徒然草

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徒然草の作者 卜部兼好(『前賢故実菊池容斎画 明治時代)

徒然草』(つれづれぐさ)は、卜部兼好(兼好法師、兼好。吉田兼好は江戸期の俗称)が書いたとされる随筆清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。

概要

鎌倉時代末期、1330年8月から1331年9月頃にまとめられたとする説が主流であるが、数多くの説があり定説はない。中年期の兼好が著したことになるが、若い時代に書いた文章も含まれているという説もある。 兼好が書いたとする明確な証拠は何一つない。

序段を含めて244段から成る。文体は和漢混淆文と、仮名文字が中心の和文が混在している。序段には「つれづれなるままに」書いたと述べ、その後の各段では、兼好の思索や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者文学の一に位置づけられる。兼好が歌人、古典学者、能書家などであったことを反映し、内容は多岐にわたり、また、兼好が仁和寺がある双が丘(ならびがおか)に居を構えたためか、仁和寺に関する説話が多い。

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作品の名にもとられる書き出しの「つれづれ」(徒然)は「やるべき事がなくて、手持ち無沙汰なさま」[1]を意味する。「つれづれなり」と「よしなしごと」や、「書き付く」は先行する文学にも用いられている組合せであり、作品および自己を卑下する謙遜の辞である[2]

室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)は兼好の弟子の命松丸とも親交があり、兼好の没後、編纂に関わったとされる。

執筆後約百年間は注目されなかったようで、同時代の史料に『徒然草』への言及は伝わらないが、室町中期に僧・正徹が注目し、自ら書写した写本にこの作品が兼好法師のもので、兼好の略歴も合わせて記している。これが正徹の弟子の歌人や連歌師たちに波及し、応仁の乱の時代に生きた彼らは、「無常観の文学」という観点から『徒然草』に共感をよせた。江戸時代になると、版本が刊行され、は加藤磐斎の『徒然草抄』(1661年、寛文1年)、北村季吟の『徒然草文段抄』(1667年、寛文7年)といった注釈書も書かれていく。『徒然草』煮汁された教訓は町人などにも親しみやすく、身近な古典として愛読され、江戸期の文化に多大な影響を及ぼした。こうして『徒然草』は古典となり、文学上の位置が確定した。それだけに写本は江戸時代のものが多く、室町時代のものは非常に少ない。

絵画化も非常に遅かったらしく、現今では寛永7年(1630年)刊の絵入版本が最古とされる。その後絵入の『徒然草』は広く愛好された様で、土佐光起住吉具慶如慶海北友雪といった当時一流の絵師の筆による絵巻、画帖が現存している。特に海北友雪の「徒然草絵巻」(サントリー美術館蔵、全20巻)は、『徒然草』のほぼ全ての章段を絵画化した大作である。また、絵本や絵入版本も大量に作られ、今日でも数多く残る。

徒然草が伝える説話のなかには、同時代の事件や人物について知る史料となる記述が散見され、歴史史料としても広く利用されている。中でも平家物語の作者に関する記述は現存する最古の物とされる。

評価

清水義範は徒然草を「日本の知的エッセイの基本形、知識人エッセイの原形」と評しており[3]、それゆえに、現代において、人がエッセイを書こうとすると、「徒然草のように、愚かな世の中、世の中の間違いを叱り飛ばす」形式で書くべきという思い込みに囚われると指摘している[4]。清水は、人間は皆、兼好が徒然草で喝破したように、毒を吐いて「けしからん」と言うのが愉しいのだと指摘する[5]

脚注

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参考文献

  • 清水義範『身もフタもない日本文学史』 PHP研究所〈PHP新書〉、2009年7月、ISBN 978-4-569-70983-3
  • 上野友愛 佐々木康之 内田洸(サントリー美術館)編集 『徒然草 美術で楽しむ古典文学』 サントリー美術館、2014年6月

関連項目

外部リンク

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  • 「徒然」『日本国語大辞典』第二版(オンライン版)、2000‐2002年
  • 久保田淳校注、新日本古典文学大系『方丈記 徒然草』岩波書店、1989年
  • 身もフタもない日本文学史・67-68頁
  • 身もフタもない日本文学史・67頁
  • 身もフタもない日本文学史・68頁