | 4600 | 4600 | 4600 | - | |
1980 | 6000 | 6000 | 6000 | - | |
1984 | 7500 | 7500 | 7500 | 7500 | ジャパンカップは1981年創設 |
1985 | 7800 | 7800 | 7800 | 7800 | |
1990 | 11100 | 11100 | 11100 | 11100 | |
1995 | 13200 | 13200 | 13200 | 13200 | |
2000 | 13200 | 13200 | 13200 | 13200 | |
2001 | 13200 | 15000 | 18000 | 25000 | ジャパンカップが単独で最高賞金に |
2005 | 13200 | 15000 | 18000 | 25000 | |
2009[62] | 13200 | 15000 | 18000 | 25000 | |
2010[63] | 13200 | 15000 | 18000 | 25000 | |
2011[64] | 13200 | 15000 | 20000 | 25000 | |
2012[65] | 13200 | 15000 | 20000 | 25000 | |
2013[66] | 13200 | 20000 | 20000 | 25000 | |
2014[6] | 13200 | 20000 | 20000 | 25000 |
第1回(1937年秋の帝室御賞典)の1着馬には「本賞」として御賞典(優勝杯)、「副賞」として賞金1万円が与えられた。この賞金額は、当時国内の競走としては東京優駿(日本ダービー)の1着本賞1万円、横浜農林省賞典四・五歳呼馬(1943年で廃止)の1着本賞1万円と並び最高額だった。第1回は3着馬までにのみ賞金を与えていたが、翌年から帝室御賞典など国内主要18競走に限り、4・5着馬にも賞金を与えるよう変更された。1954年(昭和29年)からは天皇賞の1着馬に与える副賞金も「本賞」に含めることになった[67]。
1955年(昭和30年)当時、国内の1着最高賞金は東京優駿(日本ダービー)の200万円で、天皇賞の150万円がこれに次いでいた。1956年(昭和31年)に有馬記念(中山グランプリ)が創設され、1着賞金は東京優駿(日本ダービー)と同じく200万円とされた。翌1957年(昭和32年)には天皇賞の賞金も200万円に引き上げられ、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念の4競走が国内最高額の競走となった。
1959年(昭和34年)には東京優駿(日本ダービー)の賞金が300万円に増額され再び「国内最高賞金」となり、天皇賞と有馬記念は東京優駿に次いで2番目の高額賞金競走となった。その後、各競走の賞金は年々増加を続けるが、東京優駿が1位、天皇賞と有馬記念が同額で2位という序列が1973年(昭和48年)まで続いた。
1974年(昭和49年)、天皇賞・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の賞金が同額になった。これ以降も賞金は伸び続けるが、これらの1着賞金は同額とされた。1981年(昭和56年)にジャパンカップが新設され、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念を含めた5競走が日本では最高賞金の競走になった。1990年代に入ると賞金が1億円を超えるようになり、1995年(平成7年)には5競走ともに1着賞金が1億3200万円となった[注 8]。
2001年(平成13年)よりジャパンカップの1着賞金が2億5000万円と大幅に引き上げられテンプレート:Refnest、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念も1着賞金が加増されたが、天皇賞の1着賞金は春・秋とも据え置かれたまま現在に至っている。
天覧競馬
2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、今上天皇・皇后が東京競馬場に来場し天皇賞を観戦した。当初は前年の2004年(平成16年)に予定されていたが、施行日の8日前に発生した新潟県中越地震の被害に配慮して取り止めとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)も1899年(明治32年)以来106年ぶりとなった[68]。競走前に天皇・皇后は場内の競馬博物館で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞[68]。競走後に優勝騎手の松永幹夫が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。
2012年(平成24年)の第146回天皇賞(秋)では「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。この際、優勝騎手のミルコ・デムーロはコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止する規則テンプレート:Refnestに抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった[69]。
なお、今上天皇・皇后は皇太子・皇太子妃だった1987年(昭和62年)にも、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞(秋)を台覧している[48]。
各競走の概説
春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。
同一の競走名で1年に複数回施行する競走は、現在の中央競馬で本競走のみである[注 9]。
天皇賞(春)
概要
4歳以上の馬(外国産馬・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1939年(昭和14年)以来3200メートルで変わっておらず、現存する中央競馬の平地GI競走では最長距離[注 10]。
2008年(平成20年)よりメルボルンカップ(テンプレート:Flagicon オーストラリア、GI)の前年度優勝馬[注 11]を招待するようになり[注 12]、本競走の優勝馬にも同年のメルボルンカップへの優先出走権が与えられる。
