朝鮮通信使
朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団である。
目次
概要
朝鮮通信使のそもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ばからしばらく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向けても派遣されている。しかし、その後の文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために中断された。その後、江戸時代に再開された。広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。「朝鮮通信使」という表現は研究者によって造作された学術用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れる。また江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。
室町時代の朝鮮通信使
室町時代の朝鮮通信使には日本の国情視察目的も密かに含まれており、例えば1428年(正長元年)派遣の使節に同行した書記官の申叔舟が著した『海東諸国紀』によると、倭寇禁圧要請と併せて倭寇の根拠地の特定、倭寇と守護大名、有力国人、土豪との関係、都市部の発展状況や通貨政策など国力状況の観察、日本での仏教の展開状況をはじめ15項目の調査内容があったという。
室町時代には3度来日し、1459年(長禄3年)や1479年(文明11年)にも派遣計画があったが来日しなかった(また、正使が任じられたものの、計画自体が中止されたことも1413年(応永20年)と1475年(文明7年)の2度あった)。これは、使者が途中で死亡したことや渡航の危険を理由として説明されるが、偽使(守護大名や国人が将軍の名前を詐称して勝手に交渉すること)の横行や日朝貿易の不振により、必要性が減殺したためだと説明されることもある。その後豊臣政権まで約150年間にわたって中断した。
1429年、日本に来た朴端生は、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を祖国に報告している。日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。水車はその百年以上も前に、「徒然草」(第五十一段)に記されており、当時には農民達の手で取り付けられていた事を考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられる[1]。
朝鮮はまだ物々交換の時代で、貨幣や商いを知らなかったので、15世紀の朝鮮通信使は日本の乞食は銭を乞うと驚きをもって記録している。
室町期朝鮮通信使履歴
回数 | 年 | 目的・名称等 |
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第1回 | 1428年(正長元年) | 通信使正使 朴瑞生 副使 李芸 書状官 金克柔 将軍就任祝賀,前将軍致祭 足利義教の引見 |
第2回 | 1439年(永享11年) | 通信使正使 高得宗 副使 尹仁甫 書状官 金礼蒙 旧交 足利義教の引見 |
第3回 | 1443年(嘉吉3年) | 通信使正使 卞孝文 副使 尹仁甫 書状官 申淑舟 将軍就任祝賀,前将軍致祭 足利義教の引見 |
豊臣秀吉に派遣された通信使
1590年(天正18年)に豊臣秀吉に派遣された通信使(12月3日(11月7日)に秀吉に謁見)は名目としては秀吉の日本統一を祝賀することが目的であったが、朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣された通信使である。このときも対馬宗氏が仲介を行っている。この際の正使黄允吉と副使金誠一が対立関係にあったために正使は侵攻の意思ありと報告し副使は侵攻の意思なしとの報告が行なわれ、王に近い副使側の意見が採られた。文禄の役の際に一気に平壌まで侵攻されたのはこの副使の報告に従い、なんら用意をしていなかったためともされる。
1596年(慶長元年)の通信使は日本と明の休戦交渉の締めくくりとして行われた明使(冊封使)の日本への派遣に同行したものであったが、明の使者に随行した正使・黄慎(行護軍兼敦寧都正[2])と副使・朴弘長(大邱府使)は共に秀吉より接見を許されなかった。明使の交渉も失敗し慶長の役の再出兵が行われた。 テンプレート:節stub
豊臣秀吉朝鮮通信使履歴
回数 | 年 | 目的・名称等 |
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第1回 | 1590年(天正18年) | 通信使 |
第2回 | 1596年(慶長元年) | 通信使 |
江戸時代の朝鮮通信使
江戸期の日朝交流は豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。
室町時代末期、日朝・日明貿易の実権が大名に移り、力を蓄えさせたと共に、室町幕府の支配の正当性が薄れる結果になった。そうなることを防ぐため、江戸幕府は地理的に有利な西日本の大名に先んじて、朝鮮と国交を結ぶ必要があった。
