カツラノハイセイコ

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テンプレート:Infobox カツラノハイセイコ日本競走馬である。ハイセイコーの代表産駒で、父が勝てなかった東京優駿(日本ダービー)と天皇賞(春)に優勝した。

馬名の「カツラノ」とは馬主の「桂土地株式会社」の冠名で、「ハイセイコー」でないのは「競走馬名は9文字以内」という制限のためである。

※現役時にあわせ馬齢は旧表記とする。

戦績

誕生

カツラノハイセイコの母・コウイチスタアは不受胎が続き、「繁殖牝馬失格」のレッテルを貼られる寸前の馬であった。生産者の鮫川三千男は最初、コウイチスタアにはタケホープを配合させようと考えていたが、コウイチスタアがあまり馬格のない馬だったため、馬格がありスピードが出そうな馬ということで、ハイセイコーが配合相手に選ばれた。父・ハイセイコーは540キログラムに達する(1974年有馬記念時点)巨漢馬だったが、結果的に生まれたカツラノハイセイコは最盛期でも450キログラム台であった。牡馬としては小柄の部類で、鮫川の思惑とは異なることとなった[1][2]。馬格は小さかったが、カツラノハイセイコはその中では、ハイセイコー産駒の中ではまだ評価されていたほうであった。

3 - 4歳

1978年9月1日札幌競馬場作田誠二(現・調教師)を背にデビューしたがしばらくは勝てず、京都競馬場での4戦目のレースで福永洋一騎乗で初勝利を挙げた。だがその後は2戦とも勝てず、3歳時は6戦1勝という結果に終わっている。

年が明けて4歳になると、呉竹賞、ジュニアカップ、4歳ステークスと3連勝し、クラシックの有力候補となった。呉竹賞までは福永が騎乗していたが、ジュニアカップ以降は松本善登が騎乗することになる。スプリングステークスを1番人気で2着に入ったが、調整のために滞在していた美浦トレーニングセンターの水道水を嫌い、あまり飲まなかったことから好調を維持できず、5番人気だった皐月賞ではビンゴガルーの2着に敗れた。

皐月賞後、ハイセイコは東京競馬場へ移動。東京競馬場の水は良く飲んだため、ハイセイコの馬体も回復の兆候を見せた。メジロアサマ産駒のメジロエスパーダに次いで2番人気に推されたNHK杯は3着であったが、日本ダービーでは僅差ながら1番人気での出走となった。レースでは中団を進み、4コーナーで先頭に立ち、逃げ込みを図ったリキアイオーを交わしにかかった。内がハイセイコ、中央がリキアイオー、外がテルテンリュウという位置取りで3頭の叩き合いとなったが、直線で抜け出しを図ろうとしたテルテンリュウが内にささり、リキアイオーは脚が上がって脱落。その煽りを受けて、嶋田功騎乗のリンドプルバンは抜け出す進路が塞がれてしまった。残り100メートルでテルテンリュウを振り切ったハイセイコは体勢を立て直したリンドプルバンの猛追をハナ差だけしのぎ、日本ダービーに優勝した。鞍上の松本は当時45歳、騎手生活25年目にして初のクラシック制覇となった。かつてはシンザン有馬記念を制した松本ではあるが、この頃は調教師試験を毎年受験しており、またこの時点では現役最年長の騎手であり最高齢でのダービー制覇となった[3]

ダービー後、ハイセイコは夏の間に熱発に見舞われたこともあり、万全の状態で秋を迎えられなかった。何とか体調を戻して、中京で行われた京都新聞杯に出走したが、ファインドラゴンの10着と敗れた。更にレース後には脚部不安や馬には珍しいとされる肺炎に罹ってしまったため、菊花賞を断念し長期休養に入った。

5歳

11か月後の1980年9月7日阪神で行われたオープンレース・サファイヤステークスでハイセイコは復帰した。8頭立ての6番人気と人気はなかったもののニチドウアラシの2着に入り、復活をアピールした。このレースから、肺に倒れた松本に代わって、河内洋(現・調教師)が主戦騎手を務めることとなった。