正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは天皇賞(秋)の距離が短縮された1984年(昭和59年)から「天皇賞(春)」と表記している[1]。
正賞は天皇賞、日本馬主協会連合会会長賞。
世界の中の天皇賞(春)
世界の競馬開催国は国際セリ名簿基準委員会によってパート1からパート4までランク分け[70]されており、主要な競走は国際的な統一判断基準で評価が行われている。
2014年(平成26年)現在、日本を含め最高のパート1に分類されている国・地域のうち、3000メートル級のG1競走を行っているのは、
- 日本 - 天皇賞(春):3200メートル、菊花賞:3000メートル
- イギリス - ゴールドカップ:約4000メートル、セントレジャー:約2920メートル
- フランス - ロワイヤルオーク賞:3100メートル、カドラン賞:4000メートル
- オーストラリア - メルボルンカップ・シドニーカップ:3200メートル
- ニュージーランド - オークランドカップ:3200メートル
以上の5カ国だけである[70] テンプレート:Refnest。 天皇賞(春)はこの分類で、ゴールドカップ・カドラン賞に続く世界で3番目の長距離戦に該当し、優勝馬を招待しているメルボルンカップとは同じ距離である。
競馬の競走における距離別の区分法として定着しているSMILE区分によると、天皇賞(春)は2701メートル以上の「Extended(超長距離)」部門に分類される。国際競馬統括機関連盟(IFHA)による、2011年(平成23年)から2013年(平成25年)の結果を基準にした2014年(平成26年)現在の世界の主要競走ランキングによると、Extended(超長距離)部門から上位50競走にランキングされている競走はメルボルンカップ(43位、118.08点)とセントレジャー(48位、117.83点)の2つだけで、天皇賞(春)(115点)は上位50位以内にランキングされていない[71][注 13]。
単年度の競走馬ランキングでは、2013年(平成25年)の天皇賞(春)1 - 3着馬が世界の競走馬ランキング(超長距離部門・2013年)で上位3頭を占めた。ただし、Extended部門で首位の馬は、全体の38位にとどまっている[72]。
競走条件
以下の内容は、2014年(平成26年、第149回)終了時現在のもの[7]。
出走資格
- JRA所属馬
- 地方所属馬(優先出走権を得た馬のみ)
- 外国調教馬(JRA所属の外国産馬とあわせて最大9頭まで)
出馬投票を行った馬のうち、以下の優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI・JpnI競走における収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。出馬投票締切の結果、出走申込頭数が出走可能頭数を超えた場合は、別に定めた方法または抽選で出走馬を決定する[73]。
- 用語の解説
- 出馬投票 - レースに出走するための最終的な申込みのこと。中央競馬では通常、レース2日前の15時に締め切られる[74]。
- 出走可能頭数 - 施行コース・距離に応じて各競馬場ごとに定められており、これを超える頭数での競走は施行できない。「フルゲート」とも呼ばれる[75]。
- 収得賞金 - 競走馬の格付け(クラス分け)に使われる賞金額。競走馬がレースで得た本賞金をもとに、別途定められたルールに基いて算出される[76]。デビューからの収得賞金を全て加算したものを、「通算収得賞金」と呼んでいる。
- レーティング - 競走馬の能力を示す客観的な指標で、「ポンド」の単位で表される。着差・負担重量・過去の勝馬との比較などをもとに、国際的に統一された基準で数値化されている[77][78]。
優先出走権を得られる条件
- 出馬投票を行っている外国調教馬
- レーティング順位の上位5頭[注 14]
- 当該年に行われる以下の競走のいずれかで1着となった馬(中央・地方の所属は問わない)[73]
- 当該年に行われる以下の競走のいずれかで2着以内に入着した地方競馬所属馬[73]
競走名 | 格付 | 施行競馬場 | 施行距離 |
---|---|---|---|
阪神大賞典 | テンプレート:Color | テンプレート:Flagicon阪神競馬場 | 芝3000m |
日経賞 | テンプレート:Color | テンプレート:Flagicon中山競馬場 | 芝2500m |
大阪杯 | テンプレート:Color | テンプレート:Flagicon阪神競馬場 | 芝2000m |
負担重量
定量(58kg、牝馬2kg減[7])
コース
京都競馬場の芝コース、外回り3200メートルを使用[79][80][7]。
スタート地点は観客席からみて向正面で、約1周半する。途中、第3コーナーから第4コーナーにかけて“淀の坂”と称される坂の上り下りがあり、天皇賞(春)ではこの坂を2度通過するため、「京都競馬場の難所」とされる[79][81]。
1周目はスタート直後から100メートル進む間に約2.1メートル上る急坂となる。その後も緩やかに280メートルかけて約1.8メートルを上る。第3コーナーが坂の頂上にあたり、第4コーナーまで3.5メートルを下る[80]。第4コーナーを回って直線に入るまで0.8メートルほどの下り勾配がある[80][79]。
2周目の第4コーナーを回り終えると最後の直線で、ゴールまでは残り約400メートルとなる[79]。
年表
- 1938年(昭和13年) - 「帝室御賞典」を再編し年2回の施行に改め、春の競走を阪神競馬場(旧鳴尾競馬場テンプレート:Refnest)で施行。
- 1939年(昭和14年)
- 施行距離を3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上牡馬・牝馬に変更。
- 負担重量を「馬齢重量」から「定量」に変更(負担重量は5歳(現4歳)は58キロ、6歳(現5歳)以上は60キロ、牝馬1.5キロ減に設定)[1]。
- 1944年(昭和19年) - 「能力検定競走」として、京都競馬場の芝3200メートルで施行[1]。以後、京都競馬場での施行が定着。
- 1945年(昭和20年) - 太平洋戦争の影響で中止[1]。
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 1953年(昭和28年) - 6歳(現5歳)以上の負担重量を5歳(現4歳)と同じく、牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更[1]。
