足利義稙
テンプレート:基礎情報 武士 足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。
目次
略歴
父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる女性であるが名は伝わらない。はじめから命名されていない可能性もある)。
はじめ義材(よしき)と名乗り、伯父義政の死後に第10代将軍に就任する。その後、当時の幕府でもっとも有力な大名である細川政元と対立して将軍職を廃され幽閉されたが、脱出して越中国へ逃れ、諸大名の軍事力を動員して京都回復・将軍復職をめざして各地で逃亡生活を送る。逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)と改名している。
後に周防国の大内義興の支援を得、その軍事力に頼って京都を占領、将軍職に復帰する。第12代将軍に在職中の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名。しかし、大内義興が帰国後、今度は当時管領であった細川高国(政元の養子)と対立の末、京都を出奔して再び将軍職を奪われ、最後は逃亡先の阿波国で死去した。
生涯
将軍家相続
文正元年7月30日(1466年9月9日)、足利義視の子として父の近習・種村九郎の邸で生まれる。翌応仁元年(1467年)1月に応仁の乱が勃発すると、父・義視はその兄である将軍・足利義政と対立して9月には東軍より山門に出奔し、ついで西軍に身を投じた。この時、東軍の武田信賢が義材を護り、西軍に送り届けたという。文明5年(1473年)に義政の子・足利義尚が9代将軍となり、文明9年(1477年)11月に応仁の乱が終結すると、義視・義材親子は美濃革手に下向し、翌文明10年(1478年)7月には、大御所・義政と義視の和議が正式に成立した。
義材は長享元年(1487年)1月2日、美濃にて従兄弟である9代将軍義尚の猶子として元服し、同年8月には義尚の母・日野富子(義材の母方の伯母でもある)らの推挙で美濃在国のまま従五位下・左馬頭に叙位された。長享3年(1489年)3月26日、義尚が近江の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)の在陣中に死去すると、父・義視に伴われて上洛して義尚の葬儀に参列しようとしたが、この時は細川政元の反対でやむなく葬儀が終わった後に入京している。細川政元は義尚と義材の従兄弟で堀越公方・足利政知の子・香厳院清晃(天龍寺香厳院を継承し出家していた、後の足利義澄)を将軍後継者候補に推して義材の将軍職継承に反対していたが、義政・富子夫妻が義材を支持したため、義材の将軍就任がほぼ決定した。翌延徳2年(1490年)1月には義政が死去し、義材が10代将軍に就任した。
明応の政変
当初、政治の実権を握っていて「大御所」と称した父が延徳3年(1491年)1月に死去した後は、前管領・畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。しかし擁立の功労者であった義政の未亡人・日野富子や、もともと清晃支持派である細川政元(一時管領となったがすぐに辞任)とは対立を生じることになった。同年8月、義尚の遺志を継ぎ、政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開、みずから近江に出陣して高頼の追放に成功している。明応2年(1493年)2月には、応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏で、畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じて、義就の後継者・義豊を討伐するため、畠山政長らを率いて河内に赴いた。