主として対馬藩が江戸幕府と李氏朝鮮の仲介を行った。これは対馬藩が山がちで耕作に向いておらず、朝鮮との貿易なくては窮乏が必至となるためである。国交回復を確実なものとするために対馬藩は国書の偽造まで行い、朝鮮側使者も偽造を黙認した。後に、対馬藩家老であった柳川調興は国書偽造の事実を幕府に明かしたが、対馬藩主・宗義成は忠告のみでお咎めなし、密告した柳川は津軽へ流罪とされた。詳細は柳川一件を参照のこと。
一方朝鮮では、文禄・慶長の役が終わり、国内で日本の行った行為や李朝の対応に対する批判が高まると同時に[3]、日本へ大量に連れ去られた朝鮮人捕虜の返還を求める気風が強くなっていった[3]。また朝鮮を手助けした明が朝鮮半島から撤退すると、日本を恐れると同時に、貿易の観点からも日本と友好関係を何とか結びたいと考えていた[3][4]。
こうした中、対馬藩の努力によって1607年(慶長12年)、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され、6月29日(5月6日)、江戸にて将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。ただし、このときから3回目までの名称は回答兼刷還使とされている。日本側からの国書による回答(謝罪)を求め[3]、日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜を、朝鮮へ連れ帰るのを目的とした使いであった[3]。この求めに対し、徳川幕府が国書を送った形跡はないが[3]、上記のように対馬藩は国書の偽造を行って関係を修復しようとした。日本国内の朝鮮人捕虜のうち、儒家はほとんどが帰国した一方、陶工の多くが日本に留まったとされる。これは当時の日本社会が技術を持った職人を高く評価していたのに比べ、李氏朝鮮では儒教思想による身分制において陶工は最下層の賤民に位置づけられ、奴隷的な労働を強いられるとともに、失策を犯した場合には体罰を課せられるという過酷な状況にあり、職人に対する根源的な差別があったことが原因である[1]。
その後、両国が友好関係にあった室町時代の前例に則って、徳川幕府から通信使派遣の要望により国使は回答兼刷還使から通信使となった。
通信使は釜山から海路、対馬に寄港し、それから馬関を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、淀よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かうルートを取ったが、近江国では関ヶ原の戦いで勝利した後に徳川家康が通った道の通行を認許している。この道は現在でも朝鮮人街道(野洲市より彦根市)とも呼ばれている。吉例の道であり、大名行列の往来は許されなかった街道である。このルート選定については、朝鮮人は幕藩体制のヒエラルキーの外側にいるためであったという見方とともに、徳川家の天下統一の軌跡をたどることでその武威を示す意図[5]があったのではないかとする見方もある。
その後、通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになった。計12回の通信使が派遣されているが、1811年(文化8年)に通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶した。幕府からの返礼使は対馬藩が代行したが、主として軍事的な理由において漢城まで上る事を朝鮮側から拒否され、釜山に貿易目的で設立された倭館で返礼の儀式が行われた。唯一の例外は1629年(寛永6年)に漢城に送られた僧を中心とした対馬藩使節であるが、これは後金の度重なる侵入に苦しむ朝鮮側が日本の後ろ盾があるように見せかけたかったためであるとされている。なお、この際にも対馬藩側は李氏朝鮮に対して中国産の木綿の輸出を依頼し、成功している。また、倭館には貿易のために対馬藩士が常駐していた。
通信使について当時の日本人らは「朝鮮が日本に朝貢をしなければ将軍は再び朝鮮半島を侵攻するため、通信使は貢物を持って日本へ来る」などという噂をしており[6]、幕府の公式文書では「来貢使」という用語は一切使われていないにも関わらず、民間では琉球使節と同様に一方的な従属関係を示す「来貢」という言葉が広まっていた[7]。『朝鮮人来聘記』等においても三韓征伐等を持ち出して朝鮮通信使は朝貢使節であると見なしており、当初から日本人が朝鮮通信使を朝貢使節団として捉えていたことがうかがえる。また、朝鮮側も日本側が入貢と見なしていたことは認識していた。延享度の通信使の朝鮮朝廷への帰国報告では、信使の渡来を幕府は諸侯に「朝鮮入貢」として知らせており、それまでの使節もそれを知りながら紛争を恐れて知らぬふりをしていた旨が記されている[8]。こうした朝鮮観から、1811年以後通信使が途絶したことを「朝貢を止めた」と受け止める風潮が生じ、幕末の慶応2年(1866年)末に清国広州の新聞に、とある日本人が寄稿した「征韓論」の記事にも、征韓の名分として挙げられている(詳細は八戸事件を参照)。
なお、幕府は通信使の立場を低く見て江戸城裏門からの入城しか許さなかったと言う言説がネットでまれに見られるが、「徳川実記」には「(寛永20年7月18日)朝鮮国信使聘礼行はる。よて信使は辰刻本誓寺の旅館を出て、路中音楽を奏し、その国書を先に立てまうのぼる。上官は大手門下馬牌の下より馬を下り(以下略)」などの記録がいくつもあり、大手門から入城していたことがわかる。
