私は貝になりたい
テンプレート:Sidebar with collapsible lists 『私は貝になりたい』(わたしはかいになりたい)は、元陸軍中尉・加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」の遺言部分をもとに、橋本忍の脚本で制作されたテレビドラマおよび映画である。ストーリーは橋本忍の創作で、架空の物語である。
目次
概要
TBSテレビの前身、ラジオ東京テレビ(KRT)が1958年に制作したテレビドラマである。テレビ放送黎明期に制作され大きな反響を呼び、“ドラマのTBS”の礎となった作品として、日本テレビ史に語り継がれている。
1994年には、所ジョージ主演でリメイクされた。1959年と2008年には劇場版が制作・公開されている。映画の配給はいずれも東宝。
2007年には日本テレビで、加藤の手記にスポットを当てたテレビドラマ『真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎「私は貝になりたい」』が放映された。同じ題名だが本項の作品とは別物である。
あらすじ
第二次世界大戦中の昭和19年。高知県幡多郡清水在住の清水豊松(しみず とよまつ)は、気の弱い平凡な理髪師。戦争が激化する中、豊松にも赤紙が届き、応召することになる。
内地のある部隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。ある日、撃墜されたアメリカ軍B-29の搭乗員が裏山に降下。司令官の「搭乗員を確保、適当(2008年の映画版では「適切」)な処分をせよ」という命令が豊松の中隊に下り、山中探索の結果、虫の息であった搭乗員を発見。そこで豊松は、隊長から搭乗員を銃剣で刺殺するよう命じられた。しかし生来の気の弱さから、実際には怪我をさせただけに終わる。
終戦後、豊松は除隊し、無事に帰郷する。しかしある日、特殊警察がやってきて捕虜を殺害したBC級戦犯として彼を逮捕し、豊松は理不尽な裁判で死刑を宣告される。彼は処刑の日を待ちながら「もう人間には二度と生まれてきたくない。生まれ変わるなら、深い海の底の貝になりたい」と遺書を残すのだった。
作品一覧
テレビドラマ
1958年版
テンプレート:基礎情報 テレビ番組 三洋電機の一社提供による単発ドラマ番組『サンヨーテレビ劇場』の一編(第42回)として、1958年(昭和33年)10月31日に放送。通常は22時00分から30分間の放送枠だったが、このドラマでは22時00分 - 23時40分に拡大された(本編の全長は約92分)。岡本愛彦演出、橋本忍脚本、フランキー堺主演。
第13回文部省芸術祭で芸術祭賞(2013年現在の大賞)を受賞した[1]。
- キャスト
- 清水豊松:フランキー堺
- 清水房江:桜むつ子
- 清水健一:平山清
- 敏子(房江の妹):高田敏江
- 矢野中将(中部軍司令官):佐分利信(特別出演)
- 参謀:大森義夫
- 司令部将校:原保美
- 日高大尉:南原伸二(特別出演)
- 木村軍曹:清村耕次
- 滝田二等兵:熊倉一雄
- 立石上等兵(下士官):小松方正
- 大西三郎(同房の死刑囚):内藤武敏
- 尾上少佐:恩田清二郎
- 足立少尉:浅野進治郎
- 赤紙配達:増田順二
- 近所の仲間:坂本武、十朱久雄、垂水悟郎
- 小宮(教誨師):河野秋武
- 日系人通訳:田中明夫
- 弁護人:ジョージ・A・ファーネス[2](特別出演)
- 西沢卓次(戦犯被告):佐野浅夫
- 刑事:梶哲也
- MP・警備兵:ジェリー伊藤ほか
- 戦犯:織本順吉、幸田宗丸ほか
- アナウンサー:鶴田全夫
- 作品解説
冒頭部分には、実際の極東国際軍事裁判の映像(東條英機元首相に判決が言い渡される様子)が使用されている。
- 放送
このドラマは、豊松が逮捕される場面までの前半約30分強がVTR(同年10月26日深夜に収録)、裁判から最後までの後半が生放送で放送された(当時のVTRが非常に高価だったため)。ただし、当時はVTRの編集装置がなかったため、VTR部分もいわゆる一発撮りである。映像の編集ができなかったという点では、VTR部分も事実上、生放送と同じであった。
