池田勇人
テンプレート:混同 テンプレート:政治家 池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)12月3日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。
目次
概説
大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相である。
首相としては所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした政治家であるとされる[1][2]。
生涯
生い立ち
広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)に父・池田吾一郎、母・うめの二男として生まれた。父は酒造りと郵便局長をやっていた[3]。生家が造り酒屋というのは、当時の政界進出者の一典型で、地元では素封家ということになる[4]。
学生時代
旧制忠海中学校、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部卒業。
高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に佐藤栄作(のちの首相)と同じ宿に泊まり合わせた[5]。池田は忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎして別れた[6]。
大蔵省時代
1925年に大蔵省へ入省した。入省同期に山際正道、植木庚子郎などがいる。
入省後は地方を廻り、1927年から函館税務署長、1929年から宇都宮税務署長を務める。しかし宇都宮税務署長の時に落葉状天疱瘡を発症したため、大蔵省を休職する。病気はなかなか治らず、1931年2年間の休職期間が切れたため大蔵省を退職することとなる[7]。
闘病中には看病疲れから直子夫人を失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、生死を彷徨った5年間は池田の人生観に大きな影響を与えた。 1934年に奇跡的に病気が完治。大蔵省を退職していたため池田自身は日立製作所への転職を一度は決めていたが、大蔵省からの勧めで同年12月に新規採用という形で玉造税務署長として復職した。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。
復職後は病気での遅れもあり、税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長、主税局経理課長を経て、1941年に主税局国税課長となり、ようやく遅れを取り戻した形となった。本人は後に国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。東京財務局長を経て、1945年2月に主税局長となり、そのまま終戦を迎えた。1947年2月、第1次吉田内閣で石橋湛山大蔵大臣の下、主計局長だった野田卯一を飛び越す形で大蔵次官に就任。終戦、公職追放などによる人事の混乱に加え、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用したようである[8]。
政治家として
1948年に大蔵省を退官し、翌1949年の第24回衆議院議員総選挙に出馬し初当選する。
選挙後の同年2月16日、1年生議員でありながら、吉田茂が林譲治や大野伴睦らの党人派の反対を押し切って第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢。宮島清次郎や桜田武といった財界人の推薦があったといわれる。第3次吉田政権は、その後内閣改造を計3回行ったが、いずれの内閣改造でも池田は大蔵大臣に留まった。池田は吉田茂ワンマン首相の絶大な信任を得て、いわば全権委任の形で経済を委された。大蔵大臣としては(後の所得倍増計画に見られる積極策ではなく)引き締め政策を採り、1949年3月1日にジョゼフ・ドッジと会談し、6日後の3月7日に共にドッジ・ラインを実施した。同年、吉田の密命を受けて訪米し、独立後の基地提供について米国と協議した。1950年2月17日から同年4月11日まで通商産業大臣を兼務した。また1951年設立される政府金融機関第一号・日本輸出銀行を始め、一連の長期金融機関制度を創設[9]。池田は日本輸出銀行の初代総裁には河上弘一、日本開発銀行初代総裁には小林中とそれぞれ腹心をあてた[9]。
1952年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣した。