11回の来日のうち、主要な出来事を記すと次のようになる。
1636年(寛永13年)朝鮮通信使の待遇改定
通信使は柳川一件の翌年に、それまで柳川家主導で応対されていたものが対馬宗氏の手によって招かれた。これは幕府によって宗氏の力量が試されたという側面も存在している。ここにおいて接待、饗応の変更がなされた。これは日本側の主導によるもので、変更の骨子は、第一に、朝鮮側の国書で徳川将軍の呼称を日本国王から日本国大君に変更すること(この「大君」呼称の考案者は京都五山の高僧・玉峰光璘である)、将軍側の国書では「日本国源家光」とした。第二に親書に記載される年紀の表記を干支から日本の年号に変更するということ、第三に使者の名称を朝鮮側が回答使兼刷還使から通信使に変更するというものである。将軍の呼称変更と、年紀表記変更の理由は次のように説明される。
そもそも「国王」称号や「干支」の使用は中華秩序における冊封体制の残滓であり、中華帝国を頂点として周辺諸国を従属国視する、伝統的東アジア外交秩序そのものであり、いまこそ、その体制から離脱を図り、かつ朝鮮側にもそれを認知させようとしたのだ、という論であるテンプレート:誰。その一方で「国王」称号は国内的には天皇をさすため、これに遠慮し次善の策として「大君」を用いたという、もっぱら国内的要因に鑑みての変更にすぎないではないかという論テンプレート:誰や、清国皇帝と日本国天皇を対等とし、それぞれから冊封された朝鮮国王と征夷大将軍=日本国王を対等とみなしたとの説(井沢元彦「逆説の日本史」)、議論の決着を見ていない。いずれにせよこの制度改定は、後述の正徳度来日の際のような深刻な外交問題には発展しなかった。
その理由としては当時、李氏朝鮮は北方から後金の圧迫に忙殺されていたため、日本側の制度変更にあえて異論を挟まなかった、あるいは挟む余裕がなかったとされる。この来日の際には、幕府に朝鮮国王直筆の親書、銅鏡が進呈され、また使節団が神君とされる大権現家康が眠る日光東照宮を参拝をしたことが、国内的に大々的に喧伝され、幕府権威の高揚に利用された。
正徳度朝鮮通信使の待遇改定
正徳期には待遇の簡素化と将軍呼称の変更がされた。この制度改定は新井白石の主導によるものだが、これは従来の饗応、待遇を全面的に変更するものであり、結果として日朝間の外交摩擦に発展する。通信使接遇には一度に約100万両(1両=1石換算で幕府の直轄領約400万石の1/4に相当する)かかるものであり、もともと白石は来日招聘そのものに反対であった点が注目される。しかし当時の老中首座土屋政直が従来どおり来日を招聘すべしと異論を挟んだため、白石も折れた経緯がある。そこで、白石は、「対等」「簡素」「和親」を骨子として、まず待遇を簡素化し、対馬から江戸の間で宴席は赤間関、鞆、大坂、京都、名古屋、駿府の6ヶ所に限定し、他の宿所では食料の提供にとどめることとし、接待には通過する各藩の藩主が出向かずともよいことにした。接待に使用する小道具も蒔絵の塗り膳や陶磁器の高価なものは厳禁した。これらの努力により接待費用を60万両に抑える一方、将軍呼称を再び日本国王に変更した。
この変更の理由としては江戸時代も安定期に向かい、将軍の国内的地位が幕初の覇者的性格から実質的に君主的性格に移行した現実を踏まえ、「国王」を称することにより徳川将軍が実質的意味において君主的性格を帯びるようになったことを鮮明にせんとしたとも、あるいは、「大君」は朝鮮国内においては王子のことを指すので、これではむしろ対等ではないので国王に戻すのだとも説明されている。
呼称の当否は別とし、この変更は朝鮮通信使の来日直前に一方的に通告されたため、深刻な外交摩擦に発展し、将軍の名分をめぐって林信篤や対馬藩藩儒雨森芳洲も巻き込んで日朝双方を果てしない議論にまき起む結果となった。なお、正徳の次に来日した享保度の通信使の際には徳川吉宗は名分論には深入りせず、再び大君に復し、待遇も祖法遵守を理由に全面的に天和度に戻している。
文化度朝鮮通信使の接遇改定
1787年(天明7年)、11代将軍に徳川家斉が就任した。本来であれば早速通信使来日となるのだが、老中松平定信[9]は、1788年(天明8年)3月には一旦通常通りの要請を行った後、三ヶ月後の6月に派遣延期要請の使者を送った。しかしこれは前例がない上、理由も明白でないとして一時は偽使扱いされるほどであったテンプレート:Sfn。朝鮮側は日本側に質問状を送ったが、幕府は回答せず、交渉は一旦打ち切られたテンプレート:Sfn。
1791年(寛政3年)、幕府は江戸にかえて対馬での「易地聘礼」を打診した。このとき伝えられた理由はあくまで「年来の凶作によって、通信使を迎えるのは負担になる」というものであったテンプレート:Sfn。朝鮮側は対馬における聘礼には従えないが、いったん通信使派遣を延期するという回答を行ったテンプレート:Sfn。しかし1805年(文化2年)には、朝鮮の通訳官が「易地聘礼」を実現するために対馬藩から贈賄を受けたことが発覚し、処刑されるという事件が起きているテンプレート:Sfn。このような混乱もあって、朝鮮側と幕府の交渉が開始されたのは1806年(文化3年)になってからのことであった。朝鮮側にも遣使費用の負担を回避したいという意向があり、派遣に、1810年(文化7年)になって国王純祖が「易地聘礼」を決定したテンプレート:Sfn。翌1811年(文化8年)には打診から20年たっての易地聘礼がようやく実現した。ただ、幕府の出費節減はなったが、国内的な将軍権威の発露というもうひとつの意義は損なわれた。