しかし義材が京都を留守にしている間に、京都に残っていた政元・富子・伊勢貞宗らは同年4月、清晃を11代将軍に擁立して、義材を廃するクーデター(明応の政変)を起こした。京都では義材派の人々の粛清が行われて市中は騒然となり、自分が任命した将軍の廃立に怒った後土御門天皇は一時は抗議のため退位を表明し、その後も政変をなかなか承認せず、そのため清晃の征夷大将軍宣下は政変から8ヶ月以上経った12月27日に行われた。この事情のためか、『公卿補任』では、義材から義澄への将軍交代は後土御門天皇の死後に行われたことになっている。政元は軍隊を河内に派遣して義材と畠山政長を打ち破り、政長は自殺した。義材は尊氏以来足利家に伝わる家宝の甲冑「御小袖」と「御剣」だけを携えて政元の家臣・上原元秀の陣に投降し、京都に連れ戻されて龍安寺に幽閉された[1]。この時、義材が毒を盛られる事件が起き、富子の指示によるものだと噂された。
諸国への下向、上洛
幽閉された義材は小豆島へ流されることを知り、同年6月29日に側近らの手引きで京都を脱出して政長の領国である越中の放生津に下向し[2]、政長の家臣・神保長誠を頼ったため越中公方(越中御所)と呼ばれた。この時の義材は単なる無力な逃亡者ではなく、越中でそれなりの陣容を整えた政権を樹立していることから、後の足利義維の「堺幕府」や足利義昭の「鞆幕府」にならい「放生津幕府」などと呼ぶこともある。
明応7年(1498年)9月に政元側との和睦交渉が進展したという認識から、義尹と改名した義材は越前の朝倉貞景のもとへ移った。ところが政元との和睦は不調となり、朝倉貞景や政長の子・尚順と同調して軍事攻撃による上洛へ方針転換した。延暦寺・根来寺・高野山の僧兵も義尹に呼応して一時は近江まで迫ったが、近江坂本で六角高頼に敗れ、河内に逃れたがここでも政元に敗れて、かつて大内家が応仁の乱で父を奉じて西軍に属した縁に頼って周防に逃れ、大内義興のもとに身を寄せた。畠山尚順も河内を失って紀伊に逃れた。
永正4年(1507年)に政元が暗殺されて政元の3人の養子の間で細川家が分裂状態(永正の錯乱)に陥ると、義尹は将軍への復帰の好機と見て、永正5年(1508年)4月に大内家の軍事力に支えられ[3]、細川家の後継者候補の内の細川高国らの勢力に迎えられて中国地方や九州の諸大名とともに上洛しようとする。同年4月堺に到着[4]。同年6月京都を占領して11代将軍・義澄や細川家後継者争いで高国と対立していた管領・細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰した。
将軍職への復帰
その後、義尹と義澄派は将軍職をめぐって抗争する。永正6年(1509年)10月には義澄に刺客を送られたが、義尹は自らこれを撃退した。永正8年(1511年)8月の船岡山合戦直前に義澄が病死し、さらにこの戦いにも義尹派が勝利したため、義尹(永正10年(1513年)義稙に改名)の将軍職復帰が確定した。だが、義稙の政権は管領となった高国や管領代と称された大内義興らの軍事力によって支えられていたため[5]、親政志向の強い義稙としては、意のままにならないことも多く、永正10年(1513年)3月には細川・大内・畠山の諸氏と対立した義稙が一時京都を出奔して近江甲賀郡に逃れた上、当地で病を発した。一時は死亡説が流れるほどの重病で東寺や伊勢神宮でも将軍平癒の祈祷が行われるほど(『後法成寺関白記』・『東寺百合文書』など)であったが、回復後の同年5月に和解が成立して義稙は京都に戻った。永正15年(1518年)8月に義興が領内の事情などから管領代を辞して帰国すると[6]、残された義稙と高国は次第に対立を深めていった。
再度の逃亡
義興の帰国によって義稙への軍事的支えが無くなり、これを好機と見た細川澄元が蠢動し始めたことから、同年12月に義稙は赤松義村に澄元やその家臣らを成敗するように命令を出している[7][8]。そして阿波に逃れていた澄元は永正16年(1519年)10月に挙兵し、11月には摂津に上陸する。このため義稙は11月3日に赤松義村に高国に味方するように命じている[9]。
