ホラー映画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:出典の明記 ホラー映画(ホラーえいが)は、映画ジャンルのひとつ。観る者が恐怖感(英語で言うところのHorror、Fear、Terror等)を味わって楽しむことを想定して制作されているものを広く指す。また、ゾンビ、殺人鬼など、観客に恐怖感を与えるためにホラー映画で用いられる素材・題材を含むものを(それが恐怖感を与えるための物か否かに関わらず)ホラー映画とする場合もある。

概要

ホラーの他に、ジャンルの名前がそのまま感情の名前でもあるものにサスペンス映画スリラー映画があるが、これらはホラーと(同一の感情ではないとしても)非常に密接に関連しており(例えば猟奇殺人など含むサイコ系)、実際の作品では重複が見られることも多い。また、スプラッター映画は、典型的には血しぶきや惨殺死体などの直接的な描写(“スラッシャー”とも呼ばれる)によって定義されるジャンルだが、これも恐怖感を引き起こす手段として多用されるため、基本的にはホラーのサブジャンルと見なされる。また、一部作品にはサスペンスと同様性行為などのエロティシズムなどもお約束で付いていることもある。

歴史

映画草創期の19世紀末より、ホラー作品の製作記録は多くある。1891年にエジソンが「キネトスコープ」を発明し、リュミエール兄弟がそれを改良した「シネマトグラフ」を発表した1895年、アメリカのアルフレッド・クラークによって発表された『スコットランドの女王、メアリーの処刑』(『The Execution of Mary, Queen of Scots』あるいは『The Execution of Mary Stuart』)は世界初のホラー映画として名を挙げられる。ただし本作は14秒と非常に短いものであり、のぞき窓から映像を見てひとりで楽しむという、現代の「暗所で鑑賞する大衆娯楽」という映画のスタイルとはまるで異なるものであった。後のホラー映画に大きな影響を与えた始祖的存在としては、1920年ドイツ映画カリガリ博士』が知られている。1922年の『吸血鬼ノスフェラトゥ』も著作権者の許可を得ない非公式作ながら、重要な映画と位置づけられている。

1925年のアメリカ映画『オペラの怪人』は、千の顔を持つ男と称された名優ロン・チェイニーが髑髏のような恐ろしいメイクでファントムを演じ、サイレントホラーの伝説的作品となった。ゴシックロマンを題材とし、強力な個性を持った怪奇スターが看板となるホラー映画のスタイルを決定付けた。

トーキーの時代を迎えた1931年、アメリカのユニバーサル映画は『魔人ドラキュラ』と『フランケンシュタイン』を大ヒットさせ、ホラーのリーディングカンパニーとなった。1930年に早世したチェイニーに替わり、ドラキュラを演じたベラ・ルゴシと、フランケンシュタイン・モンスターを演じたボリス・カーロフが2大怪奇スターとなった。他社も追随し、吸血鬼ミイラ狼男ら怪物達や、エドガー・アラン・ポー作品、『ジキル博士とハイド氏』等を題材としたホラーの名作が多く作られた。

1940年代に入るとチェイニーの息子で『狼男』を代表作とするロン・チェイニー・ジュニアが怪奇スターとして台頭した。40年代半ばにはユニバーサルホラーは一作に複数の怪物が登場するエンターテインメント色の強い作品が主流となるが、結果としてこの路線はホラーの衰退を招いた。

第二次世界大戦後、ファンタジー映画の主流はSFに移り、ホラーは低迷する。それを復興させたのはイギリスハマー・フィルム・プロダクションであった。ユニバーサルホラーのカラーフィルムによるリメイクと位置づけられる『フランケンシュタインの逆襲』(1957年)と『吸血鬼ドラキュラ』(1958年)は世界的にヒットし、両作に出演したピーター・カッシングクリストファー・リーが新たなスターとなった。続いてミイラ、狼男らユニバーサルの怪物達も続々復活した。