- 1972年(昭和47年) - 外国産馬が出走できなくなる。
- 1981年(昭和56年) - 勝ち抜き制を廃止[1]。
- 1984年(昭和59年) - グレード制導入、GIに格付け。
- 1995年(平成7年) - 指定交流競走となり、地方所属馬も出走が可能に[1]。
- 2000年(平成12年) - 外国産馬が2頭まで出走可能に[1]。
- 2001年(平成13年) - 馬齢表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「5歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上牡馬・牝馬」に変更。
- 2005年(平成17年)
- 国際競走となり、外国調教馬が5頭まで出走可能に[1]。
- 2007年(平成19年) - 外国調教馬の出走枠を9頭に拡大[1]。
- 2008年(平成20年)
- 出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上」に変更[1]。
- 前年度メルボルンカップ優勝馬の招待を制度化。
- 2012年(平成24年)
- 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行[1]。
- レーティング上位5頭に優先出走を認める。
- 2014年(平成26年) - トライアル制を確立し、指定した競走の1着馬に優先出走権を付与。
天皇賞(春)歴代優勝馬
- 国際競走となった2005年(平成17年)以降は優勝馬の国旗を表記する。
- 競走名は第14回まで「帝室御賞典[1]」、第15回は「平和賞」、第17回以降は「天皇賞」。
回数 | 施行日 | 競馬場 | 距離 | 調教国・優勝馬 | 性齢 | 勝時計 | 優勝騎手 | 管理調教師 | 馬主 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第2回 | 1938年5月15日 | 阪神 | 2700m[注 15] | ハセパーク | 牡5 | 2:53 1/5 | 金者斤奉 | 門倉恒雄 | |
第4回 | 1939年5月14日 | 阪神 | 3200m[注 16] | スゲヌマ | 牡4 | 3:31 0/5 | 伊藤正四郎 | 小山内重蔵 | 千明賢治 |
第6回 | 1940年5月19日 | 阪神 | 芝3200m | トキノチカラ | 牡4 | 3:25 2/5 | 岩下密政 | 田中和一郎 | 菊池寛 |
第8回 | 1941年4月27日 | 阪神 | 芝3200m | マルタケ | 牡5 | 3:25 4/5 | 清水茂次 | 榎壽逸 | |
第10回 | 1942年4月19日 | 阪神 | 芝3200m | ミナミモア | 牡4 | 3:25 1/5 | 佐藤邦雄 | 東原玉造 | 池得次 |
第12回 | 1943年4月11日 | 阪神 | 芝3200m | グランドライト | 牡4 | 3:28 1/5 | 阿部正太郎 | 田中和一郎 | 加藤雄策 |
第14回 | 1944年5月28日 | 京都 | 芝3200m | ヒロサクラ | 牡4 | 3:29 0/5 | 渋川久作 | 鶴丸広太郎 | |
第15回 | 1947年5月11日 | 京都 | 芝3200m | オーライト | 牡4 | 3:34 1/5 | 元石正雄 | 伊藤勝吉 | 伊藤由五郎 |
第17回 | 1948年5月16日 | 京都 | 芝3200m | シーマー | 牡4 | 3:25 3/5 | 長浜彦三郎 | 新堂捨蔵 | 島田幸次郎 |
第19回 | 1949年4月29日 | 京都 | 芝3200m | ミハルオー | 牡4 | 3:26 3/5 | 土門健司 | 久保田金造 | 石川了吉 |
第21回 | 1950年6月4日 | 京都 | 芝3200m | オーエンス | 牡4 | 3:34 3/5 | 土門健司 | 松田由太郎 | 桶谷辰造 |
第23回 | 1951年5月5日 | 京都 | 芝3200m | タカクラヤマ | 牡4 | 3:24 3/5 | 橋田俊三 | 伊藤正四郎 | 平島五郎 |
第25回 | 1952年5月3日 | 京都 | 芝3200m | ミツハタ | 牡4 | 3:23 1/5 | 渡辺正人 | 矢野幸夫 | 河野信一 |
第27回 | 1953年5月5日 | 京都 | 芝3200m | レダ | 牝4 | 3:24 2/5 | 佐藤勇 | 武田文吾 | 熊谷新太郎 |
第29回 | 1954年5月16日 | 京都 | 芝3200m | ハクリヨウ | 牡4 | 3:24 2/5 | 保田隆芳 | 尾形藤吉 | 西博 |
第31回 | 1955年4月29日 | 京都 | 芝3200m | タカオー | 牡4 | 3:22 3/5 | 古山良司 | 上村大治郎 | 高須銀次郎[主 1] |
第33回 | 1956年4月15日 | 京都 | 芝3200m | メイヂヒカリ | 牡4 | 3:22 3/5 | 蛯名武五郎 | 藤本冨良 | 新田松江[主 2] |
第35回 | 1957年4月29日 | 京都 | 芝3200m | キタノオー | 牡4 | 3:21 3/5 | 勝尾竹男 | 久保田金造 | 田中留治[主 3] |
第37回 | 1958年4月29日 | 京都 | 芝3200m | オンワードゼア | 牡4 | 3:23 4/5 | 野平好男 | 二本柳俊夫 | 樫山純三[主 4] |
第39回 | 1959年4月29日 | 京都 | 芝3200m | トサオー | 牡4 | 3:23 1/5 | 野平祐二 | 松山吉三郎 | 溝本儀三男[主 5] |
第41回 | 1960年4月29日 | 京都 | 芝3200m | クリペロ | 牡5 | 3:25.0 | 保田隆芳 | 尾形藤吉 | 栗林友二[主 6] |
第43回 | 1961年4月29日 | 京都 | 芝3200m | ヤマニンモアー | 牡4 | 3:22.6 | 浅見国一 | 藤本冨良 | 土井宏二 |
第45回 | 1962年4月29日 | 京都 | 芝3200m | オンスロート | 牡5 | 3:27.6 | 山岡忞 | 中村広 | 田村喜志 |
第47回 | 1963年4月29日 | 京都 | 芝3200m | コレヒサ | 牡4 | 3:22.5 | 森安重勝 | 尾形藤吉 | 千明康 |