しかし、第3次吉田内閣にて大蔵大臣・通商産業大臣を務めていた1950年3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」との発言が問題となる。また、第3次吉田第1次改造内閣にて大蔵大臣を務めていた同年12月7日、「貧乏人は麦を食え」と発言したとして話題となる(実際は、参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎の質問に答えた中で、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたい」という発言を当時の新聞が改ざんして報道した言葉。)さらに、第4次吉田内閣にて通商産業大臣・経済審議庁長官を務めていた1952年11月27日、日本社会党加藤勘十の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と再度発言したため、翌日に不信任案が提出・可決され辞任に追い込まれた[10]。
しかしその後も党・政府の要職を歴任する。1953年に自由党政調会長に就任し、池田・ロバートソン会談で再軍備を巡る交渉を行う。1954年7月26日に自由党幹事長(12月29日まで)、1955年の保守合同には吉田派全体を長老の林譲治・益谷秀次とともにまとめて、自民党に参加する。鳩山一郎退陣後の1956年12月23日に成立した石橋内閣では大蔵大臣[11]、1958年6月12日に成立した第2次岸内閣では無任所の国務大臣[12]。
1959年6月18日の第2次岸内閣改造内閣では通産大臣にそれぞれ就任した[13]。岸内閣のころから、下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに「所得倍増」のもととなる政策構想を練り上げていく。1957年には旧自由党の吉田派を佐藤栄作と分ける形で自らの政策集団・派閥である宏池会を結成した[14]。
内閣総理大臣
日本全国を争乱の渦に巻き込んだ60年安保で岸政権が倒れると、1960年7月14日に自由民主党総裁選挙に立候補して当選し、自民党第4代総裁に就任した[15]。池田内閣の成立には、同郷の先輩政治家でもある政財界の大物肥田琢司の工作が大きく貢献したとされる。5日後の7月19日、内閣総理大臣に就任し、第1次池田内閣が発足した[15]。池田は第1次池田内閣で中山マサを厚生大臣に起用し、日本初の女性閣僚が誕生した。池田が総理となると、池田は政治的論争となりうる課題を極力避け、「所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出した。沢木耕太郎は「所得倍増」を「戦後最大のコピー」と評している[16]。そして国民の怒りを一身に集める結果となった前政権の反省から、池田政権は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた。「寛容」は宮澤喜一、「忍耐」は大平正芳の発案によるという[17]。
政権発足早々の同年10月12日、日比谷公会堂で行われた自民党、民社党、社会党の党首立会演説会の壇上、社会党の浅沼稲次郎委員長が暴漢によって目前で刺殺される浅沼稲次郎刺殺事件が起こった。この事件の直後に池田が衆院本会議で行った追悼演説は今日でも名演説として知られている(後述)。
同年11月20日の第29回総選挙で自民党は60年安保の影響もなく議席数を伸ばし勝利する。これを受けて同年12月8日に第2次池田内閣が発足すると、以前から言及していた「所得倍増」を目指す構想を実行に移し、12月27日に所得倍増計画の閣議決定をする[18]。
外交ではアメリカ合衆国・東南アジア・ヨーロッパ・オセアニアを歴訪した。1961年6月19日に訪米し、ジョン・F・ケネディ大統領と会談、米国との「イコール・パートナーシップ」を目指し日米貿易経済合同委員会の設置を決定した[19][20][21]。同年11月11日に非公式来日した朴正煕国家再建最高会議議長と会談し、日韓国交正常化の早期妥結への道を開く[1]。16日から東南アジア4カ国(パキスタン・インド・ビルマ・タイ)を訪問した。1962年は11月4日からヨーロッパ七カ国(西ドイツ・フランス・イギリス・ベルギー・イタリア・オランダ・バチカン)を訪問した。フランスとの首脳会談の際にシャルル・ド・ゴール大統領から「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されながらも、イギリスが日本に対し最恵国待遇を保証した日英通商航海条約を11月14日に調印するなど、成果を挙げる。1963年9月23日からは東南アジア(フィリピン・インドネシア)・オーストラリア・ニュージーランドの4カ国を訪問した。
池田は貿易自由化を推進、開放経済体制への大胆な移行を果たし、日本の国際的地位も向上させた[1][2][22]。1963年2月11日、OECD加盟申し込みを言明し、翌1964年4月28日にOECD加盟を果たした。さらに同年、日本はIMFの8条国(国際収支上の理由で為替制限ができない国)へ移行。同年9月7日のIMF東京総会で池田は演説を行い、日本の経済成長を誇り、それを資金面で支えたIMFに対し謝意を示した。OECD加盟とIMF8条国移行により、名実ともに日本が先進国入りしたことを世界各国に印象付けた[23]。1963年8月14日、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印し、1964年6月15日に批准した。1964年10月に開催されたアジア初のオリンピック東京大会は、池田内閣の高度経済成長政策による経済的繁栄を鮮やかに象徴する世紀の大祭典であり、世界に類を見ない奇跡の経済復興を外国に知らしめ日本の威信を著しく高めた[1][2][24]。池田の経済優先の発想は今日まで続いており、日本が経済大国を実現できたのも「吉田ドクトリン」というよりも「池田ドクトリン」の所産ともいわれる[25]。
