水車
水車(すいしゃ)は、川などの水流の力で回転する一種の原動機である[1]。電動機や蒸気機関が普及するまでは、揚水・脱穀・製粉・製糸などに広く使用されていた。現在でも少数ながら水田の揚水用などで見ることができる。揚水用(ノーリア)には様々なタイプがあり、有名な物は三連水車などがある。水流の力により水を水車の横に付けた容器でくみ上げるタイプの物が多い。
歴史
動力機関としての水車は紀元前2世紀ごろ、小アジアで発明されたといわれる。古代ローマの技術者ウィトルウィウスの著作で水車は言及されているが、滅多に使われない機械としており、奴隷労働の豊富な古代ローマ社会においては一般に余り普及しなかったようである。むしろ文明の中心が地中海沿岸を離れ中・西ヨーロッパに移行した中世以降に、安定した水量が得られる土地柄も相まって、急激にその台数を増やした。1086年のイングランドの古文書では、推定人口140万人の同地に5642台の水車があったことが記録されている。また、動力水車の使用法としては、それまではもっぱら製粉に限られていたが、10世紀ごろから工業用動力としても使われるようになった。
非ヨーロッパ圏においても水車は普及したが、その発達はヨーロッパに比べかなり見劣りすることは否めない。中国においては水力原動機らしきものは漢にみられ、中世宋の時代には水車力を用いて紡績工場さえ作られたようであるが、不思議なことにその後の発展は見られなかった。イスラム圏においても水車の記録はあるが、その用途はおおむね製粉にとどまり、ヨーロッパにおけるような産業の原動力としての広範な使用はついに見られなかった。
なおイスラム圏においてはハマーの水車(ノーリア)が有名であり、大規模な17機の農地灌漑用水車群が現在でも残っており観光名所となっている。
日本では『日本書紀』において推古18年(610年)高句麗から来た僧曇徴(どんちょう)が、碾磑(てんがい)という水車で動く臼を造ったといわれ、平安時代の天長6年(829年)良峯安世が諸国に灌漑用水車を作らせたとある。また、鎌倉時代の『徒然草』には宇治川沿いの住民が水車を造る話がある。
動力水車の使用は江戸時代になってからといわれている。白米を食する習慣の広がりとともに、精米・穀物製粉のために使用されたが、江戸時代後期には工業的原動力としても部分的に使用された。水車を利用した製粉業は水車稼ぎと呼ばれ、水車稼ぎに利用される用水は主に農業用水であった。
第二次世界大戦後には電動機や内燃機関の普及により日本国内では衰退したが、一部で利用されている。
参考文献
- レイノルズ 末尾・細川訳『水車の歴史』 平凡社 1989年 ISBN4-582-53205-5
- ギャンベル 坂本訳『中世の産業革命』 岩波書店 1978年
- 末尾至行 『日本の水車』 関西大学出版部 2003年 ISBN4-87354-376-2