藤田伸二
テンプレート:Redirect テンプレート:騎手 藤田 伸二(ふじた しんじ、1972年2月27日 - )は日本中央競馬会 (JRA) の騎手。本名は小川 伸二(おがわ しんじ。デビュー当時の姓は藤田であり改姓後も登録名は藤田伸二のままである)。
愛称は「男」、「シンジ」、「伸ちゃん」、「アニキ」。家族構成は妻と長男との3人家族。姪(妻の兄妹の娘)はスターダストプロモーションに所属のタレントである小川千尋[1]。
人物
北海道出身であるが、日常会話は関西弁を使用。新冠町のメイタイ牧場内にて生まれ[2]、小学校卒業と同時に新冠町から室蘭市に転居し室蘭市立東明中学校に入学。中学校1年生修了時に小樽市に転居し小樽市立潮見台中学校卒業。
その後1年間の牧場勤務を経て競馬学校に入学(7期生)、1991年に中央競馬の騎手としてデビュー(栗東・境直行厩舎所属、同期には四位洋文、安田康彦、郷原洋司らがいる)。
初騎乗は1991年3月2日、中京競馬第1競走のハイビスカスマミー(13頭立ての7着)、同年3月9日、中京競馬第1競走マキバスクリーンで初勝利を挙げる。
1991年にノーザンコンダクトでラジオたんぱ杯3歳ステークスを制し重賞初勝利、以後2011年まで21年連続で重賞を勝利を収めていた。翌1992年にタケノベルベットでエリザベス女王杯を制しGIを初制覇。1996年にはフサイチコンコルドで東京優駿(日本ダービー)を制し、史上2番目の若さでダービージョッキーの仲間入りを果たした。2004年には安田富男、武豊に次ぐJRA史上3人目となる中央競馬全10場重賞制覇を達成している。
夏競馬開催は生まれ故郷である北海道(函館・札幌競馬場)を主戦場とし、多くの勝ち鞍を挙げている。2007年6月16日には函館開催の初日、1日9連対のJRAタイ記録を達成した(武豊、横山典弘に次ぐ3人目)。
豪快であると同時に他馬への進路妨害を行わないクリーンな騎乗を心がけており、制裁の対象となることは非常に少ない。そのため2009年初頭に競馬学校25期生の卒業直前となった授業の特別講師として招かれたこともあった。
2004年に年間の制裁点が0点でありかつ優秀騎手賞を受賞したことにより、JRA史上3人目(柴田政人、河内洋に次いで)となる特別模範騎手賞を史上最年少で受賞した。藤田は「ようやく自分にも1つ、豊さんに破られない記録を作ることができた」と感想を語った。さらに、2010年には史上初の2度目の特別模範騎手賞を受賞した。なおフェアプレー賞もJRA現役騎手最多・歴代最多受賞回数である(15回)。また1996年より2008年まで12年間、レースでの騎乗停止がなかった[3]。
2000年代後半以降は栗東・藤原英昭、昆貢両厩舎の主戦騎手を務め、とくに藤原からは信頼が厚く「勝負レースは伸二に依頼している」と明言している。その一方で、栗東所属でありながら東京・中山での騎乗数も大幅に増加させている。
2011年10月10日現在でGI級20勝(JRAGI16勝[4]、交流GI4勝)うち高松宮記念を3勝(1999年マサラッキ、2002年ショウナンカンプ、2009年ローレルゲレイロ)しており、GI昇格後の高松宮記念最多勝ジョッキーでもある。
エピソード
- 過換気症候群の持病がある。2003年日本ダービー前日(5月31日)東海道新幹線の車中で発症して小田原駅で列車を停車させたこともある。このとき松永幹夫騎手(当時)と武豊騎手が病院まで付き添った。このときの症状は、武が後に「伸二が死んでしまうと思った」と語るほどのものだった。この病気がいつ発症するかわからないという不安から、列車や飛行機による長時間の移動を避ける傾向があり、2006年にアサクサデンエンがドバイデューティーフリーに出走した際には騎乗を断念した(同馬はドバイでは武が騎乗)が、2007年暮れにコンゴウリキシオーが香港マイルに出走した際や2008年にイイデケンシンがUAEダービーに出走した際には、香港やドバイに遠征し騎乗している。また、アメリカでの騎乗経験(2005年など)もある。その後は安定剤などの服用により体調は安定し「飛行機も普通に乗れるようになった」と自著でコメントしている。
- 競馬学校2年生のときに一度「素行不良」を理由に無期停学処分を受けている。当時はそれ以外にもたびたび素行を注意されることが多く、本人も「(競馬学校時代に)悪いことは一通り全部やった」と語っている[5]。
- 競馬学校時代には、学校が休みの日曜日になると、学校から近い中山競馬場での開催時を中心にバレットのアルバイトをしていた(給料は「日給5000円」だったという)[6]。1990年の第35回有馬記念ではオグリキャップに騎乗した武豊のバレットを務めており、レース後に検量所で武と言葉を交わす藤田の姿がテレビ中継に映っている[5]。
- 競馬学校卒業後にボクシングを習い始め、現在ではセミプロレベルの格闘技術を保有している。