第49回 | 1964年4月29日 | 京都 | 芝3200m | ヒカルポーラ | 牡5 | 3:26.8 | 高橋成忠 | 佐藤勇 | 坪田喜之助 |
第51回 | 1965年4月29日 | 阪神 | 芝3200m | アサホコ | 牡5 | 3:27.1 | 加賀武見 | 藤本冨良 | 手塚栄一 |
第53回 | 1966年4月29日 | 京都 | 芝3200m | ハクズイコウ | 牡5 | 3:19.4 | 保田隆芳 | 尾形藤吉 | 西博 |
第55回 | 1967年4月29日 | 京都 | 芝3200m | スピードシンボリ | 牡4 | 3:24.2 | 野平祐二 | 野平省三 | 和田共弘 |
第57回 | 1968年4月29日 | 京都 | 芝3200m | ヒカルタカイ | 牡4 | 3:24.6 | 野平祐二 | 藤本冨良 | 長山善健 |
第59回 | 1969年4月29日 | 京都 | 芝3200m | タケシバオー | 牡4 | 3:29.1 | 古山良司 | 三井末太郎 | 小畑正雄 |
第61回 | 1970年4月29日 | 阪神 | 芝3200m | リキエイカン | 牡4 | 3:25.8 | 高橋成忠 | 柏谷富衛 | 水上力夫 |
第63回 | 1971年4月29日 | 京都 | 芝3200m | メジロムサシ | 牡4 | 3:33.5 | 横山富雄 | 大久保末吉 | メジロ商事(株) |
第65回 | 1972年5月7日 | 京都 | 芝3200m | ベルワイド | 牡4 | 3:20.4 | 加賀武見 | 阿部正太郎 | 鈴木賢一 |
第67回 | 1973年4月29日 | 京都 | 芝3200m | タイテエム | 牡4 | 3:25.0 | 須貝彦三 | 橋田俊三 | (有)名鯛興業 |
第69回 | 1974年5月5日 | 京都 | 芝3200m | タケホープ | 牡4 | 3:22.6 | 嶋田功 | 稲葉幸夫 | 近藤たけ |
第71回 | 1975年4月29日 | 京都 | 芝3200m | イチフジイサミ | 牡5 | 3:22.1 | 郷原洋行 | 松永光雄 | 保坂勇 |
第73回 | 1976年4月29日 | 京都 | 芝3200m | エリモジョージ | 牡4 | 3:27.4 | 福永洋一 | 大久保正陽 | 山本慎一 |
第75回 | 1977年4月29日 | 京都 | 芝3200m | テンポイント | 牡4 | 3:21.7 | 鹿戸明 | 小川佐助 | 高田久成 |
第77回 | 1978年4月29日 | 京都 | 芝3200m | グリーングラス | 牡5 | 3:20.8 | 岡部幸雄 | 中野隆良 | 半沢吉四郎 |
第79回 | 1979年4月29日 | 京都 | 芝3200m | カシュウチカラ | 牡6 | 3:20.2 | 郷原洋行 | 矢倉玉男 | 吉田権三郎 |
第81回 | 1980年4月29日 | 阪神 | 芝3200m | ニチドウタロー | 牡4 | 3:18.7 | 村本善之 | 坂田正行 | 山田敏夫 |
第83回 | 1981年4月29日 | 京都 | 芝3200m | カツラノハイセイコ | 牡5 | 3:20.6 | 河内洋 | 庄野穂積 | 桂土地(株) |
第85回 | 1982年4月29日 | 京都 | 芝3200m | モンテプリンス | 牡5 | 3:19.2 | 吉永正人 | 松山吉三郎 | 毛利喜八 |
第87回 | 1983年4月29日 | 京都 | 芝3200m | アンバーシャダイ | 牡6 | 3:22.3 | 加藤和宏 | 二本柳俊夫 | 吉田善哉 |
第89回 | 1984年4月29日 | 京都 | 芝3200m | モンテファスト | 牡6 | 3:22.3 | 吉永正人 | 松山吉三郎 | 毛利喜八 |
第91回 | 1985年4月29日 | 京都 | 芝3200m | シンボリルドルフ | 牡4 | 3:20.4 | 岡部幸雄 | 野平祐二 | 和田農林(有) |
第93回 | 1986年4月29日 | 京都 | 芝3200m | クシロキング | 牡4 | 3:25.4 | 岡部幸雄 | 中野隆良 | 阿部昭 |
第95回 | 1987年4月29日 | 京都 | 芝3200m | ミホシンザン | 牡5 | 3:20.4 | 柴田政人 | 田中朋次郎 | 堤勘時 |
第97回 | 1988年4月29日 | 京都 | 芝3200m | タマモクロス | 牡4 | 3:21.8 | 南井克巳 | 小原伊佐美 | タマモ(株) |
第99回 | 1989年4月29日 | 京都 | 芝3200m | イナリワン | 牡5 | 3:18.8 | 武豊 | 鈴木清 | 保手浜弘規 |
第101回 | 1990年4月29日 | 京都 | 芝3200m | スーパークリーク | 牡5 | 3:21.9 | 武豊 | 伊藤修司 | 木倉誠 |
第103回 | 1991年4月28日 | 京都 | 芝3200m | メジロマックイーン | 牡4 | 3:18.8 | 武豊 | 池江泰郎 | メジロ商事(株) |
第105回 | 1992年4月26日 | 京都 | 芝3200m | メジロマックイーン | 牡5 | 3:20.0 | 武豊 | 池江泰郎 | メジロ商事(株) |
第107回 | 1993年4月25日 | 京都 | 芝3200m | ライスシャワー | 牡4 | 3:17.1 | 的場均 | 飯塚好次 | 栗林英雄 |
第109回 | 1994年4月24日 | 阪神 | 芝3200m | ビワハヤヒデ | 牡4 | 3:22.6 | 岡部幸雄 | 浜田光正 | (有)ビワ |
第111回 | 1995年4月23日 | 京都 | 芝3200m | ライスシャワー | 牡6 | 3:19.9 | 的場均 | 飯塚好次 | 栗林英雄 |
第113回 | 1996年4月21日 | 京都 | 芝3200m | サクラローレル | 牡5 | 3:17.8 | 横山典弘 | 境勝太郎 | (株)さくらコマース |
第115回 | 1997年4月27日 | 京都 | 芝3200m | マヤノトップガン | 牡5 | 3:14.4 | 田原成貴 | 坂口正大 | 田所祐 |
第117回 | 1998年5月3日 | 京都 | 芝3200m | メジロブライト | 牡4 | 3:23.6 | 河内洋 | 浅見秀一 | (有)メジロ牧場 |
第119回 | 1999年5月2日 | 京都 | 芝3200m | スペシャルウィーク | 牡4 | 3:15.3 | 武豊 | 白井寿昭 | 臼田浩義 |