ハマーの隆盛に対し、アメリカの映画製作会社AIP1960年よりヴィンセント・プライス主演のエドガー・アラン・ポー作品を原作とするホラーの名作を連続ヒットさせた。一方で独立プロのハーシェル・ゴードン・ルイス監督が、ストーリー性よりも過激な残酷描写による視覚的衝撃を重視する猟奇的な映画を製作。特殊メイクによる過激な流血描写を強調したスプラッター映画の誕生であった。1963年の『血の祝祭日』(1963年)以降、1970年代までルイスはこの種の「血みどろ映画」を量産するが、それらの作品は俗悪なキワモノ映画としか世間からは認識されなかった。

しかし1970年代に入ると、それまで『血ぬられた墓標』(1960年)などの古典的なゴシック怪奇映画で知られていたイタリアのマリオ・バーヴァ監督が、特殊メイクによる過激な残酷描写を取り入れた『血みどろの入江』(1971年)を発表。素人俳優をキャスティングしたH・G・ルイス作品とは異なり国際的な知名度を持つ名優の出演と一流の技術によって制作された初のスプラッター映画として世界に衝撃を与えた。

バーヴァの『血みどろの入江』を皮切りに、当時イタリアで流行していたジャッロとよばれる推理サスペンス映画が、生々しい残酷描写を積極的に取り入れ始める。セルジオ・マルティーノ監督による『影なき淫獣』(1973年)やダリオ・アルジェント監督による『サスペリアPART2』(1975年)といった70年代のイタリア製スリラーでは、犯人捜しの推理ミステリーの体裁を取りながら、血みどろのスプラッター描写を露骨に表現したことで刺激に飢えた若い観客からの支持を得た。さらにアメリカのトビー・フーパー監督による『悪魔のいけにえ』(1974年)、イギリスのピート・ウォーカー監督による『フライトメア』(1974年)、カナダのデヴィッド・クローネンバーグ監督による『ラビッド』(1977年)やボブ・クラーク監督による『暗闇にベルが鳴る』(1974年)といった、高い技術と緻密な脚本・演出に支えられた現代的な残酷ホラーが多く製作される。これらの作品はH・G・ルイスが狙ったような単なる表面的な血みどろ描写による刺激だけではなく、残酷シーンの痛々しさを通して人間心理にひそむ狂気や異常性の恐ろしさを描き上げたという点で、当時としてはリアルで現代的な感覚を持った恐怖映画だったと言える。

一方で1970年代にはウィリアム・フリードキン監督による『エクソシスト』(1973年)の爆発的なヒットを皮切りに、オカルト映画の大ブームが巻き起こる。かねてから注目を集めていた占いや自称超能力者のユリ・ゲラーが仕掛けた超能力ブームに後押しされる形で、悪魔や心霊現象や超能力と言った神秘的な事柄に対する人々の関心が高まり、世界各国の映画会社は積極的にオカルト映画を発表。ハリウッドは『ヘルハウス』(1973年)、『オーメン』(1976年)、『キャリー』(1976年)、『』(1976年)、『オードリー・ローズ』(1977年)などの心霊現象や悪魔や超能力などを扱ったオカルト映画を量産し、興業面でも批評面でも大いなる成果を得た。娯楽映画産業に勢いがあったイタリア映画界もブームに乗じて、悪魔や魔女の恐怖を描いたオカルト映画を量産。特にダリオ・アルジェント監督の『サスペリア』(1976年)はハリウッドの大作に匹敵するほどの大成功を収めた。イタリアほど話題作は多くなかったが、スペイン映画界からは『ザ・チャイルド』(1976年)が発表されて話題を呼んだ。オカルト映画の体裁を取りながらも不条理な風刺劇といった趣の映画だが、子供たちが突然大人を殺し始めると言った寓話的でショッキングなストーリーが世界に大きな衝撃を与えた。

スプラッター映画とオカルト映画の流行に押される形で、クラシカルなハマーやAIP作品は衰退していく。ホラー映画も新しい時代を迎えつつあった。尚、この頃まで「ホラー」という言葉は日本では知られておらず、怪奇映画の名称が一般的であった。