- 1961年
- 1962年
- 7月14日、自民党総裁選再選[27]。
- 7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第2次改造内閣[27]。
- 1963年
- 7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第3次改造内閣。
- 11月5日、郡山市で遊説中、右翼に襲われる。
- 12月9日、第3次池田内閣発足。
- 1964年
- 7月18日、内閣改造。第3次池田内閣改造内閣。
9月9日、国立がんセンターへ喉頭癌の治療のため入院。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に退陣を表明し、11月9日に後継総裁として佐藤栄作を指名した[28]。
その年の12月に退院するが、翌1965年7月29日、東京大学医学部附属病院に再入院する。8月4日に手術を受けるものの、9日後の8月13日、術後肺炎により死去。テンプレート:没年齢。
葬儀は自民党葬として行われた。葬儀委員長は佐藤栄作。戒名は大智院殿毅誉俊道勇人大居士。墓所は故郷の広島県竹原市と東京都港区青山霊園にある。
語録
池田勇人の語録には、後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の流行語にまでなった有名な発言などが多い[29]。
- 貧乏人は麦を食え
- 第三次吉田内閣で吉田は一年生議員の池田を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせたが、池田は有能な大蔵官僚であっても政治家としては駆け出しで、発言に脇の甘さが目立った。
- 1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞を刺激した。
- 翌日の朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これが池田自身の発言のように伝わってしまい、各方面から強い批判を受けることになった[30]。
- 中小企業の五人や十人…
- 2年後の第三次改造内閣で池田は通産大臣になっていたが、1952年11月27日の衆院本会議で右派社会党の加藤勘十の質問に対し、池田は「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」と答弁した。
- これに対して野党からは「中小企業を倒産させてよいのか」というヤジと怒号が飛び、議場は一時騒然となった。翌日の新聞はまたしても「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」とこれを報道。
- これを受けて野党が提出した池田通産相不信任案が自由党反主流派の欠席によって可決されると、池田は辞任に追い込まれた。その後池田は自宅に引きこもってしまったが、宮沢喜一秘書官の証言では「これで終わった。明日は土曜日だな。週末旅行でもするか。」と話して[31]さばさばした様子であった[32]。なおこの辞任記者会見の際に「私は正直すぎた。政治家として終戦以後色々あったが政治家には向いていないのかもしれない。」という政治の道を諦めるかのような発言をしている。
- 低姿勢
- 1960年11月20日の第29回総選挙に先立っては自ら自民党のテレビCMに登場して、本音しか言えない池田というイメージを逆手に取って「私はウソは申しません」と言い切った。これらいずれもが当時の流行語となり、これが世論を背景にした政権運営という新しいスタイルに先鞭を付けるものともなった。
- 君は…
- 浅沼稲次郎暗殺事件の発生をうけて池田が衆院本会議場で行った追悼演説は、故人に対して「君」とよびかけ、大正末年に浅沼の友人が浅沼のことをうたった詩「沼は演説百姓よ、よごれた服にボロカバン、きょうは本所の公会堂、あすは京都の辻の寺」を引用するなど型破りな演説で、社会党議員が涙を拭うほどだった。池田のこの演説は今日でも国会における追悼演説の傑作のひとつに数えられる名演説として知られている[33]。
エピソード
- 旧制五高在学当時、池田は趣味と実益を兼ねてそば屋と一杯飲み屋の屋台を開業することを発案。「池田屋」と称した。友人達にツケで飲ませ本人も飲むといった調子のため3ヶ月でつぶれた[34]。
- 池田が最も心を許したのは、同じ明治32年の亥年生まれで集まる亥の「二黒会」のメンバー、小林中、水野成夫、小池厚之助、堀田庄三、東畑精一で、池田が総理になってからも「おまえ」「おれ」と呼び合う仲であったが、この中でも池田が一番の酒豪であったという[35]。