そのため1841年(天保12年)、徳川家慶が将軍につくと、老中・水野忠邦は江戸招聘から大坂招聘に変更する計画を立案している。西国大名を接待に動員することで大名の勢力削減をおこない、一方で幕府の権威を示し、かつ大坂・江戸間の行列を圧縮することにより幕府の経費を節減できるという一石三鳥の効果を狙ったものである。しかしこの計画は幕府内の反対にあい計画は頓挫し、以後の3代の将軍(家定・家茂・慶喜)就任に際しても朝鮮側に招請は行ったものの具体的な計画には至らなかった[10]。結局、幕府滅亡まで通信使来日の計画はのぼらなくなった。
江戸期朝鮮通信使履歴
回数 | 西暦(元号) | 朝鮮暦 | 将軍 | 朝鮮正使 | 名称 | 目的 |
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第1回 | 1607年(慶長12年) | 宣祖40年 | 徳川秀忠 | 呂祐吉 | 回答兼刷還使 | 日朝国交回復、捕虜返還 |
第2回 | 1617年(元和3年) | 光海君9年 | 徳川秀忠 | 呉允謙 | 回答兼刷還使 | 大坂の役による国内平定祝賀、捕虜返還 |
第3回 | 1624年(寛永元年) | 仁祖2年 | 徳川家光 | 鄭岦 | 回答兼刷還使 | 家光襲封祝賀、捕虜返還 |
第4回 | 1636年(寛永13年) | 仁祖14年 | 徳川家光 | 任絖 | 朝鮮通信使 | |
第5回 | 1643年(寛永20年) | 仁祖21年 | 徳川家光 | 尹順之 | 朝鮮通信使 | 家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀 |
第6回 | 1655年(明暦元年) | 孝宗6年 | 徳川家綱 | 趙珩 | 朝鮮通信使 | 家綱襲封祝賀 |
第7回 | 1682年(天和2年) | 粛宗8年 | 徳川綱吉 | 尹趾完 | 朝鮮通信使 | 綱吉襲封祝賀 |
第8回 | 1711年(正徳元年) | 粛宗37年 | 徳川家宣 | 趙泰億 | 朝鮮通信使 | 家宣襲封祝賀 |
第9回 | 1719年(享保4年) | 粛宗45年 | 徳川吉宗 | 洪致中 | 朝鮮通信使 | 吉宗襲封祝賀 |
第10回 | 1748年(寛延元年) | 英祖24年 | 徳川家重 | 洪啓禧 | 朝鮮通信使 | 家重襲封祝賀 |
第11回 | 1764年(宝暦14年) | 英祖40年 | 徳川家治 | 趙曮 | 朝鮮通信使 | 家治襲封祝賀 |
第12回 | 1811年(文化8年) | 純祖11年 | 徳川家斉 | 金履喬 | 朝鮮通信使 | 家斉襲封祝賀(対馬に差し止め) |
通信使接待状況
地名 | 接待に動員された大名 | 宿所 |
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対馬府中 | 対馬藩宗氏 | 西山寺 国分寺 |
壱岐勝本浦 | 平戸藩松浦氏 | 勝本浦阿弥陀堂 |
筑前藍島 | 福岡藩黒田氏 | 藍島客館[* 1] |
長門赤間関 | 長州藩毛利氏 | 阿弥陀寺、引接寺 |
周防上関 | 長州藩毛利氏 | 上関御茶屋館(藩迎賓館) |
安芸蒲刈 | 広島藩浅野氏 | 御茶屋(藩迎賓館) |
備後鞆 | 備後福山藩[* 2] | 対潮楼(海岸山福禅寺境内) |
備前牛窓 | 岡山藩池田氏 | 本蓮寺、御茶屋(藩迎賓館) |
播磨室津 | 姫路藩 | 御茶屋(藩迎賓館) |
摂津兵庫 | 尼崎藩、大坂町奉行[* 3] | 浜本陣および阿弥陀寺[* 4][11] |
摂津大坂 | 大坂町奉行 和泉岸和田藩岡部氏[* 5] |
西本願寺津村別院(北御堂)[* 6] |
山城淀 | 山城淀藩 | 御馳走屋敷 |
山城京都 | 京都所司代 膳所藩 |
本国寺[* 7] |
近江守山 | 膳所藩石川氏、伊勢亀山藩石川氏他[* 8][12] | 東門院[* 9][12] |
近江彦根 | 彦根藩井伊氏 | 宗安寺(彦根城下)[* 10] |
美濃大垣 | 大垣藩戸田氏 | 不明 |
尾張名古屋 | 尾張藩徳川氏 | 大雄山性高院 |
三河岡崎 | 岡崎藩 | 御馳走屋敷(藩迎賓館) |
三河吉田 | 吉田藩 | 不明 |
遠江浜松 | 浜松藩 | 不明 |
遠江掛川 | 掛川藩ほか | 民家 |
駿河藤枝 | 田中藩ほか | 大慶寺 |
駿河興津 | 御馳走役大名 | 清見寺 御茶屋(迎賓館) |
伊豆三島 | 御馳走役大名 | 世古本陣 |
相模箱根 | 小田原藩 | 不明 |
相模小田原 | 小田原藩 | 片岡本陣 |
相模藤沢 | 御馳走役大名 | 蒔田本陣 |
武蔵神奈川 | 御馳走役大名 | 石井本陣 |
武蔵品川 | 御馳走役大名 | 東海寺[* 11] |
武蔵江戸 | 将軍 | 浅草東本願寺[* 12] |
- ↑ 玄界灘の離島に専用の接待施設が設けられていた
- ↑ 第10回は宇和島藩・伊達村候、第11回は岡藩・中川久貞が福山藩に代って担当した
- ↑ 第1回は片桐貞隆が豊臣秀頼の代官として兵庫城で接待した。
- ↑ 三使はじめ上官は浜本陣と呼ばれる大商人宅に、中・下官はその他の商家や集会所、僧は阿弥陀寺に分宿した。
- ↑ 第1回は片桐貞隆、第2回は堺奉行と大坂の豪商が接待を担当した
- ↑ 第1回は寺沢広高(肥前国唐津藩主)の大坂屋敷、第7回は東本願寺難波別院が宿所に使用された
