波多野稙通
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波多野 稙通(はたの たねみち、明応5年(1496年) - 天文14年(1545年))は、戦国時代の武将。丹波の国人波多野氏当主。波多野秀長の子。柳本賢治、香西元盛は弟。子に波多野晴通。別名の波多野元清(はたの もときよ)の名でも知られる人物である。
西丹波を支配する一国人に過ぎなかったが智勇兼備の名将で、八上城を築城し、さらには丹波における国人を次々と支配下に置き、大永6年(1526年)、弟元盛が細川尹賢と争って殺害されると、もう一人の弟賢治と共に蜂起し細川氏の勢力を丹波から駆逐して丹波を統一。当時、幕府の中心にいた細川高国を三好元長らと共に討って戦国大名として名乗りを上げた。その実力を高国を討って(桂川原の戦い)政権を握った細川晴元にも認められ、室町幕府の評定衆にも列せられている。
参考文献
- 渡邊大門「波多野氏の丹波国支配をめぐって―天文・永禄年間を中心に―」(『鷹陵史学』37号、2011年)