当時の視聴率調査は、年に数回、1週間程度の調査期間を定めて行われるものであったため、このドラマの視聴率は記録に残っていない[3]。ちなみに東京では、ラジオ東京テレビ(2012年現・TBS)のほかには、NHK総合テレビと日本テレビが開局したのみであった。
スポンサーCMは、ドラマの本編中には一切挟まずに、本編前後で放映され、本編中には6回の提供クレジットが表示されただけであった。
『TBS50年史』によると、このドラマのネット局はラジオ東京のほかに、大阪テレビ放送(のちに朝日放送へ統合)、山陽放送、RKB毎日放送の計4局であったという。2012年現在のTBS系列局では、本放送の時点で中部日本放送、北海道放送、信越放送が開局済みだった。しかしながら、これらの局では事実上、日本テレビとのクロスネットであったうえ、当時の感覚では、深夜に準ずるような時間帯での放送だった理由で放送されていない。放送の翌日に開局した静岡放送テレビと、テレビ本放送開始4日前でサービス放送期間中だったラジオ新潟テレビ(現・新潟放送)は、1958年12月21日のラジオ東京での再放送をマイクロネットしたため、静岡・新潟両県内でも放送された。のちに全国各地で開局した民間放送テレビ局において、このドラマが放送されたかはまだ不明な点が多い。
また、『TBS50年史』によると、海外でもこの1958年テレビ版が放送されたという。
- 映像の現存状況
裁判以降のシーンが生放送という放送形態であったが、同年に日本国内で導入されたばかりの2インチVTRで、番組の全編が記録されている。この番組全編のVTRは、TBSに現存する最古の番組映像資料として、同局のアーカイブに保管されている。
全編を収録したテープが存在しているため、何度か再放送されている。
- 1958年12月21日 16時00分 - 18時15分 : 芸術祭受賞記念として(静岡放送テレビ、ラジオ新潟テレビにもマイクロネット)
- 1959年12月26日 15時50分 - 17時30分 : 橋本脚本・岡本演出の『いろはにほへと』芸術祭大賞受賞記念として
- 1975年4月5日 24時00分(6日0時00分) : TBSテレビ開局20周年「芸術祭受賞ドラマシリーズ」として
- 1983年ごろ : NHK教育テレビにて、テレビ放送30年を記念した特別番組の中で放送(番組内のスポンサー部分のテロップは"コマーシャル"のロゴでマスキングされた)
- 1991年10月12日 12時00分 : TBS開局40周年記念の特別企画「テレビ名作シリーズ」として
- 1996年6月15日 15時30分 : フランキー堺の追悼番組として
そのほか、TBSチャンネルでも年に1 - 3回のペースで、1994年版とともに再放送が実施されている。[4]
初の放送からちょうど50年を迎える2008年10月31日には、DVD化されて発売、初のソフト化となった。
これらの映像は本放送時と異なり、スタッフクレジットの「原作」の部分に橋本・加藤、両者の名が併記されており、本編中に提供クレジットの表示がない。また、製作著作のクレジットは「TBS」(1962年 - 1991年に使用された2代目略称ロゴ)に差し替えられているが、理由は不明である(1996年にフランキー堺の追悼番組として放送された時には、すでに「ラジオ東京」ではなく「TBS」だった)。
また、横浜の放送ライブラリーでは、1994年版とともに保管されており(DVDおよびビデオ・オン・デマンド形式)、無料で閲覧することができる。ここに保管されているオリジナル版では、TBSチャンネルの再放送およびDVD収録の映像とは異なり、本編中に提供クレジットが表示されている。製作著作のクレジットについては、こちらも「TBS」に差し替えられている。
1994年版
TBS放送センター(ビッグハット)完成記念として、1994年(平成6年)10月31日の21:00 - 23:24にリメイク版を放送。山泉脩演出、橋本忍脚本、浅生憲章プロデュース、所ジョージ主演。
第43回日本民間放送連盟賞ドラマ番組部門優秀、第21回放送文化基金賞ドラマ番組部門奨励賞、第34回日本テレビ技術協会賞(照明)を受賞した。
- キャスト
- 清水豊松:所ジョージ
- 清水房江:田中美佐子
- 清水健一:長沼達矢
- 房江の妹:瀬戸朝香
- 矢野中将:津川雅彦
- 日高大尉:春田純一
- 滝田:桜金造