永正17年(1520年)2月、高国は尼崎で大敗し京都へ敗走し、義稙に近江へ一緒に逃亡するよう申し出たが、義稙はこれを拒否した。既に義稙には澄元から恭順を誓う書状が送られており、近江へ逃れた高国に代わって3月に澄元の家臣・三好之長が入京した。ところが近江で勢力を回復した高国が5月5日に等持院(京都市中京区等持院北町付近)で澄元を打ち破って(等持院の戦い)再び入京し、澄元は阿波へ逃げ帰った。
これ以後、義稙と高国の仲は険悪なものとなり[10]、大永元年(1521年)3月7日、義稙は再び和泉国堺に出奔した。これが同月に予定されていた後柏原天皇の即位式直前のことであったため、天皇は激怒して高国に即位式の準備を命じて予定通りに挙行させた。高国は義稙に代わる新将軍として、11代将軍・義澄の遺児・義晴を擁立した。
義稙は和泉から淡路国志筑浦に逃れ[11]、ここで再挙を図って高国と抗争した。高国の妻の兄弟である和泉守護・細川澄賢(すみかた、政賢の子)や河内守護・畠山義英らを味方につけて10月には堺まで引き返すが、兵が集まらなかったために高国にかなわず[12]、その後沼島でしばらく潜んでいたが、再起のために細川讃州家の許に赴いた矢先の大永3年4月9日[13](1523年5月23日)に阿波国撫養(現在の鳴門市)で死去した[14]。享年58(満56歳没)。
墓所・肖像
- 墓所
- 法号は恵林院巌山道舜。墓所は徳島県阿南市の西光寺[15]。また、没地である同県鳴門市の岡崎城跡に将軍塚と呼ばれる場所があり、ここも義稙の墓所と伝えるが、盗掘されたのか、被葬者はこの中には見あたらないという。
他に義稙没後、大内義隆が三条西実隆に義稙の装束などを問い合わせて描かせた肖像画があった[17]というが、現存しない。
- 他に、鑁阿寺像の容貌を模して造られた木像が、徳島県阿南市の同市立阿波公方・民俗資料館にある。また、銅像が富山県射水市の放生津橋に2体設置されており、そのうちの1体は狩衣姿、もう1体は甲冑姿の騎馬像である。
人物・逸話
- 『塵塚物語』の「恵林院殿様御事」項に、義稙が流浪時代を回顧したという逸話が見える。この中で、不安に襲われた自身や困窮する人々を目の当たりにした義稙が、「政治に携わるものは常に慈悲の心をもって臨まねばならない」という心境に至ったと述べている。
- 将軍職を追われて諸国を流浪した経緯から、「流れ公方」「島の公方」などと称された。『陰徳太平記』には、細川高国と対立して出奔した義稙の乗った船に「たぞやこの鳴門の沖に御所めくは泊り定めぬ流れ公方か」という狂歌が貼り出されたという。
- 義稙には息子がなかったが、前将軍で対抗者でもあった義澄の子義維を養子とした。義稙の死後、義維は将軍職を継いだ兄弟の義晴と対立し、足利家は義稙流(義稙・義維・義栄・義助)と義澄流(義澄・義晴・義輝・義昭)の両流に分かれ、両統迭立の状況を生み出して新たな戦乱の火種となった。
- 明応7年(1498年)8月19日に、義材から義尹に改名するとき阿野季綱が、当時越中にいた義材の改名を請い、東坊城和長に書状を送り、和長は15の改名候補を撰んだ。その中から、義材は義尹の名に改めたと、『和長卿記』にある。
- 永正10年(1514年)11月9日に、義尹から義稙に改名するときも、東坊城和長がその名を勧進したと『拾芥記』にある。
官位叙任履歴
- 長享元年(1487年・22歳)8月29日、従五位下に叙し、左馬頭に任ず。
- 延徳2年(1490年・25歳)7月5日、征夷大将軍・禁色の宣下あり。同日、従四位下に叙し、右近衛中将・参議に任ず[18]。
- 明応3年(1494年・29歳)12月27日、義澄の征夷大将軍宣下にともない将軍職をとどめられる[19]。
- 文亀元年(1501年・36歳)、『公卿補任』によれば、この年、参議を辞す。左近衛中将にはひきつづき在任。
- 永正5年(1508年・43歳)
- 永正16年(1519年・54歳)9月27日、源氏長者・淳和奨学両院別当に補せられる。
- 永正18年(1520年・56歳)12月25日、義晴の征夷大将軍宣下にともない将軍職をとどめられる。権大納言・源氏長者・淳和奨学両院別当にはひきつづき在任。