- ↑ 本国寺以外にも大徳寺(第1回-第3回)や本能寺(第9回)が宿所に使用された
- ↑ 石川氏が伊勢亀山に転封後、代々伊勢亀山藩主の家役となった。
- ↑ 三使・上上官判事・学士・医師は東門院に、上・次官は大光寺、中官以下はその他寺院等に分宿した。
- ↑ 道路の通称として朝鮮人街道(巡礼街道)が残されている。
- ↑ 第9回より
- ↑ 第7回までは本誓寺(馬喰町)
朝鮮通信使の見た日本
朝鮮通信使の見た日本について最初に記録されているものは第8次通信使の李邦彦が鞆の浦・福禅寺にある客殿からの仙酔島の景観を高く評価し、”日東第一形勝”(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)と称え、続いて第10回朝鮮通信使の正使であった洪啓禧がこの場所を対潮楼と名付け賞讃し書を残す。また第11次朝鮮通信使では来日した金仁謙は『日東壮遊歌』に当時の日本社会の様子と自身の率直な心情を書き残した。
朝鮮通信使、金仁謙の著書『日東壮遊歌』より
- 大坂での記述より
- (多くの船が)一斉に行き来する様は驚くばかりの壮観である。その昔、楼船で下る王濬が益州を称えた詩があるが、ここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう[13]。
- 流れの両側には人家が軒を連ね、漆喰塗りの広い塀には鯨の背のような大きい家を金や紅でたくみに飾り立てているが、三神山の金闕銀台(きんけつぎんだい:仙人の住処のこと)とは、まことのこの地のことであろう[14]。
- 本願寺に向かう道の両側には人家が塀や軒をつらね、その賑わいのほどは我が国の鍾絽(チョンノ:ソウルの繁華街)の万倍も上である[15]。
- 館所に入る、建物は宏壮雄大、我が国の宮殿よりも大きく高く豪華である[16]。
- 我が国の都城の内は、東から西にいたるまで一里といわれているが、実際には一里に及ばない。富貴な宰相らでも、百間をもつ邸を建てることは御法度。屋根を全て瓦葺にしていることに 感心しているのに、大したものよ倭人らは千間もある邸を建て、中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き、黄金を以って家を飾り立てている。 その奢侈は異常なほどだ[17]。
- 天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである。[18]。
- この国では高貴な家の婦女子が厠へ行くときはパジ(韓服のズボン状の下着のこと)を着用していないため、立ったまま排尿するという。お供のものが後ろで、絹の手拭きを持って立ち、寄こせと言われれば渡すとのこと。聞いて驚きあきれた次第[19]。
- 京での記述より
- 尾張名古屋での記述より
- その豪華壮麗なこと大坂城と変わりない。夜に入り灯火が暗く、よくは見えぬが、山川迂闊にして人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、沿路随一とも言える。中原にも見当たらないであろう。朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べればさびしい限りである[22]。
- 人々の容姿の優れていることも 沿路随一である。わけても女人が 皆とびぬけて美しい。明星のような瞳、 朱砂の唇、白玉の歯、 蛾の眉、茅花(つばな)の手、蝉の額、氷を刻んだようであり 雪でしつらえたようでもある。趙飛燕や楊太真が万古より美女と誉れ高いが、この地で見れば色を失うのは必定。越女が天下一というが、それもまこととは思えぬほどである[23]。
- (復路にて)女人の眉目の麗しさ、倭国第一といえる、若い名武軍官らは、道の左右で見物している美人を、一人も見落とすまいと、あっちきょろきょろこっちきょろきょろ、 頭を振るのに忙しい、まるで幼児のいやいやを見ているようであった[24]。
- 江戸での記述より
明治時代の朝鮮通信使
1880年、後に内閣総理大臣となる金弘集を始めとする朝鮮通信使が訪れている[28]。
韓国の歴史教育における朝鮮通信使
韓国の歴史教育においては、朝鮮通信使と、そのきっかけとなった文禄・慶長の役で日本に連行された捕虜について以下のように教えている。
テンプレート:Quotation
テンプレート:Quotation
しかし実際の歴史では、当時の朝鮮通信使が書いた『日東壮遊歌』等の道中記に、進んだ文化と社会体制を営んでいる日本への嫉妬と羨望が描写されていたり、当時の日本の社会や文化の発展の様子を鑑みれば、韓国の歴史教科書の記述は史実と相当の相違があるといえる。 また、日本の学者等によって、上述のような韓国の歴史教科書の歴史的事実を誇張・歪曲した「文化先進国の朝鮮と文化劣等国の日本」という自民族優越主義的な記述が、韓国社会に蔓延する「韓国起源説」の温床になっていると批判されている[29]。また、韓国人や在日韓国人が四天王寺ワッソ等の朝鮮通信使を再現するパレードを日本各地で主催する行為には、「歴史的な文化先進国の朝鮮と文化劣等国の日本」という歴史認識を日本に広める意図が込められていると指摘する識者もいる。
交流