- 占領時代に蔵相だった池田は、国家予算などの重要な話し合いをするためGHQを頻繁に訪問。GHQ経済科学局の局長・ウィリアム・フレデリック・マーカット少将に面会するためで、そんな時、まず約束の二時間前に白洲次郎は、マーカット少将の副官で通訳だったキャピー原田中尉に電話をかけ「マーカット少将のご機嫌はいかがなものか」と尋ねる。原田が「今日はあんまり良くないね」と答えると、白洲の横で話を聞いていた池田が電話を横取り、「今からそちらへ伺います。原田中尉、それまでに少将の機嫌を直しておいてください」と頼む。そして1時間前になると、今度は秘書官だった宮澤喜一から確認の電話があり「間もなく大臣はそちらへ伺います。よろしくお願いします」と念を押す。原田はこういう時、マーカットにさり気なく野球の話題を投げかける。往年の大リーグ選手などの話題を持ち出すと、マーカットは機嫌が悪いことも忘れてスイッチが入り、野球の話に夢中になっていく。最高潮に達するとバットを手に持って上機嫌になり、ちょうどその頃、池田がオフィスに現れて、厄介な話もうまく進むというのがお決まりの段取りであった[36]。
- 根津嘉一郎が死去した際、故人の遺志で遺産は寄付されることになっていたが、まず相続してから寄付せよとの税務署の意向に、東京国税局長として故人の遺志を尊重させ、それが甲州系の実業家を動かし吉田内閣への蔵相入閣につながった。
- 蔵相時代、いずれも後の総理になる大平正芳、宮澤喜一を秘書官に配し、対外折衝の要衝財務官に渡辺武、ブレーンの官房調査スタッフに石野信一、下村治らを擁して、磐石の政策決定構造を持った。池田は人の使い方が非常に上手く、この総合戦力で、ドッジ、シャウプ時代を切り抜け、困難な戦後インフレの処理からデフレの調整に至る、最大の混乱時代に対処し、克服したのである[37]。
- 私邸に新聞記者を集めては、経済政策、所得倍増を熱心に語った[38]。当時日経記者で同郷でもあった中川順は著書に池田との思い出にページを割き、多くのエピソードを書いているが、唯一残念なことは、日経の「私の履歴書」が日の目を見なかったことと話している。池田が大蔵大臣就任以来、赫々の"武勲"よろしく男の階段を登り始めて以来、中川は履歴書執筆をねばり強く交渉し続けたが、「総理にでもなればね」と断り続けられ、総理になると繁忙でダメになり、そのまま世を去ってしまった。総理経験者で「私の履歴書」に登場しなかったのは、吉田茂と三木武夫らわずかで、池田は中でも惜しまれる人物であった、と中川は話している。
- 1949年のドッジ・ライン実施については評価の分かれるところではあるが、ジョゼフ・ドッジと真正面から渡り合い、渡辺武財務官、宮澤喜一秘書官の全能力を駆使して闘った。池田は中川順に「自分の考えを主張し、相手に反駁する時にはね、相手の目をみつめ、コブシで卓を叩き、大声で怒鳴るに限る。相手は言葉は分からなくても、その気迫に押されるんだよ。通訳の方を見て話す、なんて無意味だね」と話していたという[39]。
- 日本の戦後税制に大きな影響を与えたシャウプ勧告は、富裕税、付加価値税、資産再評価税等々、新しいことばかりの革新的なもので、担当の新聞記者にとって、その解説記事の記述などは至難の業で頭を抱えた。しかし池田は税畑育ち、税は得意の分野でもあり、シャウプ折衝でも、自信満々の態度で、税エキスパートの平田敬一郎主税局長、原純夫税制一課長を駆使して体当たりした。池田の税自慢は有名で、1961年の池田・ケネディ共同声明(日米経済合同委員会の設置)[21][40][41]合意のため渡米するに当たって「ケネディに税制を教えに行ってくるよ」と吹いていたという。大蔵省の省議でも、税の問題で議論を交わす場合、池田の話を理解できるのは平田主税局長だけだったという[42]。
- 池田がアメリカに行ってる時、三木武夫に電話をかけてきて「株の値は?」などと聞いたりするので、経済に疎い三木は、なんで株の値を聞く必要があるのか分からず、野村證券の奥村綱雄ら、池田を囲む財界人の勉強会に誘われて参加し必死に勉強したが、分からないことばかりで、子供のようであったという[43]。
- 蔵相時代の池田の秘書官を務めていた頃の大平正芳は陽明学者の安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履とりを務めていた間に信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉であると答え、以後、大平は池田の欠点を知り尽くして政治家になるための経験を積んだという[44]。
- 昭和30年代後半に中曽根康弘に対して「やはり日本も、核を持たなくては駄目だね」と語った[45]。
- 第2次池田内閣で高度経済成長政策を批判した政調会長福田赳夫をクビにし、福田及び同調者を池田内閣の続いている間、完全に干し上げた[46][47][48]。池田は派閥強化を助長し、派閥による党内抗争は池田内閣になって、その弊害が増幅し、これが力の政治になり、力を得るための金権政治を増長させることになる[49]。福田は池田との対立を機に派閥解消などを掲げた「党風刷新連盟」を結成した。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する[46][50]。
- 田中角栄が頭角を現す切っ掛けとなった1961年池田内閣での自民党政調会長就任、1962年第2次池田内閣での大蔵大臣就任は、盟友関係にあった大平との関係を生かしたもので、田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田の側近でもあったからといわれる[51]。
