河内洋
テンプレート:騎手 河内 洋(かわち ひろし、1955年2月22日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) 所属の元騎手で現在は調教師。「牝馬の河内」といわれたほど牝馬の騎乗は得意であり、かつて所属していた厩舎が同じであった武邦彦らの弟弟子にあたり、武邦彦の息子である武豊の兄弟子にあたる。
騎手時代、「若大将」「栗東の青年団長」「西のエース」「牝馬の河内」「河内のおっさん」の呼び名を持っていた。
来歴
騎手時代
1955年大阪府大阪市東住吉区にて春木競馬場で調教師を務める父・河内信治の次男として出生。祖父・河内幸四郎は京都競馬場の調教師、叔父の河内義昭も地方競馬の新潟県競馬(廃止)の調教師、さらに実兄・河内幸治も春木競馬場で騎手という競馬一家の一員として生まれ育ち、幼少の頃から馬に親しみを持ち、騎手を志すようになる。
その後堺市に転居し、やがて中学2年生になった洋が父の仕事を手伝うようになっていた頃、信治の元を訪ねた武田作十郎[1]が洋と幸治を見て「一人、俺のとこ(厩舎)にくれないか?」と嘆願。信治はこの話を当初断ったものの、父の問いかけに対し洋は「行く」と答えたことから1970年騎手見習いとして武田作十郎調教師に入門。この当時、父の厩舎があった春木競馬場は地方政治の関係から廃止の方向に向かっており、父と親交のある武田師の門下に入り中央競馬の世界を目指すことになった。
1974年武田作十郎の元で騎手免許を取得し、初騎乗を初勝利(3月3日2回中京6日2Rホースメンレディ<1着/ 11頭>)で飾った洋(以下河内と記述)は1979年優駿牝馬(オークス)をアグネスレディーで勝利し、クラシック初制覇。当時、デビュー6年目のクラシック制覇はほとんどあり得なかった時代である[2]。また同年、ハシハーミットで菊花賞を制した際には、杉本清が「やったり河内、やったり河内」と実況している。その7年後1986年メジロラモーヌで日本競馬史上初の牝馬三冠達成。このころから牝馬による勝利数が増え「牝馬の河内」と呼ばれるようになる。短距離戦の騎乗にも長けており、GⅠ級勝利の半分以上の12勝が1600m以下のレースである。
1988年オグリキャップがJRAに移籍してきた際、同年のジャパンカップまで主戦騎手を務めた。オグリキャップの6歳時、陣営が武豊に騎乗を依頼した際、武は河内がオグリキャップから降ろされている経緯もあることから河内に気を遣い、相談を持ちかけたが河内は騎乗を勧めたという。なお河内は天皇賞・秋のみ勝てずに八大競走完全制覇を逃しているが、1988年1番人気のオグリキャップでタマモクロスに2着したのが天皇賞・秋の最高成績だった。
2000年アグネスフライトで念願の東京優駿(日本ダービー)制覇[3]。さらに翌2001年にはアグネスタキオンで皐月賞を制し、五大クラシック競走[4]の完全制覇を達成。その後も勝ち星を積み重ねた河内は2001年増沢末夫、岡部幸雄に次ぐ史上3人目の通算2000勝を当時の最短記録で達成(後に武豊が更新)している。
2003年河内は本年度の調教師試験に合格、調騎分離の規定に従い現役を引退、調教師への転身が決まる。受験の背景には1000勝達成騎手の調教師第1次試験免除の規定が2002年度の試験をもって廃止になるという事情があり、この免除規定は河内が最後の適用者となった。同年2月23日、京都競馬場で騎手生活最後の日を迎えた河内には10鞍の騎乗依頼が集まり、1番人気に支持されること7鞍、その他のレースでも2番人気2鞍、3番人気1鞍と同騎手の人気が窺えた(結果は4勝2着3回。現役最後の勝利は10R許波多特別のタイムトゥチェンジ)。最終レース(メイショウチェリオで2着)終了後は杉本清司会で引退式が行われた。
温厚篤実な性格で石橋守、武豊から絶大な信頼を置かれていた。寡黙な性格でインタビューにも淡々と応じることから、「職人」とも呼ばれていた。ただしトレセン内では余計なインタビューから逃れるために食堂の厨房内にいることが多かったとも伝わっている。また、極稀にではあるが、不用意、不勉強な質問に声を荒らげることもあったという。
調教師時代
2005年3月開業。騎手時代から縁のある西山牧場系列の馬と渡辺孝男所有馬を多く管理しているが、それ以外にも騎手時代から縁がある馬主や牧場の馬を手広く管理している。
厩舎開業初期、解散した清水久雄厩舎から移籍したハートランドヒリュの管理を引継ぎ、サラブレッド・アラブを通じたJRAの平地競走最多出走記録更新も期待されていたが(実際、清水からその事を託されていたという)、管理後3週間目の2006年3月22日、調教中に急死してしまった。翌年には、同様に解散した瀬戸口勉厩舎から重賞馬マルカシェンクを引継いだものの、5月に腸捻転を発症。同年末に復帰している。