前述のように朝鮮通信使は主として将軍家を祝賀するためにやってきた国使であり、中国皇帝に対する朝貢使節と同様の役割、すなわち将軍の権威の誇示に利用された。同時に鎖国を国是としていた当時の日本において、間接的にではあっても中国文化に触れることのできる数少ない機会でもあり通信使の宿泊先には多くの日本の文人墨客が集まり、大いに交流がなされるという副産物をもたらした。
江戸時代を通じて朝鮮通信使一行のための迎賓館として使用された備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町)の福禅寺境内の現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の1690年(元禄3年)に建立され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年(正徳元年)に従事官の李邦彦が客殿から対岸に位置する仙酔島や弁天島など鞆の浦の眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意」)と賞賛し、1748年(寛延元年)に正史の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた書をのこし、それを額にしたものが対潮楼内に掲げられている。
朝鮮は儒教の国であり、科挙を経てきた官僚である通信使達は高い儒教の教養を持っていた。藤原惺窩や林羅山をはじめとした日本の儒学者は通信使と交流を持ち、日朝相互に儒学者の書籍が紹介された。しかし朝鮮では朱子学、とくに性理学が国教的存在であり、異説を認めない立場が極めて強固であったテンプレート:Sfn。一方で日本において儒学の制限はほとんど存在せず[30]、独自に説を発展させる余地が大きかった。このため朝鮮に紹介された伊藤仁斎や荻生徂徠、太宰春台の説は批判され、通信使達も旧来の朱子学説を固守する傾向が強かった。この両者のギャップは次第に広がり、後期には日本の学者が「やっと宋儒(朱子学者)が固陋であることを知った。今、貴国ではもっぱら宋学(朱子学)を主張するので、何も問うものがない」と告げるほどであったテンプレート:Sfn。一方で朝鮮の主流ではない実学の立場からは、日本の儒学を評価する動きもあったテンプレート:Sfn。
通信使一行の行列見物は庶民にとって大きな娯楽であった[31]反面、通信使の往来路であると否とにかかわらず、武蔵・相模以西の東海道・畿内・西国の農民には労役の提供や費用の負担が求められ[32]、通信使の来朝は農民達にとっては臨時に重い負担を強いられるものでもあった[33]。そして、文化の違いや日本人に対する侮りから、通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる[34]、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる[35] 魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたり[36]といった乱暴狼藉を働くものもあった。警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばあり、1764年(宝暦14年)には大阪の客館で、対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が杖で打ち据えられ、通信使一行の都訓導・崔天崇を夜中に槍を使って刺殺するという事件まで起こっている。これは朝鮮の下級役人が鏡を紛失したと聞いた崔天崇が「日本人は盗みが上手い。」と言ったのを鈴木伝蔵が聞きとがめ、かねてよりの朝鮮人の窃盗行為を非難したのが発端であった。江戸時代後期の儒学者菅茶山は「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し[37]。」と、朝鮮人が伝聞とは異なり無作法なことに驚いている。
また一説には、友好使節のはずの朝鮮通信使が、当時の朝鮮人と日本人の間の文化の違いからかえって偏見を生み、のちの征韓論や植民地支配に繋がったとする考えがある[38]。当時の日本人には朝鮮人の肉食文化が野蛮なものに見えたことが原因であるとし、その根拠として『画図入(えずいり)朝鮮来聘記全』内の狂詩における「通信使が寺の中に魚や肉を持ち込んで食い散らかしている」という表現、及び淀藩の資料『朝鮮人来聘記』内の朝鮮聘礼使淀城着来図の絵に描かれたうちの一部(右図)を「通信使一行が町人の飼っている鶏を盗んで逃げようとし、日本人と喧嘩になっている」様子だとしたうえで挙げている。また『朝鮮人来聘記』や『朝鮮人来朝記』といった当時の資料に、三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵を持ち出して朝鮮通信使を朝貢使節と見なそうとしている記述があることも併せて論拠としている。
その一方、基本的に日本人を「倭人」として見下しながらも古く室町には平仮名、片仮名と言った固有文字の存在に、江戸時代には京都、大阪、江戸といった都市の絢爛豪華さに驚いた。1420年の回礼使である宋希景は乞食が食物ではなく銭を欲しがるような貨幣経済の発達に対して驚きの声を上げた(その時の李氏朝鮮では、都市部で楮貨という紙幣が流通していた程度で、貨幣経済と呼ぶに足るものが成立しておらず、布・米を媒体とした物々交換が主であったため)といった記録が残っており、また、朝鮮で後に飢饉を救ったサツマイモ(宝暦度 1764年(宝暦14年))や揚水式水車など、日本から相応の文物を持ち帰っていたようである。特に歴代の朝鮮通信使は日本の揚水式水車に興味を示し、幾度もその構造を絵図面に写して自国に持ち帰ったものの、その後に李氏朝鮮でこの種の水車が用いられたという歴史がないことから実現はしなかったようである。ただしこのような事実は、現在の韓国の歴史認識と背反しているため、韓国側では日本側による捏造・歪曲とされることが多い。またこのような史実を日本側が主張することで、韓国側に反発が起こることも多い。