- 首相になるにあたって、放言癖や前岸内閣で傷ついた政府のイメージを払拭し、親しみやすさをアピールすることに努めた。
- 池田は各界の著名人を私邸に招いて交遊を図っていた。特に俳優の石原裕次郎を気に入り、石原裕次郎と私邸の風呂に一緒に入浴したこともあったという[52]。
- 先述のように、池田と会談したフランスのド・ゴール大統領が、池田を「トランジスタラジオのセールスマン」と評したことは良く知られている。当時は首脳が経済について語ることが珍しかったため、ド・ゴールも意外に思ったのである。しかし、今日では経済について語ることが出来ない首脳など使い物にならなくなっているし、当のフランス大統領は、エアバス機や武器のトップセールスを世界中で行っている。こうした点を捉え、八幡和郎は、池田勇人を「経済重視の首脳の先駆として、世界的な偉人である」としている。
- 1960年代にインドネシアのスカルノ大統領と池田をつなぐ仲介役を務めたのはデヴィ夫人という。デヴィ夫人は池田と家族ぐるみの付き合いがあったといい「日本外務省にはこき使われました」と話している[53][54]。
- 大平は、総理総裁たる者は「徹底的に庶民」にならなければならないとして、お茶屋とゴルフには行かないことを池田に約束させた[55]。
- 中曽根康弘は、2008年9月3日付の読売新聞朝刊(13面)に、同年9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べ、その例えとして、がんで入院して生命力もないという段階においてぎりぎりまで耐え抜いて後継に佐藤栄作を指名した池田を挙げ、政治家としての最後までの志、執念を持つべき、と記した。
- 首相在任中の1964年、戦後の歴代総理が果たせなかった生存者叙勲を、太政官布告の運用再開という形で復活させる。国会では石橋政嗣ら日本社会党から異論が出るも、ついに押し切った。再開後最初の叙勲で政治上の恩師吉田茂に大勲位菊花大綬章が授与され、親授式後の記念撮影では、満面の笑みを浮かべた両者が最前列中央に立った。懇意であった「電力の鬼」松永安左エ門にも勲一等瑞宝章を打診したが、松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と怒り、これを拒否。困った池田は、松永に可愛がられていた永野重雄に説得を頼み、何とか受勲させたものの、親授式の出席は拒否された[56]。
- かつての大蔵省の正門の銘版は昭和39年当時首相であった池田の筆によるものである[57]。
- 戦後の総理大臣の中で、東京都以外に位置する日本の大学を卒業しているのは池田のみである(宇野宗佑は神戸商業大学中退)。
- 苦難の多い前半生もあって、大蔵官僚出身とは思えないほどさばけた気さくな性格だった。池田を「ディスインテリ」という造語で評した宮沢によれば、池田は「(本当はそんなことはないのだが)自分が秀才ではないと思い込んでしまった人」。そのことが、高い地位にあっても、自然に周囲に有能な人物を集めることになった。
- アメリカの中央情報局(CIA)が反共政策の一環として、岸信介内閣、池田勇人内閣および旧日本社会党右派に秘密資金を提供し政界工作を行っていたと報じられた[58][59][60][61][62]。
- 池田は宮沢が大蔵省に入った時の身元保証人だったが「池田勇人なんて、当時(昭和16年)誰も将来、出世するとも思っていなくて、どうしてこの人に保証人になってもらったのか」と聞かれたことがあると話していた[63]。
- 郷土広島愛が強く、広島カープ後援会の名誉会長を務め、南海入りが決定的だった山本一義を呼びだし熱心に説得してカープ入りさせたり[64][65]カープが負けると国鉄時代の豊田泰光の自宅に電話をかけ、「ワシは池田勇人じゃ。今日はよくもカープを負かしてくれたなあ」と脅したという。豊田は一国の総理が野球の試合結果について電話をかけてきたことにびっくり仰天したが、同時に自身が影響力のある仕事に携わっている喜びがこみあげたと話している[66]。
- 忠海中学校の1年先輩にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。竹鶴が「私の履歴書」に記したところでは、池田は竹鶴(当時寮長)に対して「こわい」という印象を抱いていたという。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続いた[67]。
- カレーライスを好物とした。
- 神奈川税務署員殉職事件の殉職税務官顕彰碑の碑文に筆を寄せるとともに慰霊祭に出席している[1]。
栄典
- 1965年8月13日:贈大勲位菊花大綬章
家族・親族
池田家
- 直子の兄の姻戚には、旧侯爵大隈信常がおり、名門である[68]。地方の素封家の息子でも「学士の大蔵官僚」とあれば旧貴族との結婚は、ごくあたりまえのことだった[68]。学士と華族の結びつきは、親たちの名門意識をささえる一つの手段であった[68]。