- 北海道出身・北海道参戦の縁から、2006年8月16日札幌ドームのプロ野球日本ハム-西武戦で背番号「男」のユニフォームを着て始球式を務めた。この始球式では直球・ストライクを投げ込んだ。
- 仲の良い騎手や調教助手、厩務員などの裏方やその家族には感謝や気遣いの心を忘れない一面もある。公私ともに親しく、2007年に落馬負傷した石山繁元騎手の妻が執筆した単行本「落馬脳挫傷」のプロデュースを務める。
- オリビエ・ペリエは自身の著書「野望あります」にて「2007年秋・天皇賞当日の朝、ロッカーを開けるとフランス国旗を持ったナイスボディの人形に「がんばれ!」と書いた紙が貼ってあるシンジからのプレゼントが置いてあった」というエピソードを明かしている。
- 先輩騎手である田原成貴に弟分として同期である四位とともに可愛がられていた。その縁で田原が1999年に調教師に転身したあとも同厩舎の期待馬フサイチゼノンなどの主戦騎手として活躍していたが、2001年に田原が起こした覚せい剤所持事件による逮捕・起訴をきっかけに関係が切れた(この事件による処分で田原が15年間競馬業界に関われなくなったこともあるため→2009年に再び逮捕・起訴されたことにより田原に対する競馬関与停止期間は無期限に延長[7]。その後2010年に三たび逮捕・起訴された)。藤田自身は現在でも著書などで田原を「心の師匠」や「最も尊敬する人物」として挙げているが、これはあくまで事件以前の田原のことであり、また著書では「競馬界の信用を失墜させた」との理由もあり、事件後の田原を庇うつもりはないとしている。
- 同期の四位とは競馬学校時代からの親友である。しかし、競馬学校時代からプライベートではほとんど会わず、自伝を書くまで四位の趣味が何なのかも知らなかったという。
- 2009年から始めたブログの更新と麻雀、パチスロが趣味で、「よろしいやん」という名言が生まれており、ローレルゲレイロで勝利した高松宮記念や、2010年の中山金杯をアクシオンで勝利した時の勝利ジョッキーインタビューの際「馬券が当たってよろしいやん」という発言もした。また、2010年4月3日から、デイリースポーツ および馬三郎紙面にてコラム「よろしいやん(現在のコラム名は「藤田伸二の男のコラム」)」(毎週土・日曜日掲載)を執筆している。
- 2004年、ワールドスーパージョッキーズシリーズ表彰式等のイベントをボイコットし参加しなかったことがあった。
- 刺青を入れており、背中には妻と息子の名前が入っている。
- 喫煙者。現在嗜好している銘柄はクール・ブースト(8mg)。煙草は中学2年のときから競馬学校時代を含めて一日も切らしたことがないと著書で述べている[8]。
- 酒類のことをやんちゃ水と称することもある。好物の飲料はアサヒスーパードライ。飲食店では、まず同ビールの有無を確認してからでないと飲食しないと徹底している。嫌いな飲料はキリン一番搾り生ビール。サプリメントが好きで、薬局で大量買いしている[9]。
- 現在は茶髪だが、金髪や白髪にしていた時期もあった。髪の色についてはファンや馬主から野次や文句が出ることがあるが「個人の自由であり規則を犯しているわけでもないし[10]、JRAから注意を受けたこともないので改めるつもりはない」と自伝で記述している。
- コンピュータが大の苦手。「パソコンはようやらんわ」と自身の著書『競馬番長のぶっちゃけ話』で語っている。
- 自身のデビュー20周年を記念して発売された『騎手・藤田伸二 20年の「男道」』内の企画「フリー百科事典『ウィキペディア』本人チェック」において、自身の項目の2010年2月16日18時の時点における記載についてチェックを行った。その結果、身長や出身中学校、交流G1勝利数などについて間違いを指摘し「でもまぁ、いくつか致命的なのはあったけど、全体的にはほとんど間違いないやん」「そんで、間違ってたとこは直してくれんの?」「どこのどなたかは知らんけど、修正の方を、よろしく頼んますね?」とコメントしている。
- 2011年のドバイミーティングに参加した際、レース前に日本で発生した東日本大震災を受け、日本国外の騎手に呼びかけて、日本に向けたメッセージを集めた[11]。
評価
作家の亀和田武によると、藤田は自身がフェアプレー賞を複数回受賞した誇りから安全な騎乗に関し他の騎手に苦言を呈することがあり、時としてそれはレース後の検量室で若い騎手を「シメる」行為に表れることがある[12]。 この点については藤田自身、著書『騎手の一分』において若い騎手が「『藤田さんに怒鳴られた』と萎縮することになるかもしれない」と認めた上で、「あくまでもお互いの安全を重視してのこと」と述べているテンプレート:Sfn。