- 同房の死刑囚:柳葉敏郎
- 教誨師:渡瀬恒彦
- 矢崎滋
- 石倉三郎
- 杉本哲太
- 森本レオ
- 三木のり平
- 室田日出男
- すまけい
- 小宮健吾
- 小坂一也
- 段田安則
- 竹田高利
- 寺田農
- 尾藤イサオ
- ラサール石井
- 主題歌
- 小椋佳「藍色の時」
- 放送
前述のとおり、横浜の放送ライブラリーでも無料で閲覧可能である。TBSチャンネルでも、オリジナル版とともに再放送されている。
- 反響
リメイク版の提供スポンサーには、オリジナル版の単独スポンサーだった三洋電機がクレジットされていたが、当時の同社のCMに、所がコミカルな調子で出演していたため、放送中に「ドラマ本編とのギャップが激しすぎる」という苦情の電話がテレビ局に殺到したテンプレート:要出典。
- ソフト
放送後にはビデオソフト化され、発売された(DVD化はされていない)。
映画
1959年版
テンプレート:Infobox Film 東宝の製作・配給により、1959年4月12日より映画版が公開された。モノクロ・東宝スコープ。上映時間は113分。橋本忍の初監督作品である[5]。
- キャスト
- 清水豊松:フランキー堺
- 清水房江:新珠三千代
- 清水健一:菅野彰雄(後の若人あきら、現・我修院達也)
- 敏子(房江の妹):水野久美
- 小宮:笠智衆
- 大西三郎:中丸忠雄
- 矢野中将:藤田進
- 尾上中佐(大隊長):笈川武夫
- 日高大尉:南原伸二
- 足立少尉:藤原釜足
- 木村軍曹:稲葉義男
- 立石上等兵:小池朝雄
- 滝田上等兵:佐田豊
- 参謀:平田昭彦
- 酒田正士:藤木悠
- 西沢卓次(死刑囚):清水一郎
- 竹内(町役場職員):加東大介
- 三宅(郵便局長):織田政雄
- 根本(薬屋・町内会長):多々良純
- 山口:桜井巨郎
- 田代:加藤和夫
- 河原:坪野鎌之
- 松田老人:榊田敬二
- 理髪店の客:沢村いき雄
- 運転手:堺左千夫
- 清水の弁護人:ジョージ・A・ファーネス[2]
- スタッフ
- 作品解説
映画化にあたって、橋本自ら脚本に部分的な加筆を行なっており、これ以降のリメイクも、(橋本が脚本の改訂を行なった2008年版の映画も含め)この1959年版の映画をベースにしたものとなっている。フランキー堺以外のキャストは、前年のテレビドラマ版から、その大部分が変更となった[6]。同時上映は『おしゃべり奥様』(原作:土岐雄三、監督:青柳信雄、主演:中村メイコ)だが、4月19日からは『孫悟空』(監督:山本嘉次郎、主演:三木のり平)との2本立てに代わった。
- ソフト
VHSでソフト化されたが、こちらは廃盤。2008年には、リメイク映画版が公開されるのに合わせてDVD化、10月24日にリリースされた(付属リーフレットに、橋本忍書き下ろし「秋晴れの運動会」[7]を収録)。
2008年版
テンプレート:Infobox Film 1959年版と同じく東宝の配給により、2008年11月22日公開。製作委員会にJNN全28社が参加した最初の映画作品。2012年8月15日、TBS系で地上波初放送された(視聴率は9.0%)。また2014年7月26日にはBS-TBSで放送された。TBSチャンネルでもドラマの1958年版・1994年版と合わせて放送されることもある。
- キャスト
- 清水豊松:中居正広(SMAP)
- 清水房江:仲間由紀恵
- 清水健一:加藤翼
- 清水直子:西乃ノ和
- 敏子:柴本幸
- 根本:西村雅彦
- 三宅:平田満
- 酒井正吉(豊松の友人):マギー
- 竹内:武田鉄矢
- 松田老人:織本順吉
- 尾上中佐:伊武雅刀
- 足立少尉(小隊長):名高達男
- 立石上等兵:六平直政
- 滝田二等兵:荒川良々
- 刑事(豊松を戦犯として連行する刑事):金田明夫
- 山口(戦犯 元新聞記者):山崎銀之丞
- 通訳(法廷での米軍通訳):浅野和之
- 列車の車掌:小林隆
- 折田俊夫:梶原善
- 折田の嫁:中島ひろ子
- 折田の母:泉ピン子
- 日高大尉:片岡愛之助
- 大西三郎:草彅剛(SMAP)
- 西沢卓次:笑福亭鶴瓶
- 小宮教誨師:上川隆也
- 矢野中将:石坂浩二
- スタッフ
- 監督:福澤克雄
- プロデュース:瀬戸口克陽
- エクゼクティブプロデューサー:濱名一哉
- プロデューサー:東信弘、和田倉和利