その後、京都大賞典でシルクスキーの3着になったハイセイコは天皇賞(秋)を見据えて東上。1番人気に推された目黒記念(秋)では前走でも対戦したシルクスキーやカネミノブなどを退けて優勝した。続く天皇賞(秋)でも1番人気に推されたが、2番手追走もプリテイキャストの大逃げに屈し6着に敗れた。次走となる有馬記念にはメジロファントム、カネミノブに続く3番人気で出走したが、勝ったホウヨウボーイにハナ差届かず2着に敗れた。

6歳

ハイセイコの6歳初戦は1981年3月8日、阪神で行われたマイラーズカップだった。1980年のダービー馬であるオペックホースとの「ダービー馬」対決に注目が集まった。レースでは3番人気だったが、ウエスタンジョージをクビ差押さえて優勝、4着に終わったオペックホースとのダービー馬対決を制した。

続く大阪杯は1番人気に推されたものの、サンシードールの6着に敗れたが、次走の天皇賞(春)ではリンドプルバンに次ぐ2番人気に支持され、カツアールを振り切って優勝した。続く宝塚記念ではファン投票1位、当日も1番人気に支持されたものの先に抜け出したカツアールの2着に終わった。その後は脚部不安もあり、そのまま引退、1981年11月22日に京都競馬場で引退式が行われた。ハイセイコ引退から約1か月後の12月14日、ダービー勝利時の鞍上だった松本が48歳という若さで亡くなっている。

引退後

引退後は青森県で種牡馬となった。種牡馬引退後は栃木県の日本軽種馬協会那須種馬場で余生を過ごしていたが、2009年10月8日老衰のため死亡した[4]

おもな産駒

年度別競走成績

評価

2000年に日本中央競馬会が実施した「20世紀の名馬大投票」では62位に選ばれた。

エピソード

  • 東京優駿におけるリンドプルバンとの1、2着の写真判定結果が出るのに約10分ほど要した。
  • 1981年のマイラーズカップは直線で外から一気に追い込んで勝利したものだが、そのマイラーズカップには1年後輩のダービー馬であるオペックホースも出走していた。これ以後、1600メートルの重賞でのダービー馬対決は2009年安田記念ウオッカVSディープスカイ)まで実現しなかった。

血統表

カツラノハイセイコ血統ロックフェラ系ハイペリオン系) / Hyperion4×4=12.50% Nearco4×5=9.38%)

ハイセイコー
1970 鹿毛
*チャイナロック
China Rock
1953 栃栗毛
Rockefella Hyperion
Rockfel
May Wong Rustom Pasha
Wezzan
ハイユウ
1961 黒鹿毛
*カリム
Karim
Nearco
Skylarking
*ダルモーガン
Dalmogan
Beau Son
Reticent

コウイチスタア
1968 黒鹿毛
*ジャヴリン
Javelin
1957 黒鹿毛
Tulyar Tehran
Neocracy
Sun Chariot Hyperion
Clarence
ミタケ
1960 鹿毛
タカクラヤマ *セフト
峰城
第三スターリングモアノ一 トビサクラ
第三スターリングモア F-No.3-l

脚注

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参考文献

テンプレート:参照方法

  • 吉村昭「第46回日本ダービー 馬券を買う」 『優駿 1979年7月号』 日本中央競馬会、1979年
  • 福田喜久男「カツラノハイセイコのふるさと スターリングモアと鮫川三千男牧場」 『優駿 1979年8月号』 日本中央競馬会、1979年

外部リンク

テンプレート:JRA賞最優秀3歳牡馬 テンプレート:東京優駿勝ち馬 テンプレート:天皇賞(春)勝ち馬

テンプレート:Keiba-stub
  1. カツラノハイセイコに限らずハイセイコーの初年度産駒(55頭)は父に似ない小柄な馬が多く誕生していた。
  2. のちに「父親(ハイセイコー)と似ていない馬はよく走る」(大川慶次郎談)と言われるようになるが、産駒デビュー前であり当時の競馬関係者にはそのような認識はなかった。
  3. その後、増沢末夫1986年ダービーで記録を更新している。
  4. テンプレート:Cite web