第121回 | 2000年4月30日 | 京都 | 芝3200m | テイエムオペラオー | 牡4 | 3:17.6 | 和田竜二 | 岩元市三 | 竹園正繼 |
第123回 | 2001年4月29日 | 京都 | 芝3200m | テイエムオペラオー | 牡5 | 3:16.2 | 和田竜二 | 岩元市三 | 竹園正繼 |
第125回 | 2002年4月28日 | 京都 | 芝3200m | マンハッタンカフェ | 牡4 | 3:19.5 | 蛯名正義 | 小島太 | 西川清 |
第127回 | 2003年5月4日 | 京都 | 芝3200m | ヒシミラクル | 牡4 | 3:17.0 | 角田晃一 | 佐山優 | 阿部雅一郎 |
第129回 | 2004年5月2日 | 京都 | 芝3200m | イングランディーレ | 牡5 | 3:18.4 | 横山典弘 | 清水美波 | 吉田千津 |
第131回 | 2005年5月1日 | 京都 | 芝3200m | テンプレート:Flagiconスズカマンボ | 牡4 | 3:16.5 | 安藤勝己 | 橋田満 | 永井啓弐 |
第133回 | 2006年4月30日 | 京都 | 芝3200m | テンプレート:Flagiconディープインパクト | 牡4 | 3:13.4 | 武豊 | 池江泰郎 | 金子真人ホールディングス(株) |
第135回 | 2007年4月29日 | 京都 | 芝3200m | テンプレート:Flagiconメイショウサムソン | 牡4 | 3:14.1 | 石橋守 | 高橋成忠 | 松本好雄 |
第137回 | 2008年5月4日 | 京都 | 芝3200m | テンプレート:Flagiconアドマイヤジュピタ | 牡5 | 3:15.1 | 岩田康誠 | 友道康夫 | 近藤利一 |
第139回 | 2009年5月3日 | 京都 | 芝3200m | テンプレート:Flagiconマイネルキッツ | 牡6 | 3:14.4 | 松岡正海 | 国枝栄 | (株)サラブレッドクラブ・ラフィアン |
第141回 | 2010年5月2日 | 京都 | 芝3200m | テンプレート:Flagiconジャガーメイル | 牡6 | 3:15.7 | C.ウィリアムズ | 堀宣行 | 吉田和美 |
第143回 | 2011年5月1日 | 京都 | 芝3200m | テンプレート:Flagiconヒルノダムール | 牡4 | 3:20.6 | 藤田伸二 | 昆貢 | 蛭川正文 |
第145回 | 2012年4月29日 | 京都 | 芝3200m | テンプレート:Flagiconビートブラック | 牡5 | 3:13.8 | 石橋脩 | 中村均 | 前田幸治 |
第147回 | 2013年4月28日 | 京都 | 芝3200m | テンプレート:Flagiconフェノーメノ | 牡4 | 3:14.2 | 蛯名正義 | 戸田博文 | (有)サンデーレーシング |
第149回 | 2014年5月4日 | 京都 | 芝3200m | テンプレート:Flagiconフェノーメノ | 牡5 | 3:15.1 | 蛯名正義 | 戸田博文 | (有)サンデーレーシング |
天皇賞(秋)
概要
3歳以上の馬(外国産馬・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1938年(昭和13年)から1983年(昭和58年)まで、春と同様に芝3200メートル。1984年(昭和59年)から芝2000メートルに短縮された。距離変更には賛否両論があった[82]が、短縮後は中距離の最強馬決定戦として位置付けられた[1]。施行時期も長年11月下旬で定着していたが、1981年(昭和56年)から10月下旬 - 11月初旬に繰り上げられた。
2000年(平成12年)よりジャパンカップ・有馬記念とともに「秋の古馬三冠競走」とされ、同一年に行われる3競走を全て優勝した馬に褒賞金が贈られるようになった。
正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは施行距離が短縮された1984年(昭和59年)以降「天皇賞(秋)」と表記している[1]。
正賞は天皇賞、日本馬主協会連合会会長賞。
世界の中の天皇賞(秋)
天皇賞(春)と同様に、天皇賞(秋)も国際的な統一判断基準で評価が行われている。国際競馬統括機関連盟(IFHA)による、2011年(平成23年)から2013年(平成25年)の結果を基準にした2014年(平成26年)現在の評価で、天皇賞(秋)は世界で20番目にレベルの高い競走とされている[71][注 17]。このランキングによると、芝中距離(1900 - 2000メートル[注 18])のGI競走としては世界で7位(日本では1位)とされている[71]。
競走条件
以下の内容は、2013年(平成25年、第148回)終了時現在のもの[60]。
出走資格
3歳以上のサラ系競走馬[60](出走可能頭数:最大18頭[75])
- JRA所属馬
- 地方所属馬(優先出走権を得た馬のみ)
- 外国調教馬(JRA所属の外国産馬とあわせて最大9頭まで)
出馬投票を行った馬のうち、以下の優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI・JpnI競走における収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。出馬投票締切の結果、出走申込頭数が出走可能頭数を超えた場合は、別に定めた方法または抽選で出走馬を決定する[83]。
優先出走権を得られる条件
競走名 | 格付 | 施行競馬場 | 施行距離 |
---|---|---|---|
オールカマー | テンプレート:Color | テンプレート:Flagicon中山競馬場 | 芝・外2200m |
毎日王冠 | テンプレート:Color | テンプレート:Flagicon東京競馬場 | 芝1800m |
京都大賞典 | テンプレート:Color | テンプレート:Flagicon京都競馬場 | 芝・外2400m |
負担重量
定量(3歳56kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減[60])
3歳馬は負担重量が軽減されており、4歳以上の馬に比べ重量面で優遇されている。
コース
