スタンリー・キューブリック

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テンプレート:Redirect テンプレート:複数の問題 テンプレート:ActorActress スタンリー・キューブリックStanley Kubrick, 1928年7月26日 - 1999年3月7日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークマンハッタン生まれの映画監督。のちにイギリスに移住した。イギリスハートフォードシャーの自宅で心臓発作で息を引きとったとされるが、正式な死因は明らかにされていない。 キューブリックの死は監督作品「アイズ ワイド シャット」の試写会5日後の事だった。

経歴

開業医を営むオーストリア=ハンガリー帝国に起源を持つユダヤ人[1]の両親の長男としてニューヨークマンハッタンで生まれる。少年時代にキューブリックの興味を引いたもの中にカメラチェスジャズがあり、その中のカメラが彼の経歴の出発点となる。ハイスクール時代はIQは平均以上だったが、成績は平均以下だった。

1946年ニューヨーク市立大学シティカレッジに入学するがすぐに中退。一時はジャズバンドのドラマーを目指していたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を報じる一連の写真が写真雑誌『ルック』誌に売れ、見習いカメラマンとして在籍するようになる。

写真雑誌『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』を製作し、映画の道を歩み始める。この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ、この成功をきっかけに『ルック』誌を退社する。

親類から借金をして初の長編劇映画『恐怖と欲望』を製作するも、この映画は赤字になる。続いてキューブリックは『非情の罠』を製作する。ただし、この映画も製作費を回収することはできなかった。

26歳の時、同い年のジェームス・B・ハリスと組み、ハリス=キューブリック・プロダクションズを設立。

SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』、『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』の成功で世界の批評家から映像作家としての才能を認知される。

12年ぶりの監督作品となった『アイズ ワイド シャット』(原作はシュニッツラーの『夢小説』)の完成後、公開を待たずに心臓発作で死去。70歳であった。

『アイズ ワイド シャット』と同時期から企画を温めていた『A.I.』は2001年スティーヴン・スピルバーグがキューブリックの残したトリートメントを基に未完成だった脚本を完成させ製作・公開された。

映画人として

映画監督を目指した理由として「今の奴ら(現役の監督たち)よりは上手く撮れる自信があったからだ」と発言している[2]

初期のころより、監督のみならず映画製作全般にわたり、すべてを掌握する姿勢をとり続けた。「完全主義者」といわれ[3][4] 、特に晩年は映画製作に時間がかかることでも有名だった。

ロリータ』以降の脚本、編集、選曲のいずれも独特なセンスと切れがあり、自作の公開に関して上映の劇場の地理的状況から上映システムに至るまでコントロールしようと努めている。日本での公開では字幕の翻訳も再英訳を校閲する方法で監修した。

手法・演出

よく動くカメラ、大画面で深い奥行きの出る広角レンズの使用、『時計じかけのオレンジ』以降のカラー作品では自然光を利用した、あるいは自然光を模した照明も特徴で、自身並みの映画撮影者より遥かに安定した手持ち撮影ができた。

また作品中の恐怖演出として陰影を強く演出した上で、上目遣いで画面を睨み付けるという演技を役者に要求することが多い。テンプレート:要出典範囲、『時計じかけのオレンジ』『フルメタル・ジャケット』『シャイニング』などで使用されている。

影響

写真雑誌の見習いカメラマン時代に数多くの映画を観て過ごし、マックス・オフュルスオーソン・ウェルズセルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテインチャールズ・チャップリンなどから影響を受ける。テンプレート:独自研究範囲テンプレート:要出典範囲

姿勢

キューブリックは映画『スパルタカス』の大成功をきっかけに有名監督になるが、その後のインタビューで「私の意見はカーク・ダグラス(=製作責任者)にとって多くの意見の一つに過ぎなかった」と述べるなどして、最終決定権が監督ではなくスタジオやプロデューサーが握るハリウッド・メジャーの製作システムにあるとして、これを度々批判している[5]

これに懲りて、以降の作品では製作も自身が行うようになり、アメリカの映画システムと決別してイギリスへ渡り、アメリカの会社の資本のもとで独自に映画製作を続けることになる。『スパルタカス』以後は他人の脚本で映画作りをすることはなかった。