絵画、工芸、芸能に伝わる朝鮮通信使
現在、日本の各所に通信使来日の際に筆写された行列絵巻が残っている。とくに正徳時に老中土屋政直の命令によって大量に作成されたが、対馬藩に残る『正徳度朝鮮通信使行列図巻』はその典型である。他にも当時の画家英一蝶が描いた『朝鮮通信使小童図』や紀州藩に伝わる『朝鮮通信使御楼船図屏風』が著名である。
日本の街道を練り歩く使節団の姿は、太平の世にあっては物珍しいイベントであった。朝鮮通信使を模したと言われているもので、今日にも伝わる著名なものとして唐人おどり(鈴鹿市東玉垣町、津市分部町)、唐子おどり(岡山県瀬戸内市牛窓)の3件がある。大名行列とは異なり、朝鮮通信使は正使や副使などの外交官の他に随行員には美しく着飾った小童や楽隊、文化人、医師、通訳などが加わっており、江戸時代を通じて庶民にとっては数十年に一度やってくる異国情緒を持った一種の見世物として沿道の民衆にも親しまれていた。上述の『朝鮮通信使小童図』には馬に乗った小童に町人が揮毫(現代で言えばサイン)を求める様が描かれており、随行員には庶民が簡単に接触できたようである。さらに滋賀県東近江市五個荘の小幡人形などには通信使人形(正確には唐人人形。随行員である小童や楽隊の人形)があり、異国より献上された象などとともに当時の人気キャラクターであったことがうかがわれる。
また歌舞伎・浄瑠璃の文芸作品に朝鮮通信使を題材として扱ったものが存在する。1764年(宝暦14年)の宝暦度の来日の際、対馬藩の家臣で通詞を担当していた鈴木伝蔵が朝鮮通信使の通詞・中官崔天宗を大坂で殺害する事件が起こったが、1767年(明和4年)には『世話料理鱸包丁』(『今織蝦夷錦』)、1789年(寛政元年)には『漢人韓文手管始』、1792年(寛政4年)には『世話仕立唐縫針』など、いずれもこの一件を土台に作成された文芸作品である。
註
関連著書・論文一覧
朝鮮通信使全般
- 上田正昭・辛基秀・仲尾宏編『朝鮮通信使とその時代』(明石書店、2001)
- 辛基秀・仲尾宏『大系朝鮮通信使』(明石書店、1933〜1996)
- 辛基秀『朝鮮通信使往来―二六〇年の平和と友好』(労働経済社、1993)
- 辛基秀・仲尾宏編著『図説朝鮮通信使の旅』(明石書店、2000)
- 仲尾宏『朝鮮通信使と江戸時代の三都』(明石書店、1993)
- 仲尾宏『朝鮮通信使と徳川幕府』(明石書店、1997)
- 仲尾宏『朝鮮通信使と壬辰倭乱』(明石書店、2000)
- 仲尾宏『朝鮮通信使をよみなおす―「鎖国」史観を越えて』(明石書店、2006)
- 仲尾宏『朝鮮通信使 江戸日本の誠信外交』(岩波新書、2008)
- 西村毬子『日本見聞録にみる朝鮮通信使』(明石書店、2000)
- 松田甲「李朝英祖時代戊辰信使の一行」(『朝鮮』152号、朝鮮総督府逓信局、1928)
- 三宅英利『近世アジアの日本と朝鮮』(朝日新聞社、1993)
- 『近世の日本と朝鮮』(講談社学術文庫、2006)で再刊
- 李元植『朝鮮通信使の研究』(思文閣出版、1997)
- 李進熙『江戸時代の朝鮮通信使』(講談社学術文庫、1992)
近世日朝関係
- 荒野泰典 『近世日本と東アジア』(東京大学出版会、1988)
- 池内敏 『大君外交と「武威」』(名古屋大学出版会、2006)
- 田代和生『書き替えられた国書―徳川・朝鮮外交の舞台裏』(中公新書、1983)
- 田中健夫『前近代の国際交流と外交文書』(吉川弘文館、1996)
- 中村栄孝『日鮮関係史の研究』(吉川弘文館、1969)
- 三宅英利『近世日朝関係史の研究』(文献出版、1986)
- 山口華代「近世中期対馬藩における通信使「再定置」の試み--『譲聘策』を手がかりに」(『東アジアと日本』4号、2007)
- 山本博文『対馬藩江戸家老―近世日朝外交をささえた人びと』(講談社選書メチエ、1995、講談社学術文庫 2002)
- ロナルド・トビ『近世日本の国家形成と外交』(創文社、1990)
- 島崎とみ子「朝鮮通信使の来日における諸大名の対応について」(『女子栄養大学紀要』30号、1999)
日本国内との関係
- 飯沼雅行「朝鮮通信使・琉球使節通航時の綱引助郷―摂河両国を中心に」(『交通史研究』54号、2002)
- 飯沼雅行「幕府広域役実現をめぐる幕府・個別領主・民衆―朝鮮通信使来朝時の淀川筋綱引役から―」(『日本歴史』731号、2009)
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- 玉井建也「朝鮮通信使・琉球使節通航と情報・接待・応対―伊予国津和地島を事例として―」(『風俗史学』36号、2007)
- 玉井建也「朝鮮通信使への接待と情報収集-伊予国津和地島を中心として-」(『地方史研究』341号、2009)
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- 石川泰成「亀井南冥と朝鮮通信使の応酬唱和をめぐって」(『九州産業大学国際文化学部紀要』20号、2001)