中央競馬の元騎手で競馬評論家の安田康彦は、藤田にはレース中に自身が騎乗する競走馬の進路を開けるよう大声で騒いだ上、従わない騎手に対しレース後に食ってかかる傾向があり、競馬学校の同期(第7期)にあたる安田でさえ「ホンマはやったらアカンこと」と認識しつつ「うるさく言われるのが嫌で」藤田の言いなりになっていたと告白している。安田は藤田を「あの人は客観的に物事を考えられない」と評している[13]。
不祥事
2006年12月21日栗東市内の飲食店で酒に酔い従業員の接客態度に腹を立て、その従業員に対し暴力行為におよび、JRA裁定委員会による正式処分決定まで騎乗停止となる。2007年1月5日に処分が決定、2006年12月22日から2007年3月21日までの騎乗停止に。平成18年(2006年)度厩舎関係者表彰(優秀騎手賞の各部門およびフェアプレー賞)の対象でもあったがこの件を受けて除外された。また2007年3月19日までに傷害容疑で書類送検されたが「被害者と示談が成立している」として起訴猶予処分となり、逮捕も免れた。なお被害者側からJRAに処分の撤回および軽減を求める嘆願書も出されたが、これは考慮されなかった。
おもな騎乗馬
- タケノベルベット(エリザベス女王杯)
- フサイチコンコルド(東京優駿)
- シルクジャスティス(有馬記念)
- マサラッキ(高松宮記念)
- タイキヘラクレス(ダービーグランプリ)
- シルクプリマドンナ(優駿牝馬)
- ムガムチュウ(ダービーグランプリ)
- アドマイヤドン(朝日杯フューチュリティステークス、JBCクラシック)
- ショウナンカンプ(高松宮記念)
- ダンツフレーム(宝塚記念)
- アサクサデンエン(安田記念)
- イイデケンシン(全日本2歳優駿)
- エイジアンウインズ(ヴィクトリアマイル)
- ローレルゲレイロ(高松宮記念、スプリンターズステークス)
- トランセンド(ジャパンカップダート2回、フェブラリーステークス、マイルチャンピオンシップ南部杯)
- ヒルノダムール(天皇賞(春))
騎乗成績
日付 | 競馬場・開催 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
初騎乗 | 1991年3月2日 | 1回中京3日1R | 4歳未勝利 | ハイビスカスマミー | 13頭 | 8 | 7着 |
初勝利 | 1991年3月9日 | 1回中京5日1R | 4歳未勝利 | マキバスクリーン | 11頭 | 4 | 1着 |
重賞初騎乗 | 1991年6月16日 | 2回中京2日11R | 金鯱賞 | テイエムダンガン | 12頭 | 11 | 12着 |
重賞初勝利 | 1991年12月21日 | 1回阪神7日11R | ラジオたんぱ杯3歳S | ノーザンコンダクト | 12頭 | 1 | 1着 |
GI初騎乗 | 1991年12月1日 | 1回阪神2日10R | 阪神3歳牝馬S | キタシバリヨン | 15頭 | 14 | 11着 |
GI初勝利 | 1992年11月15日 | 5回京都4日10R | エリザベス女王杯 | タケノベルベット | 18頭 | 17 | 1着 |
年度 | 1着 | 2着 | 3着 | 騎乗数 | 勝率 | 連対率 | 複勝率 | 表彰 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991年 | 39 | 27 | 28 | 376 | .104 | .176 | .250 | '91JRA賞(最多勝利新人騎手) |
1992年 | 49 | 47 | 35 | 441 | .111 | .218 | .297 | フェアプレー賞(関西) |
1993年 | 60 | 44 | 26 | 483 | .124 | .215 | .269 | フェアプレー賞(関西) |
1994年 | 60 | 44 | 37 | 488 | .123 | .213 | .289 | フェアプレー賞(関西) |
1995年 | 55 | 51 | 51 | 520 | .106 | .204 | .302 | フェアプレー賞(関西) |
1996年 | 77 | 66 | 64 | 601 | .128 | .238 | .344 | |
1997年 | 83 | 52 | 69 | 581 | .143 | .232 | .351 | フェアプレー賞(関西) |
1998年 | 68 | 57 | 55 | 591 | .115 | .212 | .305 | フェアプレー賞(関西) |
1999年 | 88 | 68 | 58 | 634 | .139 | .246 | .338 | フェアプレー賞(関西) 中京競馬記者クラブ賞 |
2000年 | 78 | 81 | 69 | 671 | .116 | .237 | .340 | フェアプレー賞(関西) |