2000年代

2000年代、ソウがホラー映画界において異例の大ヒットを記録した。人間による人間の恐怖を徹底的に表現し、残酷なシーンの多様、究極の苦痛を求めた映画として話題を呼んだ。

2003年にはフレディvsジェイソンのようなコラボ作品も劇場に登場し、世界中で反響を呼んだ。この作品は映画界において一つの新しい型を生み出し、本作を皮切に以降エイリアンVSプレデターのような他の作品どうしのキャラクターを対決させるという映画会社の垣根を超えた作品が製作されている。2000年代のホラー映画に見られるもう一つの注目すべき傾向はリメイクであり、リング呪怨などのジャパニーズホラーのリメイク作品がアメリカで次々に製作されている。洋画においては悪魔のいけにえ13日の金曜日エルム街の悪夢ハロウィンなどの有名なホラー作品がリメイクされた。

ゾンビ映画の人気も近年にわかに上昇しつつある。「噛まれると感染してしまう」、「人間の肉を求めてさまよう」というような今日知られるゾンビ像はジョージ・A・ロメロによって築かれたと言われており、1978年「ゾンビ」公開後、一気にゾンビ映画の知名度が広がっていった。その後、2002年にバイオハザードの映画化が大ヒットしたことにより、ホラー映画ファンのみならず全国民にゾンビというものをより身近な存在として認識させることとなった。また、イギリス映画28日後...やアメリカのドーン・オブ・ザ・デッドでは走るゾンビが登場し、また20年ぶりにメガホンを取ったジョージ・A・ロメロの作品「ランド・オブ・ザ・デッド」では感情と一定の理性を持ち、仲間同士で意思の疎通が可能であるゾンビが生み出されており、近年新たなゾンビ像が確立されつつある。

ホラー映画を取り巻く状況

古来より人々の恐怖心に訴えかける作品はあらゆるジャンルで多く生み出されているが、これは映画の世界においても例外ではない。故に現在ではやや様式化が進んだ感も強く、焼き直しが繰り返された結果(これはホラー映画だけに限った話ではないが)、新しい独創的な作品が生まれ難い状況に陥っているとも言える。アイデア勝負であること、低予算での制作に向いている(=利益率が高い)事も手伝ってか、小規模な映画会社が製作する場合が結構多く、また、シリーズ物でも途中で製作会社が変わったり、極端な場合、1作毎に製作・DVD発売会社が違う場合すらある。また、アマチュアや新人監督の登竜門的なジャンルとして位置付けられている面もあり、ホラー映画を出発点として、今では有名となった映画監督も多い。

日本式ホラー

元々日本映画においては「怪談ものホラー」の伝統はあったものの、これらは総じて怨恨を理由とした復讐譚であり、表現手法にホラー的な要素はあれど、因果応報思想の影響が根強いため理不尽なストーリーは少なく、起承転結がはっきりし、勧善懲悪思想に基づくハッピーエンドで終わるものが多かった。

しかし、1980年代後半より制作されはじめた日本製のホラー映画はハリウッド製ホラー映画に対するのと同様に、このような日本の怪談・怪奇映画の伝統とも距離を置いており、ジャパニーズホラー、またはJホラーと呼称され独自のカテゴリーを形成している。

2000年頃より、日本のホラー映画および日本以外の国でのリメイク作品は全世界的に好評を博しているが、それはハリウッド作品などとは異なる、独自のホラー映画の文法を持っているからだと言われている。一口に日本式ホラーと言っても作品や作家(監督)によって細部は異なるが、おおよそ下記のような特徴・手法が見られる。