スタート位置は第1コーナーの奥に設けられた「ポケット地点」と呼ばれる。スタートから120メートルほどで第2コーナーにかかり[84]、第2コーナーから向正面にかけての700メートルは落差2メートルの緩やかな下り勾配となる[84][85]。その後、向正面の半ばから約1.5メートルの急な上り坂になる[84][85]。これを上りきるとまもなく第3コーナーに入り、カーブを回りながら約1.8メートル下る[84][85]。第4コーナーからは上り勾配に転じ、直線に入る[84][85]。ゴールまでの直線は約525メートルで、JRAの競馬場では新潟競馬場(外回り:658.7m)に次いで2番目に長い[86][84][85]。直線の中ほどにも高さ2メートルの長い上り坂があり、坂を登り切った後もゴールまで約250メートルの平坦路がある[84][85]。
スタートから最初のカーブまでが短く[注 20]、序盤から前へ行きたい馬が外側の枠に入った場合、スタートからすぐに先行できなければ、カーブで大きく外を回ることになり、距離を余計に走ることになるため、スタート直後の先行争いがひとつの見どころとなる[85][注 21]。
年表
- 1937年(昭和12年) - 「帝室御賞典」を再編し年2回の施行に改め、秋の競走を東京競馬場で施行。
- 1938年(昭和13年) - 施行距離を芝3200メートルに、出走条件を5歳(現4歳)以上に変更[1]。
- 1944年(昭和19年) - 太平洋戦争の影響で中止[1]。
- 1947年(昭和22年) - 名称を「天皇賞」に変更[1]。
- 1971年(昭和46年) - 外国産馬が出走できなくなる。
- 1981年(昭和56年) - 勝ち抜き制を廃止[1]。
- 1984年(昭和59年)
- グレード制導入、GIに格付け。
- 施行距離を芝2000メートルに変更[1]。
- 1987年(昭和62年)
- 1995年(平成7年) - 指定交流競走となり、地方競馬所属馬も出走が可能に[1]。
- 2000年(平成12年) - 外国産馬が2頭まで出走可能に[1]。
- 2001年(平成13年) - 馬齢表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上牡馬・牝馬」に変更。
- 2004年(平成16年) - 「日本中央競馬会創立50周年記念」の副称を付けて施行[1]。
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年) - 「悠仁親王殿下御誕生慶祝」の副称を付けて施行[1]。
- 2008年(平成20年) - 出走条件を「3歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上」に変更[1]。
- 2012年(平成24年)
- 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行[1]。
- 出走馬選定方法を変更、レーティング上位5頭に優先出走を認める。
- 天皇・皇后が臨席、天皇賞史上2回目の天覧競馬。
天皇賞(秋)歴代優勝馬
- 国際競走となった2005年(平成17年)以降は優勝馬の国旗を表記する。
- 競走名は第13回まで「帝室御賞典」[1]、第16回以降は「天皇賞」。
回数 | 施行日 | 競馬場 | 距離 | 調教国・優勝馬 | 性齢 | 勝時計 | 優勝騎手 | 管理調教師 | 馬主 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第1回 | 1937年12月3日 | 東京 | 芝2600m | ハツピーマイト | 牡3 | 2:48 1/5 | 新井朋次郎 | 秋山辰治 | 竹中久蔵 |
第3回 | 1938年11月3日 | 東京 | 芝3200m | ヒサトモ | 牝4 | 3:35 2/5 | 中島時一 | 宮崎信太郎 | |
第5回 | 1939年11月3日 | 東京 | 芝3200m | テツモン | 牡4 | 3:24 4/5 | 保田隆芳 | 尾形景造 | 松山隆郎 |
第7回 | 1940年11月17日 | 東京 | 芝3200m | ロツキーモアー | 牡4 | 3:27 1/5 | 小西喜蔵 | 田中和一郎 | 真藤慎太郎 |
第9回 | 1941年11月2日 | 東京 | 芝3200m | エステイツ | 牡4 | 3:24 3/5 | 田中康三 | 尾形景造 | 川内安忠 |
第11回 | 1942年11月1日 | 東京 | 芝3200m | ニパトア | 牝4 | 3:34 4/5 | 新屋幸吉 | 清水茂次 | 山本文吾 |
第13回 | 1943年11月7日 | 東京 | 芝3200m | クリヒカリ | 牡4 | 3:26 3/5 | 小西喜蔵 | 田中和一郎 | 栗林友二 |
第16回 | 1947年10月17日 | 東京 | 芝3200m | トヨウメ | 牡4 | 3:44 2/5 | 小林善衛 | 鈴木信太郎 | 中村正行 |
第18回 | 1948年11月23日 | 東京 | 芝3200m | カツフジ | 牡5 | 3:30 0/5 | 近藤武夫 | 伊藤勝吉 | 伊藤由五郎 |
第20回 | 1949年11月3日 | 東京 | 芝3200m | ニユーフオード | 牡4 | 3:25 1/5 | 保田隆芳 | 小川佐助 | 吉木三郎 |
第22回 | 1950年11月3日 | 東京 | 芝3200m | ヤシマドオター | 牝4 | 3:28 0/5 | 保田隆芳 | 尾形藤吉 | 小林庄平 |
第24回 | 1951年11月11日 | 東京 | 芝3200m | ハタカゼ | 牡4 | 3:24 0/5 | 保田隆芳 | 尾形藤吉 | 癸生川善松 |
第26回 | 1952年11月16日 | 東京 | 芝3200m | トラツクオー | 牡4 | 3:24 4/5 | 小林稔 | 久保田金造 | 岩本政一 |
第28回 | 1953年11月15日 | 東京 | 芝3200m | クインナルビー | 牝4 | 3:23 0/5 | 境勝太郎 | 石門虎吉 | 高橋虎男 |
第30回 | 1954年11月21日 | 東京 | 芝3200m | オパールオーキツト | 牝4 | 3:33 2/5 | 中村広 | 稲葉幸夫 | 三坂成行[主 7] |
第32回 | 1955年11月20日 | 東京 | 芝3200m | ダイナナホウシユウ | 牡4 | 3:24 4/5 | 上田三千夫 | 上田武司 | 上田清次郎[主 8] |
第34回 | 1956年11月25日 | 東京 | 芝3200m | ミツドフアーム | 牡5 | 3:22 3/5 | 保田隆芳 | 尾形藤吉 | 草柳留三[主 9] |