- 大永3年(1523年)4月9日、薨去。享年58。
- 天文4年(1535年)4月8日、贈従一位・太政大臣
偏諱を与えられた人物
義材時代
(※1回目の将軍在任の間、延徳2年(1490年)-明応3年(1495年))
- 武家
義尹時代
(※将軍復職直後(足利義澄より後)、永正5年(1508年)-永正10年(1513年))
義稙時代
- 公家(五摂家)
- 武家
死後
(※上に挙げた人物の子孫が「稙」の字を用いた例。)
- 公家
- 九条稙基(稙通の妹・経子(二条尹房室)の子孫にあたる)
- 武家
補注
参考文献
- 吉村貞司『日野富子』(中央公論社〈中公新書〉、1985年)
- 今谷明『中世奇人列伝』(草思社、2001年)
- 長江正一 『三好長慶』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1968年(新装版、1989年4月、ISBN 978-4-642-05154-5)
- 続群書類従第5輯上系図部
- 続群書類従第23輯下武家部
- 続々群書類従第8地理部
関連項目
- 登場作品
- 小説 宮本昌孝「妄執の人」(徳間文庫『将軍の星』収録)
- NHK大河ドラマ「花の乱」(1994年) - 大沢たかお
- NHK大河ドラマ「毛利元就」(1997年) - 田口トモロヲ
- NHKBS時代劇「塚原卜伝」(2011年) - 本田博太郎(役名は足利義尹)
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉13頁。
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉13頁。
- ↑ 義稙は細川澄元に細川成之と大内義興を和睦させようと工作している。『三好長慶』〈人物叢書〉19頁。
- ↑ 『堺鑑』(続々群書類従第8地理部 明治39年8月25日発行 p.635,p636)
- ↑ 中国で大領国を支配し対明貿易の利もあった義興の実力が圧倒的に大きかった。『三好長慶』〈人物叢書〉18頁。
- ↑ 財政的な負担も大きかったためという。(『公卿補任』『相良家文書』)『三好長慶』〈人物叢書〉24頁。
- ↑ (『御内書案』)『三好長慶』〈人物叢書〉24頁。
- ↑ (『御内書案』永正15年12月2日条〈続群書類従第23輯下武家部 昭和50年4月15日訂正3版〉286頁。
- ↑ (『室町家御内書案』)『三好長慶』〈人物叢書〉25頁。
- ↑ 5月1日に義稙は澄元に細川家家督の相続を許していたためであり、また高国も義稙を無視して幕政を専横したためである。『三好長慶』〈人物叢書〉30頁・36頁。
- ↑ 淡路に着いたのは3月10日である。『三好長慶』〈人物叢書〉36頁。
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉36頁。
- ↑ 4月7日とも。
- ↑ (『足利系図』『足利家官位記』『公卿補任』『応仁後記』『足利季世記』)『三好長慶』〈人物叢書〉37頁。
- ↑ 阿南市立阿波公方・民俗資料館の館内解説によると、義冬が当地に納めたのは遺髪。
- ↑ 東京国立博物館蔵の肖像画は、足利義稙もしくは義澄の像とある。
- ↑ 三条西家旧蔵『不審申条条』にその問い合わせの内容が残されている。
- ↑ 公卿補任では、延徳2年7月5日付、右中将兼帯となっているが、翌年以降の記事では、左中将となっている。また、足利義稙御判御教書(延徳2年8月18日付。東寺文書 書12)では参議左近衛権中将の官職名となっている
- ↑ 『公卿補任』には、明応9年(1500年)まで「征夷大将軍」の記載がある。
- ↑ 20.0 20.1 晴重(稙信)のもう一人の子(守信(稙清)の弟)である葛西晴胤の別名が義稙復職前の将軍・足利義澄(初め義高)から1字を受けたとみられる「高信」であることから逆転現象が生じてしまっており矛盾している。このため、実際に名乗っていたか否かはわからない。