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- ロナルド・トビ「久隅守景筆「朝鮮通信使行列図屏風」について」(『国華』1294号、2003)
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明治期修信使
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- 北原スマ子「第三次修信使の派遣と「日朝通商章程」の改定・課税交渉」(『朝鮮学報』192号、2004)
- 鈴木文「第一次朝鮮修信使来日時にみる日本人の朝鮮認識と自己認識」(『朝鮮史研究会論文集』45号、2007)
- 鈴木文「明治初期の朝鮮通信使認識」(北島万次・孫承哲・橋本雄・村井章介編著『日朝交流と相克の歴史』校倉書房、2009)
- 田星姫「第一次修信使の日本認識―日本による「富国強兵」勧告をめぐって」(『佛教大学総合研究所紀要別冊、2000)
図録
- 牛窓町教育委員会編『牛窓と朝鮮通信使』(牛窓町教育委員会、2000)
- 京都文化博物館・京都新聞社編『こころの交流 朝鮮通信使―江戸時代から二一世紀へのメッセ―ジ』(京都文化博物館・京都新聞社、2001)
- 田中健夫・田代和生監修『宗家記録と朝鮮通信使展』(朝日新聞社、1992)
- 東京国立博物館編『特別展観 朝鮮通信使―近世二百年の日韓文化交流』(講談社、1985)
史料
- 呉市入船山記念館編『広島藩朝鮮通信使来聘記』(呉市、1990)
- 石阪孝二郎編『兵庫津岡方惣会所々蔵朝鮮信使来朝帰帆官録』(兵庫岡方古文書刊行委員会、1969)
- 福岡地方史研究会古文書を読む会『福岡藩朝鮮通信使記録』全13巻(福岡地方史研究会、1993-2000)
- 慶七松著・若松実訳『海槎録 江戸時代第一次朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、1985)
- 李景稷著・若松実訳『扶桑録 江戸時代第二次(元和三)朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、1988)
- 呉允謙著・若松実訳『東槎上日録 江戸時代第二次(元和三)朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、1986)
- 姜弘重著・若松実訳『東槎録 江戸時代第三次(寛永元)朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、1988)
- 任絖著・若松実訳『丙子日本日記 江戸時代第四次(寛永一三)朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、一九八八)
- 若松実訳『癸未東槎日記 江戸時代第五次(寛永二〇)朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、1988)
- 南壺谷著・若松実訳『扶桑録 江戸時代第六次(明暦元)朝鮮通信使の記録 下』(日朝協会愛知県連合会、1991)
- 金指南著・若松実訳注『扶桑録 江戸時代第六次(明暦元)朝鮮通信使の記録 上』(日朝協会愛知県連合会、1991)
- 金指南著・若松実訳注『東槎日録 江戸時代第七次(天和二)朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、1990)
- 洪禹載著・若松実訳『東槎録 江戸時代第七次(天和二)朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、1989)
- 任守幹著・若松実訳『東槎日記 江戸時代第八次(正徳元年)朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、1993)
- 曹蘭谷著・若松実訳『奉使日本時聞見録 江戸時代第十次(寛延元年)朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、1993)
- 趙曮著・若松実訳『海槎日記 江戸時代第十一次(宝暦・明和)朝鮮通信使の記録 日記篇』(日朝協会愛知県連合会、1995)
- 柳相弼著・若松実訳『東槎録 江戸時代第十二次(文化八)朝鮮通信使の記録』(日朝協会愛知県連合会、1989)
- 申維翰著・姜在彦訳『海游録 朝鮮通信使の日本紀行』(平凡社東洋文庫、1974)
- 河宇鳳著 井上厚史訳・解説 『朝鮮実学者の見た近世日本』(ぺりかん社、2001)
関連項目
外部リンク
- 「朝鮮通信使」241年ぶり東京で再現へ
- 朝鮮通信使行列に参加する正使の子孫 チョ・ドンホさん
- 津市分部町唐人踊り-朝鮮通信使ゆかりの伝統芸能
- 朝鮮通信使ナビen:Joseon missions to Japan
*「見物する男女が垣根のように道端をいっぱいに埋めて(1624牛窓)」姜弘重『東槎録』
*「左右にひしめく見物人の数の多さにも目を見張る(1764江戸)」金仁謙 『日東壮遊歌』
絵画史料
*『朝鮮通信使来朝図』神戸市立博物館蔵
*『朝鮮通信使江戸市中行列図』福岡市立博物館蔵
*『江戸図屏風』江戸東京博物館蔵
*『馬上才図』高麗美術館蔵