- 長女・直子の嫁ぎ先は、戦後の“金融王”といわれた近藤荒樹の長男荒一郎[69]。いわゆる庶民金融の草分けで、池田が岸内閣の蔵相として活躍していた昭和32年(1957年)頃は、高額所得番付で全国六位にランクされるほどの資産家だった[69]。この2人の結婚は昭和33年(1958年)1月[69]。当然ながら世間から、“池田は資金源を身内に入れた”と見られた[69]。また、この婚姻で池田家は、荒樹の後妻が元伯爵の明治神宮宮司甘露寺受長の長女・績子という関係から旧皇族の北白川家まで繋(つな)がり箔(はく)をつけている[71]。
- 池田家の養子になったことについて池田行彦は「たまたまって感じですね。大蔵官僚は仕事がいそがしいので、女性とめぐり合う機会が少ない。そこで紹介というのが多くなるのですが、たまたまそれが池田の娘だったということですよ」と述べている[72]。
系図
テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree/end
著書
- 『改正税法に就て』(東京銀行集会所、1942年刊)
- 『改正税法並びに関係命令に就て』(銀行員同攻会、1942年刊)
- 『改正税法の解釈:法人関係』(生産拡充研究会編、1942年刊)
- 『間接税等改正税法解釈:酒税等の増徴等に関する法律解釈』(大蔵財務協会、1942年刊)
- 『広告税に就て』(日本広告倶楽部編、1942年刊)
- 『財産税・法人戦時利得税・個人財産増加税の解釈』(日本産業経済新聞社、1946年刊)
- 『均衡財政‐附・占領下三年のおもいで』(中公文庫〈シリーズ戦後史の証言〉、1999年2月に再刊) ISBN 4122033586
脚注
参考文献
- 伊藤昌哉 『池田勇人とその時代』 朝日文庫 1985年 ISBN 4022603399/初版「池田勇人 その生と死」至誠堂 1966年
- 伊藤昌哉 『日本宰相列伝21 池田勇人』 時事通信社 1985年
- 沢木耕太郎 『危機の宰相』 魁星出版 2006年/文春文庫 2008年
- 藤井信幸 『池田勇人 所得倍増でいくんだ』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉 2012年
- 吉村克己 『池田政権・一五七五日 高度成長と共に安保からオリンピックまで』 行研 1985年
- 塩口喜乙 『聞書池田勇人 高度成長政治の形成と挫折』 朝日新聞社 1975年
- 小林吉弥 『花も嵐も 宰相池田勇人の男の本懐』 講談社 1989年
- 『池田勇人展 その人生と素顔に迫る』 竹原市立「たけはら美術館」編、2005年
- 『池田勇人先生を偲ぶ』 松浦周太郎・志賀健次郎編(非売品)、1967年-追悼文集
- 『池田さんを偲ぶ』 岡田幸雄・池田会編、財務出版(非売品)、1968年-追悼文集
- 山田栄三 『正伝 佐藤栄作 (上巻)』 新潮社、1988年/44-46頁
- 福永文夫 『大平正芳 「戦後保守」とは何か』 中央公論新社〈中公新書〉、2008年。ISBN 9784121019769。
- 中川順 『秘史 日本経済を動かした実力者たち』 講談社、1995年9月
- 鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』光文社カッパブックス、1965年/62-67頁、156-158頁
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年/76-90頁
- さいとうたかを画 『池田勇人と佐藤栄作の激突 歴史劇画 大宰相第4巻』 講談社+α文庫 1999年
関連項目
- 吉田13人衆
- 保守本流
- 財界四天王 - 池田内閣を支えた小林中、水野成夫、永野重雄、櫻田武を指す
- 曲淵景漸 - 江戸時代の旗本。町奉行を務めた時、天明の大飢饉が発生。この時「米が無いから犬を食え」と発言し、町民の怒りを買い打ちこわしに発展、罷免される。
- 伊藤昌哉 - 秘書
- 田中六助 - 元自民党幹事長。一時期池田のもとで秘書をしていた
- 島桂次 - 終生の恩人と名前を挙げている(『シマゲジ風雲録』133頁、文藝春秋、1995年)
- 坂本龍一- 祖父が池田の生涯の親友であったという(坂本龍一『音楽は自由にする』23頁、 新潮社、2009年)
外部リンク
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
岸信介
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第58・59・60代:1960年 - 1964年
|style="width:30%"|次代:
佐藤栄作
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
稲垣平太郎
高橋龍太郎
高碕達之助
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 通商産業大臣
第2代:1950年
第7代:1952年
第19代:1959年 - 1960年
|style="width:30%"|次代:
高瀬荘太郎
小笠原三九郎
石井光次郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