- 原作(遺書・題名):加藤哲太郎
- 脚本:橋本忍
- 音楽:久石譲
- 撮影:松島孝助
- 照明:木村太朗
- 録音:武進
- 美術:清水剛
- 編集:阿部亙英
- 特撮監督:尾上克郎
- 衣装デザイナー:黒澤和子
- 題字:原田圭泉
- 製作:「私は貝になりたい」製作委員会(TBS、東宝、J-dream、博報堂DYメディアパートナーズ、朝日新聞社、プロダクション尾木、CBC、TBSラジオ、MBS、RKB、HBCほかJNN全28社、BS-i、TOKYO FM)
- 主題歌
- 作品解説
製作費は11億円。この映画化に際して、基本的にシナリオを書き直さない信念を持っている橋本は唯一書き直したい作品であったと語り、自身では初めて脚本の改訂を行った。また、福澤克雄にとっては映画初監督作品となる[8]。
橋本が脚本の改訂に踏み切った背景の一つには、生前にこの作品の脚本を見た黒澤明が、「橋本よ、これじゃあ貝になれないんじゃないか?」と感想を述べたからだという[9][10]。同志であるからこそ率直な意見を述べたであろう黒澤がどの部分を問題視したかは不明だが、先述の通りこの作品の脚本をめぐっては、幾多の裁判などの末、リメイク版テレビドラマの制作された1994年までに、権利者は橋本と加藤哲太郎(題名および遺書の原作者)でようやく確定した経緯もあり[11]、加藤をはじめとする関係者の神経を逆撫でしかねない黒澤の発言に、橋本は長年悩まされていたとも言える。
主なロケ地は島根県西ノ島町(国賀海岸など)・奥出雲町。また、清水理髪店のある商店街や巣鴨プリズンや池袋駅前の闇市の風景などは緑山スタジオ・シティ(神奈川県横浜市青葉区)内にオープンセットを作って撮影された。
- プロモーション
丸刈りにすれば“Bouz割引”が適用され、1000円で鑑賞可能となった。これは、出征を前に丸刈りにする場面があることから来ている。
- テレビ放映
2012年8月15日には、かつてテレビドラマ版を2本制作したTBS系列の『水曜プレミアシネマ』で、地上波初放送となった[12]。
裁判
劇中の主人公の遺書が、元陸軍中尉で自らも戦犯として裁判を受けた加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」[13]の遺言内容と酷似していた。それを友人から伝え聞いた加藤は、ドラマの脚本を執筆した橋本に対して自分の原作権を認めるよう求めたが、橋本はこれを拒否。そこで加藤は、ドラマの映画化(1959年版)が決まった際、配給元の東宝と、自分が原作者としてクレジットされることを条件に契約し、橋本もこれを受諾した。
ところがラジオ東京テレビ(2013年現TBSテレビ)がクレジットを改めずにまたドラマを再放送したため、加藤は当時のラジオ東京テレビと橋本を著作権法違反で告訴した。この裁判で[14]の結果、加藤の訴えは認められた。そのため2013年現在では題名および遺書の原作者として「加藤哲太郎」の名がクレジットされるようになっている。なお、加藤自身も主人公同様に戦犯として巣鴨プリズンに勾留、死刑判決を受けているが、後に再審の末、減刑されて釈放されている。
のちに中野昭夫がドラマの原案者は自分であるとして、橋本を相次いで訴えた。しかし、1975年(昭和50年)に東京地方裁判所で敗訴した損害賠償などの請求をはじめ、ことごとく敗れている。
『狂える戦犯死刑囚』との異同
以下は、加藤が志村郁夫名義で『あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙』(1953年、飯塚浩二編、光文社)に寄稿した「狂える戦犯死刑囚」の一部である。ドラマで削除された部分は削除線上書き、変更された部分は下線。ただし、漢字やカタカナの使い分けなど、細かい異同は除いた。また、この手記での遺書は衛生兵であった赤木曹長のもの、という設定(モデルはいたが、ぼかしてフィクション仕立てにしたもの[15])になっており、一介の二等兵であった豊松の設定と異なる。現実には、二等兵で死刑が執行された戦犯はいないとされる[16]。
「けれど、こんど生れかわるならば、私は日本人に生まれたくはありません。
いや、私は人間になりたくありません。
(この間加筆挿入がされた)
牛や馬にも生れません、人間にいじめられますから。