2001年 | 95 | 81 | 81 | 798 | .119 | .221 | .322 | フェアプレー賞(関西) |
2002年 | 111 | 89 | 78 | 773 | .144 | .259 | .360 | フェアプレー賞(関西) |
2003年 | 103 | 93 | 80 | 812 | .127 | .241 | .340 | フェアプレー賞(関西) 北海道競馬記者クラブ賞(函館・札幌) |
2004年 | 121 | 76 | 83 | 805 | .150 | .245 | .348 | フェアプレー賞(関西) 特別模範騎手賞 北海道競馬記者クラブ賞(函館・札幌) |
2005年 | 115 | 88 | 104 | 813 | .141 | .250 | .378 | フェアプレー賞(関西) 北海道競馬記者クラブ賞(函館・札幌) |
2006年 | 127 | 127 | 88 | 902 | .141 | .282 | .379 | 北海道競馬記者クラブ賞(函館・札幌) |
2007年 | 104 | 82 | 60 | 649 | .160 | .287 | .379 | フェアプレー賞(関西) 北海道競馬記者クラブ賞(函館・札幌) |
2008年 | 94 | 92 | 70 | 753 | .125 | .247 | .340 | 北海道競馬記者クラブ賞(札幌) |
2009年 | 108 | 92 | 69 | 758 | .142 | .264 | .355 | 北海道競馬記者クラブ賞(札幌) |
2010年 | 92 | 68 | 75 | 632 | .146 | .253 | .372 | フェアプレー賞(関西) 特別模範騎手賞 北海道競馬記者クラブ賞(札幌) |
2011年 | 59 | 35 | 35 | 422 | .140 | .223 | .306 | フェアプレー賞(関西) |
2012年 | 31 | 43 | 65 | 460 | .067 | .161 | .302 | フェアプレー賞(関西) |
2013年 | 50 | 41 | 32 | 465 | .108 | .196 | .265 | フェアプレー賞(関西) ベストフェアプレー賞 |
中央 | 1867 | 1544 | 1412 | 14428 | .129 | .236 | .334 | |
地方 | 39 | 32 | 39 | 251 | .155 | .283 | .438 |
テレビ出演
- さんまのナンでもダービー(1995年)
- 武豊TV!II(2011年4月)
- 有吉反省会(2014年5月)
著書
- 『直線一気』(1999年 マガジン・マガジン)
- 『特別模範男』(2006年 東邦出版)
- 『競馬番長のぶっちゃけ話』(2009年 宝島社)
- 『騎手・藤田伸二 20年の「男道」』(2010年 宝島社)
- 『藤田伸二の男ラム』競馬王新書(2010年 白夜書房)
- 『番長の話』(2010年 宝島社)
- 『藤田伸二の「男・語録」』(2012年 宝島社)
- 『騎手の一分』(2013年 講談社現代新書)
脚注・出典
参考文献
関連項目
- 中央競馬通算1000勝以上の騎手・調教師一覧
- J6
- 石橋守 - 境厩舎の兄弟子。厩舎所属時代は同時に所属していた。
- 小坂忠士、荻野要 - 境厩舎の弟弟子。ただし藤田と同時に所属したことはない。
外部リンク
- 男・藤田伸二のGoing my way (公認ホームページ)※2014年7月現在リンク切れ
- 藤田伸二オフィシャルブログ「藤田伸二の男道」Powered by Ameba(ブログは現在休止)
- ↑ 公式ブログ内における小川と藤田の写真入りの記事より。
- ↑ 自著「特別模範男」第一章より。
- ↑ 「藤田伸二の男ラム」(白夜書房)。騎乗停止は新人の1991年、1996年、2008年、2009年にそれぞれ1回ずつの合計4回のみ。
- ↑ JRA代替開催のマイルチャンピオンシップ南部杯を含む。
- ↑ 5.0 5.1 『武豊TV!II』(フジテレビワンツーネクスト)第22回
- ↑ ただしこの当時はバレット制度はまだ日本では公式に導入されていなかったのでいわゆる手伝いの形でのものである。
- ↑ 2001年の1度目の逮捕当初は競馬関与停止期間の最大が15年であった。無期限が新たに設定されたのは2007年の規定改正時である。
- ↑ 別冊宝島 騎手・藤田伸二 20年の「男道」55ページ (宝島社)
- ↑ 別冊宝島 騎手・藤田伸二 20年の「男道」55、57ページ (宝島社)
- ↑ JRAでは実際に騎手や調教師などの現場従事者に頭髪関連の規定はなく、また染髪している騎手や調教師などは藤田以外にも複数存在している。
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