  1. 日本式ホラーでは「怖い」と感じさせる部分では沈黙をあえて長くとり、登場人物が絶叫するシーンは少ない。この沈黙のために、急な効果音(扉の閉まる音、水滴の音など)を挿入することで観客を驚かすことができる。
  2. 水を使ったシーンが多い(例:雨、水滴、床に残る濡れた足跡等)。
  3. 日常生活に欠かせない、身近なものを利用する頻度が高い(例:電話、テレビ、ビデオ、鏡、トイレ、車、旧家など)。これにより、観客に「映画のような怖いことが、自分の身にも起るかも知れない(だが、使わざるを得ない)」という心理を与える。
  4. 幽霊等、恐怖の対象であるクリーチャーのデザインは、海外のようなグロテスクなものではなく、女性や手だけのものが多い。特に「長い髪をたらした女性の幽霊(衣服は白が多い)」は日本式ホラーの代名詞として親しまれている。「映画秘宝」によれば、この外見上の特徴は米国においても浸透・普遍化しており、これをそのまま使用する事はある種のギャグとして捉えられてしまう場合もある。
  5. 残虐なシーンを避ける傾向にあり、“電車に轢かれる”“投身自殺する”などのシーンであっても、直接的な描写はされないことが多い(結果として観客自身のイマジネーションを喚起させる作りとなる)。
  6. 舞台の規模が小さく(“町一つ”“家一軒”等)、日本全国や全世界という規模にまで展開するような作品は少ない。
  7. (生前も含め)特定宗教との関係性が希薄、もしくは無い(これといって何の特徴も特殊な生活習慣・嗜好も無かった(様に一見見える)ごく普通の人物、どこにでも隣人として居そうな)人物であっても、死の間際に深い遺恨・恨みを抱いていた事で凶悪・強力な悪霊地縛霊)になりうるという恐怖を与える作り。

日本式ホラー流行に至る起点は オリジナルビデオとして製作・公開された『ほんとにあった怖い話』シリーズ(1991年~1992年)である。これは、読者からの投稿を元にした「実話」を映像化したオムニバス作品であり、中でも小中千昭脚本・鶴田法男監督の諸作品は、日本式ホラーの原点として参照、言及されることが多い。これらで提示された「本当に怖いものを見たとき、人間は即座に悲鳴を上げられない」「ありえない場所に人の姿が撮されている恐ろしさ」などの演出は、日本式ホラーの特質の一つである。

このオムニバス作品を皮切り、日本式ホラーの立役者とも言うべき人々の作品が製作され、日本式ホラーブームは次第に盛り上がりを見せたが、この動向を決定づけたのは清水崇の『呪怨』(2000年)と三池崇史の『オーディション』(2000年)だった。『呪怨』は元はオリジナルビデオとして製作された作品だったが、伝聞によってその怖さが広まった結果、レンタルすることが困難になるほどの話題を呼んだ。この評判を背景に35mmフィルム作品としてリメイクされ、続編として製作された劇場版の『呪怨』(2003年)も大ヒットし、遂には監督自身によるハリウッド版のリメイク『呪怨(THE GRUDGE)』(2004年)が公開され、全米週間興業収益第一位を勝ち取るまでに至った。また、同じく日本で大ヒットした『リング』、『リング2』もハリウッドでリメイクされ、『呪怨』同様に全米週間興業収益第一位を獲得した。2005年にはオムニバス・ドラマ『マスターズ・オブ・ホラー』(2005-2007年)のファースト・シーズンに三池崇史が、セカンド・シーズンには鶴田法男がそれぞれ参加。名実ともに日本のホラー映画は確固たる地位を築いた。

こうしたブームに乗り、日本式ホラーは少なからぬ本数が製作・公開され続けているものの、粗製濫造やこれに伴うブームの終焉を指摘する声もある。例えば前述の『呪怨(THE GRUDGE)』の独自続編として製作された『呪怨 パンデミック』では、日本版「魔女伝説」の如き作品設定(両親の押し付けで生業とさせられた悪霊祓い)をシリーズ共通の悪霊「佐伯伽椰子」の生前出自に持ち込み、更には国境を越えて全世界的に祟り・霊障をもたらす展開など、オリジナル作の持ち味を無視・無理解してるかの様な改悪アレンジが加えられしまい、今後の展開に不安を残している(清水崇監督が語った同意見コメントについては、佐伯伽椰子#伽椰子の行動と目的も参照の事)。

代表的なホラー映画

海外

日本

ホラー映画研究書

関連項目