どうしても生れかわらなければならないのなら、私は貝になりたいと思います。
貝ならば海の深い底の岩にヘバリついて何の心配もありませんから。
何も知らないから、悲しくも嬉しくも痛くも痒くもありません。兵隊にとられることもない。戦争もない。
頭が痛くなることもないし、
妻や子供を心配することもないし。
どうしても生まれかわらなければならないのなら、私は貝に生まれるつもりです」
脚注
外部リンク
テンプレート:所ジョージ テンプレート:中居正広テンプレート:Asbox テンプレート:Asbox
- ↑ 岡本と橋本の2人は、翌1959年に同枠で放送された『いろはにほへと』でも同賞を受賞しており、2年連続で芸術祭賞を受賞することとなった。
- ↑ 2.0 2.1 ファーネスは元米陸軍人で、実際に極東国際軍事裁判で重光葵の弁護人になった経験を持つ。
- ↑ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争-そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、37頁。ISBN 4062122227
- ↑ 2014年8月の終戦記念日前後には、2008年版とあわせて放送された。
- ↑ 挨拶に黒澤明を訪ねると「橋本よ……これじゃ、何か大事なものが足りなくて、貝にはなれないんじゃないかな」「私もその通りだと思ったので一生懸命考えた。が、どうしても思いつかなかった」と橋本さんは振り返る、という話が残っている(大庭牧子朝日新聞be“今なお足りない「何か」”2014年7月2日)。
- ↑ 橋本忍の述懐によると、映画化に際して東宝の藤本真澄プロデューサーからは「主役はフランキーで動かないが、女房の役は新珠三千代。これだけは崩せないよ」と言われたという(1959年版映画DVD・封入リーフレットに掲載の「秋晴れの運動会」より)。
- ↑ この「秋晴れの運動会」によると、『砂の器』や『八甲田山』の製作終了後、橋本プロダクション(1973年、橋本らが設立)で映画化が検討された企画の中に、『私は貝になりたい』のリメイクもあったという。
- ↑ 本来の初監督作品だった『涙そうそう』は、急病で途中降板していた。
- ↑ 橋本はいわゆる「黒澤組」のシナリオライターであり、『羅生門』、『七人の侍』などの脚本に参加している。
- ↑ 2008年11月6日深夜(7日午前)放送のTBSテレビ『エンタの味方!』より
- ↑ 1994年10月11日付『朝日新聞』(東京本社管内)夕刊19面の記事などより
- ↑ 19:00 - 21:30に「キリンチャレンジカップ2012」(テンプレート:Flagicon 日本×テンプレート:Flagicon ベネズエラ戦)が編成されたため、通常より30分遅れの21:30開始となった。
- ↑ 当初は志村郁夫名義で発表したもの。2012年現在は加藤の文集『私は貝になりたい』に収録され再刊、春秋社ISBN 4-393-44161-3
- ↑ この裁判で加藤は自分の文章のほかにも、山口水青・竹谷しげる著『壁厚き部屋』(理論社、復刻版は鷺草発行所)や、巣鴨遺書編纂会編『世紀の遺書』(巣鴨遺書編纂会刊行事務所、復刻版は講談社)からの剽窃もあったと主張している。しかし、これらの著者で著作権を主張して名乗り出た者はなく(特に『世紀の遺書』は文字通り処刑された戦犯の遺書である)、版権にも影響していない。なおこの加藤の主張を考慮してか、1994年のドラマ版ではこれらの書籍が制作参考資料としてクレジットされている。
- ↑ 「狂える戦犯死刑囚」冒頭に、「以下は、かつて戦犯であった一市民の綴り方である。かならずしも事実に基づいてはいないが、全部がフィクションだと考えてもらってはこまる。このへんのことは、やがて時が解明してくれるだろう。」と断り書きがある。また、後年の著作権裁判では、一度は死刑判決を受けた加藤が、執行逃れのために一時的に収容されていた精神病院(米軍361病院、同愛病院)で、同室していた者の言動からヒントを得たと述べている。
- ↑ より正確には、いったん死刑判決を受けたが、減刑された二等兵はいる(林博史『BC級戦犯裁判』、岩波書店・岩波新書、2005年、ISBN 978-4004309529)。