創設
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国務大臣(無任所)
1958年
|style="width:30%"|次代:
廃止
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大屋晋三(臨時代理)
一万田尚登
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 大蔵大臣
第55代:1949年 - 1952年
第61・62代:1956年 - 1957年
|style="width:30%"|次代:
向井忠晴
一万田尚登
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山崎猛
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 経済審議庁長官
第3代:1952年
|style="width:30%"|次代:
小笠原三九郎
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
岸信介
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党総裁
第4代:1960年 - 1964年
|style="width:30%"|次代:
佐藤栄作
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
結成
|style="width:40%; text-align:center"|宏池会会長
初代:1957年 - 1965年
|style="width:30%"|次代:
前尾繁三郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
佐藤栄作
|style="width:40%; text-align:center"|自由党幹事長
第6代:1954年
|style="width:30%"|次代:
石井光次郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
木暮武太夫
|style="width:40%; text-align:center"|自由党政務調査会長
第6代:1953年 - 1954年
|style="width:30%"|次代:
水田三喜男
- 転送 Template:End
テンプレート:日本国歴代内閣総理大臣 テンプレート:経済産業大臣 テンプレート:財務大臣 テンプレート:経済財政政策担当大臣 テンプレート:財務事務次官 テンプレート:自由民主党総裁 テンプレート:宏池会会長
テンプレート:自由民主党 (日本)- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 第4代 池田 勇人 | 歴代総裁 | 党のあゆみ | 自民党について | 自由民主党
- ↑ 2.0 2.1 2.2 歴代宰相と徹底比較 安倍晋三「総理の器」大検証 vol.1 - デジタル大衆
- ↑ 伊藤昌哉著『池田勇人 その生と死』(1966年)56頁
- ↑ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』80頁
- ↑ 友人として急速に接近するのは、お互いに政界入りしてからである。池田が死亡した際、佐藤が葬儀委員長を務めている(『正伝 佐藤栄作(下)』 42頁)。
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』 44-45頁。
- ↑ 政界往来 政治家と病「池田勇人」 - 新政界往来
- ↑ 小林吉弥『花も嵐も』70頁
- ↑ 9.0 9.1 『#秘史122-129頁。
- ↑ 『大平正芳』 66頁。
- ↑ 『大平正芳』 77頁。
- ↑ 『大平正芳』 80頁。
- ↑ 『大平正芳』 81頁。
- ↑ 佐藤は田中角栄・松野頼三・保利茂・愛知揆一・橋本登美三郎・二階堂進らと周山会を結成する。
- ↑ 15.0 15.1 『大平正芳』 88-89頁。
- ↑ Vol.24 所得倍増計画決定 闘病が生んだ成長戦略 昭和35年12月27日
- ↑ 『大平正芳』 94頁。
- ↑ 岸信介、池田勇人、中曽根康弘 3人の宰相が権力誇示した館
- ↑ #秘史73頁
- ↑ <あのころ>池田・ケネディ会談 日米関係改善に意欲 - 写真ニュース
- ↑ 21.0 21.1 池田・ケネディ会談の意義--国内経済体制の再編と経済外交 ―
- ↑ 日本経済新聞2012年9月2日32面 「私の履歴書 今井敬②」。
- ↑ #秘史180頁
- ↑ 社説:IMF東京会議 日本再評価の元年に、高度成長と沖縄返還 - 株式会社 吉川弘文館
- ↑ 長崎県立大学学術リポジトリ: 池田勇人の対外認識とアジア政策
- ↑ 『大平正芳』 99頁。
- ↑ 27.0 27.1 『大平正芳』 100頁。