第36回 | 1957年11月23日 | 東京 | 芝3200m | ハクチカラ | 牡4 | 3:29 3/5 | 保田隆芳 | 尾形藤吉 | 西博[主 10] |
第38回 | 1958年11月23日 | 東京 | 芝3200m | セルローズ | 牝4 | 3:24 4/5 | 石毛善衛 | 柴田恒治郎 | 戸谷佐治[主 11] |
第40回 | 1959年11月23日 | 東京 | 芝3200m | ガーネツト | 牝4 | 3:24.5 | 伊藤竹男 | 稗田敏男 | 畑江五郎[主 12] |
第42回 | 1960年11月23日 | 東京 | 芝3200m | オーテモン | 牡5 | 3:27.1 | 野平好男 | 田中和夫 | 永田雅一[主 13] |
第44回 | 1961年11月23日 | 東京 | 芝3200m | タカマガハラ | 牡4 | 3.25.8 | 加賀武見 | 小西喜蔵 | 平井太郎 |
第46回 | 1962年11月23日 | 東京 | 芝3200m | クリヒデ | 牝4 | 3:27.4 | 森安弘明 | 大久保房松 | 栗林友二 |
第48回 | 1963年11月23日 | 東京 | 芝3200m | リユウフオーレル | 牡4 | 3:22.7 | 宮本悳 | 橋本正晴 | 三好笑子 |
第50回 | 1964年11月23日 | 東京 | 芝3200m | ヤマトキヨウダイ | 牡4 | 3:21.7 | 梶与四松 | 稲葉幸夫 | 門井みち |
第52回 | 1965年11月23日 | 東京 | 芝3200m | シンザン | 牡4 | 3:22.7 | 栗田勝 | 武田文吾 | 橋元幸吉 |
第54回 | 1966年11月3日 | 東京 | 芝3200m | コレヒデ | 牡4 | 3:24.2 | 保田隆芳 | 尾形藤吉 | 千明康 |
第56回 | 1967年11月23日 | 中山 | 芝3200m | カブトシロー | 牡5 | 3:25.5 | 久保田秀次郎 | 久保田彦之 | (有)志賀 |
第58回 | 1968年11月23日 | 東京 | 芝3200m | ニットエイト | 牡4 | 3:20.3 | 森安弘明 | 矢倉玉男 | 太田和芳郎 |
第60回 | 1969年11月30日 | 東京 | 芝3200m | メジロタイヨウ | 牡5 | 3:33.0 | 横山富雄 | 八木沢勝美 | 北野豊吉 |
第62回 | 1970年11月29日 | 東京 | 芝3200m | メジロアサマ | 牡4 | 3:24.8 | 池上昌弘 | 保田隆芳 | 北野豊吉 |
第64回 | 1971年11月28日 | 東京 | 芝3200m | トウメイ | 牝5 | 3:23.7 | 清水英次 | 坂田正行 | 近藤克夫 |
第66回 | 1972年11月26日 | 東京 | 芝3200m | ヤマニンウエーブ | 牡5 | 3:23.7 | 福永洋一 | 中村覚之助 | 土井宏二 |
第68回 | 1973年11月25日 | 東京 | 芝3200m | タニノチカラ | 牡4 | 3:22.7 | 田島日出雄 | 島崎宏 | 谷水雄三 |
第70回 | 1974年11月24日 | 東京 | 芝3200m | カミノテシオ | 牡4 | 3:22.4 | 加賀武見 | 高橋英夫 | 保手浜正康 |
第72回 | 1975年11月23日 | 東京 | 芝3200m | フジノパーシア | 牡4 | 3:28.8 | 大崎昭一 | 柴田寛 | 真田繁次、高橋金次 |
第74回 | 1976年11月28日 | 東京 | 芝3200m | アイフル | 牡5 | 3:20.6 | 嶋田功 | 仲住芳雄 | 藤本義昭 |
第76回 | 1977年11月27日 | 東京 | 芝3200m | ホクトボーイ | 牡4 | 3:22.5 | 久保敏文 | 久保道雄 | 森滋 |
第78回 | 1978年11月26日 | 東京 | 芝3200m | テンメイ | 牡4 | 3:21.4 | 清水英次 | 坂田正行 | 近藤克夫 |
第80回 | 1979年11月25日 | 東京 | 芝3200m | スリージャイアンツ | 牡4 | 3:33.5 | 郷原洋行 | 境勝太郎 | 松岡正雄 他2名 |
第82回 | 1980年11月23日 | 東京 | 芝3200m | プリテイキャスト | 牝5 | 3:28.1 | 柴田政人 | 石栗龍雄 | 高田久成 |
第84回 | 1981年10月25日 | 東京 | 芝3200m | ホウヨウボーイ | 牡6 | 3:18.9 | 加藤和宏 | 二本柳俊夫 | 古川嘉治 |
第86回 | 1982年10月31日 | 東京 | 芝3200m | メジロティターン | 牡4 | 3:17.9 | 伊藤正徳 | 尾形盛次 | メジロ商事(株) |
第88回 | 1983年10月30日 | 東京 | 芝3200m | キョウエイプロミス | 牡6 | 3:22.7 | 柴田政人 | 高松邦男 | 松岡正雄 |
第90回 | 1984年10月28日 | 東京 | 芝2000m | ミスターシービー | 牡4 | 1:59.3 | 吉永正人 | 松山康久 | (株)丸沼温泉ホテル |
第92回 | 1985年10月27日 | 東京 | 芝2000m | ギャロップダイナ | 牡5 | 1:58.7 | 根本康広 | 矢野進 | (有)社台レースホース |
第94回 | 1986年10月26日 | 東京 | 芝2000m | サクラユタカオー | 牡4 | 1:58.3 | 小島太 | 境勝太郎 | (株)さくらコマース |
第96回 | 1987年11月1日 | 東京 | 芝2000m | ニッポーテイオー | 牡4 | 1:59.7 | 郷原洋行 | 久保田金造 | 山石祐一 |
第98回 | 1988年10月30日 | 東京 | 芝2000m | タマモクロス | 牡4 | 1:58.8 | 南井克巳 | 小原伊佐美 | タマモ(株) |
第100回 | 1989年10月29日 | 東京 | 芝2000m | スーパークリーク | 牡4 | 1:59.1 | 武豊 | 伊藤修司 | 木倉誠 |
第102回 | 1990年10月28日 | 東京 | 芝2000m | ヤエノムテキ | 牡5 | 1:58.2 | 岡部幸雄 | 荻野光男 | (有)富士 |
第104回 | 1991年10月27日 | 東京 | 芝2000m | プレクラスニー[注 22] | 牡4 | 2:03.9 | 江田照男 | 矢野照正 | 田島栄二郎 |