その後、キューブリックは『スパルタカス』についてインタビューなどで自らの功績を誇示し、関係者の反感を買った。特に、『突撃』・『スパルタカス』の製作者としてキューブリックに活躍の場を与えたダグラスは、手腕を買っていたのに完成後、自分を貶める発言を繰り返すキューブリックに我慢ならず、自伝の中で「キューブリックは才能のあるクソッタレだ(a talented shit)」と、その監督手腕は認めつつも、人柄には疑問を投げ掛けている。

製作されなかった映画

キューブリックが最も拘っていた企画が『ナポレオン』で、『2001年宇宙の旅』の次回作として製作も決定していて、脚本も完成し、撮影を残すのみとなっていた。ところが先に公開された『ワーテルロー』が興行的に失敗し、『ナポレオン』の出資者が引き揚げたために製作中止に追い込まれた。[6]

ほかにホロコーストをテーマにした『アーリアン・ペーパーズ』(原作は『五十年間の嘘』)という企画も、脚本の執筆中にスピルバーグの『シンドラーのリスト』が公開され、キューブリックの前作『フルメタル・ジャケット』が『プラトーン』(『フルメタル・ジャケット』の前に公開)と何かと比較され、大ヒットとオスカー受賞のチャンスを逸した経験から、製作中止を決めた。

人物

自身は飛行機の免許を持ち操縦経験もあったが、操縦中に事故を起こしかけた経験と、墜落事故に巻き込まれた知人のカメラマンの焼け焦げたカメラを見て以来、ジェット機の旅行を極度に嫌ったため、プロモーションなどでの来日経験はなく、カンヌなどの映画祭に出席したという記録もない。

さらにロケが必要な映画なども、スペインロケの『スパルタカス』やアイルランドロケの『バリー・リンドン』以外はあまり遠くでロケをすることはなく、ベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』のフエのシーンもロンドン近辺の工場跡を使い、輸入してきたヤシを植えて撮影し、ニューヨークが舞台の『アイズ ワイド シャット』もその多くを大規模なスタジオ撮影でこなしている。

「仕事以外では自宅を一歩も出ない引篭もり人生」というのは多少誇張された表現だが、執筆を依頼した脚本家(殆どは作家を本業にしている)や脚本を読んで欲しい映画会社の重役、デニス・ミューレンジェームズ・キャメロンなど視覚効果についてのアドバイスを求めた映画人を、わざわざロンドン郊外の邸宅に招いたのは事実である。また行きつけの文房具店があり、カードの名前で店員に気付かれて話し掛けられる事がないように、現金で購入していたという(ドキュメンタリー映画「スタンリー・キューブリックの箱」)。

友人

スティーブン・スピルバーグとは特に親交が深く、『A.I.』についての打ち合わせのためにスピルバーグが自家用機で向かい、キューブリック邸のキッチンで話しあったことがあり、それ以外は電話かファックスでやりとりをしていた。テンプレート:要出典範囲

名前の表記について

イギリス英語による発音/'kju:brik/に基づく「キューブリック」のカナ表記が定着しているが、かつては「カブリック」「クーブリック」とも表記されていた。

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各種のインタビューによる限り最もアメリカ英語による発音/'ku:brik/[7]に近い「クーブリック」表記の提唱者は、アーサー・C・クラーク著『失われた2001年宇宙の旅』の訳者あとがきに明記されているように翻訳家の伊藤典夫であり、その意向を受けた月刊『STARLOG』誌(ツルモトルーム版)が、「今日からクーブリックと呼ぼう」というキャンペーンを展開。以後、同誌では「クーブリック」表記を使用することになったため、SFファンを中心に「クーブリック」表記が広まった経緯がある。

監督作品

出典

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外部リンク

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  1. LoBrutto 1999, p. 6.
  2. デイヴィッド ヒューズ 『ザ・コンプリート キューブリック全書』 フィルムアート社、2001年、43頁。
  3. スタンリー・キューブリック 〜時代を超越する映像〜花の絵 2014年1月14日
  4. 『恐怖と欲望』公式HP
  5. ミシェル・シマン著『キューブリック』より ISBN 978-4893671448
  6. HBO、キューブリック脚本&スピルバーグ製作のナポレオン伝記ドラマをミニシリーズ化か?
  7. [1]