- ↑ 佐藤を「指名」したと言われていることについて、渡辺恒雄は自伝『天人天職』のインタビューの中で「抗がん剤の副作用で意識が朦朧としていた池田さんを田中角栄と大平正芳が丸め込んだのではないか」と回想している。ただし、池田は、この際に放射線照射による治療を受けているが、抗がん剤の投与は受けておらず、かつ、佐藤への後継指名は、池田が副総裁川島正次郎と幹事長三木武夫に自民党内の意向を調整するよう指示した上で行われており、この話の信憑性は薄い。
- ↑ 「寛容と忍耐」で経済成長路線を打ち出した池田勇人
- ↑ 1950年12月7日の参議院予算委員会の議事録を閲覧
- ↑ 読売新聞1952年11月29日朝刊
- ↑ 1952年11月27日の衆議院本会議の議事録を閲覧
- ↑ 1960年10月18日の衆議院本会議の議事録を閲覧。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、首席秘書官の伊藤昌哉が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった。」と池田は述懐している(若宮啓文「忘れられない国会論戦」中公新書 1206 中央公論社 1994年 ISBN 4121012062 C1231)。
- ↑ 「大宰相」池田勇人編に描かれている
- ↑ 『追悼 小林中』小林中追悼録編集委員会、1982年、377-385頁
- ↑ 市岡弘成・福永あみ『プロ野球を救った男 キャピー原田』ソフトバンククリエイティブ、2009年、140、141頁。
- ↑ #秘史69、73-79頁
- ↑ 「大宰相」池田勇人編の前文で早坂茂三が書いている
- ↑ #秘史71頁
- ↑ 日米関係資料集1961-1970
- ↑ 【浪速風】同じ「倍増」でも支持は得られない (9月5日) - MSN産経west
- ↑ #秘史73頁
- ↑ 三木睦子『信なくば立たず 夫 三木武夫との50年』、講談社、1989年、158-161頁
- ↑ 『大平正芳』 59-60頁。
- ↑ http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130323/plc13032312010008-n1.htm
- ↑ 46.0 46.1 浦田進『評伝シリ-ズ9 福田赳夫』国際商業出版、1978年、129-135頁
- ↑ 古澤健一『福田赳夫と日本経済』講談社、1983年、42頁
- ↑ 福田赳夫『回顧九十年』岩波書店、1995年、144-145頁
- ↑ 『福田赳夫と日本経済』50-55頁
- ↑ 浦田進『評伝シリ-ズ9 福田赳夫』国際商業出版、1978年、129-135頁
- ↑ 読売新聞2012年9月22日27面 「戦後転換期 第2部(1965~79年) 第23回 田中角栄」。
- ↑ 『太陽への神話』 石原裕次郎 集英社 1981年
- ↑ 【外交文書公開】デヴィ夫人首脳外交に一役 池田首相の伝言取り次ぐ
- ↑ 池田総理大臣の西太平洋諸国訪問の再の各国政府との共同声明
- ↑ 『大平正芳』 92頁。
- ↑ 説得にあたり、小田原の松永宅に尋ねた永野は、松永に立ててもらったお茶の懐紙で鼻水をかんだ上、「あなたが叙勲を受けないと、生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたくてたまらない人たちに、迷惑がかかる。それに、あなたはどうせ老い先が短い。死ねばいやでも勲章を贈られる。それなら生きているうちにもらった方が人助けにもなりますよ」と、相当失礼な言を吐いて迫った。結局、松永はこれを了承する格好となった。――永野重雄著『わが財界人生』ダイヤモンド社(1982年)、167-170頁
- ↑ 2001年1月6日付産経新聞他
- ↑ 左派弱体化へ秘密資金 米CIA、保革両勢力に 共同通信
- ↑ ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 『週刊文春』2007年10月4日号
- ↑ #秘史117頁
- ↑ 【1960年代の3選手】山本 一義(やまもと・かずよし)(71) - 中国新聞
- ↑ CONNOTE-ものづくり名手名言 第16回-
- ↑ 豊田泰光『トヨさんの新・長幼の序』情報センター出版局 1986年、40頁
- ↑ 凛として~ウイスキーの父竹鶴政孝~ニッカウヰスキーウェブサイト
- ↑ 68.0 68.1 68.2 鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』63頁
- ↑ 69.0 69.1 69.2 69.3 69.4 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』85頁
- ↑ 鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』64頁
- ↑ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』85-86頁
- ↑ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』88頁
- ↑ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』86頁