第106回 | 1992年11月1日 | 東京 | 芝2000m | レッツゴーターキン | 牡5 | 1:58.6 | 大崎昭一 | 橋口弘次郎 | (株)日本ダイナースクラブ |
第108回 | 1993年10月31日 | 東京 | 芝2000m | ヤマニンゼファー | 牡5 | 1:58.9 | 柴田善臣 | 栗田博憲 | 土井肇 |
第110回 | 1994年10月30日 | 東京 | 芝2000m | ネーハイシーザー | 牡4 | 1:58.6 | 塩村克己 | 布施正 | (株)大丸企業 |
第112回 | 1995年10月29日 | 東京 | 芝2000m | サクラチトセオー | 牡5 | 1:58.8 | 小島太 | 境勝太郎 | (株)さくらコマース |
第114回 | 1996年10月27日 | 東京 | 芝2000m | バブルガムフェロー | 牡3 | 1:58.7 | 蛯名正義 | 藤沢和雄 | (有)社台レースホース |
第116回 | 1997年10月26日 | 東京 | 芝2000m | エアグルーヴ | 牝4 | 1:59.0 | 武豊 | 伊藤雄二 | (株)ラッキーフィールド |
第118回 | 1998年11月1日 | 東京 | 芝2000m | オフサイドトラップ | 牡7 | 1:59.3 | 柴田善臣 | 加藤修甫 | 渡邊隆 |
第120回 | 1999年10月31日 | 東京 | 芝2000m | スペシャルウィーク | 牡4 | 1:58.0 | 武豊 | 白井寿昭 | 臼田浩義 |
第122回 | 2000年10月29日 | 東京 | 芝2000m | テイエムオペラオー | 牡4 | 1:59.9 | 和田竜二 | 岩元市三 | 竹園正繼 |
第124回 | 2001年10月28日 | 東京 | 芝2000m | アグネスデジタル | 牡4 | 2:02.0 | 四位洋文 | 白井寿昭 | 渡辺孝男 |
第126回 | 2002年10月27日 | 中山 | 芝2000m | シンボリクリスエス | 牡3 | 1:58.5 | 岡部幸雄 | 藤沢和雄 | シンボリ牧場 |
第128回 | 2003年11月2日 | 東京 | 芝2000m | シンボリクリスエス | 牡4 | 1:58.0 | O.ペリエ | 藤沢和雄 | シンボリ牧場 |
第130回 | 2004年10月31日 | 東京 | 芝2000m | ゼンノロブロイ | 牡4 | 1:58.9 | O.ペリエ | 藤沢和雄 | 大迫忍 |
第132回 | 2005年10月30日 | 東京 | 芝2000m | テンプレート:Flagiconヘヴンリーロマンス | 牝5 | 2:00.1 | 松永幹夫 | 山本正司 | (有)ノースヒルズマネジメント |
第134回 | 2006年10月29日 | 東京 | 芝2000m | テンプレート:Flagiconダイワメジャー | 牡5 | 1:58.8 | 安藤勝己 | 上原博之 | 大城敬三 |
第136回 | 2007年10月28日 | 東京 | 芝2000m | テンプレート:Flagiconメイショウサムソン | 牡4 | 1:58.4 | 武豊 | 高橋成忠 | 松本好雄 |
第138回 | 2008年11月2日 | 東京 | 芝2000m | テンプレート:Flagiconウオッカ | 牝4 | 1:57.2 | 武豊 | 角居勝彦 | 谷水雄三 |
第140回 | 2009年11月1日 | 東京 | 芝2000m | テンプレート:Flagiconカンパニー | 牡8 | 1:57.2 | 横山典弘 | 音無秀孝 | 近藤英子 |
第142回 | 2010年10月31日 | 東京 | 芝2000m | テンプレート:Flagiconブエナビスタ | 牝4 | 1:58.2 | C.スミヨン | 松田博資 | (有)サンデーレーシング |
第144回 | 2011年10月30日 | 東京 | 芝2000m | テンプレート:Flagiconトーセンジョーダン | 牡5 | 1:56.1 | N.ピンナ | 池江泰寿 | 島川隆哉 |
第146回 | 2012年10月28日 | 東京 | 芝2000m | テンプレート:Flagiconエイシンフラッシュ | 牡5 | 1:57.3 | M.デムーロ | 藤原英昭 | 平井豊光 |
第148回 | 2013年10月27日 | 東京 | 芝2000m | テンプレート:Flagiconジャスタウェイ | 牡4 | 1:57.5 | 福永祐一 | 須貝尚介 | 大和屋暁 |
脚注
参考文献・出典
参考文献
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- 『ミスタージャパンカップと呼ばれた男』、河村清明、東邦出版、2008
- 『勝ち馬的中!!競馬の基本』、松本ヒロシ監修、成美堂出版、2012
各回競走結果の出典
- 馬主名義を除く競走結果
- 『中央競馬レコードブック』、中央競馬ピーアール・センター、1994
- 天皇賞(春)第2回から第107回、天皇賞(秋)第1回から第108回まで。
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- ↑ 毎日新聞1958年11月24日付「天皇賞・セルローズが優勝」
- ↑ 読売新聞1959年11月24日付「天皇賞はガーネット」
- ↑ 読売新聞1960年11月24日付「天皇賞はオーテモン」
出典
関連項目
- c:天皇賞(春) - ウィキメディアコモンズの天皇賞(春)に関する画像のカテゴリ。
- c:天皇賞(秋) - ウィキメディアコモンズの天皇賞(秋)に関する画像のカテゴリ。
- 天皇杯 -他の各種スポーツ競技会での優勝賜杯
- 宮内庁
- 八大競走
- ゴールドカップ - イギリスで優勝馬主に女王から優勝杯が与えられる重賞。
- クイーンズヴェース - イギリスで優勝馬主に女王から花器が与えられる重賞。
- 武庫川女子大学 - 浜甲子園キャンパスが旧阪神競馬場(鳴尾競馬場)の跡地になっており、当時のスタンドの一部が保存活用されている。
外部リンク
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- JRA公式サイト「今週の注目レース」から(秋:2013年)
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