騎手の起用については、武豊や藤田伸二など有力騎手に依頼する一方で、「人も育てる」の信念の下、若手騎手にも積極的に依頼していて、栗東所属では川田将雅、美浦所属では吉田隼人が多い。また、小池隆生や石橋守にも厩舎開業当初からよく騎乗依頼をしていた。小池は2007年5月9日にはフリーから河内厩舎所属の騎手へ所属変更され、同年7月1日からは厩舎の調教助手として活動することに、また石橋も調教師試験受験に際して河内から支援を受け、2013年3月からは厩舎所属の技術調教師として活動することになった(2014年3月に独立して厩舎開業)。
また、調教師活動に勤しむ一方、2007年・2008年に行われたジョッキーマスターズを連覇するなど現役を退いてからも騎手として活躍する一面も披露している。
騎手成績
1着 | 2着 | 3着 | 騎乗数 | 勝率 | 連対率 | |
---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 2111 | 1796 | 1601 | 14940 | .141 | .262 |
日付 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
---|---|---|---|---|---|---|
初騎乗・初勝利 | 1974年3月3日 | 4歳未勝利 | ホースメンレディ | - | - | 1着 |
重賞初騎乗 | 1974年7月7日 | 金鯱賞 | ボージェスト | 15頭 | 12 | 14着 |
重賞初勝利 | 1975年11月24日 | 小倉大賞典 | ロッコーイチ | 9頭 | 5 | 1着 |
GI級初騎乗 | 1978年11月12日 | 菊花賞 | メジロイーグル | 20頭 | 4 | 3着 |
GI級初勝利 | 1979年5月20日 | 優駿牝馬 | アグネスレディー | 24頭 | 1 | 1着 |
主な騎乗馬
- アグネスレディー(1979年 優駿牝馬)
- ハシハーミット(1979年 菊花賞)
- カツラノハイセイコ(1981年 天皇賞・春)
- ヒカリデユール(1982年 有馬記念)
- ニホンピロウイナー(1984年・1985年 マイルチャンピオンシップ、1985年 安田記念)
- メジロラモーヌ(1986年 桜花賞、優駿牝馬、エリザベス女王杯)
- アラホウトク(1988年 桜花賞)
- サッカーボーイ(1988年 マイルチャンピオンシップ)
- アグネスフローラ(1990年 桜花賞)
- ダイイチルビー(1991年 安田記念、スプリンターズステークス)
- ニシノフラワー(1992年 桜花賞、スプリンターズステークス)
- レガシーワールド(1993年 ジャパンカップ)
- メジロブライト(1998年 天皇賞・春)
- ミッドナイトベット(1998年 香港国際カップ)
- アグネスフライト(2000年 東京優駿)
- アグネスタキオン(2001年 皐月賞)
調教師成績
日付 | 競馬場・開催 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
初出走 | 2005年3月12日 | 1回阪神5日3R | 3歳未勝利 | ミッドナイトトーク | 16頭 | 1 | 2着 |
初勝利 | 2005年4月10日 | 2回阪神6日2R | 3歳未勝利 | ミッドナイトトーク | 16頭 | 1 | 1着 |
GI初出走 | 2006年5月21日 | 3回東京2日11R | 優駿牝馬 | ヤマニンファビュル | 18頭 | 16 | 17着 |
重賞初勝利 | 2008年8月10日 | 2回新潟8日11R | 関屋記念 | マルカシェンク | 12頭 | 1 | 1着 |
主な管理馬
主な厩舎所属者
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
- 安藤賢一(2006年-現在 調教助手)
- 瀬戸口健(2007年-現在 調教助手)
- 小池隆生(2007年 騎手、2007年-現在 調教助手)
- 石橋守(2013年-現在 技術調教師)
- 岩崎翼(2013年-現在 騎手)
脚注・参考文献
- 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
関連項目
外部リンク
- 河内洋厩舎オフィシャルホームページ
- 引退騎手情報 河内 洋(カワチ ヒロシ) - JRAホームページ
テンプレート:中央競馬の三冠騎手・調教師 テンプレート:JRA賞最多勝利騎手 テンプレート:特別模範騎手賞 テンプレート:日本中央競馬会・顕彰者
テンプレート:Keiba-stub